INSIDE SORAMAME

私の頭の中のキオクを綴っていくつもりです・・

see the light of day(14)

2017年02月11日 | バス━ 未分類
(つづき)
今回は思い付きで、西鉄バス福岡地区の40番台について書いた過去記事からピックアップ。

まとめが続いていますが、ブログを春で終わらせるつもり…というわけではありません、とりあえず今のところ(笑)。
なお、基本的に記事をそのまま転載しているため、情報は当時のままです(ずっと変わらないと書いている「46番」は、昨年春に久々に変わっています)。


1.甘木の「40番」と板付団地の「40番」2008年3月7日の記事

「5番」(能古渡船場~西新~博多駅線)の廃止、これは結構意外だった。
この「5番」は、もともと「1番」の能古渡船場行きが「愛宕下経由」から「博物館南口経由」に変更になってしばらくして、「1番」から分離されてできたものである。

愛宕下経由の頃は「1番」でもよかったのだろうが、さすがに脇山口交差点を曲がって北上するようになっても「1番」というのはかなりわかりにくかったらしく(このバスは藤崎方面には行きませんというアナウンスも流れていた)、「1番」から独立して「5番」となり「能古渡船場~博物館南口~西新~天神」の路線となった(のちに博多駅まで再延長)。

ちなみに、「1番」の時代は、博多駅から先、板付7丁目まで運行されていた。
学生時代、山王公園前バス停そばの南近代ビルで、ベネッセの「進研模試」の採点のバイトをしていたのだが、西新や天神から一つ前の瑞穂まで220円で行けるためこの路線をよく利用していた。

「5番」ができた際、この板付七丁目線については「40番」として独立し、「板付七丁目~博多駅~天神~西公園」という路線となった(現在は天神や西公園までは運行されていない)。

現在「二日市~甘木~杷木」を走っている「40番」は、かつて博多駅や天神まで運行されており、この「40番」というのは福岡市内線の連番の名残なのだが、板付七丁目線が新たに「40番」となることでその面影が薄れ、ひとつの時代が終わったなぁ…と思ったものだった(ただしその後、甘木から都市高速経由で博多駅に向かう路線が「40」の末尾に「0」を付けた「400番」として新設されており、「40番の本家は私だ」と主張しているようにも見える)。

しかし考えてみれば、現在の「5番」も「40番」も以前はすべて「1番」だったわけで、さらに姪浜駅以南が分割される前のことを考えれば、「1番」がどれだけ複雑な路線であったかがわかる。


2.「41番」と「43番」について~飛ばされた「42番」とその野望~2010年5月28日の記事


「43番」はもともと、「雑餉隈営業所~中~金隈~板付~東光町~堅粕~博多駅~明治通~天神~赤坂門~薬院大通~動物園」というルートで運行されていたが、郊外部&都心部の両端がそれぞれ切れて、真ん中だけが残っているという点では「68番」にも共通するものがある。
なお、「43番」自体は、「雑餉隈営業所~中~金隈~宝満尾~福岡空港」という新たな系統ができ、現在はそちらがメインとなっている(緑橋経由の「33番」廃止後、無番の「金隈~福岡空港」を経て、登場したという記憶がある)。

「金隈~博多駅」の「43番」と、「雑餉隈~福岡空港」の「43番」は、「金隈~月隈間」のほんのわずかな区間しか重複しないのに、どちらも同じ「43番」という状態になっている(「タワー~博多駅」と「博多駅~ゆめタウン博多」の「15番」よりはましだろうか??)。

もともとの「43番」は、「41番」と兄弟関係にあり、ともに雑餉隈と福岡都心部を結んでいて、「麦野経由」(41番)か「金隈経由」(43番)か、という違いだったのだが、今では「兄弟」の面影は薄くなってしまった。
現在、「東光町」と「博多駅」の間は、「43番」がここ「堅粕」に停車するのに対して、「41番」は東光橋を渡るためどこにも停車しないのだが、以前はどちらも堅粕経由だったと思う(←もともとは東光橋自体がなかったんでしょうけど)。

