INSIDE SORAMAME

私の頭の中のキオクを綴っていくつもりです・・

no alternative(4)

2010年05月28日 |   ┣ no alternative
(つづき)
福岡市博多区の「堅粕」バス停。
電照式ではないのに英字表記があるタイプのバス停は、福岡地区ではあまり見かけなくなった。

行先案内にある「隣保館、明治通経由大名二丁目行き」は、今はなき「41-1番」(「50番」から改番して「41-1番」になった)である。

現在は、金隈(バス停的には「金隈」、町名的には「金の隈」であり、「桜(ケ)丘」とは逆のパターンである)と博多駅を結ぶ「43番」がわずかに停車するだけであり、このバス停からは終点の「博多駅」にしか行けず、路線図も見事に「no alternative」である。

「43番」はもともと、「雑餉隈営業所~中~金隈~板付~東光町~堅粕~博多駅~明治通~天神~赤坂門~薬院大通~動物園」というルートで運行されていたが、郊外部&都心部の両端がそれぞれ切れて、真ん中だけが残っているという点では「68番」にも共通するものがある。
なお、「43番」自体は、「雑餉隈営業所~中~金隈~宝満尾~福岡空港」という新たな系統ができ、現在はそちらがメインとなっている(緑橋経由の「33番」廃止後、無番の「金隈~福岡空港」を経て、登場したという記憶がある)。
「金隈~博多駅」の「43番」と、「雑餉隈~福岡空港」の「43番」は、「金隈~月隈間」のほんのわずかな区間しか重複しないのに、どちらも同じ「43番」という状態になっている(「タワー~博多駅」と「博多駅~ゆめタウン博多」の「15番」よりはましだろうか??)。

もともとの「43番」は、「41番」と兄弟関係にあり、ともに雑餉隈と福岡都心部を結んでいて、「麦野経由」(41番)か「金隈経由」(43番)か、という違いだったのだが、今では「兄弟」の面影は薄くなってしまった。
現在、「東光町」と「博多駅」の間は、「43番」がここ「堅粕」に停車するのに対して、「41番」は東光橋を渡るためどこにも停車しないのだが、以前はどちらも堅粕経由だったと思う(←もともとは東光橋自体がなかったんでしょうけど)。
なお、「兄弟」であるにも関わらず、「44番」と「45番」、「47番」と「48番」「51番」と「52番」「56番」と「57番」…のように、番号が続いていないのは、当初「42」という番号を忌み嫌ったためではないかと推測される。
同じく忌み嫌われそうな「44番」も、もともとは「45番」の一部だったものが、のちに分割されたと思う。
そして、「42」についても、その後、番号が足りなくなって、縁起を担ぎ続ける訳にもいかなくなり、「春日~大橋線」の番号として使われるようになり、現在に至っている。
ただ、この「42番」は、福岡市内線というよりは春日ローカル線といったほうがよさそうなルートであり(方向幕の行先番号も丸数字)、敢えて「42」を付ける必要があったのか?という気もする。
しかしもっと深読みすれば、“はじめは大橋駅までの運行でスタートさせるが、いずれは天神や博多駅など、福岡都心部に乗り入れてみせるぞ!”という密かな「野望」があったのかもしれない。

“「東光町」と「博多駅」の間は、「43番」がここ「堅粕」に停車するのに対して、「41番」は東光橋を渡るためどこにも停車しない”と書いた。
「41番」の博多駅行きに乗っていると、「このバスは堅粕を通りません」というアナウンスを耳にする。
「43番」の博多駅系統がそこそこの本数走っていた頃は、少なからず乗り間違えが発生していたためだと思われる。
「A」という系統はバス停「あ」とバス停「う」の間にバス停「い」に停車するのに対して、「B」という系統は「あ」と「う」の間にどこにも停車しない(「あ」と「う」の間にバス停自体が一つもない)というケースは、その案内が意外に難しい。
「堅粕を通らない」からといって、バスの行先表示に「堅粕通過」などと表示すると、「堅粕」という文字だけを見て、逆に「堅粕に行くんだ」と思われてしまう可能性が高く、下手に表示できないというジレンマがありそうな気がする。
「あ」と「う」の間に、「い」に対応して「い´」というバス停があるのであれば、一気に問題は解決するのだが、そのためだけにバス停を設置するのも本末転倒である。

