金曜日はいつものように岡山に向かう.
朝日リハの講義もあとわずか.
今年度は体調不良などから講義内容が飛びまくっているが,
ラスト数回は私の専門性も含めて「学びの手続き」について講義をする.
この日は,情報という視点から,
メタ認知という視点を中心に話した.
やはり,時代を抜けていくという精神は「メタ認知」であると思う.
リハビリテーションに携わる者は「まじめ」だが,
この「メタ認知」にかけているものが多いのが気になる.
このメタ認知は社会性ではない,
つまり,空気を読めるか読めないかというリアルな視点ではなく,
時代のどこに自分が生き,それは何の影響を受け,さらにはこれからどこに向かおうとし,それに対してどのような戦略をもっているか,
そしてどのように行動をとり,それに対して思考を循環しているか,
といった過去―現在―未来で自分がどのよう生きているのかをメタできる人物である.
一生懸命,まじめにやっていく,これは「当たり前」のことでありそれ以上,それ以下にはならない.つまり変化がない.
変化が生まれないと人は停滞していく.
変化を起こすメタ認知,今の若者には絶対的にそれが欠けている.
そんなことを講義しながら,あるいは成人式前に思った.
土曜日の朝6時過ぎに岡山を出て,
新大阪経由で大学まで.
途中新大阪駅で,愛媛石川病院の渡部さんに出会う.
うちのバイザー会議に向かう最中だったという.
偶然だが,おもしろかった.
昨晩,その科長から電話をもらったばかりだったので.
家に一時帰宅し,荷物を変え,
大学に.
バイザー会議が進んだ.
全国各地から来ていただいたが,
ここでもいろんな人の言動,行動,表情から,
人は実に面白い生物であると感じた.
学問にしろ,指導にしろ,教育にしろ,
人は自分が生きてきた経験を基本的かつ潜在的に一番大切にする.
おおざっぱな人,細かな人,どれもその人を表す行動であり,
その行動を生み出すのは認知であり,
そしてそれは経験に裏付けられたものである.
ことばは振る舞いはその人自身の生きてきた脳のなか.
学問をして,研究している人,
データは数値だが,その情報性は主観である.
その人が生きていくために研究をする.
ポジティブなデータが出るように仮説をたてる.
そしてその母集団を選ぶ.
そしてそれを公表する.
そしてその情報を選択する人はその情報をポジティブと思っているから.
と思うと,それは社会に連鎖し,
1つの社会性,構造をつくって,支配していく.
それが最終的には人の高次脳機能のなかでもっとも崇高なもの,
宗教へと進展する.
それを信じる.
データを信じる.ということはその人の志向性(最終的には人自身)を信じるということであり,
教育にも大きく根付いている.
それが人間社会である.
そう考えれば,いろんなところで教育の違いや情報の違いや臨床の違いが起こって当然である.
そこでお互いが批判しあってもしょうがない.
もっと大きなところで勝負しないと何も見えないのである.
人よりも一段高いところから時代を眺め,何がこれからの未来に必要か,
そんなことを自分自身で考え続けることを教えることが,
本当の教育だと思う.
人に対して謙虚というよりは,自分自身の今に対してもっと謙虚になること.
これが欠けていくことが不確実性を奪って自由度を狭めてしまう.
バイザー会議中そんなことを思いながら,
議題の進行をした.
時間がなくて残念であった.
いろんな意見を引き出し,
双方向性に意見をぶつけ,
そして,論理を磨き,
1つの方向性を導き出す.
そういうプロセスに実にかけていた.
私の問題でもある.
バイザー会議を終え,
遠方から来ていただいている先生方と少しお話をして,
大学院生でバイザーの佐藤君に2時間のドライブを要求し,
兵庫のリハセンターまで送ってもらった.
19時半に懇親会場につき,
コース1日目の状況を聞き,
講師の先生方やスタッフと話をする.
兵庫のコースは実に長くなった.
1年目に出会ったPTたちももう33歳.
ファミリー同然の関係になった.
兵庫のリハセンターのスタッフらは.
「阿吽」のラインまで行っており,
みんな苦痛の表情が見られない.
もう自分の仕事の一つと自然と動く.
