四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

交通事故で1億円の支払い命令

2007年10月31日 16時33分33秒 | 未分類
車に乗ってかっこよく運転しているその先に地獄が口を開いて待っている。

とかく飲酒運転とスピード違反にとっては地獄は近いものである。

日本の制限速度は他国に比べると実測制定ではない。
返って暴走を行わせるような低スピード化である。

ところが路地裏の制限速度の規定が弱かったりと、実際のこまめな制定がなされていない。

結局滅茶苦茶な運転がまかり通っている。ルール違反は亀田親子に近いものである。

自動車会社は金さえ出せば車をうるし、免許証もだれでも金で買えるくらいである。

航空パイロットの免許はだれでも取ることはできないような、規制もない。ようするに道路交通法などというものはあってなき状態の無法地帯である。


空域で暴走できるのは米軍だけである。道路で暴走するのはアホと一般人と整形外科や医者族である。つまりほとんど全員をカバーする。

しかし、痛い目に遭うのはこの中で運の悪い人間である。
自動車事故はなんと言っても、意図せざる事故である。
乗っていてもいなくても被害に遭うか、被害に遭わせるか、だれも決められない。

ただ確率が高まる人間というのが存在する。日本人は全域をカバーしている。


全体的に暴力団的な日本のボクシング界 角海老宝石

2007年10月31日 12時20分34秒 | 社会問題
角海老宝石ジムというのがある。名前は有名である。何故宝石なのかはよく分からない。よく似た名前のソープがあるような気がする。

ここの所属の渡邉一久の試合は亀田大毅の反則技よりも遙かにものすごい反則行為をしている。

顔そのものを見るだけで反則行為の固まりのような意味合いを現している。

日本人の偽装偽造は政治家(特に自民党)の政治がインチキであるように、食品だけではなく、あらゆる日本人精神が本来の日本人精神とは反転している。

モラエスの『日本精神』はどこか別の国の話のようである。

インチキ論文、インチキ生命保険、インチキ食品、インチキ大学、インキン男などなど、もはやこの国に品格など求めることは何もない。

恥を恥ともしない人間や国家は滅ぶべきである。カルタゴは滅ぶべきである。滅んでしまったが?

日本沈没はいつの日のことであろうか。早く来い来い!!

ヴェンセスラオ・デ モラエス
講談社(1992-03)
定価 ¥ 861




世界戦略 大衆への反逆が始まった

2007年10月30日 05時38分48秒 | 社会問題
世の中ではこの地球の安全を考えるためには大衆を虐殺することが不可能であるという判断に決着しつつある。

『大衆の反逆』を書いて今世紀の危機を予言したオルテガはまさに正しかったのである。

大衆とは狂気の持ち主であるとソクラテスは口を酸っぱくして語ってきた。
ショーペンハウエルはさらに口に酸が蔓延するくらいに大衆というものを侮蔑していた。

石油が値上がりすれば二酸化炭素排出量が減り、自動車熱や工場熱を押さえることが出来、地球温暖化に歯止めが掛けられると共に、大衆の生活レベルを下げさせることができる。

