壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

臘月(しわす)

2010年12月14日 22時29分57秒 | Weblog
        なかなかに心をかしき臘月かな     芭 蕉

 この句は、弟子の曲翠宛の書簡に見える。文面は、
        一樽賢慮に懸けられ、寒風を凌ぎ、辱く存じ奉り候。
        明日より御番の由、御苦労察し奉り候。
          なかなかに心をかしき臘月かな
        御非番の間御尋ね芳慮を得可く候。折節対客早筆に
        及び候。頓首 洒堂も御手紙見申し候。
 とあり、文面から見て、元禄五年(1692)十二月のもの。

 誰もが俗事に心を煩わせる臘月(ろうげつ)。その中にかえって風雅の本情を見出してゆこうとするところは、このころの芭蕉としては、あまりに常套的に過ぎるようである。
 酒一樽を贈られたことに対する謝意と、勤番の労苦へのいたわりとをこめた挨拶の作である。書簡中での即興で、多分に曲翠に対する、くだけた語りかけの気持が含まれていたものに違いない。どこか『徒然草』風の匂いが漂う発想だ。

 「なかなか」は、「かえって」の意。
 「臘月」は陰暦十二月をいい、ここでは「しわす」と読みたい。「師走(しわす)」も陰暦十二月の異称であるが、今でも十二月になると、盛んにこの語を使う。この二字の漢字が、押し詰まったあわただしさを伝えるからであろう。極月春待月ともいう。

 季語は「臘月」で冬。「臘月」の、俗にあわただしいさまをとらえて、その逆を導き出す発想で、実感としてとらえられたものではなく、一般的な意味として使われている。

    「師走は、いろいろと世俗のことであわただしいが、心のありようでは、
     かえって、どこか年の暮れゆくあわれも感じられることだ」


      パンの耳さげてゆくひと社会鍋     季 己