23時過ぎに茨城の講演を終えた宮本先生とロックバーと合流し,
2時前までメタファー言語のこと,などを中心に論議した.
サイエンスをするための分析と介入するための手続き,
それがメタファー言語においては混同されているという共通の視点を議論し,
臨床家に親父的な苦言を呈した.
翌日は9時より11時まで講義を行った.
のちのアンケートを見る限りでは好評だったようだ.
私は大きな学会や研修会ではスライドを使い一方的に喋りまくるが,
こうした講習会では使わず,横道にそれながら話していく.
理解はこっちが進むし,これが本当の私の講義スタイル.
学会で一方的に早口でまくしたてるのは,
ある意図があるのである.
詳しくは言わないが,若いセラピストに教えてあげようとかこれっぽっちも思っていない.僕よりも上の世代に対するメッセージなのである.
この講演スタイルは.
一方,コースへきている人たちには双方向性に行う.
それは仲間だからである.
13時より実技をグループで演習し,
適宜,デモをしながら,何を調べないといけないかということを話した.
臨床は最前線の研究の場である.
その日はレセプション.
龍馬伝を見れずに残念だが,
アフター講習会が実は講習会では意味を持つ.
私の周りは今回は意味が見出せなかったと思うが・・・
毎回毎回熱い論議もできない・・・ときもある.
1時ごろまで飲み続け,
香川―木俣の漫才を見ながら,笑うという幸せを感じる.
翌日は9時より症例検討を行い,
15時に終了した.
今回は講師に強さがあったコースであった.
時に強さも大事である.
評判は上々であった.
それなりに,いや相当に私たちは勉強している.
時代を変えていく気概を持っているっていうことは
人一倍,勉強し,考え続けているのである.
人間ということを.
16時過ぎに西明石を出て,
生野―山下コンビに誘導されながら,帰り着いた.
どこでもドアがほしいと思うようになってきた.
もはや移動というものは,もっとも私から捨てたいものとなった.
毎週毎週,移動するっていうのは無にある一方で,
相当に不快になるときもある.自動化っていうのは不快なのかもしれない.
朝日リハの講義もあとわずか.
今年度は体調不良などから講義内容が飛びまくっているが,
ラスト数回は私の専門性も含めて「学びの手続き」について講義をする.
この日は,情報という視点から,
メタ認知という視点を中心に話した.
やはり,時代を抜けていくという精神は「メタ認知」であると思う.
リハビリテーションに携わる者は「まじめ」だが,
この「メタ認知」にかけているものが多いのが気になる.
このメタ認知は社会性ではない,
つまり,空気を読めるか読めないかというリアルな視点ではなく,
時代のどこに自分が生き,それは何の影響を受け,さらにはこれからどこに向かおうとし,それに対してどのような戦略をもっているか,
そしてどのように行動をとり,それに対して思考を循環しているか,
といった過去―現在―未来で自分がどのよう生きているのかをメタできる人物である.
一生懸命,まじめにやっていく,これは「当たり前」のことでありそれ以上,それ以下にはならない.つまり変化がない.
変化が生まれないと人は停滞していく.
変化を起こすメタ認知,今の若者には絶対的にそれが欠けている.
そんなことを講義しながら,あるいは成人式前に思った.
土曜日の朝6時過ぎに岡山を出て,
新大阪経由で大学まで.
途中新大阪駅で,愛媛石川病院の渡部さんに出会う.
うちのバイザー会議に向かう最中だったという.
偶然だが,おもしろかった.
昨晩,その科長から電話をもらったばかりだったので.
家に一時帰宅し,荷物を変え,
大学に.
バイザー会議が進んだ.
全国各地から来ていただいたが,
ここでもいろんな人の言動,行動,表情から,
人は実に面白い生物であると感じた.
学問にしろ,指導にしろ,教育にしろ,
人は自分が生きてきた経験を基本的かつ潜在的に一番大切にする.
おおざっぱな人,細かな人,どれもその人を表す行動であり,
その行動を生み出すのは認知であり,
そしてそれは経験に裏付けられたものである.
ことばは振る舞いはその人自身の生きてきた脳のなか.
