しょーきゅーし

怪しい妖しい尚休の、一寸気抜けの(含む危ない、過激)プレゼンツ&箴言?を

家と屋

2006年05月20日 18時38分05秒 | こっち
 ~家。
  好事家、恐妻家などの家である。本来は、金銭授受に係わらない人を指す。
 ~屋。
  個人の、商売なり職業なりを指す。

 以前、噺家の三遊亭金馬師匠が言っておられたのだが。
 以前は、噺をするのが好きで、人を集めては噺を聞かせる。「あの人は噺が好きだね~」「噺家だ」てんで噺家と言われたが、今はお客様からお金を頂いて噺を聞かせる。「これは噺家ではなくて噺屋ですな。」

 よく言われるのが、政治家ではなく政治屋。芸術家ではなく芸術屋。などなど。
 宗教屋や教育屋なども蔓延っているようで・・・。

 では、現在の自分の立ち位置はどうなのだろうか。
 仕事として報酬を得ている立場では「ほねつぎ屋さん」な訳だが、施術に関して言えば、報酬どころか、割に合わない場合もある。(と言うか多い。)
 
 「ほねつぎ」の技術だけではなく、他の、有効な「術」や「技」なども、併用して施術をしておる訳で、これは「施術家」と言っても言いすぎでは在るまい。

  此処まで来て、雷である。飛ぶ前に、又後で。

  3時間近くも雷雨で大変。案の定、停電しやがった。で、続き。

 「あっち」や「あいだ」のご相談や色々は、自分を必要としてくれる人に、力を貸すだけなので・・・拝み屋さんとは大いに違うのである。

 自分としては、「大家」とかを目指している訳ではないが、お金で自分を売りたくないのである。つまり、お金で買えないものを目指していると言い換えても良かろう。
 はっきり言えば、お金があれば手に入る物など、何ほどの事があろうか。
 ポルシェでもフェラーリでも、お金があれば買えるのである。
 しかし、技術はお金では手に入らないのである。(但し、モノによっては、お金があれば身に付け易いものも、確かに、在るはあるが。)

 価値観、と言っても良いだろう。経済的な対価としての価値で測られてはかなわんのである。値段など付けられないのである。

 負け惜しみに聞こえるだろうか。貧乏人の僻みに見えるだろうか。開き直り?
 手の届かない高いところに在る葡萄は酸っぱい。のか?

 自分の拠って立つ処なので、信念と言っても良い。
 で在ればこそ、あっちとこっちとそのあいだで、活動は出来ないのである。

      今日の箴言
<本来の自分を誤魔化してまで生きる意味は無い。尤も、大概の人は、自分の本性を知らないか、若しくは、勘違い、思い込みで生きている。>