木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

玉屋と鍵屋②

2008年09月03日 | 江戸の花火
前回の続き。

さて、玉屋と鍵屋であるが、まず玉屋の「優れた腕」というのは、打ち揚げ花火に他ならないと思う。
文化一年(1804年)の「甲子夜話」に打ち揚げの文字が見えるとされるが、従来の流星型および吹出し型の花火から、今のような打ち揚げに移行していったのは、文化・文政の頃であるのは、間違いないところだ。
移行、と言ったものの、打ち揚げ花火の構造はトップシークレットであっただろうし、広くは伝播していかなかった。
打ち揚げの概念を持ち込んだのが、玉屋ではなかったか。
西暦でいうと1777年には、その名声が広まっていた玉屋。
火事を起こしたのが、1843年。その間、66年。
仮に1777年に25歳だったとしても、玉屋は火事の年には、91歳になっている。ある記事によると、玉屋は、火事のあった天保十四年の数年前から、中風の後遺症で寝たきりになっていたとあるので高齢であったのには、違いないであろうが、少し高齢過ぎるような気がする。
この計算で行くと、鍵屋を独立した文化八年(1811年)、玉屋は59歳ということになる。これでは、異例の抜擢とは言えない。
ここで導き出される推論としては、

①玉屋独立の前に、別の玉屋があった。
②鍵屋から独立したとされる玉屋は、二代目であった。


では、ないだろうか。
個人的な見解では、技術力のあるベンチャー企業と老舗の企業が提携した、という図式ではなかったか、と思う。
玉屋は、鍵屋の持っている大川での利権を、鍵屋としては、玉屋のもっている技術力を得たかったので、手を結んだ、ということである。
すると、上の推論のうち②である。
どちらにしても、1777年に既に名声を得ていた玉屋がひとりで(一代で)1843年まで走り続けるのは、無理がある。
もし、②の推論を取り、1777年に二十五歳だった先代玉屋が、三十の時に二代目を設けたとすれば、1811年当時、二代目は二十八歳。「異例の抜擢」にふさわしい年齢である。

形としては、総合的に力のある鍵屋が優位に話を進めて、玉屋を鍵屋の傘下に入れたような格好にするため、玉屋二代目を修行に来させた。あわせて、技術供与を求めたのではないか。
しかし、玉屋は、肝心なところは、教えなかった。あるいは、花火の世界が、現代のIT産業のように、日々技術革新が目ざましく、正式に玉屋に暖簾分けをし、大川半分の利権を与えらえて以降に、イノベーションがあったのかも知れない。
ゆえに、玉屋のほうが、技術力が上であったのである。

では、どうして、そのあたりのことが伝えられていないかといえば、この答えは明確で、火事を起こした玉屋は負組、残った鍵屋は勝組。
幕末の歴史が勝組である薩長土肥に都合がいいように伝えられてきたのと同じで、勝組である鍵屋の記録が伝承され、玉屋側から書かれた記録は抹消されて(あるいは最初からなかった)いるからである。

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