定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 キルギス07 シベリア抑留

2018-02-16 14:58:04 | ツール・ド・シルクロード キルギス
  

一般に言われている「シベリア抑留」では、旧ソ連各地に日本人だけでなく、ドイツ人やポーランド人も収容所に送られている。

日本人は約60万人が抑留されたと言われているが、ドイツ人は約240万人、ハンガリー人は約50万人、ポーランド人は約6万人など、24か国から約420万人が捕虜となったとされている。中国人は約13000人、朝鮮人は約8000人とされている。「シベリア抑留」は、日本人だけの問題ではないのだった。

2008年にキルギスに抑留された体験を持つ宮野泰氏(当時83歳)と一緒に、キルギスのタムガ村を訪れた。日本の厚生労働省は、「キルギス共和国に日本人は抑留されていなかった」との立場を崩していなかった。ところが、シルクロード雑学大学でキルギスに抑留されていた体験を持つ日本人を探していることを書いている新聞記事を読んだ武内栄氏(当時86歳)が、私のところに電話をしてきたのだった。その結果、2008年に宮野泰と一緒にキルギスへ行ったのだった。宮野氏にとっては、1948年以来、60年ぶりのタムガ村への訪問となった。

中央アジアのカザフスタンに抑留された日本人は約3万4000人、ウズベキスタンに抑留された日本人は2万3000人と伝えられている。また、カザフスタンでは、帰国の叶わなかった人やカザフスタンに定住することを選んだ日本人抑留者の数は約1000人だったとされている。

60年ぶりにキルギスの収容所を訪問した宮野氏は、まずはカザフスタンのアルマトイに到着。その後、キルギスの首都ビシケクへ行き、日本人抑留者が建設に関わったともうわさされているオペラ劇場を訪問。丁度、課外授業でオペラ劇場に来ていた子供たちと出会うことができた。子供たちに「キルギスに日本人が抑留されていたことを知っている人はいますか」と聞いてみた。一人もいなかった。

     

タムガへ行く前に、ビシケクとタムガ村の中間地点にある地点で車を降りた。
「タシケントからバリクチまではトラックで移動しました。途中で左手側から、道路、川、鉄道と並んでいるところがあり、そこでドイツ人が鉄道の工事をしている様子を見ました。自分たちも鉄道工事に駆り出されるのだろうか」と思ったという。その地点を宮野氏に確かめたかったので、車を降りたのだった。キルギスのテレビ局と新聞社が各4社同行取材しており、直ぐに取材が始まった。

    

次に向かったのはバリクチ。周囲が約650㎞あるイシククル湖の西の端にある港で、宮野さんたち抑留者は、ここでトラックを降ろされて船に乗り換えたという。船でタムガ村へ向かったようだ。
今では、タシケントからこのバリクチまで鉄道が通っている。捕虜になったドイツ人が鉄道工事をしたが、1948年に宮野さんたちが日本へ帰国する時には、すでに鉄道工事は終っていたという。ドイツ人も見かけなかったという。今では主に貨物が走っている路線だが、週に2便の客車がビシケクとバリクチを結んでいると聞いている。乗ったことはない。

  

日本人抑留者は、バリクチからタムガ村へと船で移動したと宮野氏は言う。毛布1枚をかぶって甲板に寝ていたが、寒かったことを覚えているという。他にもソ連のお客さんがいたが、彼らは客室に入っているので接点はなかったという。

キルギスに抑留された日本人が、タムガ村の収容所にいたのは1946年の6月から1948年の5月だったと話していた。

 
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