深川 冬夜の感
櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙 芭 蕉
この句、『武蔵曲(むさしぶり)』所収の句形だが、本によっては、
櫓の声や腸氷る夜ハなミだ
艪声(ロセイ)波をうつて腸氷る夜は涙
櫓の声にはらわた氷るよやなみだ
などの句形がある。
この句は、全体を漢文調で詠みあげている。「櫓の音」といわず「櫓の声」といったのは、漢詩の「櫓声」を心に置いたものであろう。また「波を打つ」「腸氷る」は、いずれも漢詩的な用語である。
『武蔵曲』の時期、つまり、延宝八年(1680)冬、門弟の杉風の尽力により、芭蕉は深川の草庵に移った。当初、庵を泊船堂と称した。これはそれまで九年にわたる市中放浪の生活を打ち切り、一念俳諧につながらなくてはならないところに、追い込まれたことを意味した。
『幻住庵記』(元禄三年作)にいう「ある時は仕官懸命の地をうらや」んだところがふさがれて、「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむ」として、鹿島根本寺の仏頂禅師に参禅したのもこのころであった。しかし、「終(つい)に無能無才にして此の一筋につながる」ほかないことを感じたのは、自己の運命を見据えた詩人としての決意に他ならなかった。
こうしたところから、芭蕉の新しい歩みが始まってゆくのである。そしてそれは漢詩の本質的な摂取となり、これを伝統の血脈として自己の中に発見し、新生せしめるという方向をとったのである。
「冬夜の感」は、漢詩の題にならったものであろう。
「櫓の声波を打つて」は、櫓のぎいぎいときしる音が波の上に響くさま。「櫓」は「艪」に通用し、舟の推進具。
「腸氷る」は、腸も氷るような寒々とした思いがする、の意。
「氷る」が季語で冬。
「この深川の草庵は水辺に近いので、寒夜、きしる櫓の音が
波音のまにまに枕に近く聞こえてくる。じっと耳を澄まして
いると、腸も氷るような凄涼な思いがしてきて、いつしか
涙が流れているのであった」
みちのくのかの川いまは凍靄か 季 己
櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙 芭 蕉
この句、『武蔵曲(むさしぶり)』所収の句形だが、本によっては、
櫓の声や腸氷る夜ハなミだ
艪声(ロセイ)波をうつて腸氷る夜は涙
櫓の声にはらわた氷るよやなみだ
などの句形がある。
この句は、全体を漢文調で詠みあげている。「櫓の音」といわず「櫓の声」といったのは、漢詩の「櫓声」を心に置いたものであろう。また「波を打つ」「腸氷る」は、いずれも漢詩的な用語である。
『武蔵曲』の時期、つまり、延宝八年(1680)冬、門弟の杉風の尽力により、芭蕉は深川の草庵に移った。当初、庵を泊船堂と称した。これはそれまで九年にわたる市中放浪の生活を打ち切り、一念俳諧につながらなくてはならないところに、追い込まれたことを意味した。
『幻住庵記』(元禄三年作)にいう「ある時は仕官懸命の地をうらや」んだところがふさがれて、「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)に入らむ」として、鹿島根本寺の仏頂禅師に参禅したのもこのころであった。しかし、「終(つい)に無能無才にして此の一筋につながる」ほかないことを感じたのは、自己の運命を見据えた詩人としての決意に他ならなかった。
こうしたところから、芭蕉の新しい歩みが始まってゆくのである。そしてそれは漢詩の本質的な摂取となり、これを伝統の血脈として自己の中に発見し、新生せしめるという方向をとったのである。
「冬夜の感」は、漢詩の題にならったものであろう。
「櫓の声波を打つて」は、櫓のぎいぎいときしる音が波の上に響くさま。「櫓」は「艪」に通用し、舟の推進具。
「腸氷る」は、腸も氷るような寒々とした思いがする、の意。
「氷る」が季語で冬。
「この深川の草庵は水辺に近いので、寒夜、きしる櫓の音が
波音のまにまに枕に近く聞こえてくる。じっと耳を澄まして
いると、腸も氷るような凄涼な思いがしてきて、いつしか
涙が流れているのであった」
みちのくのかの川いまは凍靄か 季 己