壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

自然を見据える

2010年12月05日 21時34分56秒 | Weblog
          九年の春秋、市中に住み侘びて、
          居を深川のほとりに移す。「長安
          は古来名利の地、空手にして金な
          きものは行路難し」と云ひけむ人
          のかしこく覚え侍るは、この身の
          とぼしき故にや。
        柴の戸に茶を木の葉掻くあらしかな     桃 青(芭蕉)
 
 深川芭蕉庵に移住した折の作。
 「茶を木の葉掻く」あたりには、今までの作風の痕跡を残してはいるが、それを越えて人に迫る力をもっている。自然の見据え方が真摯さを帯び、自然そのものの深奥に穿(うが)ち入ろうとしている。談林のむなしい笑いがかげをひそめ、漢詩の情趣も内面化したところで摂取されている。
 この句の詞書(ことばがき)は、きわめて重くはたらいていて、句と交響する趣が感じられ、この「あらし」に吹き立てられる、芭蕉の身の置き方が、生きてくるように思われる。
 延宝八年(1680)の作。前書中の「九年」は、寛文十二年(1672)の出府からの九年間で、延宝八年になる。

 「長安は……」は、白楽天の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」の中の、「長安ハ古来名利ノ地、空手金(こがね)無クバ行路難シ」という詩句。長安は昔から、名誉と利欲中心の土地柄で、無一物で金をもたない人は、生活が困難である、の意。
 「かしこく覚え侍る」は、よくぞ言ったものと感心されるの意。
 「柴の戸」は、細い枝でつくった粗末な門戸。転じて、むさくるしい家。芭蕉庵をさす。
 「木の葉掻(か)く」は、落ち散った木の葉を掻き集めること。

 季語は「木の葉(掻く)」で冬。

    「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉が、
     しきりに舞い立っている。この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉
     を掻きたて、掃きたてて、柴の戸に吹き寄せている感じだ」


 ――昨日、穴のあくほど観てきたのだが、気になることがあり、また銀座「画廊宮坂」へ駆けつけた。『○○・△△ 二人展』の最終日である。
 いま、「画廊宮坂」で話題になっている一つが、〈落選した絵〉のことである。〈落選した絵〉というのは、○○さんが院展に出品し、落選した「雨のプラットホーム」のこと。雨や水を描き出してからの彼女の作品は、目を見張るものがある。たしかに、〈落選した絵〉は、落選するはずがないほど上出来の作品である。では、なぜ落選したのか。大方の意見は、審査員に見る目がなかった、ということのようだが……。
 そこで、なぜ落選したのか、その理由を素人なりに考えたかったのだ、勉強のために。
 二日間、凝視して感じたのは、「雨のプラットホーム」というタイトル。素人には一見、「プラットホーム」には見えないのだ。
 俳句の場合、たとえば、朴落葉を詠んだ素晴らしい句だと思っても、前書に柿落葉などとあったら、変人は、まずとらない。
 これと同じ理由で、変人が審査員だったなら、やはり落選にせざるを得ない。もしタイトルが、「雨の……」であったなら、入選はおろか、奨励賞にするであろう。雨の感じを、独自の感性で捉えた秀作であるだけに、惜しまれてならない。
 俳句は事実の報告・説明ではないのと同様に、絵も、ゆりかもめの駅を描いたからといって、プラットホームまで言うことはないのだ。○○さんは「雨」を描きたかったのだろうから、「雨の……」とでもすれば、プラットホームに見えようが見えまいが、関係はないのである。タイトルを「プラットホーム」とした以上、それが「高速道路」などに見えたら、やはり失敗作であろう。
 タイトルも心してつけたいものである。

      神馬の目うごかず枯葉五千枚     季 己