赤間急行」で、広陵台の住宅地の中に入らないで、そのまま日赤看護大学に向かう便については、天神バスセンターの時刻表では「広陵台中央公園直進」という案内をしているし、北九州市営バスで若松市街地に立ち寄らずにそのまま若戸大橋に乗って戸畑、小倉方面に向かうものは「大橋直行」という表現を使う(←今は違いますかね?)など、同種の系統では、いろいろと苦心の跡がうかがえる。
「39番」(福岡空港~豊二丁目間)のように、「快速」という表現を使う手もあるが、「43番」に対して「41番」が快速か?といえばそれはどうも違う気がするし、「42番」や「45番」の女学院を経由しない便などについてはなおさらである。
一方で、「熊西局通過」のように、通過する停留所をストレートに出す例もあって、このあたりはケースバイケースといったところだろうか。

以前、早良妙見東口と片江営業所を結ぶ区間便(無番)に「福大病院に立ち寄るもの」と「福大病院に立ち寄らないもの」があったとき、前者の行先表示は普通に「福大病院 片江営」であるのに対し、後者は「倉瀬戸 片江営」と表現されていた。
前者も「倉瀬戸」(現在の「西片江二丁目」)を通るので、「倉瀬戸 片江営」という表示では「福大病院に立ち寄らない」ことの直接的な説明にはなっていない。
ただ、またまた深読みすれば、「福大病院の近くに行くにも関わらず、福大病院と書いていない→福大病院に立ち寄るのならば、きっとその旨を表示するはずなのに、そのすぐ近くの倉瀬戸だけが書いてある→ということは、福大病院には行かないのでは?」ということをどうにか感じ取ってほしいというメッセージのように私には見えた。

ここ「堅粕」も、廃止候補にあがっている。
「43番」の堅粕経由は空港通り開通前のルートの名残り、そして「41-1番」は博多駅が現在の位置に移転する前のルートの名残りであると思われる。
来年、博多駅が生まれ変わろうとしている現代にあって、時代に取り残されたまま、その役割を終えてしまうかもしれないと思うと寂しいものがある。
(つづく)


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6 コメント

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Unknown (umi37)
2010-05-29 09:49:26
おはようございます。
地元なのでコメントさせていただきます。
堅粕バス停は、昔は7番・37番・50番(雑餉隈~板付~堅粕~祇園町~昭和通り~天神)・63番が停車していました。昭和40年代は37番は通過していました。その後、41番が開設されて堅粕に停まるようになり、7番が43番に変更になり、50番が41-1番となり、37番と63番が廃止になって、41-1番も廃止になり、現在の姿になっています。
東光橋は博多駅が現在地に移転したときに作られ、空港連絡バス・37番・38番・40番が通っていました。41番は開設当初は堅粕を通っていましたが、その後東光橋経由に変更になっています。その名残で、変更後20年以上経った今でも「このバスは堅粕を通りません」というアナウンスを流しています。
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Unknown (umi37)
2010-05-29 09:58:52
追加です…
空港通東光二丁目交差点から空港口交差点は昭和56年頃開通しましたが、空港口~福岡空港・博多駅~東光二丁目はずっと以前からありました。昔の空港連絡バスは今の38番ルートで走っていて、空港口交差点(百年橋通りと空港通りの交差点)から福岡空港にショートカットしていました。
なので、43番ルートと空港通り開通前のルートとは何の因果関係もありません。
しいて言うなら、博多駅移転前のルートを通っていたと言う事です。
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Unknown (Tokyo Chikushi)
2010-05-29 20:20:01
元々、7番と表示された「板付線」に末端部が「麦野経由(3号線直進)」のものと「金隈経由(東側を迂回)」のものがあり、方向幕の表示で区別していたものが、麦野と金隈の経由の違いにより41番と43番に行き先番号を分けたものと思っていましたが、そうでもないのですね。

同じく兄弟の「44番」「45番」については、確かに元はどちらも「45番」諸岡線で、方向幕で、「南本町経由」と「井尻駅昇町経由」と表示して区別していたと記憶します。
筑紫通りは比較的新しい道路ですから、おそらく元は井尻駅昇町経由だけだったのが、筑紫通り全通に伴い亜型としての南本町経由ができたのではないかと推測します。
その昔父が、新しい道ができたと言って、天神方面へクルマで行く時に、山田で左へ曲がらずにその先(麦野付近か)で3号線から左斜め方向に分かれ筑紫通りに入る道を通るようになりました。
なお南本町は、佐賀行き長崎行き特急も止まる枢要なバス停でした。

63番の堅粕経由は、日に数本の博商前折り返しで、「比恵第一」「比恵第二」を通る稀少なバスでしたね。

博多駅を発車して3号線に出るまでのルートは、渡る橋の違いだけでなく、駅から橋までの通る経路も一様でないように思えるのですが、実際はどうなのでしょう?地図を広げてみるとバスルートを示す線がいくつも書かれているのを見て以前から不思議に思っています。
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Unknown (soramame)
2010-05-31 16:23:12
umi37さん、Tokyo Chikushiさんこんにちは。

