木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

堀江鍬次郎~講演会

2010年06月23日 | 江戸の写真
6月19日、津のセンターパレスにおいて、「堀江鍬次郎と上野彦馬」と題した講演会が行われた。
講師は鍬次郎についてが日本大学芸術学部の田中里実先生、彦馬担当が長崎大学環境科学部の姫野順一先生であった。
両先生のお話とも示唆に富み、大変参考になった。
公演後、田中先生とお話をさせていただき、鍬次郎に関する資料はほとんど残っておらず、苦労されている旨をお聞かせいただいた。全く同感である。

鍬次郎は長崎海軍伝習所の2期生でもあり、当時、津藩のエリートであった。
だが、伝習所への派遣がどれだけ評価対象になったかについては、疑問も残る。
というのは、伝習所に派遣されたのは、おおむね下級武士が中心だったこと、伝習所での学問が武士としてのキャリアに直接プラスにならなかった点が挙げられる。
同じ津の伝習所同期生としては、測量の父とも呼ばれる柳楢悦が今や一番、後世に名を残している。
他には、すでに数学者として有名だった村田佐十郎や明治天皇から祭祀料を賜った吉村長兵衛などがいるが、鍬次郎と同じように化学に優秀だった市川清之助などは名が残っていない。

これには、化学という今ではれっきとした学問が当時は認められていなかった状況が大きい。
日本薬学の父と呼ばれる長井長義は、徳島藩医の息子であった。長義は長崎の医学校である精得館に学びに出たが、本心では新しい学問である化学を学びたいと思っていた。
長義は彦馬の下に住み込み、彦馬から化学を習うが、化学に熱心なあまり、精得館は休みがちであった。
それを役人に咎められ、「自分は化学を学びたいから、精得館は休むのだ」と抗弁したが、役人は化学など学問だと思っていないから、理解せず、「だったら、病気で休むということにしておけ」と伝える。それを聞いて、長義は「何と先見の明のない人間だろう」と発言するが、この当時は長義のような人間のほうが少数派であった。
この時期、G・ワグネルなど非常に優秀な化学家たちが来日したが、招聘した日本側では一部の者を除いては、「腕のいい職人」のように捉えていた節がある。

幕末、津藩は京都時習館の蘭学者・広瀬元恭を三顧の礼をもって招いているが、碌は二十四石に過ぎない。
それも「築城新法」などを表した元恭の西洋砲術の知識が欲しかったからである。

鍬次郎は早世しなかったら、同じ槍と遣い手でもあり、中央政府、後には財界に食い込んだ吉村長兵衛の引きなどもあったであろうし、後世に名をとどめた可能性大である。
だが、まだ時代は鍬次郎の名を留めるまでには熟成していなかったといえる。


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