なお、「兄弟」であるにも関わらず、「44番」と「45番」、「47番」と「48番」、「51番」と「52番」、「56番」と「57番」…のように、番号が続いていないのは、当初「42」という番号を忌み嫌ったためではないかと推測される。
同じく忌み嫌われそうな「44番」も、もともとは「45番」の一部だったものが、のちに分割されたと思う。
そして、「42」についても、その後、番号が足りなくなって、縁起を担ぎ続ける訳にもいかなくなり、「春日~大橋線」の番号として使われるようになり、現在に至っている。

ただ、この「42番」は、福岡市内線というよりは春日ローカル線といったほうがよさそうなルートであり(方向幕の行先番号も丸数字)、敢えて「42」を付ける必要があったのか?という気もする。
しかしもっと深読みすれば、“はじめは大橋駅までの運行でスタートさせるが、いずれは天神や博多駅など、福岡都心部に乗り入れてみせるぞ!”という密かな「野望」があったのかもしれない。


3.相対的に新しい「44番」と筑紫通り前史2011年7月28日2016年10月14日の記事)


福岡市博多区の「麦野四丁目」バス停。

「雑餉隈営業所~南本町~麦野四丁目~諸岡四角~青果市場前~山王一丁目~博多駅~住吉~天神~都市高速~福岡タワー南口」を結ぶ「44番」のルートになっている。

このバス停は通称「筑紫通り」上にあるのだが、「麦野」の下にコトバが付かない単に「麦野」という名称のバス停は、「41番」が通る県道福岡日田線(旧国道3号)上にある。

県道福岡日田線上には、「板付」というバス停もある。
そして、「板付」の下にコトバが付く「板付新橋」は「麦野四丁目」と同じく「筑紫通り」上に、そして「板付四丁目」「板付七丁目」などは県道福岡日田線と「筑紫通り」の間のまた別の筋にある。
「板付」「麦野」ともに、それぞれの町域の中央部に位置するという訳ではないにもかかわらず、下にコトバが付かない名称のバス停を県道福岡日田線が独占している。
もし、全く白紙の状態から一斉にバス停に名前を付けたとすると、こういうことは起こらないと考えられ、路線網の成り立ちというか、形成の過程を窺い知ることができて面白い。

このような例は、清水(町)、梅光園、警弥郷、橋本…などでも同様といえるかも(全く同じという訳ではありませんが)。

ちなみに、このバス停が立っている住所は、郊外向けは「麦野四丁目」だが、写真の都心向けは「三筑二丁目」である。
「三筑」は、バス停の名称にはなっていない地名であり、城南区「松山」と同じく私にとっては近くて遠い場所である(笑)。


「那珂小学校」交差点で、筑紫通りから北西に分岐するこの道路は、かつてのバス通りだが、ここをバスで通った記憶がないのが悔やまれる。
まっすぐ行くと「東光寺」。


青が旧バス通り。
道路のつながり方をみると、これと並行する赤の部分に新しい道路を造りたかったのでは?という意図が感じられる。


ただし、現在の都市計画図にはそのような計画線はなし(赤い線は用途地域の境界、紫やピンクの色は用途地域であり、都市計画道路とは関係なし)。
間に古墳や工場があって難しそうだったから早々に諦めたのでは?などとも考えるのだが、その計画の有無を含め、全て想像です。


4.遠回り(←褒め言葉)の「45番」2012年10月14日2010年5月9日の記事)


博多バスターミナルにて「45番」の側面表示。

例えば、バス路線の「線」が引かれていない地図と照らし合わせながらこの行先表示を見ても、“どの道を通って終点の雑餉隈営業所まで行くのか?”というのはまずわからないと思われる。
ただ、「36番」「46番」「74番」…など、同様の路線には、経路がわかりやすい路線以上に魅力を感じてしまうのも事実。


福岡市では、「千代町」「警固町」などの旧町名の後に「丁目」を付ける場合、「千代一丁目」「警固二丁目」のように「町」が取れるケースが多いと思うのだが、春日市では「宝一丁目」「光三丁目」「春日原北四丁目」などとはならず、「宝町一丁目」「光町三丁目」「春日原北町四丁目」など、「町」が取れなかったケースが多い(←一つ一つ検証した訳ではなく、イメージで書いているので、事実誤認の可能性もあります)。
このあたりは、自治体の考え方次第なのだろうか。

