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ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(10)

2020-11-04 17:56:09 | 小説
町田朋子は自らが経営するメンタルクリニックの仕事を終え、近くのレストランで少し遅めの夕食をとっていた。本当ならその後、居酒屋やバーで酒を飲みたいところだが、車を運転しなければならず、そうもいかない。窓から小さな夜景を眺めながら、町田はある人のことを考えていた。川奈佐世子。半月ほど前に一度だけ顔を合わせた患者である。まず強く印象に残ったのは、実年齢50歳とはかけ離れた外見の若さである。話し方の落ち着きやしぐさなどを含めれば20代後半には見えるが、純粋に見栄えだけで判断すれば、20代前半にしか見えない。これまでの半生、様々な人間と接してきたはずである。友人、知人、患者。それに一方的にではあるが、有名人、芸能人。確かに実年齢より若い人は多くいるが、その中でも彼女は飛び抜けている。診察の間、川奈佐世子と話しながら、彼女の老いを探した。首にシワはないか、表情を崩した時、小ジワが浮かばないか、或いはシミがないかの確認をしていたのだ。しかし、どれもこれも20代半ばの域を出なかった。ただ、顔そのものは童顔の造りではない。20歳前後から急速にブレーキがかかり、今に至ったのだろう。

そして佐世子の若く端正な顔立ちと町田の姉の育美が重なり合う。育美はすでにこの世の人ではない。23歳の時、白血病で亡くなった。町田にとって自慢の姉だった。町田より7つ上だったから、今生きていれば佐世子と同じ50歳になっているはずだ。父が外科医だったのだが、町田はそれよりも姉が医者を目指している事をよく友人たちに話した。

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若い罪(9)

2020-11-04 14:24:51 | 小説
そして妙な噂が立ち始めた。「川奈さんは女性と浮気している」さらに「前の奥さんと別れ、若い女性と再婚した」というものだ。こうした疑惑が広まってしまうと、それを鎮めるのは難しい。人事課長としては致命的である。やがて孝は眠りに落ち、そしていつもの時間に目覚め、いつもの時間に自宅を出て、いつものように仕事をこなし、いつものように家路に着くのだ。

役所を出て3か所の横断歩道を渡れば、すぐ駅である。ネオンが映え始めた流れてゆく夕景を眺めながら、「あと2年か」と孝は心で呟いた。50才を過ぎ、そうした噂が耳に入った頃、55歳位で役所を辞めようかという思いが浮かび始めた。そして今ではそれが決まり事のようになっている。
55歳で役所を辞める。ここまでは決まった。問題は第2の人生だ。最近よく耳にする「人生100年」というのは大げさとしても、もし自分が健康に恵まれれば、80代半ばまで生きるかもしれない。とてもそこまでは働けないだろうが、70歳までは現役でいたい。役所退職後の15年、何をすべきか?個人店をオープンすると仮定する。経営に素人の自分が人を雇うのは危険だ。となれば、妻に協力を求めるのが自然な流れではある。しかし、まず佐世子が早期退職を納得してくれるかという問題がある。仮に店を始める決断に賛成し、仕事を協力する事にも前向きだったとしても、今度は自分が迷うのだ。とても夫婦には見えない。父と娘にしか見えない。

「あなた、どうしたの?新聞も読まないでボーっとして」。佐世子が缶ビール片手に近づいてきた。
「ああ、少し疲れてね」
早速、孝は喉を鳴らしながらビールを飲む。
「仕事で何かあった?」
「いや、いつも通りだよ。いつも通りでも疲れる年になったって事だよ」
孝は軽くなった缶をテーブルに置いた。
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若い罪(8)

2020-11-04 09:52:05 | 小説
川奈孝は区役所の人事部の課長である。人事の経験は浅いため、実務は自分より10歳以上年下の山上課長代理に任せ、最終的に彼と相談し、自分が責任を持つことにしている。山上を見ていると、自分の考え方は古いのではないかと思わされることが多い。孝は部下を評価する際、人柄に重きを置いていた。勿論、仕事ぶりも評価する。しかし、それに対しては比較的おおらかで、まずまず出来ればといったアバウトなものだった。しかし、山上は逆である。部下の仕事ぶりに細かく目を光らせている。そして人柄にはほとんど関心を示さない。孝と山上はその意味では正反対なのだが、上司に媚びて出世を望むよりも、市民に対してしっかり仕事ができることが大切という思いは一致している。

