しょーきゅーし

怪しい妖しい尚休の、一寸気抜けの(含む危ない、過激)プレゼンツ&箴言?を

過激が身上なれど

2006年05月31日 17時18分09秒 | こっち
 此処のところ、あっち系の小鬼が纏わり憑いて来てたので、少し過激に奔り過ぎた気がするので、没にしたネタもあった。

 で、本当に危ないものには【仄聞】にて対応することにした。危機管理の対策の一環である。余計な言質を取られることを防ぐ意味も込めて。

 のであるが、危ないの基準が、自分では解らないのだ。
 自分にとって、当然、必然である事も、解らん者には解らんし、知らん者(知ろうとしない者)には知らせようも無い。

 人間の、感情的なことや、気持ちなどは、理解出来よう筈も無く、勝手に思い込まれても、此方にはどうしようもないのである。

 ある種の力(資格)を持つ者であれば、感覚的に理解してくれるのだが、一般人には望むべくも無い。

 逆に、其の感覚を理解できるが故に、一般人との対応に苦労している者も居るようだ。

 対外的には、所謂「よいしょ」するのが効くかもしれない。おだてたり、すかしたり、褒めたり、そやしたり、してみるのも手である。
 自分の場合は、座長と言う最高の手本が居たから。昔は根暗で有名だったのだ。

 過激なのと、言いたい事を好き勝手に言い傍若無人に振舞うのとは別物である。
 在る程度、物事を弁えた上での過激である。
 此処の場合は、不特定多数を相手に公開している訳だが(極、限られた人だけ、との意見もあろうが)、個人を相手にする場合は、ある程度の気遣いが必要となる。

 社会生活を営んでいる以上、個人環境での人との付き合いは避けられようも無く、相手が一般人であれば尚更で、在る程度解っている者相手でも、社会的肩書きや身分階級などに惑わされることなく、その本質を見抜いて付き合うことが肝要である。

 概ね、一般人は不躾である。人と人との付き合い方の原則的なものを知らない。
 無知蒙昧な輩を相手とする以上、此方が寛容の精神で、優しく包み込み庇いながら見守る様な心算でないと、傷つく事になりかねない。

 相手によって、自分の対応も変えていく必要も在る。
 あまり、相手を読み過ぎるのも、どうかと思うが、在る程度の情報収集は、当然の事で、素直に自分をさらけ出すのは、愚の骨頂であろう。
 「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」孫子の兵法である。

 先ずは、己を知る事が大切である。而して後、相手を知り対応する。

       今日の箴言
<或る時は観音様のように慈愛の心で、また或る時は不動明王の如く憤怒の炎で、相手に当たる。是を慈悲の心で救うという。>

祟り

2006年05月29日 22時13分18秒 | あっち
今日は携帯から。

いくら寛大でも限度があろう。
祓っても祓ってもきりのないモノは罰を当てる他なかろうの。
ある意味、苦渋の選択ではあろうか。
それでも懲りず、気が付かず騒いでいる愚か者も多い。
己の知識が全てであろう筈も無く、己ひとりの思い込みならまだしも、無垢な民を引き込み惑わせるなど持っての他。
祟られても当然なところを、愚かにも目覚めていない民はかばい、守り、あがめたりする。

今日の箴言
〈無知であることはは幸せなのかも知れない。しかしワタシは知ってしまった。そして知っている以上憐れむしかできない。私に救いを求めるには資格がいるのだから。〉

土地を侵す

2006年05月27日 16時53分16秒 | こっち
 又、又、邪魔が入った。消えてしまった。フリーズした。応答なしになった。

 ので、要点だけ。

 死んだような土地に生まれたのは。それだけの事しかないと言う事。
 人を羨んで、土地を侵すより、同化せよ。


        今日の箴言

 <日本の大地の精霊は寛大、寛容であり、拒絶したり妨害したりはしない。
 排除も殲滅もしない。
 穢れは祓うが消滅させる事は無い。>

天と地の地

2006年05月26日 17時07分45秒 | あいだ
 能力、才能と来て、次は、それらが拠って立つ所の「地」である。

 血も地も、読みは「ち」である。が、「ち」と書くと、意味が違うものに成ったりする。
 「いのち」の「ち」、「おろち」の「ち」、「いかづち」の「ち」である。
 敢て意味は言わない。