また、春日市には「住居表示」というものがなく、「地番」が「住居表示」のように機能しているという珍しい市でもある。
そういう意味でも「お宝」かも。

ここ「宝町」を通る路線は「45番」と「45-1番」だが、行先番号の種類の割に系統数は多い。
天神や福岡タワーまで行かなくなり、都心部では影が薄くなってしまった感がある「45番」だが、郊外部では、福岡女学院がある限り賑わいが続きそうだ。
ただ、都市計画道路長浜太宰府線の、三宅本町から寺田池までの間が開通すれば、人の流れが井尻から大橋にシフトする可能性はある。

私が子供のころは、昇町方面から来た「45番」は宝町交差点を左折して、県道福岡筑紫野線を北上、岡本交差点を右折して雑餉隈営業所に向かっていたが、後に、宝町交差点を直進する「大和町一丁目経由」ができ、両者が併存していたが、その後、現在の「大和町一丁目経由」だけが残った。
それより昔は、「45番」は「唐梨経由」だったという記述をどこかで見たこともあるのだが、その頃のことは知らない。


5.我が道を行く「46番」2010年9月26日の記事


「博多ふ頭~博多ふ頭入口~対馬小路~市民会館前~天神北~天神大丸前~天神一丁目~キャナルシティ博多前~駅前三丁目~博多駅~駅前四丁目~東領団地~アサヒビール前~竹下~井尻一丁目~井尻駅入口~井尻六ツ角~精華女子短大前~寿町二丁目~JR南福岡駅~雑餉隈営業所」を走る「46番」の天神地区における側面表示。

博多駅から雑餉隈営業所に向かうルートは複数あり、かつ、「46番」が雑餉隈営業所まで行くようになったのはつい最近(今年3月23日)で、博多駅から雑餉隈へのメインルートでもないことから(雑餉隈まで延長される前は井尻六ツ角が終点)、「博多駅→雑餉隈営業所」という表示ではやや不親切に見える(前面の行先表示も、行先部分の上に大文字で博多駅、下に雑餉隈営となっている)。
“博多駅から先の利用者は常連客なので「46」という番号で判断できるだろうから、天神地区においては、博多駅までの利用者に対してわかりやすい表示にすることを主眼に置こう”という考えもわからないではないのだが、せめて「竹下」と、できれば「井尻」はどうにかして入れてほしい気はする。

なお「46番」の郊外部は、「井尻六ツ角」までの運行となるさらに前は、「~放送所前~昇町~上白水~現人橋~道善~那珂川営業所」まで運行されており(一時期は「天神山行き」もあり)、そしてさらにその前は、もっと郊外の「大山」まで運行されていたそうだ。

都心部についても、「博多ふ頭」が始発となる前は「天神」や「那の津四丁目」を基点としていた(なお、当初は国体道路経由ではなく昭和通り経由で、天神郵便局前から出ていたようだ)。
郊外部と都心部での変化はあるものの、「駅前四丁目~竹下~井尻」間については、私がバスに興味を持ってから既に30年以上が経つが、その間ずっと固定されており、この区間に「46番」以外のバスが通ったこともないと思われ、都市部にありながら、距離的にも期間的にも、路線がずっと固定されている。

このことを以前書いた際、ひろしさんから「担当営業所はちょこちょこ変わりましたけどね。」というコメントをいただいた。
たしかに、現在は「雑餉隈営業所」が担当しているが(←私が担当営業所とか車両のことについてほとんど興味がないため、違っていたらごめんなさい)、福岡の「1番」や大野城の「12番」などとともにKassyさんから提供していただいた平成9年の「46番」の時刻表では担当は「高速営業所」となっているし、「那珂川営業所」が担当していたこともあったと思う。