>元々、7番と表示された「板付線」に末端部が「麦野経由(3号線直進)」のものと「金隈経由(東側を迂回)」のものがあり、方向幕の表示で区別していたものが、麦野と金隈の経由の違いにより41番と43番に行き先番号を分けたものと思っていましたが、そうでもないのですね。

私もそのように認識していましたが、実際はもっと複雑なようですね。
勉強になります。

>山田で左へ曲がらずにその先(麦野付近か)で3号線から左斜め方向に分かれ筑紫通りに入る道

「左斜め方向に分かれ筑紫通りに入る道」は、旧3号を北上してきた車両を筑紫通りに分散させるという目的が、地図で見ても明快にわかる道路ですよね(旧3号側の交差点は「筑紫通入口」という名称が付いています)。

>博多駅を発車して3号線に出るまでのルートは、渡る橋の違いだけでなく、駅から橋までの通る経路も一様でないように思えるのですが、実際はどうなのでしょう?地図を広げてみるとバスルートを示す線がいくつも書かれているのを見て以前から不思議に思っています。

地図によって引いてある線が違うこともあり、私がわからないルートを見た記憶もあるため答えにならないかもしれませんが、博多駅~堅粕間が、一方通行の関係で、若八幡の前の道経由と線路沿い経由の二通りあるからではないかと思います。
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Unknown (Tokyo Chikushi)
2011-11-21 19:26:55
くふう(37)赤間急行時刻表の記事から、誘導されるままに堅粕バス停の記事に移り、読んでいるうちに思い出したことを書きます。

昭和50年代、福岡自動車専門学校(試験場の隣)に通っていた頃、教習の後によく野間線のバスに乗って天神に出て帰っていました。
51番、野間(皿山)線の方向幕表示は、「皿山・高宮・昭和通・天神経由月見町」
52番、野間(長住)線の方向幕表示は、「長住・高宮・昭和通・天神経由月見町」
「皿山」と「長住」の部分だけ違っていてその部分は赤字、他に「昭和通」も赤字でした。
もちろん、途中に入れた「・」はわかりやすいようにこの場で入れただけで実際にはありません。
よく似た経由地です。でもこの二つは番号が違っているからまだいい。

もう一つの52番は、「長住・寺塚・高宮・昭和通・天神経由月見町」でした。
これって、堅粕のケースや倉瀬戸のケースと似ていませんか。
倉瀬戸ケースと違っているのは、寺塚経由の便にも「長住」の文字が入っていたことです。「長住○丁目」というバス停をたくさん通るので、寺塚経由を際立たせる目的のために「長住」の二文字を省略するわけにもいかなかったのでしょう。

当時、53番野間(皿山)急行線は本数が少なく、実際に見ることはほとんどなく、方向幕の記憶が曖昧です。現在の日赤通りを経由することを「那の川」を経由地として入れることで表示していたようなおぼろげな記憶があります(日赤通り、という名称はまだありませんでしたから)。
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Unknown (soramame)
2011-11-22 12:44:02
Tokyo Chikushiさん、こんにちは。

>もう一つの52番は、「長住・寺塚・高宮・昭和通・天神経由月見町」でした。
>これって、堅粕のケースや倉瀬戸のケースと似ていませんか。
>倉瀬戸ケースと違っているのは、寺塚経由の便にも「長住」の文字が入っていたことです。「長住○丁目」というバス停をたくさん通るので、寺塚経由を際立たせる目的のために「長住」の二文字を省略するわけにもいかなかったのでしょう。


たしかに。
寺塚経由が通る「寺塚、穴観音」に対応する、寺塚非経由の便が通るバス停は「長住一丁目」ですが、両者ともに、「長住」を冠するバス停を他にもたくさん通る訳ですから、「長住一丁目経由」などと表示したとしても、「寺塚経由ではない」ということが十分に伝わらない→だったら、敢えて何も表示しないでおこうということなのでしょうね。

「何も表示していない=ベーシックなルートを通る」という認識もどこかにあるのかもしれません。
名島~御幸町間で城浜団地・香椎浜地区を通らずにそのまま国道3号を直進するものにも、特にその間のバス停(千早、名香野)が経由地として表示されていませんし、2番に「田隈経由」ができてしばらくの間はそれに対応した「次郎丸経由」という呼び方もなかったと思います。
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