壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

生けるかひ

2010年12月21日 22時45分15秒 | Weblog
        蛤の生けるかひあれ年の暮     芭 蕉

 もともとは、画賛としてのおかしみをねらった、発想であったのであろう。
 楪(ゆずりは)の上に二つ描かれた蛤の絵(「句選年考」)に、新春のさまを見てとっての作。全部を仮名書きにした真蹟の文字づかいにも、蛤へ呼びかける気分を生かそうとしているところがあり、おかしみへの傾きをうかがうことができる。
 しかし、何らの前書も付していないことは、芭蕉自身に、画賛の句を、いわば述懐の句として独立させようとする気持があったためだと思われる。そこでは、俳諧師としての自分のわびしい生活のありかたに、蛤が蓋にこもって生きているのと、隠微相通ずるものを感じて、境涯を詠じた作となっているのである。

 「蛤(はまぐり)」は、歳旦の吸い物に使われるという点をさして、「生けるかひ」ということが、言われているものと思う。「かひ」は貝の意をこめての縁語仕立てとみたい。「蛤の」の「の」は、「の如くに」という比喩の意を含んだ用法ととる。

 季語は「年の暮」で冬。「年の暮」という一年のかぎりをさすよりは、新しい年への心の傾きが中心になっている発想である。

    「蛤よ、お前が新春の料として珍重され、生きていたかいがあるが如くに、
     自分も新年への生き甲斐をいだきつつ、この年の暮を過ごしたいものだ」


      冴ゆる夜を来て火のやうに話しだす     季 己