「46番」が長年あまり変わらないのは、「46番」には「営業所への帰属意識」というものがあまり強くなく、各営業所とも、「46番」という路線を「持っている」というよりは「預かっている」くらいの心もちなので、あまり大きく変えることには気持ちが向かわないのかもしれない。
そう考えると、井尻六ツ角から雑餉隈営業所までの延長というのは、かなり画期的なことといえるのかもしれない。

今後さらに、以前提案したルート変更竹下駅への「46番」以外の路線の乗り入れなどが行われることはあるだろうか…。


6.仲の良い「47番」と「48番」2009年9月11日2008年9月27日の記事)


福岡市博多区の「塩原橋」バス停。

福岡地区の兄弟路線「47番」と「48番」の違いは、郊外側の終点が「那珂川営業所(47)」か「レークヒルズ野多目(48)」かと、パナソニック前~清水四丁目間が「清水一丁目・清水二丁目経由(47)」か「美野島南公園前・塩原橋経由(48)」か(=那珂川の西岸経由か東岸経由か=どちらが早く那珂川を渡るか)という2点である。

2点めの違いについては、現在「47番」が通っている道路が開通する前は、全て「美野島南公園前・塩原橋経由」だったようだ(ただし、かつては「美野島南公園前」ではなく「福岡製紙前」)。
個人的には、「清水一丁目・清水二丁目経由」よりも「美野島南公園前・塩原橋経由」のほうが好きであり、「47番」と「48番」なら、つい「48番」を選んで乗ってしまう傾向にある。

ただ、最近は橋の架け替えに伴うルート変更により、那珂川東岸での滞在時間は以前より短くなっている(現在は「これより右折」して橋を渡るが、以前は「もう少し直進」だった)。
那珂川とJRの博多運転区により隔てられている南区の清水・塩原地区と博多区の美野島・竹下地区だが、橋の架け替えや新設を含むこのあたりの再開発により、心理的な距離は、以前に比べて縮まってきているような気がする。

バス停の行先案内の部分には、「48 福商・野多目」と表示されているが、2007年3月以降は、「63番」もここを通るようになっている。
「福商」とは「福商高校前」のことであり、福商高校とは福岡商業高校のことだが、現在は校名、バス停名ともに「福翔高校」に改称されている。
「福商高校前」は、かつては「48番」の「狭義の終点」であったが、現在は「福翔高校」を複乗して、「レークヒルズ野多目」まで延長されている。
「福商・野多目」という表現は、「校名変更よりもレークヒルズ延長のほうが時系列的に先」ということを物語っているといえそうだ。


「47番」「48番」の昭和58年8月1日当時の時刻表。

松下電器前(現在の「パナソニック前」)からは、以下の行先が運行されていた(本数は平日のもの)。

・都心向け
「47番」「48番」
 駅前四丁目経由博多駅行き…61本
「47番」
 駅前四丁目、博多駅経由祗園町行き…22本
「48番」
 駅南三丁目経由博多駅行き…6本

・郊外向け
「47番」
 清水二丁目経由、大橋駅経由那珂川営業所行き…31本
「47番」
 清水二丁目経由大橋駅行き…8本
「47番」
 清水二丁目、大橋駅経由三宅本町行き…18本
「47番」
 清水二丁目、大橋駅経由福商高校行き…2本
「48番」
 福岡製紙前、大橋駅経由福商高校行き…29本

当時の都心向けは合計で89本であったが、現在は132本となっており、約1.5倍に増えている。

都心向けに関しては、現在は博多駅から博多埠頭まで終点が延びている(ただし、博多駅→博多埠頭間は「99番」として運行)。
また、当時は「祗園町行き」が存在した(「博多駅」の下に小さく「(渕上前・祗園町)」と書かれた方向幕があったことを記憶している)。
「駅南三丁目経由」は、この時点で6本しかないが、現在でもしぶとく生き延びている。

郊外向けの「福商高校」とは、今の「福翔高校」のことであり、現在はそこから「レークヒルズ野多目」まで終点が延びている。
当時は、通学用に「大橋駅~福商高校」の区間便も存在した。
「福岡製紙前」は、その後「本州製紙前」→「美野島南公園前」と名称を変えており、工業地域から住宅地域へと変わっていく様子を反映している。
また、当時は「47番」に「三宅本町行き」が存在したが、西高下、三軒屋、小笹団地東門などと同様、途中の折り返し場は減少傾向にある。

