木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

天狗党①

2008年09月07日 | 江戸の幕末
幕末、水戸に天狗党なる派閥があった。
天狗党は、尊皇攘夷の士である、と言われるが、実はそんな単純なものではなかった。
天狗党は、藤田東湖の息子、小四郎を中心とした党で、朝廷のため夷狄を討つとして、筑波山に挙兵した。
この党の決起を促したのは、桂小五郎で、小五郎は元治元年(一八六四年)に徳川斉昭の墓参のため水戸に来たが、その際に小四郎に軍資金五百両を渡している。
小四郎は、この金のほかに富商、富農の献金を集め、行動の機会を伺った。
しかし、具体的な行動を起こせぬままにいたずらに時は過ぎ、諸生派と呼ばれる保守派との対立を深めていく。
焦りを感じた天狗党は、資金力を得るために、強奪をも行い、近隣の住民の生活を脅かした。
当時の藩主は、斉昭から慶篤に代わっていたが、慶篤は「よかろう様」と陰口されるほど、決断力に乏しい殿で、二派を調整する能力は全く欠けていた。
幕府は過激な行動を取ろうとする天狗党に危機感を抱き、天狗党を強盗集団であると定義、武力をもって鎮圧しようとする。当然、諸生党もこの動きに便乗する。
このため、全盛期は四千とも言われた天狗党は、千余名に激減。活路を見出すために、京都の朝廷に直訴しようとして、死の行軍に至る。この頃から、天狗党の総大将に担ぎ上げられてしまったのが武田耕雲斎である。かつての結城寅寿にしても同じことだが、本人の意思とは離れたところで、担ぎ上げられる者が水戸には多かった。耕雲斎は、六十を越える高齢で、五十日間に亘る行軍、しかも冬季の行軍は、本人の望むところではなかったであろう。
話は前後するが、小四郎の指導能力にも疑問が残る。
この頃、水戸は、尊皇攘夷の総本山として、雄藩の士からも別格視される傾向があり、東湖の息子というだけで、小四郎も英雄視されたことが容易に想像できる。その雰囲気の中、小四郎も「その気」になってしまったのであろう。
さて、天狗党が降伏して加賀藩に捕えられたのは、越前の新保という敦賀に近い山村であった。
水戸から二百余里。五十日をかけて行軍してきた天狗党には、刀を交える余力にも乏しかったし、大きかったのは京都後見職にある慶喜が討伐軍の大将であるという点である。
慶喜は自分たちを見捨てないだろうという見込みもあったのだろう。
十二月二十四日、天狗党八二三人は、敦賀に移される。
この陰惨な史実の中で、唯一、爽やかなのが、この時の加賀藩の対応である。

幕末の水戸藩(山川菊栄)岩波書店



武田耕雲斎。当時、六十三歳であったと言う。差しているのが、「刀」でなく「太刀」なのが気になる。水戸黄門さまに見えてしまうのは、私だけだろうか。(敦賀にて)

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