壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

楠の根を

2010年12月17日 21時14分30秒 | Weblog
        楠の根を静かにぬらす時雨哉     蕪 村

 空かきくらし、さっと来る走り雨を、時雨という。江戸版画、広重の世界の味である。
 時雨はかすかな通り雨であるから、その雨脚は地面に近く、ちらちらとして降るのである。
 この時雨の楠は、決して陰暗な感じを与えるものではない。時雨には日の照り添うこともあって、寂しい中に一種、華やかな「におい」を伴っているものである。その点、香木の楠を持ってきたことが利いている。
 そのうえ、楠は、外側から眺めれば「樹塊(じゅかい)」とでも形容したいほどであって、葉は隙間なく茂っているので、まっすぐに降る時雨では、根元の土はなかなか濡れない。ただ「磐根(いわね)」とでもいうべき太根が、地面に半ば姿を現しながら、幹の地点から八方へ走っている。これの褐色の鱗(うろこ)状の肌が、しだいに濡れ色にかわってゆくだけである。
 このような楠の特性が、降るともなく降り、濡らすともなく濡らす、時雨の特性をあらわすにはふさわしいのである。
 この句は、楠そのものを的確に描きながら、おのずから時雨の広い気分へ展がっていっている。伝統的な時雨の観念にとらわれることなく、写実を押し進めていながら、「叙情の潤い」もゆたかである。

 季語は「時雨」で冬。

    「うっそうと茂った楠の根元ちかく、いつからともわからず、
     音もなく時雨が降っている。いかにもかすかであるが、それ
     でもしばらく続くと、地面に現れ走っている太根が、一渡り
     しっとり濡れてきた」


 ――「叙情の潤い」といえば、「木原和敏 個展」(銀座『画廊宮坂』)の作品たちがまさにそれ。今日は二度目の来廊であるが、あまりの居心地の良さに、二時間以上もお邪魔してしまった。その間、木原先生はもちろん、その絵のモデルさん、さらには日展会員のI先生のモデルでありお嬢さんでもあるHさんともお話しできたことは、無上の喜びであった。

 初日にお邪魔したときには、ねらっていた作品に、すでに売約済みの赤ピンが打たれていた。ホームページの写真でねらいをつけたのだが、実際の作品は、予想の数倍も素晴らしい出来の作品であった。やはり実物を凝視することが大切、としみじみ思う。
 もう一点、気になる作品が、黒い服に肌色のショールを羽織った女性像だ。タイトルを見ると「霜月」(30号)とある。
 木原先生のタイトルは、「惟(おもん)みる」「想」「たたずむ」「明日」「思い」「想い」などが多く、「霜月」という題は、初めて見た。

 「霜月」は、陰暦十一月の異称。冬の色も深まり、霜がきびしく降りる季節を、ズバリと表現した月名である。「霜降月」・「雪見月」・「雪待月」・「神楽月」などともいい、おおよそ陽暦の十二月に当たる。
 また「ショール」も冬の季語であるが、歳時記によっては、陽暦の十二月としている。
 木原先生は恐らく、このショールを通して、何かのメッセージを伝えたかったのであろう。タイトルはずばり「ショール」でもいいのだが、ワンクッション置いて「霜月」とされたのが、何とも俳句的でうれしくなった。(先生にうかがったら、そこまでは考えておられなかったようだが)
 この作品、初日にすでに青ピンが付いていた。「ああ、もうどなたかが予約なさったのだな」と喜んでいたら、今日はそのピンがなくなり、別の30号の作品に赤ピンが打ってあった。
 諦めの早い変人ではあるが、こうなるともうダメ。必死に「身辺整理、身辺整理」と、わが心に言い聞かせている。
 最終日の19日(日)に、また作品たちに逢いに行くつもりである。どうか「霜月」に赤ピンが付いていますように、と祈りつつ……

      霜月のモデルがふたり光りあふ     季 己