木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ある明治人の記録

2011年07月14日 | 江戸の幕末
旧会津藩士ながら、陸軍大将にまで登りつめた柴五郎が晩年に認めた書をまとめた「ある明治人の記録」。
もっとも有名な箇所は、下北半島陸奥国に封された五郎ら家族が、飢えのため、犬を食べる場面であろう。

武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らうて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。

犬肉が喉につかえて、吐き気を催した五郎少年を父親が叱責する場面である。
カニの爪のように伸びた下北半島は両側を海に囲まれ、冬の寒さは、同じ北国である会津藩士の想定外のものだった。
会津藩士は、この地を希望を持って、斗南藩と名付けた。これより南はみな帝の地であるとの意である。しかし、陸奥の自然は、会津藩士の希望など吹き飛ばすほど過酷なものだった。
斗南藩への移転は政府の強制であったのだが、実は会津藩にはもうひとつの選択肢があった。旧領地である猪苗代への移封である。狭くて慣れた土地か、広いが辺境の地の、二者択一を迫られたのである。
そのとき、広沢安任の提言があった。

蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国、広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。

敗戦の後遺症が強く残る猪苗代よりは、未知であっても可能性の残る陸奥へ行こうという気風があったと思われるが、広沢の進言により、背中を押された会津藩は、結局、自らの意思で下北半島への移住を決める。
その割には、リサーチが徹底的に不足していて、厳寒の地に赴くのに、あまりにも準備不足であった。

会津よりこの地に移封さるるとき、陸奥の地がかくも乏しき痩地なりとは知らず、希望を抱きてはるばる来つるものを、いまになりて嘆き怒りても甲斐なし、ただひたすらに堪えぬくばかりなり。

この驚くほどの無知さは、まだ幼かった五郎少年のものであるが、案外、藩士全体の共通認識だったかも知れない。
では、ものすごくリサーチが行きとどいていたら、猪苗代に行ったのかというとそれも疑問だ。与えられたのが順境でなく、逆境であっても、見事乗り越えるのが武士魂であるといった意地が会津藩士にあったからだ。

会津の士は正義の士であったとはよく聞く。
幕末の幕臣も、腹芸の下手な人物が多かった。
それに比べ、西軍には、策士が豊富だった。

正義の定義は状況により変わる。
会津兵は馬鹿が付くほど正直であったし、倒れ行く幕府を支えようとした幕臣の中にも正直な人間が多かった。
しかし、戦時には正直が必ずしも正義となるとは限らない。
嘘をつき、腹芸を使うのが、戦争回避となるならば、『嘘も方便』ではないだろうか。
戦争には、一方的な正義も、一方的な悪もない。
そして、戦争を回避できるのなら、卑怯と言われようと、卑屈と言われようと徹底的に避けるべきであるというのがわたしの考えである。
同じような考えを藤原帰一氏が端的に述べておられるので、引用する。

平和って、理想とかじゃないんです。平和は青年の若々しい理想だとぼくは思わない。暴力でガツンとやればなんとかなるっていうのが若者の理想なんですよ。そして、そんな思い上がった過信じゃなく、きたない取引や談合を繰り返すことで保たれるのが平和。この方がみんなにとって結局いい結論になるんだよ、年若い君にとっては納得できないだろうけれどもっていう、打算に満ちた老人の知恵みたいなものなんです。

近頃の軍人は、すぐ鉄砲を撃ちたがる、国の運命を賭ける戦というものは、そのようなものではない(柴五郎)

ある明治人の記録 石光真人編著 中公新書
正しい戦争は本当にあるのか 藤原帰一 ロッキン’オン

広沢安任については青森県総合社会教育センターHP


↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ



最新の画像もっと見る

コメントを投稿