尚休プレゼンツ薬師寺散策編
コース紹介 裏版 解説用
と言う訳で、裏のテキストであります。儂のネタであります。
歴史館を出て西側の道を北進。信号の東南角の雑木林が地蔵山。其の中に・・・
① 石造地蔵菩薩坐像
1678年(延宝六年)建立、周辺最古の石造地蔵菩薩坐像
裏:時代背景・江戸初期。この時点で、薬師寺は安国寺。戒壇論争の少し前。建立の意味は?
方向、作り。南向きである。方角的には、薬師寺城(戦国期)の丑寅である。薬師寺方向を向いてはいない。宝珠、石塔の残骸らしきものあり。塞の神としての場所ではない。北方守護か?北面して拝む事になるが北辰信仰と係わりが?政治、宗教と離れた生活の中心に係わるか?
本来、付近に道は無かった筈。
北側の道を東進、緩い坂を上がると、左手に、こんもり高い島のような杜が・・・
② 御鷲山古墳
六世紀後半古墳時代後期に築造。墳丘全長約90メートルの周辺最大の前方後円墳。くびれ部の前方部よりに、両袖方の横穴式石室が南に開口する。
裏:薬師寺創建以前。所謂、聖徳太子の頃。石室の方向・南北線。下毛氏か?墳丘上の重圧感大。十三夜の石塔が、袂にある。見せ掛けだけの王権への服従と、首長霊信仰の形を借りた星神信仰か?但し、私見によれば、未だ王権は倭国であり、大和(日本)には移っていない。
其の南側、県道結城・石橋線の西側に・・・
③ 藤麿墳
日光開山の祖、勝道上人の父、藤麿を埋葬した地に建てられた石碑。
裏:何故終焉の地が、ここなのか。時代背景に注意!
此処から南は、下野薬師寺の旧寺域になる。
・ 下野薬師寺跡:国指定史跡。
74,000平方メートルの広大な史跡。天武天皇の時代に建立された寺院。日本三戒壇のひとつ。
裏:何故この地を選んで建立されたのか。又、其の機能を考えると。首長墓群の間、水流に挟まれた小高い舌状地の中央に位置する。が、生活の中心地では無かった筈。東国の押さえを、仏教に託すいつもの手段か。政治権力に係わった僧の配流地であるが、仏教勢力拡大に専念させるため戒壇が。当時の仏教は一般民衆のものではない。支配者側とすれば、宗教を取り込み同化するのが常套手段。其の為に手っ取り早く、聖地を押さえればよい。第一位の聖地には既に神社があった。故に、次の聖地に寺を建て、神社をも包含、現地勢力を押さえた上で官営の寺として戒壇を作るが、あくまでも中央の権力の下である。ひょっとすると、現地勢力が中央に対抗するために、仏教を使い防御しようとしたものが、取り込まれたものかも。面従腹背で。
670年前後に、大和王権が火事場泥棒的に政権奪取。所謂、天智天皇期である。唐帝国に日本として認められるのが700年過ぎ。
県道を南進し右折すると・・・
④ 回廊跡
一部が復元され、平成13年より公開されている。
裏:回廊の北西隅の部分。当時の建築様式に忠実になっているのであれば、甍も含めた工法の必然性。この時代の寺は、城塞の機能は持っていないようで、城壁にはなっておらず、当然環濠も無い。政教分離。
南東直ぐに・・・
⑤ 六角堂
江戸時代末に、下野薬師寺の戒壇を偲び、その跡地と思われる場所に建立。屋根、柱、礎石のいづれも六角造りの珍しい建物。
裏:六角の意味は?六天?印度の宇宙観?通常は六道かと思われるが?道教との関わりは?傍の塔跡付近、気の流れ尋常ならず。戒壇跡か?聖地の中心?戒壇院は761年。規模は?
⑥ 安国寺
室町時代、足利尊氏が「薬師寺」を「安国寺」へ改称。境内には下野薬師寺跡出土の礎石がある。
裏:何故、薬師寺に戻らなかったか。修行道場ではない。本来は、檀家を抱えての檀那寺では無かった筈。改称の持つ意味は何か?寺院勢力の封じ込めか?
県道を挟んで東に・・・
⑦ 幢竿支柱跡
寺の荘厳さを示すために、立てられた旗竿を支えるための柱で東回廊と塔のほぼ中心にある。
⑧ 塔跡
9世紀後半に造られたもの。
寺の中心から東へ120メートルの位置にある。
裏:場所の問題。再建の意味。寺域内の塔が戒壇になったとすれば、塔を新たに造る必要があったのではなかろうか。
其の東側、旧道を挟んだ杜の中、古墳状の小山の南に鎮座する、県指定有形文化財・八幡宮を左に見ながら南進。参道に出たら鳥居を北に見る・・・
⑨ 八幡宮
875年(貞観十七年)岩清水八幡宮の祭神を東北守護の大神としてこの地に鎮座したものとも、宇佐八幡宮から直接分社された下野薬師寺の寺内社であるとも。
現社殿は1662年(寛文二年)佐竹右京太夫(秋田藩三代藩主)により再建。
裏:背後の森の小山・古墳か?人工物か?本来の土地の気脈からすると、此処が聖地の中心であった筈。もう一つは初期の塔跡周辺。気の流れは南北であり、本殿は南面する。
⑩ 雷電神社
通称、雷電さま。この地を天狗山と言い、天狗と雷神には色々な伝説が残る。
裏:創建年代。どれが先か。此処も本殿は南面している。近年の再建であるが重要なのは其の場所。
参道を南進し、龍興寺に向かい県道を左折、右側に・・・
⑪ 吉田が池
竜神が祭られ、池には竜神のお使いである片目の鯉が棲むという伝説がある。
裏:竜神は、雨の使い。雨乞いに必要。水脈は日光から連なり、竜脈となっている。が、現時点で竜神の棲息は望めそうも無い。
龍興寺に戻り境内へ・・・
裏:八幡宮への参道が南に延びる。気の流れが道となり、以前は八幡宮に停滞していたが、改修時に昇華され、尚且つ結界が強まったことにより、此処に停滞することになった。完全な檀那寺と化してしまい俗世の臭いが。要注意:危険!あっち。
⑫ 鑑真和尚の碑
唐代の高僧、鑑真の威徳を偲び弟子達が建立した供養碑。
鑑真は、761年(天平寶字五年)勅願により下野薬師寺に戒壇院を建立した。
⑬ 道鏡塚(古墳)
770年(寶亀元年)下野薬師寺別当職として赴任し、2年後に生涯を閉じた道鏡の墓と伝えられている塚。
円墳である。故に、年代的に?
裏:何故ここにあるのか。薬師寺より早いが・・・。参道を挟んで八幡宮の塚と南北で対峙している。規模としては此方の方が大きい。築造年代の比較が出来れば。
龍興寺の表から県道に戻り北進、信号を渡り暫く行くと、八坂神社を挟むように延びる、下野薬師寺正面旧参道を進み下野薬師寺歴史館へと。
裏:710年、時代は奈良期、ようやく日本として、国家が認められた頃。
これらは、あくまでも、尚休のヒントなので、答えは自分で見つけましょう。
*コース紹介のパンフレット的なもの、ご希望の方は参加表明の時に書き込んで下さい。尤も、此処にアップした物のコピーですが。(一部写真入であります。)