 まあ一般的には、土地と言った方が解り易いかも知れない。大地である。
 日本と言った場合、通常は、国家形態を備えた「日本国」を指す。が、日ノ本の国と言う場合の「日本」は、「ひのもと」であり、自分の分類上、別物である。
 以下、日本と言った場合、自分の使用法として、大体が本州と周辺の島々を指すものと理解して欲しい。
 (何のことは無い、自分が、実際に行った事の無い土地は含んでいないだけである。知らない所は解らないから。九州も北海道も行ってない。)

 血の流れが才能を生み出すものならば、大地の力が才能を育む。と考える。
 五行が木火土金水の其々の精霊の象徴とするならば、陰は月の陽は太陽の、そして、土ではなく、大地の精霊としての国魂なり大地母神なりが、地の力の源、地の象徴と考えられる。

 気質ではないが、その土地の持つ力によって、影響が在るはずである。
 ある種の才能、能力の発現に際して、与って力在る筈である。
 其れを知って居ればこそ、其処を修行の場としたり、聖地としたり、祀ったり鎮めたりをしていたりする。

 風水っぽく聞こえるかもしれない。が、日本においては、大陸と比べて、其の大地母神の持つ力は遥かに大きく寛大で、今現在も生きている。人様の姑息な考えで、大地の恵を掠め取るような事をせずとも、恩恵を受けられる地なのである。

 身近な喩えをするならば、生きている神社などに入ると清涼感や、身体が軽くなるのを感じたりする、アレである。
 と言う事は、逆に、気分が悪くなったり、イヤ~な感じがしたりする場所も在るということである。

 人の身体に例えると解りやすいかも。大地には血管とも言うべき川がながれ、日々成長し老いて行く。生老病死が在るように、四季が在る。
 身体に気脈が在るように、地脈があり、それぞれにツボがある。

      今日の箴言
<知らない土地へ出かけるには、ある種の勇気を必要とする。なぜなら、その土地では、常に受けている大地からの庇護を受けられるとは限らないから。>

才能

2006年05月24日 15時47分27秒 | こっち
 才能は、血に流れるかもしれない。
 もちろん、其ればかりではなかろうが、遺伝的なものも無視できないであろう。

 血が血を呼んで・・血と血が呼び合って才能と呼ばれるモノを創り出す。
 当然、無意識に行なわれるであろう其れへの選択は、個人の意識レベルの話ではなく、其れを超えた何者かの大いなる存在を示唆している様でも在る。

 そこで思い出すのが、ソクラテスだかプラトンだかのベターハーフの話である。
 二面四臂四足の怪物が、本来の人間の姿だと言うアレである。

 現在の人間は不完全である、が故に完全体たるべく、補完し合う相手を探すらしい。
 不完全と言う事では、古事記だか日本書紀だかにも、最初の夫婦の神様が、ナニの前に言葉を交わす場面で、自分たちの身体の不完全さを告白している。(なりあまったりなりたらなかったり)

 才能を、人間が持っていながら失った物、と考えるならば、本来の姿(オリジナルの有能な)に戻るのは退化とは言えないだろうが、進化とも言えないだろう。
 
 才能の発現に必然性が在るのだとすれば、新たなる可能性、進化への一過程としての其れと考える事も、あながち見当違いでもあるまい。

 才能が在ると言う事は、其れが覚醒し発現し行使できると言う事とは別物だと考えた方が良さそうである。
 実際、持っていても役に立たないモノも在るのだから。

 又、自分の話で恐縮だが。自分の場合、父方に教派神道系、母方にも神道系の血が流れている。
 だから?と言う訳ではないのだが、此処に来て、何らかの意思が発動しているような気がしてならない。(前世だか守護だかに遠い祖先の修行した人だか修験者だかが居るそうだ。)

 自分で意識している、いないに係わらず、ある種の力を行使できるのは事実であり、現実である。
 であるならば、此処に存在し力を行使している自分の意義、必然性とは何なのであろうか。

