日曜日の早朝にNHKでは「こころの時代」をやっている。
面白いと思ったものは見るようにしている。
我の問題を考えていたが、我は常にものの世界には現れるものである。
芸術では我のあるものはうるさく調和しなく品無く安っぽい。傑作は我がはずれ純粋な私のみが残る。
私とは物そのもの(Ding an sich)である。
私とは他人も私と見つけたり、ということである。
我である場合には我と我があらそう。
芸術の傑作にはそれぞれ私がある。
私が抜けた芸術には永遠性がない。
カントもいうように「常に主語であり続け、けっして述語にならないものが、私である。」
この広大な宇宙の中で常に主語であり続ける存在が私であり、すべての人間にそれは共通する。
エドガー・アラン・ポーには『ウィリアム・ウィルソン』という小品がある。
善と悪に分身したようなウィルソンが二人現れる。顔も背丈も声もそっくりである。
悪をなすウィルソンの前にはそれを阻止する善のウィルソンが現れる。
わたしは、映画でもこの作品を見たことがあった。感心したのであるが、この映画の主演で出ていたのが、アラン・ドロンである。彼はいかにもウィルソンに適した役どころであった。後日、私はアラン・ドロンに会う機会に遭遇したとき、彼のウィルソン役のことを褒めたが彼はことの他喜んでくれた。ほとんどこの作品に対してアラン・ドロンを褒め称える人間はいないようであった。
これを個人のウィルソンから団体の善悪の問題を考えても、善と悪は相対するものではあるが、それはどちらも常に相即不離の関係にあるものである。
これは常に対立するが、もしそこに調和というもの私というとこの段階まで高めると双方は和解でき、その存在は雲散霧消する。
芸術にはそういう対立を融和する異種のアドレナリンが含まれている。
宗教は宗とする教えである。教えである以上はそれを考えることができる。たとえばその教えは正しいのか間違っているのか。よく自分が信じる宗教は正しいと鵜呑みする人がいるが、宗とする教えには教典がある。単にあるのではなく、それが宗となる教えである。読まずに信ずることは盲信に繋がる。少なくとも読んで考えてみるということは必要である。
もし、それでも信じたいのであるなら、教えではなく神の存在そのものを信ずればよい。
神は信ずるものであっても、神は生半可な信じ方では姿も現してはくれないし、手伝ってくれることはない。
神を信じることとは命を捧げることである。つまり常なるところに命を捨てるのである。死ぬ以前に自らを神に捧げていなければならない。だれでもできる事ではなく、犠牲の精神を持っていなければならない。学校を出て企業に就職するなどを考えてはいけない。かっこいい相手を見つけて幸せな家庭を持ちたいなどと考えてはいけない。商売が繁盛することを願ってはいけない。それでは神を信じていることにはなっていない。常の所に死するのである。何も考えないで信じていればよい。考えは自然と向こうからやってくる。これが芸術の極意である。
具体的なことを知りたければセザンヌの手紙を読み、セザンヌの絵画をじっくりと見ることである。
西川玄苔さんは『驢鞍橋』を引用し、「先ず常に死を優先して思う」ということを強調されておられた。ラテン語のメメント・モリである。現在人は死を想うことを嫌い、死んだ人々のことまでも瞑想できない。人は必ず死ぬがいかような死に方をするかを決めることは困難である。自殺にしても何故自分が自殺に追い込まれたのかということは、そうなったからいざ仕方がないというところへ、追いやられてしまう。借金にしろ病気にしろリストラにしろ複数の要因が重なってしまうと追い込まれる境地に至るのである。他人にはもちろん友人にも家族にもなかなか理解されない複雑な心境がやってくる。
殺人や事故にしろ、自分で決めることはできない。どんなことも起こりえることは避けられないのである。分かっていても避けがたいことは多々ある。さまざまな要因はある。自己が死を導くということもある。
常に死を想うことは大事である。そうすることで今為すべき事は何かという選択肢が見えてくる。
子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?
