「ぶげんしゃは(金持ちは)ほっといても(何もしなくても)
勝手に生きていける ?」
「わしは(私は)貧乏人や弱い者を助ける。」
私が空手道の道に入って、礼儀作法を教えられて・・・
たくさんの、道を掴みきれない若者達や、努力しても報われない
気の毒な大人たちを見て、世の矛盾に反発して言った言葉である。
その想いの通り、私の周りには片親を亡くした男達が
自然に集まってくるようになった。
勿論、何の不自由も無い家庭の青年達も私のアパ-トに集まってきた。
私がまだ20才半ばの頃に、少し年下で其の街で顔を利かせていた
後輩が、私のことを、[若年寄り]と言い表して笑った。
それほど、私の考えは、同年輩の者から見れば、歳よりじみて
ピントがずれていたのであろう。
それを私は、笑って聞いていた。
この精神は、現在に至るも変わっていない。
強い者、上の者に、擦り寄る者たちへ伝えたい言葉がある。
「あなた方が、今、一生懸命胡麻を擂っている上司のその位置は
永遠じゃないよ、いつかは他の者に取って代われるよ、
その時、貴方方は反体制の冷や飯を食うことになるよ ?
それを承知で付いて行くのなら、それは自由だ、どうぞ!」
私の、拙い経験から云うと、派閥の力学に縛られると、
浮き沈みは激しい。
私は、平凡が一番良いと思っている。
良かれと思って、付いて行った上役が、派閥の抗争に敗れたため、
その影響をもろに受けて、見事地方に左遷された、
笑えぬこの現実の悲劇は何処にでもある話である。
不器用で良い! どこで誰が貴方の誠実な仕事ぶり、生真面目を
見つめているか知れない。
普通が良い、計算づくの生き方は、どこかでほころびが出るものだ。
人間何が運不運を決めるか判らない。
私の、性格を形作ってくれたのは、
多分、幼い頃の両親にある。
我が家は、大家族であったにも係らず、
近所の貧乏な人たちや、他の市町村から漁業の仕事のため出稼ぎに
来ていた家族の人たちが、風呂を借りに毎夜来ていた。
おやじ、おふくろの偉かったことは、毎日でも少しも嫌がらず、
快く迎え入れていたことである。
この親の博愛の精神が、幼い私の精神に強く影響したことは間違いない。
お金には、縁の無かった親だったが、人様には親切に接していた・・・
後年、私が商売していた頃、その当時我が家に風呂入りに来ていた、
Wさん夫婦が、店にやって来て、一杯飲みながら私の親への感謝の
言葉を述べられたことがある。
その時 !
おやじ達の想いが、その愛情が、人の心に沁み込んでいた事実を、
私は、肌で感じていた。
私は、Wさんの話しを涙で聞いていた。
現在に至るも、Wさん家族からの年賀状は両親に代わって
私の元へ絶えることなく届いている。
人に親切にすると云うことは、こういうことなのだ !
私は、親の無言の教えに、頭を垂れている。
弱い人たちが、貧乏な人たちが、少しの愛情を注ぐことで、
手助けすることで、生きる力に代えてがんばって行く、
立ち上がっていく。
その姿を、見た人でなければ、この気持ちは判るまいと思う。
金持ちに擦り寄るのもいい、だけど金持ちには庶民の心を掴み取るだけの
温情はない。
利用されるだけである。
地位に目がくらんで擦り寄るのもいい、だけど上司は、自分の立身出世
だけが大事であって、貴方の将来の保証を与えてくれるだけの情は無い。
泣きを見るのは、誰か、胸に手を当てて見れば、よく判るはずである。
普通がいい、もし私が、上司であるならば ?
下働きの不遇に泣く、君にチャンスを与える。
こうして出来た人間関係は、強いものになるはずである。
人の運・不運は、その生き様が、最後は決めると思っている。
私は、貧乏人の家に生まれて良かったと、心から思っている。
何故なら、人の真の心がよく見える。
うわべだけで人を評価する薄っぺらな人間にならなかったことに
感謝している。これ全て、親の恩である。
おやじ ! おふくろ !?
[弱者に目を向け、弱者に手を差し伸べる、男に生んで呉れて
ありがとう!]
[此の世に、生んでくれてありがとう !?]
