自分の住む岩倉市という所、養蚕が盛んだったようです。
自然写真家の水越武氏が幼少の頃、岩倉に疎開に来ており、桑の根を鉈で割って薪にしたという話を本人から聞いた事があります。
昨日、図書館に行って「岩倉市史」をひっくり返してみた所、
岩倉市(旧岩倉村)だけでなく、丹羽郡全体で盛んだったようです。
面積当たりでの生産量だと岩倉の養蚕は群を抜いていたとか。
岩倉における養蚕は江戸期には既にあったようですが、
本格的な生産という事になったのは明治15年くらいとの事。
最盛期は大正前期で、寝る場所を犠牲にしてまで養蚕に励んでいたなんて話もあるようで。
また、病気に強い桑の品種改良にも力を注いでいた様子。
養蚕が斜陽に入るのは、化学繊維の発明・生産、そして世界恐慌。
絹で財を成した原富太郎(原三渓の方が茶人として有名。横浜の「三渓園」はこの方に由来。)もこの辺りから忙しくなっていったはず。
これから先は情報を集めないと分からない事ですが、
少なくとも昭和30年代辺りまでは桑畑があった事から、養蚕を営んでいた所があったと思われます。
画像は市内の田圃の脇にある小さな桑の木。
自然写真家の水越武氏が幼少の頃、岩倉に疎開に来ており、桑の根を鉈で割って薪にしたという話を本人から聞いた事があります。
昨日、図書館に行って「岩倉市史」をひっくり返してみた所、
岩倉市(旧岩倉村)だけでなく、丹羽郡全体で盛んだったようです。
面積当たりでの生産量だと岩倉の養蚕は群を抜いていたとか。
岩倉における養蚕は江戸期には既にあったようですが、
本格的な生産という事になったのは明治15年くらいとの事。
最盛期は大正前期で、寝る場所を犠牲にしてまで養蚕に励んでいたなんて話もあるようで。
また、病気に強い桑の品種改良にも力を注いでいた様子。
養蚕が斜陽に入るのは、化学繊維の発明・生産、そして世界恐慌。
絹で財を成した原富太郎(原三渓の方が茶人として有名。横浜の「三渓園」はこの方に由来。)もこの辺りから忙しくなっていったはず。
これから先は情報を集めないと分からない事ですが、
少なくとも昭和30年代辺りまでは桑畑があった事から、養蚕を営んでいた所があったと思われます。
画像は市内の田圃の脇にある小さな桑の木。