パソコンと向き合い、慣れた手つきで入力していく若い職員を見て孝は思う。「俺は本当に役所に必要な人間なのだろうか」と。人事の仕事をしていて、より疑問は深まった。10人いれば5、6人は普通に仕事をこなす。2、3人は役所にとって確実にプラスになる有能な人材。そして残り1人か2人は役所のために辞めた方がいい職員。自分もそこに入ってしまったのではないか?役所に勤めて30年が過ぎた。金太郎飴のような日々を繰り返しているようであっても、若手時代とは職場の雰囲気も区民のニーズも変わってきた。

孝は風呂もシャワーで済ませ、普段よりずいぶん早く寝室に入った。一人で眠るには広すぎるダブルベッドに体を横たえる。そして時に佐世子と向き合っていた日々を思い出す。本当は今でも女性として彼女を好きな気持ちに変わりはないのだ。しかし、お互いが40を過ぎたあたりから他人や近所の目が気になりだし、子供たちの目も気になりだした。それでも孝の佐世子を愛する力が上回り、しばらく夜の関係は続いた。
しかし5年前、抱いている佐世子の顔が長女の麻美に見えた。麻美は佐世子の美貌を強く受け継いでいた。娘を抱いている恐怖感、罪悪感。いかに幻想に過ぎなくても、もう佐世子とは同じ部屋では寝られないと決意を固めた。勿論、佐世子には話していない。真実を話したら彼女自身を傷つけてしまうかもしれないし、嫌悪感を持たれて当然である。麻美は当時まだ10代だっただろうか。その後、孝は麻美とも自然と距離を置くようになった。この頃から歯車が狂い始めたのかもしれない。退職予定の時まですでに2年を切っている。まずは佐世子に話さなければ。そして今後の夫婦の在り方についても。
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若い罪(7)

2020-11-03 14:09:11 | 小説
「外見以外、つまり体の内側はどうなのでしょう。若いままなのか、それなりに老いているのか?」
「疲れやすくはなった気がします。血圧も薬を飲むほどではないですけど少し高めです。血糖値も年相応だと思います。目も近くのものが少し見にくくなってきている気がします」
時に白い天井に目をやりながら、佐世子は慎重に答えた。
「生理はありますか?」
「はい。それはあります」
「なるほど。体の内側はそれなりに年齢を重ねているようですね」
町田は頷いて佐世子に正対した。

「少し手を見せてくれませんか?」
「はい」
佐世子は手のひらを差し出し、次に手の甲を差し出した。町田は触れながら興味深そうに見つめた。指の先から二の腕まで丁寧に診ている。
「うん。若い子の手にしか見えません。きめが細やかで色白で、それほど肌が強そうには見えないですけど綺麗です。顔だけでなく、外見は間違いなく若い女性ですね」
町田は佐世子の腕や手を眺めながら不可思議と羨望が入り交じったような顔をしている。
「白髪は出てきましたか?」
町田はようやく佐世子の手を離した。
「たまに探してみるんですが、まだ出てきてないようです」
「中年太りもなさそうですし」
「若い頃は40キロ台でいたい。50キロにはなりたくないと思っていましたが、今は気にしてません。体重は50キロ前後ですかね」
町田はうんうんと何度か頷いた。
「体の機能的には年相応に時を刻んでいるようですが、外見が止まっているという事のようですね」
町田は似たような話をした。
「確かにそんな感じです」
佐世子は少しだけ刑事に取り調べられている容疑者のような心地がした。このまま町田は核心にまで迫れるのだろうか?期待と不安が入り交じった。しかし取り調べは打ち切りのようだ。
「川奈さんをうつ病と判断するのは少し難しいですね。よって抗うつ薬も抗不安薬もお出ししません。ただ、不眠の症状は出ているようなので、睡眠薬は出せますがどうします?」
「一応、お願いします」
「わかりました。ただし、薬を毎日飲むというのではなく、出来るだけ朝の光を浴びて、あとはよく運動してしっかり食べることが大事です」
「はい、わかりました」
町田はやや思案顔になり、話し始めた。
「次回の予約ですけど、とりあえずは取らないという事で、何か心に変化がみられた時は遠慮なくご連絡ください」
「わかりました」
その言葉しか見当たらず町田に礼を言い、診察室を出た。会計を済ませ、薬局で薬をもらい、佐世子は家路に着いた。

