森岡 周のブログ

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羞恥や嫌悪から考える人の精神・人格の発達

2008年10月26日 16時11分46秒 | 過去ログ
金曜日は岡山での講義。
今回の講義はあるチャレンジをしている。
教育者としてはあるまじき行為かもしれないが、
生物学的な情動(不快)経験と嫌悪 disgust によって、
人の人格が大きく影響を受けるというものである。
受講生には何も意図しなく、性的なそれも羞恥心が喚起される映像を用いた。
これはブログでは大きくはかけないが、
ある精神的な問題をかかえ、
受刑している者の脳活動(精神機能)を追いかけるということをしている。
ここではプライバシー上大きくはかけないが、
羞恥心に問題があるというものである。

羞恥心は性的関心と大きく関係する。
発達障害の場合、この羞恥心の発達が周囲と比較して遅れることがある(あくまでも傾向)
なかでは「性的にわきまえのない行動をする」などで社会的に問題が生じる場合もある(これもあくまでも傾向)。
そうでない場合が多い。

性的な衝動に駆られやすいという意見もアメリカではあるように(日本ではない)。
いずれの場合も、性的な欲求は、食欲や睡眠欲と同様、人間にとって正常な欲求であることは間違いないが、

食と性という本能行動に基づく、
善悪は自らの快・不快と嫌悪という視点から発達するという。
その嫌悪の発達は特に汚染という概念、
すなわち、自らが汚染させるというものに基づいて、
発達するという仮説もある(ポール・ロジン)。

食べ物の汚染だけでなく、
これは性の汚染もそうである。

愛のあるものよりも、不自然な性行為や性的映像に人間は嫌悪を示すが、
そうでない場合もまれにある。

いずれにしても、扁桃体、島、前帯状回、腹側被蓋野、側坐核が関与し、
こうした大脳辺縁系によって痛みや嫌悪を感じると、
それのコントロールのために前頭葉が使われる。

しかしながら、前頭葉はまけてしまうのである。
そのときの映像があまりにもリアルでそして不快であれば、
そのリアルさから相手の脳に対しても不快をもつ。

不快は、矛盾が大きければ大きいほど起こる。
予期不能な場合に起こる。
そしてその矛盾は強固に記憶として残る。
記憶の固定化は海馬が行うが、
情動の扁桃体と密接に関わっているので、
その不快(矛盾)、嫌悪(性的、病的)なものは、
強固に残り、
前頭葉がそうでないと思っても、
それをつきやぶるかのように残ってしまう。

そしてそれに基づき、
相手の人格をつくってしまう。
人格とは自らがつくるのではなく、
他者によって作られるものなのかもしれない。
すなわち、それはバイアスのかかった偶像のように思える。

あの人の人格を疑う、といっている人にも人格はある。
それは、こっちからみた人格である。

つまり、そこに解離が生じてしまえば、
相容れるものがなくなってしまう。

たぶんまだ学生には種明かししていないので、
俺の人格を疑っていると思う。


情動の記憶は相当に強い。
その情動は喜怒哀楽であり、
その根幹は快・不快であり、
不快なものは、
相当な記憶として残り、
その記憶に基づいて、
相手の人格を決めてしまう。
人格の決定とは妄想なのかもしれない。
その妄想を調和するのは対話しかない。
大脳皮質は辺縁系の経験に基づき、
時に勝手に自己組織化をして暴走する。

大学の研究室でも対話がなければ、
妄想族ばかりが増えてしまう。
それは大脳皮質のきわみであり、
前頭葉が勝手に相手の癖まで決めていってしまうのである。

さて羞恥心を喚起するものとしての代表的なものがトイレである。
僕がまだ専門学校生のときに、
精神機能とADLについて研究したが、
高齢になっても、入浴よりもトイレに対する羞恥が高かった。
トイレ動作を援助されるということは(その行為を監視されるということであり、それは覗かれるということである)。
おむつもしかりである。
患者がもっとも介助に対して、羞恥を感じるものであり、
その羞恥が、自らの人間性に影響する。
「下の世話(監視)までされる」自分が人間らしくないと。

入浴よりも羞恥なものは、このしも、汚物、汚染という概念があるからと思える。

話は戻るが、ある受刑者はそのたぐいの問題をかかえており、
それに伴い、いろんな精神機能にも影響を与えているようだ。

そうした羞恥を喚起する映像や性的な映像をみたときの脳活動が違う。
辺縁系のみが暴走するものもいれば、
そっちがまったく働かず、一次野が暴走する場合もあるらしい。

いずれにしても、縦の連結ができていないのだ。
その縦の連結が大事なのはわかるが、
それがあるがゆえに、
大脳皮質の前頭葉が、人の性格までも決めていってしまう。

情動が大きく影響するのは確かであり、
その根幹には羞恥や嫌悪、そして快・不快、
そして生物的に生きていくための食と性。
自らが生きていくための食に対する嫌悪、
そして種を保存するための性の嫌悪、
これらを基に、
生物的に善悪を決めていくのかもしれない。

これはまだ仮説であり、
うまく金曜日には説明できないかもしれないが、
説明できなければ、単なる変な(変態)教員で終わってしまう・・・

ポール・ロジンの奇妙な研究に少し影響を受け、
ポール・エクマンという表情研究に少し影響を受けている。
認知の前に、
その生物学的な区分をできない患者には、
もはやどのように対応するばよいか難しい。

うちの院生には統合失調症などを研究しようとしているものもいるので、
この食と性という問題もとりくまないといけないかもしれない。
トイレ動作に羞恥を感じない、例えば認知症などの一部の問題も。

挑戦的考察は金曜日にするが、
岡山の他の教員に、変な映像(サブリミナル的に流しているので、
そんなには流していない、
しかしサブリミナルでも相当に意識には残っている)を流して(この映像は実験映像で、youtubeやビデオなどから学部生が入手している、
そういった映像を見た後に、その後の情動的表情知覚に影響を及ぼすかという研究で)、と怒られそうだ。

そんな科学的な解釈ができない1年生には少々難しいかもしれないが、
食や性というものが人間の発達をつくるのであれば、
その脳(こころ)についても目を向ける必要がある。


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