学問をして,研究している人,
データは数値だが,その情報性は主観である.
その人が生きていくために研究をする.
ポジティブなデータが出るように仮説をたてる.
そしてその母集団を選ぶ.
そしてそれを公表する.
そしてその情報を選択する人はその情報をポジティブと思っているから.
と思うと,それは社会に連鎖し,
1つの社会性,構造をつくって,支配していく.
それが最終的には人の高次脳機能のなかでもっとも崇高なもの,
宗教へと進展する.
それを信じる.
データを信じる.ということはその人の志向性(最終的には人自身)を信じるということであり,
教育にも大きく根付いている.
それが人間社会である.
そう考えれば,いろんなところで教育の違いや情報の違いや臨床の違いが起こって当然である.
そこでお互いが批判しあってもしょうがない.
もっと大きなところで勝負しないと何も見えないのである.
人よりも一段高いところから時代を眺め,何がこれからの未来に必要か,
そんなことを自分自身で考え続けることを教えることが,
本当の教育だと思う.
人に対して謙虚というよりは,自分自身の今に対してもっと謙虚になること.
これが欠けていくことが不確実性を奪って自由度を狭めてしまう.
バイザー会議中そんなことを思いながら,
議題の進行をした.
時間がなくて残念であった.
いろんな意見を引き出し,
双方向性に意見をぶつけ,
そして,論理を磨き,
1つの方向性を導き出す.
そういうプロセスに実にかけていた.
私の問題でもある.
バイザー会議を終え,
遠方から来ていただいている先生方と少しお話をして,
大学院生でバイザーの佐藤君に2時間のドライブを要求し,
兵庫のリハセンターまで送ってもらった.
19時半に懇親会場につき,
コース1日目の状況を聞き,
講師の先生方やスタッフと話をする.
兵庫のコースは実に長くなった.
1年目に出会ったPTたちももう33歳.
ファミリー同然の関係になった.
兵庫のリハセンターのスタッフらは.
「阿吽」のラインまで行っており,
みんな苦痛の表情が見られない.
もう自分の仕事の一つと自然と動く.
23時過ぎに茨城の講演を終えた宮本先生とロックバーと合流し,
2時前までメタファー言語のこと,などを中心に論議した.
サイエンスをするための分析と介入するための手続き,
それがメタファー言語においては混同されているという共通の視点を議論し,
臨床家に親父的な苦言を呈した.
翌日は9時より11時まで講義を行った.
のちのアンケートを見る限りでは好評だったようだ.
私は大きな学会や研修会ではスライドを使い一方的に喋りまくるが,
こうした講習会では使わず,横道にそれながら話していく.
理解はこっちが進むし,これが本当の私の講義スタイル.
学会で一方的に早口でまくしたてるのは,
ある意図があるのである.
詳しくは言わないが,若いセラピストに教えてあげようとかこれっぽっちも思っていない.僕よりも上の世代に対するメッセージなのである.
この講演スタイルは.
一方,コースへきている人たちには双方向性に行う.
それは仲間だからである.
13時より実技をグループで演習し,
適宜,デモをしながら,何を調べないといけないかということを話した.
臨床は最前線の研究の場である.
その日はレセプション.
龍馬伝を見れずに残念だが,
アフター講習会が実は講習会では意味を持つ.
私の周りは今回は意味が見出せなかったと思うが・・・
毎回毎回熱い論議もできない・・・ときもある.
1時ごろまで飲み続け,
香川―木俣の漫才を見ながら,笑うという幸せを感じる.
翌日は9時より症例検討を行い,
15時に終了した.
今回は講師に強さがあったコースであった.
時に強さも大事である.
評判は上々であった.
それなりに,いや相当に私たちは勉強している.
時代を変えていく気概を持っているっていうことは
人一倍,勉強し,考え続けているのである.
人間ということを.
16時過ぎに西明石を出て,
生野―山下コンビに誘導されながら,帰り着いた.
どこでもドアがほしいと思うようになってきた.
もはや移動というものは,もっとも私から捨てたいものとなった.
毎週毎週,移動するっていうのは無にある一方で,
相当に不快になるときもある.自動化っていうのは不快なのかもしれない.