木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

大名の通勤ラッシュ

2009年10月09日 | 江戸の交通
江戸時代、江戸は武家の町だった。
江戸の人口は二百万人を超え、世界最大の都市だったと言われるが、実態はよく分からない。
これは、各地から江戸屋敷に詰めに来ている勤番武士の総数がはっきりしないからである。
武士は戦士である。その総数を発表するというのは兵力を公表することになるから公表されなかった。
江戸時代も後期になってくると、多分に見栄なども働いて尚更、発表を控えたのであろう。

江戸の人口については → こちらをクリック

土地の占有率から見ると、これは具体的に分かる。大雑把だが、
武家地70%  寺社地15%  町人地15%である。

大名の屋敷というのは、大体において上屋敷中屋敷下屋敷の三つに分かれる。
大体において、と言ったのは、中には中屋敷を持たない大名もいたし、複数の下屋敷を所持している大名も多かったからである。
屋敷というと殿様の江戸邸宅のように思われるかも知れないが、邸宅というよりは会社、あるいは役所に近い
国許と東京にそれぞれ本社を置いているような格好である。
殿様を議員に喩えると、江戸城は国会であろう。殿様の仕事としては江戸城へ行くのが一番重要な任務であったが、毎日登城した訳ではない。
定例としては大体月3回、その他、正月や八朔(8月1日)のようにあらかじめ決められた日取りと、子息生誕のような慶事、あるいは弔事のために臨時に登城する場合があった。

殿様は江戸城にほど近い上屋敷に住んでおり、登城ももちろん駕籠によるものであるから、通勤もさぞ楽かと思うと、さにあらず。

三百諸侯のうち、江戸詰めのある二百もの大名が何十人もの従者を引き連れて、一斉に登城するのである。
行列の人数は家格によって異なったが、外様の雄藩である広島藩の場合は八十人であったという。
この時代、武士が公式行事に遅れるのは厳禁である。
御城から歩いて何分も掛からないとことに住む大名も二時間前には屋敷を出て、城に向かったのである。
それこそ御城前は大層な混雑振りだったのであろう。

江戸時代は格式の時代であるから、大名が駕籠で乗り入れられる場所や伴ってよい従者の数も決められていた。
どんな大大名も城の奥に進むに伴って、駕籠を降ろされ徒歩で進むしかなく、従者の数も段々と減らされ、最後は一人で玄関を潜る。
心理的な圧力をかけると言う点では、効果的だ。
城の内部に入っても様々なしきたりがある。刀はどこまで持っていっていいか、着るものは何か。
儀礼ともなれば尚更で、忠臣蔵の浅野内匠守などはそのストレスに参っていたという説もある。
大名の登城もなかなかストレスの溜まるもので、楽ではなかったようだ。

「大名屋敷の謎」 安藤優一郎 集英社新書
 

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