しょーきゅーし

怪しい妖しい尚休の、一寸気抜けの(含む危ない、過激)プレゼンツ&箴言?を

過激が身上なれど

2006年05月31日 17時18分09秒 | こっち
 此処のところ、あっち系の小鬼が纏わり憑いて来てたので、少し過激に奔り過ぎた気がするので、没にしたネタもあった。

 で、本当に危ないものには【仄聞】にて対応することにした。危機管理の対策の一環である。余計な言質を取られることを防ぐ意味も込めて。

 のであるが、危ないの基準が、自分では解らないのだ。
 自分にとって、当然、必然である事も、解らん者には解らんし、知らん者(知ろうとしない者)には知らせようも無い。

 人間の、感情的なことや、気持ちなどは、理解出来よう筈も無く、勝手に思い込まれても、此方にはどうしようもないのである。

 ある種の力(資格)を持つ者であれば、感覚的に理解してくれるのだが、一般人には望むべくも無い。

 逆に、其の感覚を理解できるが故に、一般人との対応に苦労している者も居るようだ。

 対外的には、所謂「よいしょ」するのが効くかもしれない。おだてたり、すかしたり、褒めたり、そやしたり、してみるのも手である。
 自分の場合は、座長と言う最高の手本が居たから。昔は根暗で有名だったのだ。

 過激なのと、言いたい事を好き勝手に言い傍若無人に振舞うのとは別物である。
 在る程度、物事を弁えた上での過激である。
 此処の場合は、不特定多数を相手に公開している訳だが(極、限られた人だけ、との意見もあろうが)、個人を相手にする場合は、ある程度の気遣いが必要となる。

 社会生活を営んでいる以上、個人環境での人との付き合いは避けられようも無く、相手が一般人であれば尚更で、在る程度解っている者相手でも、社会的肩書きや身分階級などに惑わされることなく、その本質を見抜いて付き合うことが肝要である。

 概ね、一般人は不躾である。人と人との付き合い方の原則的なものを知らない。
 無知蒙昧な輩を相手とする以上、此方が寛容の精神で、優しく包み込み庇いながら見守る様な心算でないと、傷つく事になりかねない。

 相手によって、自分の対応も変えていく必要も在る。
 あまり、相手を読み過ぎるのも、どうかと思うが、在る程度の情報収集は、当然の事で、素直に自分をさらけ出すのは、愚の骨頂であろう。
 「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」孫子の兵法である。

 先ずは、己を知る事が大切である。而して後、相手を知り対応する。

       今日の箴言
<或る時は観音様のように慈愛の心で、また或る時は不動明王の如く憤怒の炎で、相手に当たる。是を慈悲の心で救うという。>