壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鏡の裏

2010年12月31日 21時12分41秒 | Weblog
        人も見ぬ春や鏡の裏の梅     芭 蕉

 鏡の裏の梅に、「人も見ぬ春」と感ずる態度には、つくりものめいたところが感じられなくはない。しかし、どこか心ひかれるしみじみとした気持が感じられるのは、芭蕉の隠れたものに向いてゆく、愛隣の情の深さによるものと思われる。
 歳旦吟としてみれば、ここには、世に隠れ住もうとする芭蕉の心の動きがこめられている、と考えてよいだろう。出典および注記などからみて、元禄五年歳旦吟と考えられる。

 「鏡の裏の梅」とは、昔の鏡は、裏に花や鳥などの模様が鋳つけてあった。この句の場合、それが梅の形だったのである。「鏡の裏の梅」を、人の見ないものの比喩ととる説には、賛成できない。鏡の裏を題材にした和歌には、次のようなものがある。
        見えぬには 影やはうつる 十寸鏡(ますかがみ)
          裏なる鶴の 音をのみぞなく  俊頼(夫木集)
        千歳にも 何か祈らむ 裏に住む
          田鶴の上をも 見るべかりける  伊勢(拾遺集)

 「人も見ぬ春」ともあるが、「梅」が季語としてはたらいているのではないか。春。
 『泊船集』許六書入れによれば、題詠的な発想だったようである。鏡の裏の何かを詠むというのは、一つの型になっていたとも見られる。これがこの句に、つくりものめいたものを感じさせる所以(ゆえん)であろう。

    「鏡の裏の梅の模様をしみじみ見た。こんなところに、誰も見ぬさまに、
     ひっそりと春を迎えている梅もあるのだ。なんとあわれなことよ」


 ――このコーナーに来て下さった皆さんに、心より感謝申し上げます。これが平成22年最後の更新となります。ありがとうございました。
 来る年が、皆さんにとって「幸多き年」となりますよう、お祈り申し上げます。

      来し方の起伏あれこれ除夜の鐘     季 己