とある方より自分の白鳥の写真について忌憚なき意見を頂いてから色々と考える日が続いてマス。
白鳥を撮るのならば、シベリアまで追い求め
生態等を知った上で表現手段をまとめる…
時間をかけ、白鳥の真髄に迫る…
確かにその通りデス。
自分の撮影する白鳥達は
屈斜路湖を筆頭とした北海道内の飛来地デス。
勿論そこの白鳥達はある意味「餌付け」された、
「野生」「原生」とは程遠い存在のものであるのは自分も承知の上。
しかも本州に戻ってからは僅かな期間(最長でも1週間)での撮影になってしまいマス。
短時間ゆえに集中力も最大限に使いマス。
そんな身の上の彼らでも何故追ってしまうのか?
・北海道の雰囲気(特に屈斜路湖)とのマッチング
・白鳥の持つ「フォルム」(茶道的に言えば「形(なり)」)に魅かれている
今考えられるのはこの辺りかもしれないデス。
まだ何らかの理由を付けるとしたら後付臭いものになるかも…
確かに自分の写真は
他に活動されている方々と比べると「弱い」部分がかなり多いのは間違いないデス。
それを人によっては
「保守的である」
「根性なし」
などと言うようデス。
汚い言葉で書くとしたら
「坊ちゃん写真」(ボンボン写真)といった所デスか?
先ほど書いた「根性なし」の側面から見ると…
サラリーマンとして曲がりなりにも会社勤めをしながらの撮影、時間はごくごく限られマス。
また、何らかの強みもないので「生活基盤」という側面から見ても弱い…>第1の「根性なし」の点?
時折襲われる「自信喪失感」…>第2の「根性なし」の点?
そんな中、
淡交社から出ている茶道の雑誌「なごみ」の
2007年12月号の「古歌逍遥」(文:永田和宏 写真:鈴木理策)の一節をふと思い出しまシタ。
以下引用…
~~~~~~~~~~
鳥の声松の嵐の音もせず山しづかなる雪のゆふぐれ 永福門院 風雅集(巻八・冬)
(略)
さて、今月の写真には実際のところ困ってしまった。美しい雪の景であるが、古代貴族たちは山に登らなかった。まして、雪の山には貴族ならずとも登る習慣はなく、また実際に不可能だっただろう。マタギなど一部の人たちが狩りなどのために登ってはいたのだろうが、もとよりそれは歌に結びつくものではない。雪山の歌がないのである。
雪ははるか遠くの山に降るのを、家から、あるいは麓から眺めるのである。雪の山巓(さんてん)を実際に経験した歌を、私は知らないし、おそらく皆無であろう。そのなかで永福門院の一首を紹介することにした。
普段なら鳥の声が騒がしく、松に吹く風の音がしている山であるのに、それらすべての音をあまねく吸収しつくしたかのように、雪の山はしんと鎮まっている。特に雪の夕暮がたは、といった風情だろうか。この歌とても山中の積雪の歌ではなさそうだが、もとより古代の歌では多くが屏風歌であり、想像のなかに息づく風景であることが多い。
(略)
~~~~~~~~~~
以上、引用終わり。
ひょっとしたら
自分はどこかで白鳥達を文中にある「屏風歌」の内に留まらせているのかもしれないデス。
故に「坊ちゃん写真」になっているのかも。
古代貴族と自分を同列にするのもどうかとは思いマスがw
しかしながら、こういう考え方も一方では「あり」ではないかと考えてマス。
白鳥を撮るのならば、シベリアまで追い求め
生態等を知った上で表現手段をまとめる…
時間をかけ、白鳥の真髄に迫る…
確かにその通りデス。
自分の撮影する白鳥達は
屈斜路湖を筆頭とした北海道内の飛来地デス。
勿論そこの白鳥達はある意味「餌付け」された、
「野生」「原生」とは程遠い存在のものであるのは自分も承知の上。
しかも本州に戻ってからは僅かな期間(最長でも1週間)での撮影になってしまいマス。
短時間ゆえに集中力も最大限に使いマス。
そんな身の上の彼らでも何故追ってしまうのか?
・北海道の雰囲気(特に屈斜路湖)とのマッチング
・白鳥の持つ「フォルム」(茶道的に言えば「形(なり)」)に魅かれている
今考えられるのはこの辺りかもしれないデス。
まだ何らかの理由を付けるとしたら後付臭いものになるかも…
確かに自分の写真は
他に活動されている方々と比べると「弱い」部分がかなり多いのは間違いないデス。
それを人によっては
「保守的である」
「根性なし」
などと言うようデス。
汚い言葉で書くとしたら
「坊ちゃん写真」(ボンボン写真)といった所デスか?
先ほど書いた「根性なし」の側面から見ると…
サラリーマンとして曲がりなりにも会社勤めをしながらの撮影、時間はごくごく限られマス。
また、何らかの強みもないので「生活基盤」という側面から見ても弱い…>第1の「根性なし」の点?
時折襲われる「自信喪失感」…>第2の「根性なし」の点?
そんな中、
淡交社から出ている茶道の雑誌「なごみ」の
2007年12月号の「古歌逍遥」(文:永田和宏 写真:鈴木理策)の一節をふと思い出しまシタ。
以下引用…
~~~~~~~~~~
鳥の声松の嵐の音もせず山しづかなる雪のゆふぐれ 永福門院 風雅集(巻八・冬)
(略)
さて、今月の写真には実際のところ困ってしまった。美しい雪の景であるが、古代貴族たちは山に登らなかった。まして、雪の山には貴族ならずとも登る習慣はなく、また実際に不可能だっただろう。マタギなど一部の人たちが狩りなどのために登ってはいたのだろうが、もとよりそれは歌に結びつくものではない。雪山の歌がないのである。
雪ははるか遠くの山に降るのを、家から、あるいは麓から眺めるのである。雪の山巓(さんてん)を実際に経験した歌を、私は知らないし、おそらく皆無であろう。そのなかで永福門院の一首を紹介することにした。
普段なら鳥の声が騒がしく、松に吹く風の音がしている山であるのに、それらすべての音をあまねく吸収しつくしたかのように、雪の山はしんと鎮まっている。特に雪の夕暮がたは、といった風情だろうか。この歌とても山中の積雪の歌ではなさそうだが、もとより古代の歌では多くが屏風歌であり、想像のなかに息づく風景であることが多い。
(略)
~~~~~~~~~~
以上、引用終わり。
ひょっとしたら
自分はどこかで白鳥達を文中にある「屏風歌」の内に留まらせているのかもしれないデス。
故に「坊ちゃん写真」になっているのかも。
古代貴族と自分を同列にするのもどうかとは思いマスがw
しかしながら、こういう考え方も一方では「あり」ではないかと考えてマス。