玄徳道

道を語るブログです。

無為自然道

2013-11-04 11:37:32 | 坐道
坐の道に本来は強制はありません。ただ、道を歩み継続を志す、初発に少々の強制力が必要なのです。これを継続し、自然体になるまでには時間がかかります。全ては自己の意志力により、はじまるのです。

道が三尺高くなれば、魔も九尺高くなると言う格言は、実は強制による、抵抗、「抗魔」の働きがあるからです。

抗魔とは、陰陽における反発力、反抗力であり、一方にエネルギーが赴けば、必ず元の場所に還る道理であります。悪人が善へ目覚め、善人に成ろうとした時、悪友からの報復、誘い、全ての反動がキツくなります。普通人が善人への道を歩もうとしても当然、抗魔の働きがありますが悪人よりはキツくありません。
気功による、気の働きによる癒しは、病人に弱った気を正常に働かすエネルギーとなりますが、気を出した本人には必ず抗魔の働きがあり、気功の達人であろうとも、自己が病気に成りやすくなり、寿命を縮める結果となるようです。体内の氣を放てば必ず抗魔が働く所以は、人為による強制があるからです。体内の氣は体を自然に流れているのです。その流れを変えれば、必ず反発があるのです。まして、生命である氣の放出は出来るだけ避けた方が賢明であるのかもしれません。先天坐では氣を自然へと丹田への集積があります。坐による運命、気質変化は氣(炁)の集積量の運行があるからです。

ある人が私に、一切の他の書物をよむこ太乙午集正経の日訳のみを読み、そのお方の尊敬する本を百万回読み、坐を一日一時間以上するように、アドバイスして下さった方がおられますが、私は、道では無いと感じました。かつてのオウム真理教では強制による修行をされ、導師にのみ従い、社会の全ての知識を放棄し、オウムの教えのみに従ったようですが、逆に真理への道から遠く離れ、魔逆の世界、業の海に引き込まれていきました。アドバイスされたお方の親切心はありがたいのですが、その道、強制による坐の道を歩めば盲信、洗脳への世界に至り、道院の経典のみに重きを置けば、偏ると言う事もありえると考えるからです。まして、道院の教えでは、自己が信ずるものを他人に強制してはいけないと、謹告されていますし、他人の坐の境地を侮ってはいけないとされています。そして幅広い見識を得るためにも多くの書物を読み読書される事を進めておられます。

先天坐では任運自然への道が臨まれます。あくまでも継続が大切であり、それが自然に行えるように、抵抗する魔をモノともせず、努力する姿勢・至誠が大切なのです。ゆるぎなく、不動なる堅実なる心。天地に感応する真心、至誠。たゆむ事無く歩き続ける継続、恒久なる心。堅・誠・恒への道が揃えば、努力も努力でなくなり、無為自然なる大道に同化し、天地の神々と等しき運行を為す事も可能となるようです。

天地は至大にして万物の親であり神であり、人は小天地にして、自己の中の神に出会うからこそ、万物の働きを悟ることが出来る。
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