FEEL ambivalence

毎日、いろんなことを思います。
両極端な感じで。

両面価値。
同一対象に対する愛憎共存。

いつか、考えなくちゃいけないこと。

2005-08-08 03:33:16 | ろぐ
 簡単に答えが出るなんて思っていないし、いつもそんなことばかり考えてるわけでもない。ただ、なんとなく思いついたときに、アタマの隅から現れて、ちょっとの間、思考を占領してしまうこと。


ぼくらは、戦争の犠牲者をどう悼むべきなの?


 ぼくの実家は秋田の片田舎。祖母が生きていた頃に、ほんの少しだけ、話を聞いたことがある。土崎の港が空襲にあって、夜でもその炎は見えた、と。母方の祖父は戦いに参加していたらしいが、当時のことは頑として話してくれなかった、と母から聞いた。子供心に、いつも優しい祖父にそんな話をしてはいけない気がして。今でもその話題には決して触れない。得られる知識は学校で習った歴史の教科書と、時折眺める新聞の終戦記念日付近の記事のみ。その結果、大して知識も持たず、平和にどっぷりと浸かったぼくが出来上がってしまった。
 毎年、夏がやってくると『蛍の墓』が全国を巡る。中学生の頃だったか、一度だけ見た。あまりの悲しさに、泣くというよりも、何日も夜が怖かったのを覚えている。5歳離れた妹がいるせいなのかもしれないが、消化するにはあまりある悲劇が、そのものを直視することをためらわせた。それ以来、2度と見るまいと決めた。今ぼくが思っていることなど、所詮は平和の副産物だろうけれど。
 当時のことを思い描こうにも、全く想像が追いつかない。9・11の生中継の映像となんら変わりがあるのだろうか。画面の向こう、紙面の向こうに広がっている風景を、当事者でないものがどう想像できる?震災に遭った人、交通事故に遭った人、医療事故に巻き込まれた人、犯罪の被害者になった人、その人たちの気持ちが1万分の1でもわかるというのか?
 戦争と事故を一緒に扱うことに異論は山ほどあるだろう。ぼくだって、全く一緒に扱っているわけじゃない。ただし、人が亡くなる、という点においては両者は一致している。数秒前まで存在していた人が、その存続を認められないという事実。たった一人の人を失うだけでも心は悲鳴を上げるのに。二人、三人、十人、千人、百万人。どうなってしまう?麻痺してしまうの?想像を絶する、と言葉では表すのだろうけれど。絶してしまったら、もう、意識の外。ただ、眺めているだけ。何も見えはしない。痛みすら、想像し得ない。

 興味深い記事があった。甲子園球場で開会式の練習していた広島県代表の高陽東高校の生徒が、他の48校の生徒に一緒に黙祷を行うことを提案。行う時刻は、8月6日、午前8時15分。大会本部の了承までとってあったにもかかわらず、直前に高野連のトップから「原爆は広島だけのこと。他を巻き込むことは避けて欲しい」という旨の制止がかかり、同校ナインのみで黙祷を行ったという。(リンク先はtakahiro009009さんのブログ。)この記事のソースは既に削除されており、誤報であったことも考えられる。事実は分からないけれども。高校野球を主催する朝日新聞社の記事はこちら。リンク先が削除される恐れがあるので要点を載せておくと、事前に同校から朝日新聞社に連絡があり、担当部署は高野連と協議の上で、同校だけの黙祷であると判断して許可する旨を伝えたが、伝達で行き違いの点があり、直前での制止となった、という。

 渦巻く感情を、ただ、吐き出したい。
 なくなった方を悼む、というのであれば、6日だけでなく、9日も黙祷をささげるべきだろう。さらに、3月10日にも、6月6日にも。いや、同胞が亡くなった日など、一年中続いていく。ならば、毎日祈り続けるのか。黙祷をささげるのか。見ず知らずの他人のために。ぼくの知らない「日本のために戦った人」のために。ぼくに、どんな気持ちを捧げろというのか。見ず知らずの他人に手向けられて、亡くなったその人は喜ぶのか。原子爆弾で亡くなってしまった人は、焼夷弾で焼かれた人よりも立派な人なのか。敵艦に突っ込んで亡くなった人よりも立派なのか。
 8月15日は終戦記念日。日本が戦いに敗れ、戦いを手放した日。
 ならば。戦争で命を落とした、あらゆる人を供養するのはその日ではないのか。被害に遭った人も、戦を仕掛け死んだ人も。末代まで、その禍根を残すべきではないだろう。決めた。今年、ぼくは8月15日の正午のサイレンを聞き、黙祷する。それは、死者を悼む黙祷。日本人だけでなく、戦争で亡くなった人を悼む黙祷。それでいいじゃないか。6日に黙祷を捧げたい。その気持ちは評価しよう。自らの祖父母や親類が被害に遭ったのであれば、そうしたい気持ちも分かる。だが、他人を巻き込むべきではないし、大舞台で行う必要もない。そこまで考えていない、とすれば、大いなる偽善ではないのか。確かに、原子爆弾で亡くなった方は不幸と呼ぶには余りあるのかもしれないが、戦争の犠牲になった民間人は日本のみならず、世界に溢れんばかりに存在する。彼らよりも、悼まなければならない存在なのか。死者に優劣など、つくのか。
 ぼくの中では、既に、戦争は過去だ。どんな理屈を振りかざされようと。
 日本が戦時中にしたことを謝罪しろといわれても、それすら、もう無意味。ならば、キリスト教は十字軍遠征を謝罪したのか?イギリスはアメリカの独立戦争で謝罪したのか?戦いならば、仕方ないだろう。そういうことは、終わった後、速やかに処理してもらわねば。いつまでたっても終わらないのは日本のせいだ、なんて、いくらなんでも虫が良すぎる。

 論点がずれてしまうな。

 ぼくが言いたいのは以下の点。確かに、原子爆弾は憎むべき兵器であり、二度と使用させてはならないと思う。だが、その意識ばかりが先行して、原子爆弾の被害者だけが取り上げられてしまうことには疑問がある。広島・長崎で平和式典が行われている。ならば、それをなぜ甲子園にまで持ち込む必要があるのだろうか。なぜ、拡大解釈をする必要があるのだろうか。悼むならば、皆を悼もう。

 何が正しくて、何が間違っているのか見えなくなると、勢いに飲まれ、プロパガンダと化す。注意して自分の意見を持とう。今思っていることが、間違っていることかもしれない。誤りを正す勇気を持とう。
 そして、人が人を傷つけるようなことは、もう、やめにしよう。流れに乗って、偽善の仮面をかぶることは、もうやめにしよう。


※ちょっと勢いづいて書いちゃいました。ご意見があれば、どしどしコメントをください。自分の意見が正論である、とは思っていません。ぼくもまだ、悩んでいることです。様々な意見があるでしょう。何を無知なことを、という点も多々あるでしょう。ご指摘いただければ幸いです。

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