たびびと

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夜の誘惑「ゆっくり」 ホンジュラスの風

2010年10月25日 | ホンジュラスの風
彼女の首筋からは、香水とお酒のにおいがほんのりと漂った。
室内は30度を超えていたが、汗臭さはない。

ここはホンジュラスのナイトクラブ。美しい女性マリソルとチークダンスを踊っていたときのことである。

彼女は言った。

「Despacio」

「ゆっくり」
という意味である。

知らない曲。そして、初めて踊るチークダンス。
彼女は両腕をぼくの肩に巻きつけている。

彼女の一言で、ぼくは彼女の動きに自分の足の移動を任せることにした。

ホンジュラスのナイトクラブ。
案内してくれたのは、友人の先生ビルヒリオだ。

街中に何件かのナイトクラブがある。
民家の中に位置している。夜中にはライブショーの音楽が周辺に響きわたる。苦情はないのだろうか…。

店内に入ると、レーザーの一種の照明のせいか、洋服の一部が変色して見える。
夜は11時。店内には既に10人ほどの客がいた。

ビールを注文した。

すると、すぐに女性によるショーの踊りがスタートする。
店内は暗く、女性の表情はよく見えない。しかし、流行歌に合わせたダンスはリズムにのっていて、女性の美しいシルエットに惹き込まれる。

「彼女は気に入ったか」
「素敵な人だね」

音楽のボリュームがすごい。ビルヒリオとも時折片言の会話のみだ。
小さな街だから、店内には彼の友人、知人が何人かいた。
そして何と驚いたことに、そのナイトクラブの店長はビルヒリオの親戚ホセだった。彼はとても細身。そして、白人の血が多く表れている金髪の小柄な男性であった。

ビルヒリオは先ほど踊っていた女性を呼び、話し始めた。

「おい、彼女がお前と一緒に踊りたいと言ってるぞ」

本当に彼女がそう言ったのか、あるいは、彼が気を利かせて彼女にぼくと踊るように言ったのかはわからない。
でも、ぼくはこのオファーを受けることにした。

灼熱の都市チョルテカ。日中は恐らく40度を超える暑さであるが、夜は幾分涼しくなる。しかし、店内にエアコンはない。
そもそも、エアコンが普及しておらず、配備されているのは一部の大金持ちの家と高級ホテルのみである。

彼女の名前はマリソルといった。
彼女はぼくに微笑んだ。

ナイトクラブで働く女性は、普通の子が多い。

このホンジュラスでは、女性が職業につくのは難しい。特に学歴のない女性は。
貧しい家庭を助けるためによくある仕事といえば、お手伝いである。ホンジュラスではお手伝いのシステムが定着している。中流階級の家だと、たいがいお手伝いさんがいて、掃除、洗濯、食事の準備を手伝ったりしている。
お手伝いさんの給金はごくわずか。自分が食べるのに精一杯。住み込みでも、通いでも状況はそれほど変わらない。

家族を養うために稼げる仕事となると、そう、ナイトクラブで働くことである。

お酒、薬、男の罠にはまって人生を転落してしまう女性も多い。それでも、最終的には家族に帰り、昔の質素な貧しい生活に戻るのである。

ナイトクラブに行った次の日の夜のこと。
自宅のベッドに横になると、ナイトクラブで彼女が踊っていたときの曲、エンリケ・イグレシアス「Experiencia religiosa」の曲が聞こえてくる。

彼女とのあの淡い時間帯が思い出された。そして香水とお酒の香りも。

なぜか襲ってくる切ない気持ち。

「もう一度彼女に会いたい。話をしたい」

そう、ぼくは恋に落ちたのである。

翌日から、そのナイトクラブ通いが始まった。

後日、彼女との間に何が起こるかを知ることもなく…。


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