・・・ 鉄砲町 遙かなり・・・
9月に入った昼前というのに、東温市の臨済宗大安寺境内は蒸し暑く、
太陽が降り注いでいた。
その山門の手前右手に、ひな壇の墓地がひっそり静まり返っていた。
私がお参りするお墓は、一番下段の右端に、さほど豪華ではないが、品格のあるお墓で、故人の意思と残された家族の想いが顕されたものであった。
彼の公人としての人生は、みなさんよくご存知なので、
彼の個人的な面を述べてみたいと思う。
故人と私は、田舎が同郷で、愛媛県八幡浜市真網代・・蜜柑と座敷雛の里である。
私が彼より一学年下で、私が小学校へ上がる前だったと思うが・・・
彼の家が新しく建築されることになり、約2年間、彼の家族8人が
私の家の離れ、隠居で生活されることになったのである。
彼の両親と私の両親は、親戚づきあい以上の親交で結ばれていた。
彼が、小さい頃、定かに覚えていないが、彼の家に悲劇が降って来た、長兄が海難事故で不慮の死を遂げたのである。
その悲しみの深さは、幼少の私は知る由もなかったが・・・!
家族で、田舎の家を引き払って松山へ転居したことで、その慟哭の深さが
分かるような気がする・・・今になってみて理解できるのである。
月日が流れ、私が20歳の時であった・・・
今でこそ、どの町にでも空手道場があって、誰でも習うことが出来る時代になっているが。
其の頃は、まだまだ柔道映画の影響で、悪役に甘んじさせられていた時代で、
その空手を習いたいと思って、私は家出して松山に向かったのである・・・
たずねた所が、愛媛県立松山北高校の南にあって、伊予鉄電車の鉄砲町電停約100m西の道路沿いにあった彼の家である。
おじさんとおばさんに、快く下宿することを許してもらった。
同郷の後輩3人も、城南高校、新田高校へ通っていた。
肝心の彼は、当時の松山商科大学3年に在学中で、柔道部に在籍して、青春の
エネルギ-を稽古の日々に費やしていた。
今、鮮やかに思い出す光景は・・・、
彼と後輩達が一部屋に集まって、空手の稽古から帰ってくる私を待っていてくれて、さまざまな楽しい話に、夜が更けるのも忘れた数々の記憶である。
その家には、我々に遠慮して座には加わらなかったが、高校1年生の彼の弟も生活して居た。
その弟とは、特に私が、昭和55年に松山へ出てからは、兄弟同然の付き合いが復活することになった。
彼は、Zボイラ-の三浦工業に入社して、その後衆議院議員の大臣秘書となり、
その後、東温市志津川に居を構え、愛媛県県議会議員として政治の道に歩を進めることになったのである・・・。
私が人と違うのは、金持ちやステ-タスの高い者には近寄らない、当てにしない、胡麻をすって利用することを由としない・・・、これは信念なのである。
当然彼とは一線を引いて・・活躍を、その飛躍を陰ながら祈って遠くから見ていたのである。
偶然、役所・その他の場所で、会うと・・・親戚なんよ・・・と相手に言って引き立ててくれた。
彼の、照れ隠しが垣間見えた一面である。
議員を引退して、始めた事業に情熱を傾ける筈であったと思うが・・・
神はあまりに過酷な運命を彼に与えたのである。
引退してから疲れを癒す穏やかな時間を与えてはくれなかった。
・・・
私は、彼の葬式は都合で出席できなかった。
数日後、同級生で前西宇和農協理事長の柳沢玉久君と彼の自宅へお悔やみに出向いたが、
奥さんはじめ家族のみなさんが留守であったため、後日お訪ねしてお線香をあげさせていただいた。
其の後も、お盆にご焼香に伺った・・・・
其の時に・・・、
彼の、覚悟を・・この世でやり遂げた、数々を聞かせていただいた・・・
人前では、けっして見せない、彼の素朴な信念を見ることになった。
・・・
彼には、長男・次男・長女の3人の子供がいるが・・・
数年前、人柄がやさしくて、上司・同僚からも可愛がられた次男が、
東京での接待の仕事中に、マスコミに大きく報じられることになる
新宿歌舞伎町 ビル火災で不慮の死を遂げることになった・・・・
彼、奥さん、家族の悲しみは、我々の想像以上の悲しみであったと思う、
それは、癒えることなく長く続いたであろうと推察する。
・・・
息子が、あの世で寂しがっている・・・と考えたこともあったであろう・・・
・・・
追いかけて行ってやりたいと思ったのではなかろうか・・・?
・・彼が、亡くなった事を知った時・・
息子の処へ逝ってやったのかなと、私は彼の心を想ったのである・・・!?
彼は、母親の故郷 愛媛県八幡浜市大島 この離島をこよなく愛した男であった。
何事かがあると、故郷大島に想いを馳せた男でもあった。
その故郷への想いは、何処から来たのであろうか、一度聞いてみたかった?
