長い介護の中で、多くの人が「生きていてほしい。」「出来るだけのことをしてあげたい。」と思います。
それは至極当たり前のことだし、そのためには医療者から勧められた処置を施し、小康状態を保てたことに安堵します。
その安堵の時間のなかで、家族との大切な時間を過ごすことが出来れば、それは本当に幸せな療養生活(介護生活)にもなります。
けれど、人は必ず死ななければなりません。
いつの頃からか、徐々に落ちていく体力、合併症の悪化、次々に起こる病状の変化。
出来ることはないのか、苦しむことはないのか、辛い治療はもうしたくないけれど、失いたくない。
どうすればいいのかわからず、このころは本当に苦しく辛い時間となります。
時に、自分のしてきた介護に後悔をしたりもします。
「あの時こうすればよかった。ああすればもっといい結果になったのに・・」
胃瘻や、気管切開や、IVHやあらゆる延命措置を行うかどうかの選択を強いられ、「生きていてほしい。」思いと「苦しませたくない。」思いの間で、葛藤して答えを探して、決定するのです。
それでも、あとからまた後悔したり、これでよかったと言い聞かせたり・・。
そんな苦しみを経て、お別れも近いあるとき、ふとこんな言葉を聞くことがあります。
「私、どうしても生きていてほしくて、随分と無理をさせてきたと思います。胃瘻もそうだし、こんな形で母は私のために無理やり生かされてきて・・。私の我儘で本当は辛い思いをさせているのかもしれません。」
今までも何度となく聴いてきた言葉です。
必死に生きるすべを模索してきたあとに、ふとそう思う・・。
そしてそのあと、ふっと肩の力が抜けて、次に目指すものが静かな穏やかな別れとなるのです。
必死に、ストイックなまでに献身的に介護をすればするほどに、その思いは強くなるのかもしれません。
訪問看護師たちは、今日もそんな家族の苦しみに添っています。
愛すればこそ、生きていてほしい。
生きていてほしいけれど、これ以上の苦しみは与えないでほしい。
生きている時間にこだわることが、今苦しみではないのか?
大きく揺れながら変化していく心を、要所要所でキャッチできるように、いつでも耳を傾けていたいですね。
それは至極当たり前のことだし、そのためには医療者から勧められた処置を施し、小康状態を保てたことに安堵します。
その安堵の時間のなかで、家族との大切な時間を過ごすことが出来れば、それは本当に幸せな療養生活(介護生活)にもなります。
けれど、人は必ず死ななければなりません。
いつの頃からか、徐々に落ちていく体力、合併症の悪化、次々に起こる病状の変化。
出来ることはないのか、苦しむことはないのか、辛い治療はもうしたくないけれど、失いたくない。
どうすればいいのかわからず、このころは本当に苦しく辛い時間となります。
時に、自分のしてきた介護に後悔をしたりもします。
「あの時こうすればよかった。ああすればもっといい結果になったのに・・」
胃瘻や、気管切開や、IVHやあらゆる延命措置を行うかどうかの選択を強いられ、「生きていてほしい。」思いと「苦しませたくない。」思いの間で、葛藤して答えを探して、決定するのです。
それでも、あとからまた後悔したり、これでよかったと言い聞かせたり・・。
そんな苦しみを経て、お別れも近いあるとき、ふとこんな言葉を聞くことがあります。
「私、どうしても生きていてほしくて、随分と無理をさせてきたと思います。胃瘻もそうだし、こんな形で母は私のために無理やり生かされてきて・・。私の我儘で本当は辛い思いをさせているのかもしれません。」
今までも何度となく聴いてきた言葉です。
必死に生きるすべを模索してきたあとに、ふとそう思う・・。
そしてそのあと、ふっと肩の力が抜けて、次に目指すものが静かな穏やかな別れとなるのです。
必死に、ストイックなまでに献身的に介護をすればするほどに、その思いは強くなるのかもしれません。
訪問看護師たちは、今日もそんな家族の苦しみに添っています。
愛すればこそ、生きていてほしい。
生きていてほしいけれど、これ以上の苦しみは与えないでほしい。
生きている時間にこだわることが、今苦しみではないのか?
大きく揺れながら変化していく心を、要所要所でキャッチできるように、いつでも耳を傾けていたいですね。
結局、装着しない方を選択しました(後で診察してくれた呼吸器科医も抜管に耐えられないだろうと言っていましたし)。
入院後十日ほどで亡くなりましたが、幾分か小康状態になって終日付き添った母は会話したりも出来ましたし、認知力の落ちていた父は自分の危篤状況について
恐怖を抱くことがなかったかも知れませんし、あれは悪くない別れ方だったかも、と思ったりもいたします。
骨折の時に別の病院に搬送されていたら結果が違っていただろうかとか4年経っても考えることがありますが、長年の喫煙でCOPD持ちでしたし、多少、早いか遅いかしたくらいだろうなぁと自分を納得させています。
長々とわたし事を失礼いたしました。
直前まで、人工呼吸器を一生懸命セッティングしていた医師が、装着の拒否を聴いた途端、急速に母から遠ざかったのを、ぼんやりとみていました。
それから数日、低酸素を繰り返して認知の進んだ母は、何かうわごとを言って、子供の様に笑ったりしましたので、私にとっては短いけれど一生忘れない笑顔となりました。
今でも、その笑顔は脳裏にしっかりと焼きつけられています。
お父さんとの短い会話も、お母さんにとってはかけがえのない宝なのだと思います。
私たち(ごめんなさい。勝手に「たち」にして)の選択は、私たちにとってはベストだったと思います。
確かに、「悪くない」別れだったと、私も思いたいです。