杉の子のひとりごと

私の交友録などを中心に,思いを綴っていきます。

さぶろく会残影

2010年03月24日 | 日記
S36年卒業生を36会(さぶろく会)と呼んだのは、
松山在住の普通科を卒業したメンバ-である。

その同学年の園芸科49名だけが、男子だけのクラスで、
その他は、上も下も女子学生が混じっていた。
だから私の記憶の範囲では、我々の園芸科だけが野暮な
男だけの世界であった。

だから、やることが凄かった、腕自慢の男の先生にも
堂々と喧嘩の挑発をやらかした・・・
おとなしい若い先生は誠に気の毒で、今振り返っても
申しわけない気持ちでいっぱいになる。

まだ、其の当時は今と違って学校側、先生に威厳のあった
時代なのである。

向こう見ずな園芸科の悪たちが、と言っても番長の配下達が
授業の教室替えの時、渡り廊下で普通科の学生を恫喝していた。
本気を出してやれば、普通科にも気骨のある強い生徒は居たのだが、
彼らは、学生本分をわきまえて我慢していたのである。

私が、松山へ転居した時、普通科を卒業したメンバ-が男女合わせて
10人程居た。
その中の亡きO・Kが私と仲良しで、分け隔てなくメンバ-に入れて
呉れたのである。

学生時代、園芸科連中に不愉快極まりない想いをされたにも係らず、
私を快く受け入れてくれたのである。
その度量の広さに私は感激した・・・そして喜んで参加した。
今では、学生時代から続くような親しい関係になっている。
ただ、感謝である。
多分、私が唯一両方の橋渡しができる立場にいると自負している。

私は、普通科の同級生が命名した、(サブロク会)を園芸科にも借用
したいと考えたのである。

我々の、同級生には私が独断と偏見で認める番長がふたりいる。
地元に鎮座するY・Y。大阪の貝塚に居住するH・Mである。
此の二人は、上に向っても、下を苛めなかった。その佇まいは
小憎らしいほど花があった。
女性にも疎かった、純情この上なかったのである。

下のクラスで番を張った後輩が、私に会うと必ずこの二人の名前を
出して、懐かしがる !?
「先輩 ! Yさん、Mさんに会わしてや・・・と !?」
これこそ ! 番長に値する男の勲章である。
Yと触れ合う中で私は云う・・・・・
「お前さんは花があるよ!?」

他に、「わしが川校を押さえる」と公言したツワモノが居た、
しかし、彼は、同級生は云うに及ばず下級生にまで暴力を振るった、
修学旅行で他校生との乱闘で、Y・YとH・Mふたりだけを残して
逃げた、これで彼の威光は地に堕ちた。
肝心な時に、友を見放してはいけない・・・?

何故、私が今、これらの話をするかというと・・・
大人の世界でも、これらに似たような話があるからである。
「全て、わしの責任だ・・・!? 秘書達に罪はない・・・!」
何故 ! これが云えないのか ?
日本男子たるもの・・・我らの番長達のように有りたいと思う。

昨日の、S・K君の葬儀告別式は・・・
小雨の降る中、執り行われた。
長らく会っていなかった彼は遺影の中で静かに微笑んでいた。
思った以上、良い歳の取り方をしていたのに安心した。
長男の立派な挨拶に私は安堵した、お母さんをいたわる姿に
感動した。

私は遺影に、思っていた想いを伝えた、語り終えた・・・
真面目な人生を送った彼のことである、
天国の特等席が用意されているに違いあるまい。
冥福を祈りたい。

葬儀の後、同級生10数名でファミレスに席を移した。
其の中に、息子を弁護士に育てあげたK・Uと柔道部主将S・O
がいた。
このふたりこそ、人見知りの私を会話の席へ引き入れてくれて
初めて話しかけてくれた同級生なのである。

その後、3年間、3人は前後に席が並んだ・・・
どんな無礼講でも許せる・・・
私の命さえも託せる大親友なのである。

1時間あまりの時間はあっという間に過ぎた。
「ひとりでも欠ける前に、同級会をしよう」・・・ !?
此の言葉を約束に・・・私は松山へ向った。

同級生は、いい・・・雨脚が小降りになっていた・・・。。。

                  合掌


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