終の棲家でのんびり暮らす田舎暮らし

リタイア後山中に終の棲家を建て、夫婦二人で自然すぎる環境での田舎暮らしは、どこまで続けられるか。

田舎暮らしブログを始めました

2015年02月22日 | ごあいさつ

私たちが移り住んだ里山集落の生い立ちを紹介

終戦前後の食料難時代に食料増産を目的にした政府の国策によって、東京在住近隣の方々が、新規就農を目的として昭和18年頃から開墾移住された開拓営農団地だ。

当時は、人などまったく住まない野生の獣だけが住む山深い丘陵地だった。そこでの生活は掘立小屋にランプ生活。生活用水や物資の不足に苦しんだと聞いた。

現在のような動力機械の無い時代に人の手によって一鍬一鍬原野を切り拓いたそうだ。最初に移住された初代の方々は大変なご苦労をされて今日に至っていることを知った。

入植時代から移り変わり今は魅力的な里山になった

初代から2代、3代と世代交代し離農が進み開拓地を離れる人が増えた。勤め人、園芸農家、造園業、運送業など専業農家は減り30数世帯の小さな里山集落となった。

集落には、私を含めて新たに横浜方面、東京都内からの移住者や週末田舎暮らしの方々の住まい・別荘、カフェなどがある。見知らぬ田舎に移住して、古村特有の「 よそ者扱い 」で悩むこともなく、気楽に暮らせるのは良いことだ。

それには、地域の協同作業や行事、自治会役員の引き受けは欠かしてはいけないのは鉄則だ。道で出会ったら必ず挨拶し頭を下げる。それが田舎暮らしの極意だろう。

思い切って里山に終の棲家を建てての移住生活

山の中に移住してあっという間の六年が過ぎた。当初はむき出しの土、斜面から湧き出す湧水が建物周辺を覆い、花などあるのかしら思える斜面に建物だけが建つ状態だった。

晴れた日は、家内と二人で夢中になって土木作業と格闘し、斜面から湧き出す湧水対策や庭造りに汗を流しなんとか住まいと言える状態になった。

最近はそんな辛い作業の日々も思い出となり、やる事はまだまだあるのだが生活するには支障がないこともあり急ぐ必要はないと作業意欲を失いかけている。

終の棲家で暮らす夢なんて最初からなかった

妻とは私の借金を抱えた結婚生活からはじまった。お金に困ったこともあったが、若いということは何も怖くなかった。強力な妻の支えと運にも恵まれて働き終えることができた。

子育ても終わり、仕事からも離れ、長~いふたりだけの生活になった今こそどう時間を過ごすか話し合った。田舎でのんびり生きようと田舎暮らし構想が始まったのだった。

何より幸せなことは、妻が田舎暮らしに反対をしなかったことだった。

60歳前に思いきって始めた田舎暮らし、体の無理が利く70歳頃までには『 終の棲家での田舎暮らし 』という夢を完成させたい。

ブログの魅力に引き寄せられて自分もやってみようかな

田舎暮らしを始めてやったことは、色々とネット情報から仕入れた知識を作業に生かしてきたことだ。田舎暮らしの上手なワザをブログで紹介していて楽しんでいる。

最近はやらなければならない事が沢山あるのに、ひと段落したこともあり「ハリがないというか」ふと物思いにふけっては窓から周りの山を見て考えてばかり前に進まなくなった。

ひきこもり状態の私、妻からハッパを掛けられてしまった。

ブログを始めることによってネタ作りに追われる日常を取り戻していけるのではないか。甘いかもしれないがブログを開設してみることにした。

里山で始めた終の棲家の四季
終の棲家は標高200mの山に囲まれた盆地のようなところ、気候温暖な房総だが、夏は山を降りた平地より涼しく、冬は氷点下になる日が多く地面も霜柱が立ち凍結する。 家の斜面から周りを見渡しても山、山しか見えない。斜面の上に立ち満開の桜を背にした終の棲家を見下ろす。
この斜面はミズキ、オニグルミ、アラカシなどの広葉樹が半日陰になるくらい被り、土壌は湧水が流れていることから適度に湿度があり排水性も良いみたい。 ヤマユリには適地のようで、7月15日前後には、この斜面一面にもともと自生していたヤマユリが咲き、強烈な香りと美しい花弁を楽しませてくれる。
山を下った下界の平地には、雪が降らなくても毎年3~5回ぐらい雪が降って、一面が白銀の世界になる。ここに移り住んでから初めて、今年は雪が降らなかった。 屋根から雪が落ちるとデッキに雪の山ができ薪を取るにも大変。平成26年の大雪では窓の前が落雪で埋まった。