木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

遠島・島流し

2012年02月12日 | 江戸の幕末
遠島の話をします。

江戸時代の刑罰は、基本的には、肉体刑、自由を奪う刑、そして死刑の三種であった。
肉体刑というのは、鞭で打つとか、あるいは各藩独自の刑であるが、鼻や耳を削ぎ落とすといった刑である。
自由を奪うというのは、家に閉じ込める蟄居・幽閉であるとか、手鎖の刑、所払いなど一定の場所への出入りを禁止する刑である。
牢獄へ入るのは、未刑囚であり、現代で行われている刑とは全く異なって、牢獄への収監は刑でなかった。

自由刑で最も重いのが遠島である。
「御定書百箇条」によると、遠島に処せられるのは、人殺しの手引きをした者、指図をして人を殺した者、人殺しの手伝い、寺持僧侶の女犯、客を溺死させた舟主、幼女への強姦・傷害、イカサマ賭博、大八車で人を引っ掛けて怪我を負わせた者などとある。
悪法名高い生類憐みの令で、犬を蹴飛ばして遠島になった者もいる。
送られたのは、江戸からは大島、新島、御蔵島、利島、神津島、三宅島、八丈島の伊豆七島などで、大坂からは隠岐、薩摩、五島列島、天草などであった。
遠島で辛いのは、まず流刑者が手に職だとか、学問などの特殊技能があるか、あるいは実家からの仕送りがある、などの場合を除くと、食の部分で支障をきたす点である。
現代のように多種多様の野菜もない江戸時代では島国で栽培できる野菜は限られていたし、流刑者は舟の所持を許されていなかったので豊富な魚類を捕獲することも叶わなかった。

伊豆七島の中でも最も食糧事情がよいとされたのは八丈島で、島内には水田もあった。それでも、水田の規模は74町、畑408町。米は4000人いる島民の半数の需要を満たすのがやっとであり、粟や稗も常食された。
ちなみに、大島は水田なし、畑63町。新島、三宅島は更に悪く、利島、御蔵島に至っては畑すらなかった。
正式な島民すら食糧に困っていたのである。流刑人が食べ物に困るのは、ごく当然のことである。
おまけに、遠島は刑期が決まっていない。約4割が御赦免となったとうが、いつ帰れるのか、あるいは、一生帰れないのか分からない状況は非常に辛かったに違いない。
一方、本土からの仕送りがあると、かなりいい暮らしもできた。
白木屋お常は、大岡裁きで知られる女性罪人であるが、御蔵島に送られた後も、仕送りで風流な暮らしを送った後、御赦免になって江戸に戻っている。

島内での帯妻は黙認された。
たとえば、千島、択捉島を探検した近藤重蔵の息子、近藤富蔵は百姓殺害の咎を追い、八丈島に流された。
島での富蔵は、蚊一匹殺さないようになり、『八丈島実記』の大著を残す。
富蔵は、島で妻をめとり、子供を設ける。その後、明治13年に放免になり東京に戻るが、二年後には再び八丈島に戻っている。
人間至るところに青山あり、と言い、住めば都、とも言う。
島の暮らしがいつの間にか富蔵にとって、かけがえのないものになったのであろうか。

遠島―島流し 大隈 三好 江戸時代選書
江戸の流刑  小石 房子 平凡社新書
江戸町奉行所辞典 笹間良彦 柏書房

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