帰宅後は軽く掃除し、夕食を作り、末っ子の彩乃を除いた3人でそれを食べ、片付け。しばらくして風呂に入り、早めに長女の麻美の部屋だった寝室に入った。そしてベッドに寝転がり、今日の町田とのやり取りを反復し、そのまま話が続いたらと仮定し、自分と町田の言葉のやり取りを想像した。
「子供の頃、どんな環境で育ちました?」
静岡で育ちました。父と母と妹の4人家族です。父はサラリーマンで無口でした。だから私や妹を怒ったり褒めるのはもっぱら母の役目でした」
「川奈さんはどんな少女だったんですか?」
「自然が豊かだったので、外で遊ぶ事が多かったです。友人も多い方だったと思います」
「勉強や運動はどうでした?」
「体を動かすのは好きでした。子供の頃から泳ぎが得意で中学では水泳部でした。勉強はあまり出来が良くなかったです」
このようなつたない想像力を働かしても何も変わらない。悟った佐世子は目を閉じた。睡眠薬が少し頭をよぎったが、今夜は眠れそうな気がした。








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若い罪(6)

2020-11-03 11:28:19 | 小説
「最近、よく眠れなくて」
「大体1日何時間ぐらいですか?」
「3~4時間だと思います」
「いつ頃から?」
「何年もかけて徐々にですけど、はっきり眠れなくなってきたと感じたのは、半年ほどでしょうか」
「思い当たる悩みはありますか?」
「何と言ったら良いんでしょうか。特にこの10年ほど、他人の視線が気になるようになりました」
佐世子はテーブルに置かれていた冷めた紅茶で喉を潤した。
「やはり見た目の年齢的なズレですか?」
町田は核心に切り込んできた。
「その通りです」
「そうですよね。5歳、10歳若く見られるのは女性にとって嬉しい事かもしれないけれど、川奈さんのケースはかなり特殊かと」
町田は佐世子の顔を文章を読むように眺めている。
「お父様、お母様はご健在ですか?」
「はい」
「ご両親の見た目の印象はどうですか?」
「最近は会ってませんが、写真で見る限りはそれなりに年を取った気がします」
「年相応ということですか?」
「そうですね」
「ご両親がいまの川奈さんと同じ年頃の時期はどうでしたか?親戚にまで広げても構いません」
町田はやや困惑の面持ちでさらに探りを入れる
「両親は普通だったと思います。親戚も思い当たりません、3つ下の妹がいるのですが、年相応に見えます」
「そうですか。どうやら家系的なものではないようですね」
「少なくとも私の親戚で知る限り、特別若く見える人はいません」

町田も困惑顔だ。テーブルを挟み、少し沈黙が続いた。佐世子は診察の終わりを予測した。その時、町田は口を開いた。
「これは医学的には懐疑的ですが、ハイランダー症候群という話は噂レベルであります。年を取らない病といいますか」
「その人たちは最終的にどうなるんですか」
佐世子は不安そうな顔を見せる。
「万一、そうした病気があったとしたら、やはり外見的な中年期は短くなるのは想像できます。最近、秋を短く感じませんか?」
「はい?ああ、そんな気はします」
佐世子は戸惑いの混じった表情を浮かべる。
「10月でも30度を超える日がありますからね。そうなると必然的に秋は短くなります。秋を中年に置き換えると、やはり川奈さんの中年期は短くなるような気はします」
「先生、私は一体どうすればいいのでしょう?」
佐世子の声にすがるような緊迫感が走った。




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若い罪(5)

2020-11-02 22:22:54 | 小説

8月に入り、暑さはますます激しさを増したようだ。最寄り駅から電車で3駅。東口を5分ほど歩いたところに町田メンタルクリニックの看板が目に入った。少し前から、長女の麻美に相談していた。「それほど大病院ではなく、医者と患者がゆっくり話せて、出来れば医師は女性の方がいいのでは」といった会話から町田メンタルクリニックが浮かび上がった。精神を深く病んでいるとは思わない。しかしここ数年、外出が減り、不眠の症状に悩まされているのも事実である。そして何よりもこの苦しみを誰かに打ち明けたい。