   今日の箴言
<自慢は嫌味だが、謙遜も美徳ではない。在るものを隠す事は、無いものを在ると言うより、場合によっては始末に悪い。>
 

能力

2006年05月23日 16時04分57秒 | こっち
 家業を継ぐとか、世襲とか、ものによって資格と能力が必要となる。

 筈なのだが、二世三世の国会議員とか、・・・・・。
 普通、親と同じ職業を選べば、大概は資格があれば後を継げるが、本来の資格は国家資格の其れではなく、能力の事なのである。
 私事で恐縮だが、自分も四代目なので世襲しているようなものだ。当然、国家資格は免許されているが、後を継ぐ資格としての能力も、自分の好むと好まざるとに係わらず、持っていたようである。
 「金儲けは下手だけれども、腕はいい。」「人柄は如何でも、仕事は確かだ。」
 と、よく言われるから。

 資格があるのと、能力が在るのはイコールではない。
 資格は、能力を測るスケールとはならないのである。
 能力の無い、無能者は、資格があっても、やるな!
 資格の有無は、能力を表してはおらず、能力を認める手立てとはならないのである。
 また、能力があっても、才能とは別物で、能力だけでは駄目なものも在るのである。

 勉強すればマスターできるものばかりではない。
 其の手のものは、教えても解るものではないし、教わってマスターに成れるものでもない。
 本来、教えてもらうものではないし、教えてくれる所も人も居ない。
 
 「観よ!この溢れる才能を!能力を!」

 だから、自分は、教えない。
 ヒントを与え、導く事はあっても、教え諭す様な傲慢な事はやらない。

         今日の箴言
<自分にとって自分は絶対である。故に、自分の真理を、其の導く所への道標とすることが出来るのである。>

 従って、箴言も全て、自分の言葉である。他からの引用は、by~の形で書いてある。尤も、既に自分の血肉と成っている物に関してはこの限りではない。

家と屋

2006年05月20日 18時38分05秒 | こっち
 ~家。
  好事家、恐妻家などの家である。本来は、金銭授受に係わらない人を指す。
 ~屋。
  個人の、商売なり職業なりを指す。

 以前、噺家の三遊亭金馬師匠が言っておられたのだが。
 以前は、噺をするのが好きで、人を集めては噺を聞かせる。「あの人は噺が好きだね~」「噺家だ」てんで噺家と言われたが、今はお客様からお金を頂いて噺を聞かせる。「これは噺家ではなくて噺屋ですな。」

 よく言われるのが、政治家ではなく政治屋。芸術家ではなく芸術屋。などなど。
 宗教屋や教育屋なども蔓延っているようで・・・。

 では、現在の自分の立ち位置はどうなのだろうか。
 仕事として報酬を得ている立場では「ほねつぎ屋さん」な訳だが、施術に関して言えば、報酬どころか、割に合わない場合もある。(と言うか多い。)
 
 「ほねつぎ」の技術だけではなく、他の、有効な「術」や「技」なども、併用して施術をしておる訳で、これは「施術家」と言っても言いすぎでは在るまい。

  此処まで来て、雷である。飛ぶ前に、又後で。

  3時間近くも雷雨で大変。案の定、停電しやがった。で、続き。

 「あっち」や「あいだ」のご相談や色々は、自分を必要としてくれる人に、力を貸すだけなので・・・拝み屋さんとは大いに違うのである。

 自分としては、「大家」とかを目指している訳ではないが、お金で自分を売りたくないのである。つまり、お金で買えないものを目指していると言い換えても良かろう。
 はっきり言えば、お金があれば手に入る物など、何ほどの事があろうか。
 ポルシェでもフェラーリでも、お金があれば買えるのである。
 しかし、技術はお金では手に入らないのである。(但し、モノによっては、お金があれば身に付け易いものも、確かに、在るはあるが。)

 価値観、と言っても良いだろう。経済的な対価としての価値で測られてはかなわんのである。値段など付けられないのである。

 負け惜しみに聞こえるだろうか。貧乏人の僻みに見えるだろうか。開き直り?
 手の届かない高いところに在る葡萄は酸っぱい。のか?

 自分の拠って立つ処なので、信念と言っても良い。
 で在ればこそ、あっちとこっちとそのあいだで、活動は出来ないのである。

      今日の箴言
<本来の自分を誤魔化してまで生きる意味は無い。尤も、大概の人は、自分の本性を知らないか、若しくは、勘違い、思い込みで生きている。>

戦争は嫌いだ

2006年05月19日 15時45分08秒 | お莫迦ネタ
 が、軍事は嫌いではない。どちらかといえば、自衛隊は好きだ!
 どこぞの某G省などは、大嫌い以前に大憤慨、嫌悪感すらある!

