FEEL ambivalence

毎日、いろんなことを思います。
両極端な感じで。

両面価値。
同一対象に対する愛憎共存。

あれから1年。

2012-03-11 21:55:19 | ろぐ
あれから1年。
自分の暮らしはほぼ元通りで、毎朝、満員の電車に揺られて仕事に出かけている。
職場も、何事もなかったかのように、日常が続いている。

職場の建物の周りは、そのままで、
コンクリートの土台が剥き出しになって、建物が地面から離れている箇所がたくさんある。
今はその復旧工事中。

たまたま自分は被災しなかった。
たまたま家族は無事だった。

ぼくがこうしてここにいられるのは、本当に偶然の出来事だ。

いつもと変わらない日常が続いているから、忘れてしまう。
毎日が続くことが、本当に偶然であることを。

カウンターの前に立っていたときのことを思い出した。
「サービス」は一期一会である。
いま、目の前のお客様が、再びここを訪れてくれることがあるだろうか。
もしかしたら、あるのかもしれない。
もしかしたら、もうないのかもしれない。
そのとき、後悔のないサービスができているだろうか。


于武陵の漢詩。

勸君金屈卮 (君に勧む金屈卮(きんくっし:黄金の杯))
滿酌不須辭 (満酌 辞するを須(もち)いず)
花發多風雨 (花発(ひら)けば風雨多し)
人生足別離 (人生 別離足る)

井伏鱒二氏はこの漢詩を次のように訳した。

「この杯を受けてくれ
 どうぞなみなみつがしておくれ
 花に嵐の喩えもあるぞ
 さよならだけが人生だ」


その一瞬一瞬を大切にして、出会いとは別れであることを知る。
そういう意識もあるけれど、ぼくは忘れたくない。
別れで縁が切れるわけじゃない。
ぼくは思っている。一方的でも、思っている。
思い出して胸をかきむしりたくなったり、照れくさくなったり。
ふと忘れてしまう。そのときは自分を恥じ、そしてまた思い出す。

ぼくは思うことで、繋がっていられる。
思いやることができる。その先を思うことで。

緩みそうになる心のタガをもう一度締め直し、
また一歩ずつ、その日を歩む。

別れるために出会っていない。
出会いは何も産み出さないはずがない。


寺山修司氏の詩。

「幸福が遠すぎたら」

「さよならだけが
 人生ならば
 また来る春は何だろう
 はるかなはるかな地の果てに
 咲いてる野の百合何だろう

 さよならだけが
 人生ならば
 めぐりあう日は何だろう
 やさしいやさしい夕焼と
 ふたりの愛は何だろう

 さよならだけが
 人生ならば
 建てたわが家は何だろう
 さみしいさみしい平原に
 ともす灯りは何だろう

 さよならだけが
 人生ならば
 人生なんか いりません」


人生とはなんなのか、ぼくは未だにわからない。
偉そうに誰かに話せるようなこともない。
ただ、ぼくは後悔のないように生きたい。
笑顔を守りたい。
笑顔を覚えておきたい。
別れて消えることがないように。

大きな援助ができなくて、申し訳ないと思う。
ぼくができることは、
毎日をいつもと同じように過ごすこと。
繰り返しはないと思うこと。

自分の力で精一杯生きること。

あれから1年。
鎮魂の祈りとともに、もう一度心に刻み込もう。

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