公園の角を左に折れ、向かって左にあるらしい。数十秒歩くと、町田メンタルクリニックの看板があった。白壁のこじんまりとした建物だが、清潔感はある。駐車スペースが建物のサイズの割にそれなりにあり、車もぽつぽつと置いてある。佐世子が自動ドアに足を乗せ、院内に入ると「こんにちは」と受付の女性が挨拶してきた。その女性の指示に従い簡単な手続きを済ますと、壁際の長椅子に腰かけた。院内の丸い時計は午後3時25分を過ぎている。予約時刻は3時半。佐世子は場違いなのではないかという思いがこみ上げ、心臓の鼓動が少し速まった。佐世子と同年代の患者と思われる中年女性が右奥の通路から姿を現し、佐世子と距離を置くように右隅に腰かけた。

「川奈さんどうぞ。右の通路の突き当りが診察室になります」
受付の女性に声を掛けられ佐世子がドアをノックすると、診察室の中から彼女の名を呼ぶ女性の声が聞こえた。

「こんにちは。よろしくおねがいします」
佐世子が顔を上げると、テーブル越しに40代くらいの白衣を着た女性が椅子に座っていた。おそらく佐世子よりいくつか年下だろう。そして女医が口を開いた。
「こんにちは。あれ、お母さんは?あなた付き添いですよね?」

佐世子はある程度、覚悟していた。こうした扱いには慣れてはいるが、相手の驚いた顔にはいつになっても慣れない。「母が突然、帰ってしまいました」で片づけてしまおうか。迷った末に発した言葉は「川奈佐世子は私です」だった。
「ああ、そうでしたか。それは大変失礼しました。どうぞお掛けください」
町田は驚きと困惑を隠すように、冷静を装ったトーンで話した。
「それで、どうされましたか?」
町田が質問を始めた。






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若い罪(4)

2020-11-02 18:55:26 | 小説
東京の短期大学を卒業後、都内の病院で事務の仕事をしていた。「今度合コンがあるんだけど、たまには佐世子も参加してみない?間違いなくモテモテだから」と同僚に誘われ、渋々ながら参加した。気取ったところのない庶民的な店だった。一応レストランではあるのだが、外観も内装も新しいとは言えない。4人の男性の中に孝がいた。他の男女6人はそれなりに盛り上がっていて、雰囲気に打ち解けられない佐世子と孝が端の席に追いやられていた。
「どうしてもこういう場が好きになれなくて」
孝が少しはにかんだ。
「私もそうなんです」
佐世子は少しうつむき加減だった。これが二人が最初に交わした言葉だった。たどたどしく趣味の話などをした後、連絡先を交換した。数日後、孝が電話をよこし二人きりで会うことを約束した。

その後、交際は順調に進み、1年もたたないうちに孝の「結婚してください」と彼らしい飾り気のないプロポーズを佐世子は「私でよかったら」と素直に受け入れた。孝の実直さが好きなことが最大の理由だったが、漠然と「この人と結婚すれば、私の一生は幸せのうちに終わる」という思いが佐世子の中にあった。

静岡に住む両親にも孝を紹介し、賛成してくれた。普段は口の重い父は孝や佐世子の家族の前ではほとんど何も話さなかったが「なかなか真面目そうな青年じゃないか」と佐世子だけにポツリと呟いた。孝の岡山の両親も佐世子を大変気に入ったようで「孝、この人を一生守るんだぞ」「娘が一人増えたようで嬉しい」などとありきたりな言葉ながら、孝の両親の喜びようが伝わってきた。

あの出会いの場に参加していた同僚たちは、素直に喜んでくれなかった記憶がある。「ええ、あの人と」「背が低くて顔も地味。まあ、公務員だから安定はしていると思うけど」「佐世子ならもっと素敵な人がいくらでもいるよ」。やっかみ半分もあるのかもしれないが、今にして思うと、理由は違えども孝との結婚は間違いだったという意味では、あの無責任な論評は少し当たったのかもしれない。いや、佐世子は孝どうこうではなく、誰とも結婚すべきではなかったと思うに至っていた。しかし、あの頃の佐世子にそれが想像できるはずもない。とにもかくにも、二人は結婚した。孝27歳、佐世子24歳の時だった。