 自衛隊の位置づけは国防軍の様なものだ。旧日本軍より旧ドイツ国防軍の方が好みではある。

 国防とは、国策の防衛である。と考えると、現在の自衛隊に対して、ある種の失望感、不甲斐無さを感じるのも、致し方無いのかもしれない。

 文句や問題点を、並べ挙げればきりが無い。ので、やめておく。

 何故こんな話をしているかと言うと、唯好きだから、だけではないのである。
 まかり間違うと、今頃I国あたりに行っていたかもしれない。

 少年工科学校というのがある。所謂、自衛隊生徒の陸自バージョンである。

 うちは、自分が小学校の時に親父を亡くしている。母子家庭である。
 その母親に世話になるのが嫌で、独立すべく受験したのである。
 其の当時は、今よりも差別感が強かったようで、受験しただけで、私服刑事が調査にやってきた。生憎、本人である自分が応対に出てしまい、友人、知人、学業の好き嫌い、趣味から思想まで聴いてきた。同級の友人に県警の警部の倅の優等生がいたので、苦笑いして帰った。
 が、倍率も高く、合格する訳も無く、親も教師も相手にしてはくれなかった。

 ところが、全国一斉各県単位の学科試験で、トップの成績をたたき出してしまった。国語だけ。
 何故解ったかと言うと、これまた同時に受験していた同級生の親が、自衛隊の偉いさん、だったのである。
 と言う訳で、総得点では基準に足りなかったものを、国語全国一の実績と師団長推薦で合格させてもらったのである。

 慌てたのは親と教師である。合格発表は公立高校の受験前である。受かっているのに受験なぞできるかい!と、県立は未受験。私立も国語以外は白紙提出でどうやっても不合格になる筈だった。
 行く所がなければ、と言う甘い考えだったのだが、親が、受験校の副校長を知っていた。先生たちも知っていた。自分は、その学校のレベルを知らなかった。

 結果、国語一教科の得点だけで、合格ラインを楽に超えていたらしい。其れを親と教師は知っていたのだ。合格発表に名前が無かったので、自分は喜んでいたのに
後から補欠合格の通知が来てしまった。

        今日の箴言
<希望的観測に基づいた作戦は、何も考えずに行動した場合より、結果的に失敗した場合のダメージが大きい。>

プラモデル

2006年05月16日 16時55分15秒 | 趣味
 昔は、「プラモ」と言ってた。「プラスチックモデル」ではなく「プラスチック模型」。

 今現在、天袋の中に、作りかけ、塗装だけ、袋入りで、箱が押し込んである。
 最近は、塗装の手間を考えると食玩で我慢していた。のだが・・・。

 性分なのか性格なのか、素直にそのまま造るのが出来ないのである。

 第一に、塗装である。第二に、シチュエーションである。
 拘りすぎて、改造計画を考えているだけで、お休みが終わってしまうのである。

 模型であるから、縮小してある訳だが、大本に(オリジナル)近づけようとしても限界がある。ならば、改造して自分なりのオリジナルにしてしまえ。と言う事なのである。

 造ったからには飾りたいのが人情。加美さんに文句を言われながら、テリトリーを、何とか確保している。まあ、食器棚や、本棚、茶箪笥などを、占領されているのだから、彼是言いたくなるのも、判ろうと言うものだ。
 しかも、造りかけが彼方此方に・・・。

 とは言うが、加美さんの作品も、結構ある。
 本棚の一番上:大日本帝国海軍戦艦「武蔵」1/350
 専用ケース入り:薬師寺東五重塔、法隆寺夢殿、興福寺三重塔、多門寺宝塔、等
 茶箪笥内:旧ドイツ陸軍・三号戦車突撃砲、エレファント重駆逐戦車、これは蛍光ピンクである。旧アメリカ陸軍歩兵部隊、等 1/35
 今は仕舞われているが、ピンクのF-15、F-16、YF-22、YF-23、フォッケウルフTa-152、F-14等が造りかけである。1/48、と1/35である。
 清水寺も袋から出ないで箱のまま鴨居の上に乗っている。

