どこへ行っても阿呆だらけの街だったが、相変わらずである。
どこへ行っても阿呆だらけの街だったが、相変わらずである。
この世界は五感によって制限されている。現実も夢も確たる世界ではない。そのことは肉体の苦痛も過ぎ去れば夢の如きものである。
リズムがあり耐え難い痛みも10年は持続しない。私の人生は痛みと苦しみとの戦いであった。消えることのない苦しみがいつも襲ってくる。
小さな苦しみには鈍感になった。苦しみが来るときは耐えるしかないと諦めている。多くの人が様々な苦しみを持つ。宗教に頼っても拭われるものではない。
ただ耐えるとしよう。
昔がいいとは言わないが、人情というものが今よりも多分にあった。
「情けは人の為ならず」という意味の取り違えが始まった時代である。
情けは人の為ならず、自分のためである。人情もどこ吹く風か、我(エゴ)だけの若者から老人までがなんと多いことか。
類は友を呼ぶので私のような考えをもつものはそんじょそこらにはいない。
李白 敬亭山に坐す。の心境である。
国民の値段は赤紙一枚。食糧問題が深刻化すれば戦争は必ず起きる。
子供の値段が1億円以上に跳ね上がっているが、本当の値段は赤紙一枚。はがきの値段で済む。
裁判もへったくれもない。弁護士は破滅。検事も裁判官もいらない。
敵が攻めてきても野党の糞が法律を盾にとって破滅に向かい。この国の憲法はもとはアメリカの草案。今にして原文は英語のままである。
おそかし国になった。
女が料理を作る時代であった。それほど田舎でもない場所に生まれ育ったが、母親が飯を作るのである。
かまどでご飯を炊き、附い分手間がかかった。冷凍食品もレトルトもない。冷蔵庫さえない。洗濯機も電気窯もない。
ほとんど江戸時代に毛の生えた生活だ。学歴がないほとんどの人が生きるための知恵をもっていた。
いまは大学での阿呆ばかりが目立つ。学生ばかりではなく学者もそうだ。何をそんなに威張っているのか、弁護士や医者などもそうだ。
ある意味医療崩壊も好ましい。大事なものを救済するためのトリアージが働くだろう。くたばり損ないの年寄は死ぬに任せる。
それでも助けるものの優先順位が決まっていなければ、糞の役にもたたない国会議員が優先される。ついでなら全部ころしてしまえ。それが医療崩壊である。
たくさんの墓場を巨大客船やタンカーにこしらえて満杯になれば、太平洋の海溝に鎮める。
無意味な10万円は一時しのぎ。
私だけが生きようとは思わない。人間は遅かれ早かれ死ぬ日が来る。
社会を良くして死ぬのは良いことである。
この事を歓迎する。
ただそれだけ、潰れるものは潰す。去る者は追わず。達磨大師も達観してそう教えられた。
重圧に耐えられるスパイだけが国の宝である。
パチンコ好きの女たち。正体はパ抜きの後の三文字。電子レンジのチンの音も大好きらしい。
何もできない主婦たち。コヤツたちが文化を破壊してきた。
ろくでなしが意味もなく踊り狂う。下手くそで動きだけが活発な阿保高校以下の中学に小学校。
ガキと一緒に飢えるのが国が良くなるチャンスである。
健全な社会の実現のためにも家賃に困る輩をドンドコに落として、いままでの生活困窮者の実体を知るべきである。
生活保護者や定額年金受給者に石を投げつけてきた、輩を助ける必要はない。
大学に行きたければ通信や夜学もある。本当に学びたいものは図書館や古本屋でも高度な勉強ができる。
家賃保護して大家が安泰、潰れる店は潰して社会の崩壊を見れば、生きるにふさわしい者だけが生き残る。
電気もガスもいらないのだ。江戸の生活者は現代文明など一つとしてなかったのである。
江戸時代までは日本の人口は3000万人、それでも豊かな文化があった。
今はクズ人間ばかりが8000万人も増えてしまった。クズ人間のための大学が雨後の筍のように増えてしまったのである。
地球にはへばりついている必要はない。クズ女がクズガキを生み出している。
割れ目を閉塞するために生まれたときには縫合するのも一つの手段である。
小人というのは人間を姿をした野獣である。
これを扱うには手厳しい調教師が必要である。
調教師を守る法があっても小人を守る法は必要がない。
ただし、小人を時間的余暇を調教師に反抗しないように、ゲームやスポーツを与えるのである。
パチンコも役には立つが、奴隷のように労働を与えるのがよい。
死なず生かさず!
感染拡大が少しおとなしくなっている。小人19はそろそろ成人になる。喫煙も飲酒も可能だ。
自らの免疫が滅ぶ嗜好を愛するようになる。20になるとなんでもできるので、滅びるのも早い。
しかし、油断は禁物である。
いつも混んでいるレジも並ばずに通過。食品も品薄状態。フードコートの椅子は撤去され座るところがない状態。
田舎でもいよいよ本格的な非常事態になってきた。
私は常に死を思っている。メメント・モリである。そのためベッドは棺桶仕様である。
いつ死んでも良いとは思うが、いつどこで死ぬかを決めることはできない。
もし生きていればなどという戯言はその人間のアホ加減を表している。
いつでも死ねなければならない。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」。
宮本武蔵も死する道においては、女・子供・百姓に至るまで死することを見極めるのことが必要である。
恐ろし馬鹿歯科医がたくさんいる。京都では歯科医は医者の部類には入らない。町歯科医はたいてい金儲けである。大学病院で与太者歯科医が多くいる。
健全なる歯科医は至って少ない。歯石をとるのではなく石を投げつけて殺人を犯す。こういうガキが大学にいる事自体おかしいのである。当然、教師連中も罪人に近い。文部科学省もこういう大学に許認可を与え、自分たちの天下り先を確保する。
役人が腐っているから糞も味噌も同じテーブルに出される。臭い話である。