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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

天狗党②

2008年09月10日 | 幕末エピソード集
加賀藩の隊長は、永原甚七郎と言った。甚七郎は、水戸浪士の疲れ切った様子を見て、敵とは言え、同じ武士として見るに忍びないと、白米二百俵、漬物十樽、銘酒二石、スルメ二千枚を新保の陣中に送った。
食べ物だけではなく、酒やつまみまで提供された水戸浪士は、感激したに違いない。
さらに、敦賀に送られてからも、士分には一日一汁三菜、士分以下には一汁二菜のほか、薬用として一日酒三斗(1斗=18リットル=10升)、鼻紙、煙草、衣類などを供給したという。正月になると鏡餅や饅頭、酒樽などが与えられた。この金額は一日二百数十両にも及んだ。
さらに、甚七郎など金沢藩士は、公卿や慶喜に対し、助命運動まで行っている。
このような寛大な処置が一変したのは、田沼玄蕃が幕府総監として敦賀に赴いてからである。田沼は、水戸付近における天狗党との戦いで、天狗党に苦汁を舐めさせられていることもあり、天狗党を悲惨な境遇に陥れた。
五間に八間(約9M*15M)の真っ暗なニシン倉庫十六棟に浪士を押し込め、朝夕に焼きむすび1個づつにぬるま湯だけしか与えなかった。
甚七郎たちは、この処置に腹を立て、田沼の命令は受けたくないと、600名の藩士とともに金沢に引き上げてしまったくらいである。
時に、慶応元年一月二十九日。
この逆境も長くは続かなかった。
同年二月四日。武田耕雲斎以下24名が斬首にあったのを皮切りに、数日に亘り、353名が斬り殺されたからである。
近世に繋がる幕末を考えると、非常に人間の持つ残虐性の危うさというものを感ぜずにはいられない。
水戸の場合も、新撰組の場合も、イデオロギーを飛び越えて、結局は自派の都合のいいように各人が行動してしまったという面がある。
そこには、正義も悪もない。ただあるのは、自派と他派だけである。
水戸には、黄門さまがいて、烈公と呼ばれた尊皇攘夷の雄とも言える斉昭がいて、弘道館という日本一の藩校もあった。
だが、幕末は内紛でごちゃごちゃになってしまった。
内紛であるから争う複数の派閥がある。幕末の水戸の場合は、天狗党と諸生党であったわけだが、どちらがいいとか悪いとかいうことではない。
ルワンダにおいてツチ族がフツ族によって大量虐殺されたのは1994年。あまりに近年に起こった虐殺に驚いたのであるが、日本人においても一歩間違えば、水戸の内紛のように血で血を洗う政争が起こりかねない。
武田耕雲斎の辞世の句がそんな気持ちをよく伝えている。

討つもはた 討たれるもはた あはれなり
同じ日本の みだれと思へば


話は戻るが、斬首の前に簡単な聴聞があった。浪士は、「武器を取って戦ったか」と聞かれた。病死した24名を除く799名のうち、353名が武士の名誉のために、yesと答えたのである。否と答えれば、助かったのであるが。

最後に、山国老人という70を過ぎて、この行軍に参加して、斬首刑に処せられた人の辞世の句が少しばかり爽やかであるので、紹介して、結びにしたい。

ゆく先は冥土の鬼とひと勝負


既に風化してしまったかのような看板が更に哀れを誘う

幕末の水戸藩(山川菊栄)岩波書店

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天狗党①

2008年09月07日 | 幕末エピソード集
幕末、水戸に天狗党なる派閥があった。
天狗党は、尊皇攘夷の士である、と言われるが、実はそんな単純なものではなかった。
天狗党は、藤田東湖の息子、小四郎を中心とした党で、朝廷のため夷狄を討つとして、筑波山に挙兵した。
この党の決起を促したのは、桂小五郎で、小五郎は元治元年(一八六四年)に徳川斉昭の墓参のため水戸に来たが、その際に小四郎に軍資金五百両を渡している。
小四郎は、この金のほかに富商、富農の献金を集め、行動の機会を伺った。
しかし、具体的な行動を起こせぬままにいたずらに時は過ぎ、諸生派と呼ばれる保守派との対立を深めていく。
焦りを感じた天狗党は、資金力を得るために、強奪をも行い、近隣の住民の生活を脅かした。
当時の藩主は、斉昭から慶篤に代わっていたが、慶篤は「よかろう様」と陰口されるほど、決断力に乏しい殿で、二派を調整する能力は全く欠けていた。
幕府は過激な行動を取ろうとする天狗党に危機感を抱き、天狗党を強盗集団であると定義、武力をもって鎮圧しようとする。当然、諸生党もこの動きに便乗する。
このため、全盛期は四千とも言われた天狗党は、千余名に激減。活路を見出すために、京都の朝廷に直訴しようとして、死の行軍に至る。この頃から、天狗党の総大将に担ぎ上げられてしまったのが武田耕雲斎である。かつての結城寅寿にしても同じことだが、本人の意思とは離れたところで、担ぎ上げられる者が水戸には多かった。耕雲斎は、六十を越える高齢で、五十日間に亘る行軍、しかも冬季の行軍は、本人の望むところではなかったであろう。
話は前後するが、小四郎の指導能力にも疑問が残る。
この頃、水戸は、尊皇攘夷の総本山として、雄藩の士からも別格視される傾向があり、東湖の息子というだけで、小四郎も英雄視されたことが容易に想像できる。その雰囲気の中、小四郎も「その気」になってしまったのであろう。
さて、天狗党が降伏して加賀藩に捕えられたのは、越前の新保という敦賀に近い山村であった。
水戸から二百余里。五十日をかけて行軍してきた天狗党には、刀を交える余力にも乏しかったし、大きかったのは京都後見職にある慶喜が討伐軍の大将であるという点である。
慶喜は自分たちを見捨てないだろうという見込みもあったのだろう。
十二月二十四日、天狗党八二三人は、敦賀に移される。
この陰惨な史実の中で、唯一、爽やかなのが、この時の加賀藩の対応である。

幕末の水戸藩(山川菊栄)岩波書店



武田耕雲斎。当時、六十三歳であったと言う。差しているのが、「刀」でなく「太刀」なのが気になる。水戸黄門さまに見えてしまうのは、私だけだろうか。(敦賀にて)

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