新婚の頃、自宅に招いた孝の同僚がからかい半分に「まあ、お前が多少老け顔なのもあるけれど、奥さんと3つしか離れていないようにはとても見えないなあ。奥さんは二十歳前後の学生くらいにしか見えないよ。見た目では10才は離れてるぞ。うらやましいなあ、この野郎」。この言葉が予兆だったのかもしれない。そんなことも知らず、この時、佐世子は素直に喜んでいた。孝も嬉しそうだった。しかし歳月が流れ、問題は大きくなるばかりだったのだ。佐世子は覚悟を決め、2日後に病院を訪れることになっていた。


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若い罪(3)

2020-11-02 18:20:52 | 小説
麻美は3人兄弟の1番上で、大学の教育学部を卒業し、2年前、教師になった。その時に実家を出て、通勤に便利なここから電車で1時間近く離れた場所に、ワンルームの部屋を借りて暮らしている。そして空き部屋となった2年前から、佐世子が寝室として利用している。かつての娘の部屋は、佐世子が最も心安らぐ場所になった。

何故、佐世子が麻美の部屋を使うようになったのか?初めに麻美の部屋を寝室として使いたいと言い出したのは夫の孝だった。孝は約3年の間、リビングで寝ていた。しかしそれには末娘の彩乃が反対した。「お姉ちゃんの部屋にパパが寝るのは嫌だ」と。孝は「そうか、わかった」と言ったきり口を閉ざした。孝は彩乃に対しては、上の二人の兄姉とは別の接し方をしてきた。簡単に言えば甘いのである。注意さえした事がないのではないかと思えるほどだ。この時も「どうして?」と聞き返すこともできなかった。

彩乃は6つ年上の麻美に可愛がられ、彩乃も麻美を慕っていた。漠然と彼女の気持ちを察した佐世子は「じゃあ、私が使わせてもらおうかな」と言って彩乃に視線を向けた。彩乃は少し孝の様子を窺うようにしてから頷いた。それからというもの、孝はリビングから佐世子一人で使っていた夫婦の寝室に戻った。

佐世子はしばらくベッドで目を閉じていたが、なかなか寝付くことができない。すでに午前1時を大きく回っている。子供たちに弁当を作る役割も終えた。仕事はパートを含めても10年ほどしていない。外出は週3回程度の買い物ぐらいだ。私は必要なのだろうか?この社会に。この家族に。

少なくとも5年程前までは夫の孝には必要とされていた。彼は佐世子の体を求めていた。しかし突然「しばらくの間、リビングで寝る」と孝は言い出した。「どうして?」と問い返すと「仕事が忙しくてね」と力なく笑った。納得がいくような、いかないような理由だった。「しばらくの間」は佐世子の思考では1週間か10日、長くて1か月程度だと判断していた。それが2か月たっても3か月たっても孝はリビングで寝続けている。そして5年が経過した。佐世子の閉じられている瞼から少しだけ涙が滲んだ。どうして私は家族からも社会からも不要な人間になったのか。




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若い罪(2)

2020-11-02 15:41:37 | 小説
夕食が仕上がりつつある頃、夫の孝が帰ってきた。リビングに入るなり「ああ、いい匂いがする」とくつろいだ声を出す。
「カレーです。何の変哲もない」と佐世子は笑みを浮かべる。
「いや、何よりの御馳走だよ」
そう言いながら冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。二階の正志と彩乃にも声をかけたが、しばらくしてリビングに降りてきたのは正志だけだった。彩乃はやはりすんなりとは降りてこない。今日も一人で遅い食事をとるのだろう。夫も正志には時折、厳しい言葉を投げかけるが、彩乃には甘く、嫌われたくないのかあえて優しい言葉を探しながら話し掛けているようだ。

「誰に似たのかねえ。そんな背ばっかり高くなって」
「分からない。親父は小さいしな」
正志はスマホを眺めながら言う。佐世子は160センチ前半で女性としてはやや長身の部類に入るだろう。しかし、父親の孝は佐世子より心持高い程度で、若い頃、佐世子が少しヒールの高い靴を履くと、不機嫌になっていたのを思い出す。顔も母に似たのか端正な顔立ちをしている。

