「自然」とは何か?
先ずここで取り上げるのは英語における「Nature」。
大意として「山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。」
現代において、「自然」という言葉自体はすんなり受け入れられていますが、
この言葉は明治時代以降に作り上げられたものなのです。
元来は仏教用語における「自然(じねん)」。
万物があるがままに存在している事を指します。
東日本大震災を境目にして、「放射線・放射能について」や「自然・環境について」の議論・運動が活発化しています。
自分はこの議論をちょっと引いた所から眺めて書き綴っていきます。
歴史上において、人間は自然破壊をしながら歩んでいる事は紛れもない事実です。
しかし、どこかで折り合いをつけつつ歩んでいます。
近現代になり、公害等の環境汚染に追従するように環境保全運動が起こります。
環境保全運動のカテゴリの内に入るのが「自然保護運動」です。
この「自然保護運動」、観察すると大体2種類あります。
1.環境工学に基づいた自然保護運動
2.自然を頂に据える啓蒙運動
自分は、この「2」について考えていきます。
実はこれが行き過ぎると「宗教」めいたものになると。
「自然スゲェ。こんな素敵なものを壊そうとする人間はクソ。」
「自然様、ワタシが人間に生まれてゴメンナサイ…。」
少し誇張し過ぎの感は否めませんが、「宗教」(めいた運動)に入ってしまうとこんなものです。
更に、これが政治・経済と絡むと…
辺野古のような状態が末期といえるかもしれません。
「辺野古の珊瑚ガー」と騒いでいる人達、
果たして那覇空港の埋立拡張工事や中華人民共和国の珊瑚密漁船団に対して声を上げているでしょうか?
これは明らかに「珊瑚を御輿として担ぎ上げたタダの政治活動」(いや、嫌がらせに近いか?)です。
こう書き綴っていくと、どこからか声が聞こえてきそうですがらこの辺でw
確かに自然は自分も好きです。
だからこそ、より知ろうと努めます。
また、バランス感覚を養い育む事が肝要です。
先ずここで取り上げるのは英語における「Nature」。
大意として「山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。」
現代において、「自然」という言葉自体はすんなり受け入れられていますが、
この言葉は明治時代以降に作り上げられたものなのです。
元来は仏教用語における「自然(じねん)」。
万物があるがままに存在している事を指します。
東日本大震災を境目にして、「放射線・放射能について」や「自然・環境について」の議論・運動が活発化しています。
自分はこの議論をちょっと引いた所から眺めて書き綴っていきます。
歴史上において、人間は自然破壊をしながら歩んでいる事は紛れもない事実です。
しかし、どこかで折り合いをつけつつ歩んでいます。
近現代になり、公害等の環境汚染に追従するように環境保全運動が起こります。
環境保全運動のカテゴリの内に入るのが「自然保護運動」です。
この「自然保護運動」、観察すると大体2種類あります。
1.環境工学に基づいた自然保護運動
2.自然を頂に据える啓蒙運動
自分は、この「2」について考えていきます。
実はこれが行き過ぎると「宗教」めいたものになると。
「自然スゲェ。こんな素敵なものを壊そうとする人間はクソ。」
「自然様、ワタシが人間に生まれてゴメンナサイ…。」
少し誇張し過ぎの感は否めませんが、「宗教」(めいた運動)に入ってしまうとこんなものです。
更に、これが政治・経済と絡むと…
辺野古のような状態が末期といえるかもしれません。
「辺野古の珊瑚ガー」と騒いでいる人達、
果たして那覇空港の埋立拡張工事や中華人民共和国の珊瑚密漁船団に対して声を上げているでしょうか?
これは明らかに「珊瑚を御輿として担ぎ上げたタダの政治活動」(いや、嫌がらせに近いか?)です。
こう書き綴っていくと、どこからか声が聞こえてきそうですがらこの辺でw
確かに自然は自分も好きです。
だからこそ、より知ろうと努めます。
また、バランス感覚を養い育む事が肝要です。