前回の続きで、秋田市の秋田運河(旧雄物川)に架かる「新川橋」の架け替え。
前回最後のように、今は新しい橋自体はもうできてしまったけれど、それに至る過程を簡単に。
2018年5月。左岸(勝平側)から
両岸から鉄板で囲まれた「島」状のものが造られ、クレーンなどが入っていた。
上の写真、手前側の島の先端部を見下ろすと、
深い穴の中に柱?(右側底のはしごに人がいる)
2018年9月
橋脚ができていた。穴の中は橋脚の基礎だったようだ。
向こう、川尻側はまだ囲まれたままだけど、
中に橋脚ができつつあった
勝平側の岸から
2つ上の写真の橋脚より岸側にも、橋脚のようなものができていた。岸と接続する「橋台」。
Googleマップ航空写真より。下が勝平
道路からは分かりづらいが、勝平の岸は、運河の中に“岬”のように突き出した部分から橋が伸びていた。
新しい橋も同じようになるらしく、工事のためにいったん掘り返して、橋台を造ったのだと思う。
2019年2月。埋め戻された
同じく2019年2月
橋脚が2つともでき、向こう川尻側の橋台も完成。工事用の島はなくなり、これで足回り(?)はでき上がったようだ。
なかなか行く機会がなくて、
2019年11月
もう橋桁が組み上がっていた。
旧橋から手が届きそうな距離(届きません。落ちます)
少し写っているが、前回の通り、今の新川橋の橋名板(川名板?)では、秋田運河や旧雄物川でなく「雄物川」とされている。
この後、1年弱の間に橋桁の上に路面ができて、舗装などもされて、今に至る。
現在。新旧新川橋の競演
新しい橋のほうが、路面はわずかに高い。
新しい橋を外側から。今だけのアングル
今のところ、新しい橋の路上に特別な装飾などは見当たらず、シンプルになりそう。よく見るタイプの照明と高欄だが、高欄は光沢感のあるメタリックな塗装で珍しい。
全体の流れとしては、20年前の秋田大橋の架け替えと、よく似ていたと思う。
ところで、両岸の道路との線形のこと。
川尻側。国道7号・若葉町交差点から
若葉町交差点からはやや左に現橋が見える。左(東・上流側)に緩くカーブして橋に入る。
新しい橋はその右側だから、今よりは直線に近くなりそう。
勝平側
※写真左の建物は舗装会社だが、新しい橋の路面工事は、同社を含む共同企業体が落札している。
勝平側には、無名のY字路がある。橋を渡ってくると左右というより、直進と左へ分岐する。
今は直進するのが自然な動線だし、道も広い。新屋西線のルート。でも、その直進路ができたのは1985年頃(その少し前から道はできていたものの、実質行き止まりだったようだ)。
それまでは、今でいう左側の狭い道しかなく、それが県道であり、旧羽州街道であった。
旧道側から。橋方向からこちらへ来る時は、信号に関係なく左折できるが、歩行者は横断する場所がない
川尻側よりもきついカーブで橋とつながっていたことになる。
前回の通り、今の橋より前の新川橋もあったから、それとの架け替え時の結果なのか、あるいは運河ができる前、渡し舟があった頃の名残りなのかもしれない。
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」で、明治末期と現在の地形図を重ねてみた。
モノクロが明治。線が描かれた部分が当時の川(運河になる前の雄物川)
黄色い線が今の新川橋のルート。白いのが初代新川橋で、赤で印を付けたのが、その橋の両端。
昔は川幅が今より広かったが、橋がとても長かった。今の倍近い。【11月5日追記】「秋田市文化財イラストマップ秋田市八橋・川尻地区編」によれば、「全長288m」。地図で読むより長かったようで、現橋97.85、新橋98メートルと比べると、実にほぼ3倍。
たもとは、川尻側はあまり変わらず、今の新川橋バス停の辺り。勝平側では、今のY字路を越えてパチンコ屋の前くらいまで橋だった。川本体というより河川敷が広かったようだ。【28日補足・つまり上の写真のY字路辺りはまだ河川敷で、道路よりやや右に橋が伸びていた。】
初代新川橋の位置は、今の新川橋のわずかに上流側。川尻側から来ると、今よりも少しきつい左カーブだった。当時は臨海バイパスなどなく、若葉町交差点部分で交わる道はなかった(東側には池らしきものがある)が、その箇所で道路が少し角度を変えて、そこから橋まで一直線。
一方、勝平側ではまっすぐに羽州街道(今のナイス付近)へつながっていた。
運河築造前後の資料が分からないので、また違うかもしれないけれど、いろいろな経緯があって、今の道路形状になったのでしょう。
新しい橋の勝平側では、交差点の構造も変えないといけなくなることだろう。となると、供用はもう少しかかるかな。
※続き、以前の新川橋に関する話はこちら。
前回最後のように、今は新しい橋自体はもうできてしまったけれど、それに至る過程を簡単に。
2018年5月。左岸(勝平側)から
両岸から鉄板で囲まれた「島」状のものが造られ、クレーンなどが入っていた。
上の写真、手前側の島の先端部を見下ろすと、
深い穴の中に柱?(右側底のはしごに人がいる)
2018年9月
橋脚ができていた。穴の中は橋脚の基礎だったようだ。
向こう、川尻側はまだ囲まれたままだけど、
中に橋脚ができつつあった
勝平側の岸から
2つ上の写真の橋脚より岸側にも、橋脚のようなものができていた。岸と接続する「橋台」。
