NHK 「A to Z」を見る。
アートディレクター…佐藤可士和,【キャスター】鎌田靖
せっかく「言語力」を取り上げていながら、サッカー選手の言語力程度での問題提起では「言語力」には迫っていない。もちろん何をするにも文章能力が必要にならないはずがない。
重要な課題に取り組みながら、言語力の重要性が幼稚な問題でしかないというのはどうしたことであろうか?
ものごとを考えるには言葉しかない。
数学の親は言葉である。数学者の皆様、言葉を一切使わずに数学の事象を考えて下さい。
たとえば、π・i・eなど文字も使わずに数学を考えて下さい。
音楽家の皆さん、言葉を使わずに音だけで音楽をやって下さい。
自分の存在をことばを使わずに証明して下さい。けっして、わたしに頭突きを喰らわさないで下さい。
言葉を使わずに退屈を凌いで下さい。
考えれば考えるほど、携帯電話に駆け込む人が増えているそうです。
「ここに鉛筆があります」
「この鉛筆を下さい」
「明日、上野駅の南口であいましょう」
「ルーターを3台送って下さい」
「犬がね、子を産みました」
「犬がねこを生みました」
「したたりやまぬ日の光、うつうつまわるみずぐるま」
「青空に越後の山も見えるぞ、今ははや真にさみしいぞ」
「ほのかにひとつまたひとつ」
「あしひきのやまたけのなるなべに」
言葉を使えば伝わることと、言葉を使っても伝わらないことなど、言葉の用途も様々です。
上の「 」で囲まれた文章もすぐに理解できることと、何を表現しているか分からないものがまじっています。
間違って言葉が伝達されると、飛んでもないことが起こります。
物の製造や流通のために使われることばは、比較的わかりやすいものですが、非存在や雰囲気や感じを伝えるには新しい方法が必要となります。個人の感受性に関係する言葉の使い方は時には詩の表現を借りなければなりません。
言語力は人間の力に他なりません。
存在の値打ちは言語力に現れます。
「文は人なり」ということに他なりません。
言語力を獲得することは、本来は学校の仕事だったのです。
いまでは言語力を衰えさせるために学校へ行っているようなものです。
学校へ行くと、親とも友達ともじっくりと話し合うことがなくなります。
いまはとことん話し合うことができる相手と巡り会うことはありません。
だれもそれを望んでいないからです。
友達を見つけるときも○と×で判断するだけです。
好きと嫌いで物事がきまります。
結婚する前は○、結婚後は×。そして離婚。○・×だけの結びつきでは社会が崩壊します。
最近の医者はこの好き嫌いで患者を見ます。○なら少しだけ真面目に診察します。×なら効かない薬を投与します。手術も真面目に行いません。わざとハサミやメスを取り忘れます。
考えることは言語を使って考えるのです。
われ思う故にわれあり。とはデカルトの有名な「cogito ergo sum」の訳です。
もし、考えなければ人間は宇宙にも優越しないようです。
パスカルは人間を「考える葦」にたとえました。
人間は河原に揺らぐ葦のように頼りない存在であるが、宇宙がどんなに広大であっても、その葦は考えることによって宇宙を凌駕していると言います。
まさしく考えるために何をすれば良いか、一番よい方法は、モンテニューが『随想録』でいうように、古典はわれわれよりも精神においてずば抜け、文法の点でも完全である。
モンテニューは幼少の頃からラテン・ギリシア語に秀でた自由人でした。
まあ、わたしは受け売り人間で大した価値はないのですが、モンテニューの『随想録』を読むためにフランス語を習得した人もいるくらいです。
古典は私のようなバカでも読めます。ただし、バカに特有の忍耐だけは必要となります。ご注意下さい。金鉱を掘り当てるには忍耐がものをいうのです。
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子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?