しょーきゅーし

怪しい妖しい尚休の、一寸気抜けの(含む危ない、過激)プレゼンツ&箴言?を

才能

2006年05月24日 15時47分27秒 | こっち
 才能は、血に流れるかもしれない。
 もちろん、其ればかりではなかろうが、遺伝的なものも無視できないであろう。

 血が血を呼んで・・血と血が呼び合って才能と呼ばれるモノを創り出す。
 当然、無意識に行なわれるであろう其れへの選択は、個人の意識レベルの話ではなく、其れを超えた何者かの大いなる存在を示唆している様でも在る。

 そこで思い出すのが、ソクラテスだかプラトンだかのベターハーフの話である。
 二面四臂四足の怪物が、本来の人間の姿だと言うアレである。

 現在の人間は不完全である、が故に完全体たるべく、補完し合う相手を探すらしい。
 不完全と言う事では、古事記だか日本書紀だかにも、最初の夫婦の神様が、ナニの前に言葉を交わす場面で、自分たちの身体の不完全さを告白している。(なりあまったりなりたらなかったり)

 才能を、人間が持っていながら失った物、と考えるならば、本来の姿(オリジナルの有能な)に戻るのは退化とは言えないだろうが、進化とも言えないだろう。
 
 才能の発現に必然性が在るのだとすれば、新たなる可能性、進化への一過程としての其れと考える事も、あながち見当違いでもあるまい。

 才能が在ると言う事は、其れが覚醒し発現し行使できると言う事とは別物だと考えた方が良さそうである。
 実際、持っていても役に立たないモノも在るのだから。

 又、自分の話で恐縮だが。自分の場合、父方に教派神道系、母方にも神道系の血が流れている。
 だから?と言う訳ではないのだが、此処に来て、何らかの意思が発動しているような気がしてならない。(前世だか守護だかに遠い祖先の修行した人だか修験者だかが居るそうだ。)

 自分で意識している、いないに係わらず、ある種の力を行使できるのは事実であり、現実である。
 であるならば、此処に存在し力を行使している自分の意義、必然性とは何なのであろうか。

   今日の箴言
<自慢は嫌味だが、謙遜も美徳ではない。在るものを隠す事は、無いものを在ると言うより、場合によっては始末に悪い。>