Googleマップ航空写真より。下が勝平
道路からは分かりづらいが、勝平の岸は、運河の中に“岬”のように突き出した部分から橋が伸びていた。
新しい橋も同じようになるらしく、工事のためにいったん掘り返して、橋台を造ったのだと思う。
2019年2月。埋め戻された
同じく2019年2月
橋脚が2つともでき、向こう川尻側の橋台も完成。工事用の島はなくなり、これで足回り(?)はでき上がったようだ。
なかなか行く機会がなくて、
2019年11月
もう橋桁が組み上がっていた。
旧橋から手が届きそうな距離(届きません。落ちます)
少し写っているが、前回の通り、今の新川橋の橋名板(川名板?)では、秋田運河や旧雄物川でなく「雄物川」とされている。
この後、1年弱の間に橋桁の上に路面ができて、舗装などもされて、今に至る。
現在。新旧新川橋の競演
新しい橋のほうが、路面はわずかに高い。
新しい橋を外側から。今だけのアングル
今のところ、新しい橋の路上に特別な装飾などは見当たらず、シンプルになりそう。よく見るタイプの照明と高欄だが、高欄は光沢感のあるメタリックな塗装で珍しい。
全体の流れとしては、20年前の秋田大橋の架け替えと、よく似ていたと思う。
ところで、両岸の道路との線形のこと。
川尻側。国道7号・若葉町交差点から
若葉町交差点からはやや左に現橋が見える。左(東・上流側)に緩くカーブして橋に入る。
新しい橋はその右側だから、今よりは直線に近くなりそう。
勝平側
※写真左の建物は舗装会社だが、新しい橋の路面工事は、同社を含む共同企業体が落札している。
勝平側には、無名のY字路がある。橋を渡ってくると左右というより、直進と左へ分岐する。
今は直進するのが自然な動線だし、道も広い。新屋西線のルート。でも、その直進路ができたのは1985年頃(その少し前から道はできていたものの、実質行き止まりだったようだ)。
それまでは、今でいう左側の狭い道しかなく、それが県道であり、旧羽州街道であった。
旧道側から。橋方向からこちらへ来る時は、信号に関係なく左折できるが、歩行者は横断する場所がない
川尻側よりもきついカーブで橋とつながっていたことになる。
前回の通り、今の橋より前の新川橋もあったから、それとの架け替え時の結果なのか、あるいは運河ができる前、渡し舟があった頃の名残りなのかもしれない。
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」で、明治末期と現在の地形図を重ねてみた。
モノクロが明治。線が描かれた部分が当時の川(運河になる前の雄物川)
黄色い線が今の新川橋のルート。白いのが初代新川橋で、赤で印を付けたのが、その橋の両端。
昔は川幅が今より広かったが、橋がとても長かった。
たもとは、川尻側はあまり変わらず、今の新川橋バス停の辺り。勝平側では、今のY字路を越えてパチンコ屋の前くらいまで橋だった。川本体というより河川敷が広かったようだ。【28日補足・つまり上の写真のY字路辺りはまだ河川敷で、道路よりやや右に橋が伸びていた。】
初代新川橋の位置は、今の新川橋のわずかに上流側。川尻側から来ると、今よりも少しきつい左カーブだった。当時は臨海バイパスなどなく、若葉町交差点部分で交わる道はなかった(東側には池らしきものがある)が、その箇所で道路が少し角度を変えて、そこから橋まで一直線。
一方、勝平側ではまっすぐに羽州街道(今のナイス付近)へつながっていた。
運河築造前後の資料が分からないので、また違うかもしれないけれど、いろいろな経緯があって、今の道路形状になったのでしょう。
新しい橋の勝平側では、交差点の構造も変えないといけなくなることだろう。となると、供用はもう少しかかるかな。
※続き、以前の新川橋に関する話はこちら。
秋田大橋よりも歴史があり、秋田市を代表する橋だと思いますが、未掲載なのですね。
昔の写真など載った本がほかにも、ありそうな気はします。
和田は信号機などはもう設置済みでしたか。秋田駅前の脳研裏の対面通行化のほうは、支障はささそうですので、追い付かれるかも。
>あんなかさん
短いということもあるのでしょうが、順調だったようですね。
静岡県の蓬莱橋というのが、歩行者用の木の橋として残っていて、時代劇ロケにも使われます。それと同じようなものだったのかなと勝手に想像していますが、昔のこと、危なっかしい構造や部分もあったことでしょう。
雄物新橋のほうも、昔は(今も?)なかなか怖い橋だったらしく、今も水中に基礎が残るとか聞きました。
気が付くと出来上がってる感満載でこの手の橋としては工期が短かったような。
共済病院に勤めた叔父の話を思い出しました。
旧橋は木の橋で揺れが大きく昔旧陸軍(多分歩兵第17連隊のことかと)の演習所が今の勝平保育園の下にあり行軍で旧橋を通る時に非常に揺れていたと聞いた事があります。振り子の法則の一種でしょうか。旧橋の木製基礎部分は日本海中部地震までは目で確認出来ていました。
FNENさん、あそこですね。未だ未だ頑張りそうです。
7号線だった時期もあるのに。
この本も別な本見たら気に入らない記者のは割愛されたという話をみたりして驚き。
話しは変わりますが今日、和田に行ったら和田の13号の4車線がかなり進んでました。
ただ、ゴネてるのか1軒だけ立ち退かず不自然な住宅があり。