私は、故郷の地を踏む度に、そう思っている・・・。。。
合掌
実家の前から、黒く小さな、かぶ島(沖のかぶ島・おかのかぶ島)を望む。
(我らの3・3・かぶ島会の会の名称の源である)学校の沖合いに在る。
その後ろに横たわっているのが、八幡浜の大島である。
勝手に生きていける ?」
「わしは(私は)貧乏人や弱い者を助ける。」
私が空手道の道に入って、礼儀作法を教えられて・・・
たくさんの、道を掴みきれない若者達や、努力しても報われない
気の毒な大人たちを見て、世の矛盾に反発して言った言葉である。
その想いの通り、私の周りには片親を亡くした男達が
自然に集まってくるようになった。
勿論、何の不自由も無い家庭の青年達も私のアパ-トに集まってきた。
私がまだ20才半ばの頃に、少し年下で其の街で顔を利かせていた
後輩が、私のことを、[若年寄り]と言い表して笑った。
それほど、私の考えは、同年輩の者から見れば、歳よりじみて
ピントがずれていたのであろう。
それを私は、笑って聞いていた。
この精神は、現在に至るも変わっていない。
強い者、上の者に、擦り寄る者たちへ伝えたい言葉がある。
「あなた方が、今、一生懸命胡麻を擂っている上司のその位置は
永遠じゃないよ、いつかは他の者に取って代われるよ、
その時、貴方方は反体制の冷や飯を食うことになるよ ?
それを承知で付いて行くのなら、それは自由だ、どうぞ!」
私の、拙い経験から云うと、派閥の力学に縛られると、
浮き沈みは激しい。
私は、平凡が一番良いと思っている。
良かれと思って、付いて行った上役が、派閥の抗争に敗れたため、
その影響をもろに受けて、見事地方に左遷された、
笑えぬこの現実の悲劇は何処にでもある話である。
不器用で良い! どこで誰が貴方の誠実な仕事ぶり、生真面目を
見つめているか知れない。
普通が良い、計算づくの生き方は、どこかでほころびが出るものだ。
人間何が運不運を決めるか判らない。
私の、性格を形作ってくれたのは、
多分、幼い頃の両親にある。
我が家は、大家族であったにも係らず、
近所の貧乏な人たちや、他の市町村から漁業の仕事のため出稼ぎに
来ていた家族の人たちが、風呂を借りに毎夜来ていた。
おやじ、おふくろの偉かったことは、毎日でも少しも嫌がらず、
快く迎え入れていたことである。
この親の博愛の精神が、幼い私の精神に強く影響したことは間違いない。
お金には、縁の無かった親だったが、人様には親切に接していた・・・
後年、私が商売していた頃、その当時我が家に風呂入りに来ていた、
Wさん夫婦が、店にやって来て、一杯飲みながら私の親への感謝の
言葉を述べられたことがある。
その時 !
おやじ達の想いが、その愛情が、人の心に沁み込んでいた事実を、
私は、肌で感じていた。
私は、Wさんの話しを涙で聞いていた。
現在に至るも、Wさん家族からの年賀状は両親に代わって
私の元へ絶えることなく届いている。
人に親切にすると云うことは、こういうことなのだ !
私は、親の無言の教えに、頭を垂れている。
弱い人たちが、貧乏な人たちが、少しの愛情を注ぐことで、
手助けすることで、生きる力に代えてがんばって行く、
立ち上がっていく。
その姿を、見た人でなければ、この気持ちは判るまいと思う。
金持ちに擦り寄るのもいい、だけど金持ちには庶民の心を掴み取るだけの
温情はない。
利用されるだけである。
地位に目がくらんで擦り寄るのもいい、だけど上司は、自分の立身出世
だけが大事であって、貴方の将来の保証を与えてくれるだけの情は無い。
泣きを見るのは、誰か、胸に手を当てて見れば、よく判るはずである。
普通がいい、もし私が、上司であるならば ?
下働きの不遇に泣く、君にチャンスを与える。
こうして出来た人間関係は、強いものになるはずである。
人の運・不運は、その生き様が、最後は決めると思っている。
私は、貧乏人の家に生まれて良かったと、心から思っている。
何故なら、人の真の心がよく見える。
うわべだけで人を評価する薄っぺらな人間にならなかったことに
感謝している。これ全て、親の恩である。
おやじ ! おふくろ !?
[弱者に目を向け、弱者に手を差し伸べる、男に生んで呉れて
ありがとう!]
[此の世に、生んでくれてありがとう !?]
私は、故郷の地を踏む度に、そう思っている・・・。。。
合掌
実家の前から、黒く小さな、かぶ島(沖のかぶ島・おかのかぶ島)を望む。
(我らの3・3・かぶ島会の会の名称の源である)学校の沖合いに在る。
その後ろに横たわっているのが、八幡浜の大島である。