彼の長兄は、彼がまだ小さい時に、乗り込んでいた漁船の転覆事故で亡くなった。
私が、ご焼香に伺った時、奥さんから聞かせていただいた話は・・・・
私のこれからの人生に、強く生きる糧になるものだった。
彼は、病気で体が辛かったにも係らず、子供達と遭難現場へ出向いて
第一発見者にも出会って、その当時の話を詳しく聞いたとのことであり、
不幸な兄への慰霊を執り行ったとのことだった。
彼は、個人の前に公人としての立場を意識した男であったと思うが・・・
心の中で、過去の諸々を大事に閉まっていたのだろう。
彼は記憶の底の・・・悲しみ や出来事を・・忘れずに真摯に受け止めていて・・・
その事実に背を向けず、立ち向かって、好きだった兄貴の無念を祓ったのだと私は思った。
死に際まで、兄貴の弔いを考えていた・・・!
彼の胸のうちを想うと・・・幼少からの思い出がフラッシュバックされて,ぐっとこみ上げてくるものがあった。
・・・・・
お墓の周りに、シキビの枯葉が落ちて・・・
花入れの水も切れかかっていた。
持参の水を注ぎ・・・さらに墓地入り口にある水道の蛇口から
水を運んできて注いだ・・・
柳澤家のお墓の後ろの、樹木の枝葉が・・・さわやかに揺れた・・・
「正三君 ! よしかずが来たよ、遅くなったけど、ごめんな・・・!」
私は、彼の父母、長兄、先に逝った彼の妹、弟のこと等も話していた。
「あの世では、みんなと仲良くしてな・・・!」
「ヨウやん! 元気でナ・・・」鉄砲町の部屋の窓際で・・・彼が言ったよう
な錯覚に襲われた・・・!?
しばらく、佇んで墓地を見回してみた・・・・?
暑さの厳しくなった墓地に・・・人影は見当たらなかった・・?
鉄砲町のあの家の・・・あの部屋で・・・
みんなと騒いだ青春が・・・昨日のように思い出された・・・!?
正三くんも・・・妹かっちゃんも・・・弟道ちゃんも・・・
そして、彼が愛した次男 正彦くんも あの世に 逝ってしまった・・・。
「その内、よしかずも、用事を済ませたら逝くけんな・・!待っててや・・・!」
・・・・・
地元の新聞が、トナカイという事業所が松山で障害者を従業員として雇い、
パン工房の店をオ-プンしたと云うことを、伝えていた・・・!?
彼が手塩に掛けた事業である。
元愛媛県県議会議長 柳澤 正三
それが、私の敬愛する男の名前である・・・。
合掌
9月に入った昼前というのに、東温市の臨済宗大安寺境内は蒸し暑く、
太陽が降り注いでいた。
その山門の手前右手に、ひな壇の墓地がひっそり静まり返っていた。
私がお参りするお墓は、一番下段の右端に、さほど豪華ではないが、品格のあるお墓で、故人の意思と残された家族の想いが顕されたものであった。
彼の公人としての人生は、みなさんよくご存知なので、
彼の個人的な面を述べてみたいと思う。
故人と私は、田舎が同郷で、愛媛県八幡浜市真網代・・蜜柑と座敷雛の里である。
私が彼より一学年下で、私が小学校へ上がる前だったと思うが・・・
彼の家が新しく建築されることになり、約2年間、彼の家族8人が
私の家の離れ、隠居で生活されることになったのである。
彼の両親と私の両親は、親戚づきあい以上の親交で結ばれていた。
彼が、小さい頃、定かに覚えていないが、彼の家に悲劇が降って来た、長兄が海難事故で不慮の死を遂げたのである。
その悲しみの深さは、幼少の私は知る由もなかったが・・・!
