一つ分かったことは、こういう危機のときはなぜかお腹がすくということだ。
第六感が危機を察知して、体に栄養をたくさんストックしようとしているのかもしれない。
下宿のお母さんはいつも通り、いや、むしろ少し多めに食事を準備して、お腹一杯食べさせてくれる。
2人の成長期の子どもへは
「少し我慢しないさい」
と厳しい言葉。
でも、実の子ではないぼくには、それ以上に世話をしてくれ、とても嬉しかった。
夕方になり、縁側でいつものゆりかご椅子にゆられながら考えていた。
「今停電している。しかし、このような危機がなくてもしょっちゅう停電している。
そもそも、電気は夜の電灯とテレビ、音楽を聴くときぐらいしか使わない。
ガスの供給もストップした。ガスタンクが空になるとお手伝いの子が近所の店にガス充填に行く。電気調理器も使えない。
そこで、食事の準備はまきを利用することになった。
ただ、この日に限らず、おばあちゃんはよく主食のフリホーレスをまきで準備している。光熱費が高いからだ。だから、これも特別のことではない。
飲み水のストックは数週間分ある。
ここは水事情のよくない地域。水道から水が出るのは週に2日。それもちょろりちょろり。慢性的に水不足なので、このような状況でも特に大きな変化を感じない。
災害時ではあるが、現代のエネルギーに極度に依存しているわけではない。
だから、誰もパニックにならず、いつもとそれほど変化のない生活を継続できている。
これが日本だとどうなるだろうか。」
危機の中での不思議な感覚だった。
数日後、日本の家から電話があった。
「無事か」
とのことだった。
「大丈夫だよ」
と応えて電話を切った。
あとにも先にも、日本から突然電話があったのはこれが最後である。
更に数日後、事務所の現地職員から電話がある。
「Como esta? (大丈夫か)」
と聞かれ、
「Bien. (無事ですよ)」
と答える。
災害時の安全確認であったということを後日知った。
その旨を秘書は何も語らず、何かおしゃべりでもしたく電話をしてきたのかと思った。ぼくが鈍感だっただけなのかもしれない。
数千人の死者、数万人の被災者を発生した超大型ハリケーン。
首都テグシガルパの市長が、視察中にヘリコプターが墜落して死亡。
次期大統領候補と言われる大の人気者だっただけに、この災害と同時に国民は意気消沈した。
後日首都に行き、びっくり仰天する。
首都のコマヤグア地域は全壊。泥と化していた。
文部省も2階まで浸水し泥で埋まっていた。もし大雨の日に会議あるいは残業でもしていたら、命を落としていただろう
ぼくの住んでいる町には港があり、石油備蓄基地がある。そのため、幹線道路修復は他地域よりも優先的に行われ、一週間ほどで物流が再開した。
国外からの援助は何も届かない。
隣の市で、米国の支援ヘリコプターが救援物資を直接市民に手渡していた。これが唯一市民に届いた国際援助物資である。
災害時に備えて最低でも一週間分程度の食料と水を確保しておくことの大切さが身にしみた。
この災害からの復興には最低10年以上かかるといわれていたが、3年後に訪問した首都テグシガルパは、以前の生活を取り戻していた。
関係者の皆さんどうもご苦労様でした。
Goo
多くの方に楽しい旅をしていただければと思います。
応援のクリックをどうもありがとうございます。
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興味のある方はご連絡ください。
第六感が危機を察知して、体に栄養をたくさんストックしようとしているのかもしれない。
下宿のお母さんはいつも通り、いや、むしろ少し多めに食事を準備して、お腹一杯食べさせてくれる。
2人の成長期の子どもへは
「少し我慢しないさい」
と厳しい言葉。
でも、実の子ではないぼくには、それ以上に世話をしてくれ、とても嬉しかった。
夕方になり、縁側でいつものゆりかご椅子にゆられながら考えていた。
「今停電している。しかし、このような危機がなくてもしょっちゅう停電している。
そもそも、電気は夜の電灯とテレビ、音楽を聴くときぐらいしか使わない。
ガスの供給もストップした。ガスタンクが空になるとお手伝いの子が近所の店にガス充填に行く。電気調理器も使えない。
そこで、食事の準備はまきを利用することになった。
ただ、この日に限らず、おばあちゃんはよく主食のフリホーレスをまきで準備している。光熱費が高いからだ。だから、これも特別のことではない。
飲み水のストックは数週間分ある。
ここは水事情のよくない地域。水道から水が出るのは週に2日。それもちょろりちょろり。慢性的に水不足なので、このような状況でも特に大きな変化を感じない。
災害時ではあるが、現代のエネルギーに極度に依存しているわけではない。
だから、誰もパニックにならず、いつもとそれほど変化のない生活を継続できている。
これが日本だとどうなるだろうか。」
危機の中での不思議な感覚だった。
数日後、日本の家から電話があった。
「無事か」
とのことだった。
「大丈夫だよ」
と応えて電話を切った。
あとにも先にも、日本から突然電話があったのはこれが最後である。
更に数日後、事務所の現地職員から電話がある。
「Como esta? (大丈夫か)」
と聞かれ、
「Bien. (無事ですよ)」
と答える。
災害時の安全確認であったということを後日知った。
その旨を秘書は何も語らず、何かおしゃべりでもしたく電話をしてきたのかと思った。ぼくが鈍感だっただけなのかもしれない。
数千人の死者、数万人の被災者を発生した超大型ハリケーン。
首都テグシガルパの市長が、視察中にヘリコプターが墜落して死亡。
次期大統領候補と言われる大の人気者だっただけに、この災害と同時に国民は意気消沈した。
後日首都に行き、びっくり仰天する。
首都のコマヤグア地域は全壊。泥と化していた。
文部省も2階まで浸水し泥で埋まっていた。もし大雨の日に会議あるいは残業でもしていたら、命を落としていただろう
ぼくの住んでいる町には港があり、石油備蓄基地がある。そのため、幹線道路修復は他地域よりも優先的に行われ、一週間ほどで物流が再開した。
国外からの援助は何も届かない。
隣の市で、米国の支援ヘリコプターが救援物資を直接市民に手渡していた。これが唯一市民に届いた国際援助物資である。
災害時に備えて最低でも一週間分程度の食料と水を確保しておくことの大切さが身にしみた。
この災害からの復興には最低10年以上かかるといわれていたが、3年後に訪問した首都テグシガルパは、以前の生活を取り戻していた。
関係者の皆さんどうもご苦労様でした。
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