 自分のスケールは1/700が多いが、これは艦船と航空機、1/144は、航空機と戦車である。

 大体が軍用である。のだが、何故遠ざかっているのかと言うと、細かいのである。眼鏡を掛けてもちょいと手が出せないのである。

 こんなところにも年齢を実感してしまうのである。

         今日の箴言
<若いうちからの趣味は、なかなか止められない。が、一度休むと、復活は難しい。体力的にも、精神的にも。>

跳ね返せない

2006年05月14日 20時50分50秒 | あっち
 誰かに、飛ばされたらしい。今回も、跳ね返せなかった。
 意識があって、待機状態であれば、直ぐに活性化して打ち返してしまうのだが、今回も、無意識相手だったようで、喰らってしまった。
 相手が判らないから対処の仕様が無い。
 誰か、お心当たりのある方は、名乗り出てください。楽にしてあげます。

 歳のせいもあるだろうか。そして、最近、鍛えてないから、鈍っているかも。
 歳相応に、強化しないと、呼ぶものも増えてきそうである。

 体力の衰えに反比例して、要領だけは良くなっていく。しかし、技術や要領だけでは、辛い。最終的には、己の精神が拠って立つところの身体の強さに掛かってきそうである。
 気だけに頼るのは、自ずと限界があるのである。
 

      今日の箴言
<気力だけでは、どうしようもない事もある。しかし、体力だけでは、話に成らない。>
 

コマーシャルメッセージ

2006年05月12日 15時12分45秒 | こっち
 所謂CMの事であるが、今日も宣伝広告の話である。

 元々、放送媒体を使用したCMは、一方通行のものではあるのだが、其の中には作り手のメッセージが入っているわけで、企業の正確とかも現れてしまう訳だ。

 当然、受け手としては、其処に含まれる情報を確認したり、イメージとして認識したりする訳だ。

 自分は、CMは嫌いではないし、新製品情報としても、お笑いの一種としても認めて居る。のだが、中には、見たくない聴きたくない物も在るのだ。

 H社などはBGMの選択が好みに合う。悔しいが?うまいな~と思う。
 が、N社は、いまいちセンスが。嫌いじゃないけど。

 其れに比べて、何処とは言わないが、あそこのCMは、酷い!10本が10本とも、不愉快に成る。傲慢臭プンプンで、血圧が上がりそうである。
 一般の人達は、何も考えないのだらうか。文句の一つも出てきてよさそうなのだが、そう考え思っているのは自分だけなのだらうか。
 最近の話ではない。20年以上前から(下手すりゃ30年以上前から)の事である。

 と言う訳で、自分は、あのグループの商品は、買わない!
 買えないのでは?と言う意見もあるが、買えても買わない!
 あんなCM流してる処は信用できないし、付き合いを持とうとも思わない。
 あんな製品使ってると、自分の人格が疑われてしまいそうで、恐ろしい。

 これも、CMの、一つの見方だと思うのである。

        今日の箴言
<協調性は必要である。が、其れは自分の信念を棄てる事ではない。>

名前について

2006年05月09日 18時45分47秒 | あいだ
 レセプト提出した。(正確には、出来上がったのを、若い衆に持ってかせた。)
 一段落である。暫くは気合入れて遊べるかも。

 連休中は、なぜか気合が入らなかったので。ある。

 で、最初はプラモデルの話しでもしようかと思ったが、イナバウアーふじさんが、ご相談にみえたので、思い出したネタを。

 名前である。
 氏名といった場合、氏は苗字で一族、血縁の流れを表すのに対して、名は己自身の個人を表すものと考えられる。

 名は体を表すと言うが、日本は言霊の国である。ので、無闇な名前は個人の破壊・抹消にも繋がりかねない。

 言霊、国霊に守られないような名前を付けると、早死にしたり、殺されたりすることも有るのではなかろうか。
 と、思いたくなるような事例が、最近目に付く。

 これ以上、書けない。

      今日の箴言
<例え真実であっても、言ってはいけない事もある。>

宣伝・広告 相談御参成れ

2006年05月07日 20時28分45秒 | こっち
 経理の項目に、「宣伝広告費」というのがある。
 在るのだが、殆ど使って無い。何故か。
 自分としては、好きではないのである。
 (注意:自分の癖で、私を自分と言ってしまうのである。)
 仕事自体は嫌いではないが、金儲けが嫌なのである。
 基本的に、金儲けをするような仕事では無い、というより商売にしてはいけない様に思うのである。
 商売と考えると、人の弱みに付け込んで居るようで、許せんのである。
 であるから、宣伝も広告もしたくない!と言う訳である。