家族で、田舎の家を引き払って松山へ転居したことで、その慟哭の深さが
分かるような気がする・・・今になってみて理解できるのである。
月日が流れ、私が20歳の時であった・・・
今でこそ、どの町にでも空手道場があって、誰でも習うことが出来る時代になっているが。
其の頃は、まだまだ柔道映画の影響で、悪役に甘んじさせられていた時代で、
その空手を習いたいと思って、私は家出して松山に向かったのである・・・
たずねた所が、愛媛県立松山北高校の南にあって、伊予鉄電車の鉄砲町電停約100m西の道路沿いにあった彼の家である。
おじさんとおばさんに、快く下宿することを許してもらった。
同郷の後輩3人も、城南高校、新田高校へ通っていた。
肝心の彼は、当時の松山商科大学3年に在学中で、柔道部に在籍して、青春の
エネルギ-を稽古の日々に費やしていた。
今、鮮やかに思い出す光景は・・・、
彼と後輩達が一部屋に集まって、空手の稽古から帰ってくる私を待っていてくれて、さまざまな楽しい話に、夜が更けるのも忘れた数々の記憶である。
その家には、我々に遠慮して座には加わらなかったが、高校1年生の彼の弟も生活して居た。
その弟とは、特に私が、昭和55年に松山へ出てからは、兄弟同然の付き合いが復活することになった。
彼は、Zボイラ-の三浦工業に入社して、その後衆議院議員の大臣秘書となり、
その後、東温市志津川に居を構え、愛媛県県議会議員として政治の道に歩を進めることになったのである・・・。
私が人と違うのは、金持ちやステ-タスの高い者には近寄らない、当てにしない、胡麻をすって利用することを由としない・・・、これは信念なのである。
当然彼とは一線を引いて・・活躍を、その飛躍を陰ながら祈って遠くから見ていたのである。
偶然、役所・その他の場所で、会うと・・・親戚なんよ・・・と相手に言って引き立ててくれた。
彼の、照れ隠しが垣間見えた一面である。
議員を引退して、始めた事業に情熱を傾ける筈であったと思うが・・・
神はあまりに過酷な運命を彼に与えたのである。
引退してから疲れを癒す穏やかな時間を与えてはくれなかった。
・・・
私は、彼の葬式は都合で出席できなかった。
数日後、同級生で前西宇和農協理事長の柳沢玉久君と彼の自宅へお悔やみに出向いたが、
奥さんはじめ家族のみなさんが留守であったため、後日お訪ねしてお線香をあげさせていただいた。
其の後も、お盆にご焼香に伺った・・・・
其の時に・・・、
彼の、覚悟を・・この世でやり遂げた、数々を聞かせていただいた・・・
人前では、けっして見せない、彼の素朴な信念を見ることになった。
・・・
彼には、長男・次男・長女の3人の子供がいるが・・・
数年前、人柄がやさしくて、上司・同僚からも可愛がられた次男が、
東京での接待の仕事中に、マスコミに大きく報じられることになる
新宿歌舞伎町 ビル火災で不慮の死を遂げることになった・・・・
彼、奥さん、家族の悲しみは、我々の想像以上の悲しみであったと思う、
それは、癒えることなく長く続いたであろうと推察する。
・・・
息子が、あの世で寂しがっている・・・と考えたこともあったであろう・・・
・・・
追いかけて行ってやりたいと思ったのではなかろうか・・・?
・・彼が、亡くなった事を知った時・・
息子の処へ逝ってやったのかなと、私は彼の心を想ったのである・・・!?
彼は、母親の故郷 愛媛県八幡浜市大島 この離島をこよなく愛した男であった。
何事かがあると、故郷大島に想いを馳せた男でもあった。
その故郷への想いは、何処から来たのであろうか、一度聞いてみたかった?
彼の長兄は、彼がまだ小さい時に、乗り込んでいた漁船の転覆事故で亡くなった。
私が、ご焼香に伺った時、奥さんから聞かせていただいた話は・・・・
私のこれからの人生に、強く生きる糧になるものだった。
彼は、病気で体が辛かったにも係らず、子供達と遭難現場へ出向いて
第一発見者にも出会って、その当時の話を詳しく聞いたとのことであり、
不幸な兄への慰霊を執り行ったとのことだった。
彼は、個人の前に公人としての立場を意識した男であったと思うが・・・
心の中で、過去の諸々を大事に閉まっていたのだろう。
彼は記憶の底の・・・悲しみ や出来事を・・忘れずに真摯に受け止めていて・・・
その事実に背を向けず、立ち向かって、好きだった兄貴の無念を祓ったのだと私は思った。
死に際まで、兄貴の弔いを考えていた・・・!
彼の胸のうちを想うと・・・幼少からの思い出がフラッシュバックされて,ぐっとこみ上げてくるものがあった。
・・・・・
お墓の周りに、シキビの枯葉が落ちて・・・
花入れの水も切れかかっていた。
持参の水を注ぎ・・・さらに墓地入り口にある水道の蛇口から
水を運んできて注いだ・・・
柳澤家のお墓の後ろの、樹木の枝葉が・・・さわやかに揺れた・・・
「正三君 ! よしかずが来たよ、遅くなったけど、ごめんな・・・!」
私は、彼の父母、長兄、先に逝った彼の妹、弟のこと等も話していた。
「あの世では、みんなと仲良くしてな・・・!」
「ヨウやん! 元気でナ・・・」鉄砲町の部屋の窓際で・・・彼が言ったよう
な錯覚に襲われた・・・!?
しばらく、佇んで墓地を見回してみた・・・・?
暑さの厳しくなった墓地に・・・人影は見当たらなかった・・?
鉄砲町のあの家の・・・あの部屋で・・・
みんなと騒いだ青春が・・・昨日のように思い出された・・・!?
正三くんも・・・妹かっちゃんも・・・弟道ちゃんも・・・
そして、彼が愛した次男 正彦くんも あの世に 逝ってしまった・・・。
「その内、よしかずも、用事を済ませたら逝くけんな・・!待っててや・・・!」
・・・・・
地元の新聞が、トナカイという事業所が松山で障害者を従業員として雇い、
パン工房の店をオ-プンしたと云うことを、伝えていた・・・!?
彼が手塩に掛けた事業である。
元愛媛県県議会議長 柳澤 正三
それが、私の敬愛する男の名前である・・・。
合掌
人生を忙しく駆け抜けた人でした。
故人の意思は
事業と家族に引き継がれ生き続けています。