壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鉢叩(はちたたき)

2010年12月03日 20時36分34秒 | Weblog
        夜泣する小家も過ぎぬ鉢たゝき     蕪 村

 「小家過(すぎ)ぬ」の「」は、そういう場所も過ぎたが、市中のあらゆる町々は、だいたいにおいて、ひっそりと寝静まっていた事実を表している。
 「小家」は、蕪村の常用語であるが、この場合は対象に当てはまっている。
        細道になり行く声や寒念仏     蕪 村
 の句があるように、狭い町を通るときに、道に面した小家のすぐ内側で、幼児がしきりと泣いていたのである。蕪村には、
        子を寝させて出で行く闇や鉢たゝき
 の句もある。これは「子を思う闇」の気持が掛けてある。
 この「夜泣する」には、そういった気持はこめられていないが、和讃などを誦して、浅はかで軽はずみなうちにも、因果めいた鉢叩のおもむきが、闇の中に一軒、幼児の泣きしきっている小家の姿と、相通じるものがある。
 詠まれている対象に関して、作者の占める位置が判然としないが、それは、想像によって情景を作り出す蕪村の句風としては、しばしば必然的に伴う不備ではないかと思う。

 「鉢たゝき」は、十一月十三日の空也忌より大晦日(おおみそか)までの四十八日間、空也堂の僧が、京都市の内外を巡り歩いて、瓢簞あるいは鉦(かね)を打ち鳴らしながら、念仏和讃を唱えること。米銭の喜捨があると、瓢簞で受け、瓢形の菓子を与える。

 季語は「鉢たゝき」で冬。

    「鉢叩が寒夜、寝静まった市中をさまよってゆく。あるところでは、
     一軒の小家で折から幼児が目をさまして、しきりと泣き声を立てて
     いた。その傍らを通り抜けて、鉢叩は当てもなく町から町をさまよ
     ってゆく」


      黄落や御祓箱が腰おろし     季 己