松下電器前~清水二丁目~塩原方面の道路は比較的新しく、もともとはすべて「福岡製紙前」を通っていたが、その後、「47番」が清水二丁目経由、「48番」が福岡製紙経由と区分されるようなった。
また、美野島交差点~博多駅前四丁目交差点に関しても、昔は、現在の経路(旧鹿児島本線の線路跡の道路)ではなく、そのひとつ西側の道路(通称「小柳通り」)を通っていた。
ただし、この二つについてはリアルタイムでの記憶がないため、過去の地図やその後見聞きした情報などを総合したうえでの推定であり、誤りがあるかもしれません。


7.飯倉にも来ていた「49番」2008年6月6日の記事


昭和59年4月27日時点の「49番」の時刻表の一部。

「49番」は当初、弥永団地~天神間で運行をスタートした。
それまで弥永団地には「45番」のみが乗り入れており、昇町経由で井尻駅、博多駅方面、及び南福岡駅、雑餉隈営業所方面への路線が運行されていたが、香蘭短大前交差点から那珂川町方面に抜ける通称「新幹線通り」の整備により、この道路を通って大橋駅、天神方面に向かう「49番」が新設され、福岡都心部への利便性が向上した(現在、弥永団地に「45番」は乗り入れていない)。

昭和58年3月の福岡市営地下鉄1号線(現在の空港線)の姪浜までの開通のときの大改正により、「49番」は「西と南の副都心(西新と大橋)を結ぶ」という使命を担って、天神から先、貫線(現在の明治通り)、西新を経由して飯倉まで延長された。

なお、このときの改正で「西と東の副都心(西新と香椎)を結ぶ」ということで、「2番」が城浜団地、香椎花園まで延長された。
ただ、「2番」の城浜団地行きは香椎を通らないし、また「49番」についても、本当に西新と大橋を結ぼうという気があればもっと速いルートもある訳で、「副都心を結ぶ」というコンセプトも「後付け」の感が強い。
実際のところは、「とりあえずいろんなところを直通で結んで乗り換えの必要性を減らして、地下鉄に対抗しよう」という、現在も脈々と受け継がれる思想がバックにあったような気がする。

なお、飯倉行きは短期間で縮小され、西新止めが多くなり、最終的には天神から西へ向かうルートは廃止された。
また、弥永団地より南の郊外部分については、JR博多南駅の開業や、春日市南部や那珂川町の住宅団地開発(白水ケ丘や観晴が丘など)等に合わせて路線延長が行われている。

当時、弥永団地からの上りの本数(平日)は、
 西鉄大橋駅止め 24本
 天神止め    1本
 飯倉営業所行き 28本
の計53本であったが、現在では、
 西鉄大橋駅止め 44本
 天神方面行き  41本(天神行き、那の津4丁目行き、「630番」と連続運行する呉服町方面行きの合計)
の計85本となっており、約1.6倍に増えている。

ちなみに、「49番」のオリジナルルート上には福岡市南区の曰佐(おさ)地区(「お」の字は「曰」であり「日」ではない)があるが、読みにくいという判断からか、「49番」が走り始めた頃の方向幕には「曰佐」に「ふりがな」が振ってあった。
(つづく)

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2 コメント

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こんばんは。 (なずな)
2017-02-11 03:01:31
冒頭の福岡女学院のバス乗り場、
懐かしく拝見させて頂きました。
井尻駅からここまで毎日歩いた6年間を、
いろいろと思い出しました。
もうあの界隈もずいぶんと変わったことでしょうね。
ありがとうございました。
返信する
Unknown (soramame)
2017-02-12 11:21:32
なずなさん、こんにちは。

井尻交差点の女学院のバス乗り場の画像は、

http://blog.goo.ne.jp/soramame_1973/e/3e120aee8238468502431c9e47494130

こちらの記事の中にも8枚ほど載せています。
よかったらご覧ください。
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