面白いと思ったものは見るようにしている。
こころの時代~宗教・人生「我を照らされて」
沢木興道に師事した西川玄苔さんは、自分のエゴ、「我」へのとらわれと苦闘する求道の人生を送ってきた。坐禅に没頭し、念仏に出会って感得した86歳の禅僧の境地とは。
【ゲスト】宋吉寺前住職…西川玄苔,【きき手】亀井鑛
我の問題を考えていたが、我は常にものの世界には現れるものである。
芸術では我のあるものはうるさく調和しなく品無く安っぽい。傑作は我がはずれ純粋な私のみが残る。
私とは物そのもの(Ding an sich)である。
私とは他人も私と見つけたり、ということである。
我である場合には我と我があらそう。
芸術の傑作にはそれぞれ私がある。
私が抜けた芸術には永遠性がない。
カントもいうように「常に主語であり続け、けっして述語にならないものが、私である。」
この広大な宇宙の中で常に主語であり続ける存在が私であり、すべての人間にそれは共通する。
エドガー・アラン・ポーには『ウィリアム・ウィルソン』という小品がある。
善と悪に分身したようなウィルソンが二人現れる。顔も背丈も声もそっくりである。
悪をなすウィルソンの前にはそれを阻止する善のウィルソンが現れる。
わたしは、映画でもこの作品を見たことがあった。感心したのであるが、この映画の主演で出ていたのが、アラン・ドロンである。彼はいかにもウィルソンに適した役どころであった。後日、私はアラン・ドロンに会う機会に遭遇したとき、彼のウィルソン役のことを褒めたが彼はことの他喜んでくれた。ほとんどこの作品に対してアラン・ドロンを褒め称える人間はいないようであった。
これを個人のウィルソンから団体の善悪の問題を考えても、善と悪は相対するものではあるが、それはどちらも常に相即不離の関係にあるものである。
これは常に対立するが、もしそこに調和というもの私というとこの段階まで高めると双方は和解でき、その存在は雲散霧消する。
芸術にはそういう対立を融和する異種のアドレナリンが含まれている。
宗教は宗とする教えである。教えである以上はそれを考えることができる。たとえばその教えは正しいのか間違っているのか。よく自分が信じる宗教は正しいと鵜呑みする人がいるが、宗とする教えには教典がある。単にあるのではなく、それが宗となる教えである。読まずに信ずることは盲信に繋がる。少なくとも読んで考えてみるということは必要である。
もし、それでも信じたいのであるなら、教えではなく神の存在そのものを信ずればよい。
神は信ずるものであっても、神は生半可な信じ方では姿も現してはくれないし、手伝ってくれることはない。
神を信じることとは命を捧げることである。つまり常なるところに命を捨てるのである。死ぬ以前に自らを神に捧げていなければならない。だれでもできる事ではなく、犠牲の精神を持っていなければならない。学校を出て企業に就職するなどを考えてはいけない。かっこいい相手を見つけて幸せな家庭を持ちたいなどと考えてはいけない。商売が繁盛することを願ってはいけない。それでは神を信じていることにはなっていない。常の所に死するのである。何も考えないで信じていればよい。考えは自然と向こうからやってくる。これが芸術の極意である。
具体的なことを知りたければセザンヌの手紙を読み、セザンヌの絵画をじっくりと見ることである。
西川玄苔さんは『驢鞍橋』を引用し、「先ず常に死を優先して思う」ということを強調されておられた。ラテン語のメメント・モリである。現在人は死を想うことを嫌い、死んだ人々のことまでも瞑想できない。人は必ず死ぬがいかような死に方をするかを決めることは困難である。自殺にしても何故自分が自殺に追い込まれたのかということは、そうなったからいざ仕方がないというところへ、追いやられてしまう。借金にしろ病気にしろリストラにしろ複数の要因が重なってしまうと追い込まれる境地に至るのである。他人にはもちろん友人にも家族にもなかなか理解されない複雑な心境がやってくる。
殺人や事故にしろ、自分で決めることはできない。どんなことも起こりえることは避けられないのである。分かっていても避けがたいことは多々ある。さまざまな要因はある。自己が死を導くということもある。
常に死を想うことは大事である。そうすることで今為すべき事は何かという選択肢が見えてくる。
子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?