孝は顔を息子に向けた。
「正志」
「うん?」
「いかに大手とはいえ、本当に銀行でいいのか?」
「特に不満はないけど」
「まあ、あの銀行は今でも大学生に人気の就職先というのは分かる。しかし5年後、10年後を考えたらどうなんだろうな?」
孝は酒に強くない。少し酔いが回っているようだ。
「5年、10年は大丈夫じゃないの?」
「じゃあ20年後は?」
「お父さん。そんな先の事まで言われても正志だって困るでしょ」
佐世子が口を挟む。
しかし孝は少し佐世子に目を移しただけで再び話し始める。
確かに20年後のことは誰にも分からない。しかし銀行はすでに人員削減を打ち出しているじゃないか。人手不足の世の中で時代に逆行するように。AIの影響がいちばん出やすい業界なんじゃないか、銀行は」
一息つくように孝は水を飲み干す。
「まあ親父の言う通りかもしれないけれど、そのうち他の業界も後を追う事になるよ」
ここの所、毎日のように似通った話を父と息子は繰り返している。

12時前、佐世子は寝室のベッドに体を横たえた。部屋を見渡せば、長女の麻美の抜け殻が目に映る。机、本棚、クローゼット。ぬいぐるみもある。最も古いものは麻美が幼稚園の頃、母子が手をつないで買い物していた時、麻美が子熊のぬいぐるみを指差し「あれ、欲しい」と頼まれて買ったものだ。今では少し色褪せた子熊は何個もあるぬいぐるみの中でも特等席に座っている。あの頃が最も幸せだったかもしれないと佐世子は子熊を見つめて思うのである。


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若い罪(1)

2020-11-02 14:18:29 | 小説
今月、川奈佐世子は50歳を迎えた。自転車で15分ほどかけ、ショッピングモールへ向かう。それほど急いでペダルをこいでいる訳でもないのに息が切れる。自転車置き場でスペースを探している間に流れ出てくる汗。年齢を感じるとともに、今年も本格的な夏が来たことを自覚させられる。黒縁の伊達メガネ。少し深くかぶったつば付きの帽子。白いシャツにブルージーンズ。靴はウォーキングシューズである。化粧はしているかしていないのか分からない程度に抑えている。

スターバックスに入ってアイスコーヒーを飲み一息ついてからスーパーへの移動中、老婆に声を掛けられる。
「ちょっとお嬢さん」
彼女は自分の母親と同年代くらいに見える。
「今何時かわかりますかね」
佐世子はスマホで確認し、「2時半です」と言う。もう一度聞き直してきたので、声のトーンを少し上げ、ゆっくりと2時半と伝えた。

スーパーに入り、佐世子は今日の夕食、そして出来ればこの先2日ぐらいの食材を含めた生活用品を買いだめしようとしていた。2日、欲を言えば3日は外に出たくないのだ。

夕方、自宅に戻ると、長男の正志が大学から戻っていてリビングのソファーに座っていた。佐世子はリビングとつながっているキッチンで夕食の準備に取り掛かった。
「就職が決まったからって、スマホばっかり眺めてていいの?」佐世子は夕食の準備の手を止めずに言う。
「別にそういう訳じゃないよ。バイトもあるし、卒論も書かなきゃいけないし」
正志は面倒臭そうに話した。

程なく高校生の彩乃が帰ってきた。玄関を閉める音がしたので、佐世子は慌てて火を止め、玄関へ向かった。
「おかえり」
佐世子は満面の笑みを作り彩乃を迎えるのだが、彼女はそっけなく「ただいま」と言い残し、2階の自室に姿を消した。このような状態がもう何か月続いているのだろう。三人兄弟の末っ子ゆえに、知らず知らずのうちに甘やかして育ててしまったのかもしれない。遅れてきた反抗期だろうか?それとも高校3年になり、受験を控えてナーバスになっているのだろうか?どれも少しずつ当たっているのかもしれない。しかし根本的な原因が自分にあることを佐世子は心の奥では分かっていた。

(2019年作品)





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