 で、発想の転換である。
 自分を必要としている人が居る。にも拘らず、自分の存在を知らない為に苦しんでいるのであれば、その人を救うために(大袈裟だな)手助けをする為に、ある程度の情報を発信するのは、好いのではないか。
 何らかの問題を抱え、苦しみ悩みしている人に対して、自分の能力で、其の問題を解決、若しくは緩和出来るのであれば、力に成って上げるのが本質であり、知らん顔で無視していることは、それ自体、罪悪なのではあるまいか。
 と、考えるに至ったのである。

 此れまでも、自分の事を知っている人は、それなりに居たしアドバイスもしたし術も使った。が、其れは、ごく一部の人達だけに成されていたものであった。
 具体的にいえば、アドバイスや施術に掛かる場合、お互いの、ある程度の信頼関係の存在が不可欠であるから。

 このブログを読んで頂ければ、自分がどんな人間なのか、そこそこ解って貰えるであろう。(妖しいとか、怪しいとか、可笑しいとか、変だとか・・・)
 それによって、自分に対する基本的な情報は収集できると思う。
 それを、選択の目安にして頂きたい。

 と、此処まで来て、実際、何が出来て、何をやってるの?という、根本的な情報を出し忘れていた事に気が付いた。無意識に避けていたのだろう。か?

 以下に、主なものを、判り易い表現で書き出す。

①ほねつぎ:脱臼、骨折、捻挫、打撲、挫傷等の施術を主とする。柔道整復術。
②導気:本人の持つ、気を導く手助けをする術。導気法。
③顕幽・太源:あっちと、こっちと、其の間のグレーゾーン全般に掛かる色々のアドバイス、導術。所謂、心霊現象とかの相談や対処法の指導、御祓い等。

 ①については「大野接骨院」及び「ほねつぎ大野」両施術所にて施術。
 ②は「導気法・尚休」にて指導、施術。
 ③は「顕幽導師」「太源導師」尚休として。
 過去の実績として、講演、講義(含む実技)等も在り。

 ①に関しては、基本的に保険診療。
 ②及び③は料金の設定は、無し!基本的に商売にして居ないので、無料です。が、お気持ちや、お布施の受付はしておりますよー。
 因みに、自分は、お酒と甘味が好物であります。(決して催促ではない、けしてそんな心算は無い・・・と思う、にひゃ)

 と言う訳で、相談、御参なれ!

         今日の箴言
<自分が思っているほど、人は気にしていないし思ってもいない。其れは、善い事も悪いことも同じである。>
 

今日から夏

2006年05月06日 15時45分45秒 | こよみ
 牡丹も満開である。

 旧暦の四月、巳の月の正節。つまり立夏である。

 平年であれば、立夏といっても暦の上だけで、気象的には未だ春!と言う感じなのが、今年は暑い!今日も暑い!半袖でも暑い!

 自分の体型ではこの陽気は辛い。タオルを首から離せない。
 なぜか。頭の汗が髪の毛で留まらずに流れるからだ。

 ようやくの更新である。週一に成ってしまった。が、土用も終わり、夏である。
 これから芒種まで(正確には前日まで)が、初夏である。
 となると、梅雨に入る日も遠くは無い。

 月初めに休みが続いた。GWである。が、今年は、大いにダレて、何処にも出かけなかった。何もしないでダラダラと過してしまった。

 其のお陰で、(毎年のことではあるが)保険のレセプト請求が手付かずのままだ。10日が〆切なのにも拘らず、である。
 うちあたりは小さいし、大忙しな訳ではないので、入力さえ終われば、後はPC任せなのだが。
 問題は、ソフトの入ったPCが1台で、本院にしかないこと。
 おまけに、調子が悪くて、中身の交換の為に、先月は半分以上手元に無かった、為に、毎日の入力が出来ず、分院とのラグもあり、指一本の雨だれ君としては、入力が大仕事になっていたのである。

 自宅と仕事場が別だと、個人事業者としては、不便な事である。
 ついでに言うと、今年から、経理も担当する事になったので、そっちの打ち込みも在るのであった。
 もう5月なのに、領収書の山だけが、どんどん高くなっていく。

 と言う訳で、更新の頻度が低くなる言い訳でありました。

     今日の箴言
<今日出来る事は、今日のうちに。明日出来る事は明日に。しかし、出来ない事を彼是するなら、己のリフレッシュでも考えた方がマシである。>