バイオ・エタノールを使うことによって、さらに食糧を値上げし、根本的な食糧不足に陥らせ大衆を餓死させるとともに、資源のない国を隷属化することができる。

つまり既に飢餓の時代が始まっている。
役に立つのは何かというと食糧だけである。

畑を確保すれば衣食住はまかなえる。
昔の人たちがやってきた生活を取り戻すことが生きるすべである。


ランニングマシンで転倒する人々 急増するケガ人

2007年10月30日 04時01分11秒 | 事件・事故・自殺
スポーツジムやフィットネスジムでのけが人が急増している。

最近は老人からキッズまでトレーニングを行うケースが増えている。

しかし、安易にトレーニングに励んでも、ケガをしては元も子もない。

ジムでの一番多いケガはランニングマシンである。
ランニングマシンの前にプライベート用のTVを設置するところは特に気を付けなければならない。

TVを見ながらランニングする人間は街では見かけない。
自分の目の前にTVをぶら下げて走る姿は滑稽以上のものである。

気を取られて転倒するケースがある。しかも、ランニングマシンというのはかなりのスピードがでる。体調に合わせて自分で止まるほど機転が利いていない。

年寄りはなおの事、若い人たちでも転倒するケースは増えている。
しかし、死亡事故が起こっていないということで、警察も放置している。

フィットネスクラブなどは大手企業が経営している場合がある。
それだけ圧力が掛けにくい点と、表面化しないように隠蔽する体質がある。

一ヶ月の顧客数が1000人を越えるフィットネスクラブの社員の割合は3人である。後はアルバイトを使っての経営であるから、安心と安全は保証されていない。

気を付けてやろうとケガをして補償されるケースはないと考えた方がよい。
特に子どものケガで一生を台無しにするケースも増えているから親の責任も問われるのである。


最近タバコのCMを見なくなった 酒のCMはよくやっている

2007年10月30日 01時59分56秒 | 社会問題
最近タバコのCMが少なくなっているが、禁煙ブームがTVCMにも影響を及ぼしている。

アメリカではすでにTVCMでのタバコの宣伝は15年以上前あたりから出来なくなっていた。

タバコの被害がどれほどのものかは実際の所データがない。肺ガンに成りやすいということであるが、タバコだけが肺ガンの影響とも思えない。

マクドナルドでは喫煙ができない場所はほとんどない。
飲食店はたしかにタバコが吸えなくなった。

禁酒ブームであるような気がしていたが、酒の宣伝は堂々とやっている。
特に発泡酒やビールの宣伝はお茶の宣伝と同じくらい多い。

飲酒運転撲滅とはいいながら、アルコールメーカの力は強いのであろう。

酒で肝臓ガンになる割合はかなり多い。
飲酒運転は重罪になっている。

車の中でタバコを吸ってはいけないという法律はまだ出来ていない。
つまり、タバコは法律で規制するには至っていない。

世間の早とちりのところがある。
たしかにタバコは発想力を高める。

発想力の弱まっている日本人は肺ガンよりも発想力の弱まりを心配した方がよいのではないか。

女の出しゃばりが、社会を弱くするのはもちろんである。

頼もしい知性的な女性が若死にする一方、無能な出しゃばり女がどんどん増えている。


セクハラ対策 群大は男子校にするべきである

2007年10月29日 19時34分42秒 | 社会問題
カラオケで女子大生の身体に触ったとか、ダンスをしたとかで辞職や懲戒免職を受けるような時代は末期症状である。

生理学的に、

男は何故勃起するか?
女は何故濡れるか?

の、講義はこどもの時から必要である。

男は女を触りたいと思うにちがいない。
男に女を触るなといっても大抵の男は触るであろう。

女も触られなくとも生きていける女は皆無である。
気持ちの悪い話であるが、女はいつも濡れている。

子どもを産むという恐ろしいどろどろした行為は女でしかできない。

大学に女を入れるのは本来御法度である。
相撲の土俵以上に新鮮な学問の殿堂にアホと女を入れ込んだのは大学そのものの落ち度である。

女は触って触って喜ばせるのが本当である。
勉強ばかりしていると女に喜ばれる触り方ができないのであろうか。

女たちも事項防衛力も持たないで、男の責任に帰すのも無責任である。

男と女は物心つくややるために生存するようなものである。

私はこれからプラトンの『饗宴』を読む。

自然の生業を無視して生きることは生きるに値しないのである。
電気は+から-へ移動する、のだったけ。

しかし、それにしても大学の教授レベルがカラオケとは情けない。


ポアンカレ予想とグレゴリー・ペレルマン

2007年10月29日 14時03分00秒 | 科学
ポアンカレ予想の謎解きは独創的な数学者にとって重要な問題であるとは言えない。

ポアンカレ予想

フィルズ賞とはそれほど重要な数学の賞であるのだろうか。

数学者はだれも他人の評価をするだけの時間を持ち合わせているものではない。

フィルズ賞に相当するかどうかを検証する人たちと数学者とは同じであるとは思えない。

グレゴリ・ペレリマンのような数学者が自分の数学の発見とは別に機知の難問を解決することに精神を集中させるということは得策ではなさそうである。

また、このポアンカレ予想のように、宇宙がどのような形をしているかは、はっきり言って誰にもわからないのである。ほんらい宇宙に形を与えるとそれは嘘になる。

宇宙が有限であるか、無限であるかはどのように考えるかで答えは違ってくるが、それはあくまでもそれぞれ個人の考えでしかない。

たとえばきのこ(まったけのような子実体)のような形の宇宙を想像した場合、ひもを正確に木の子の形にとりつけることは困難である。

ポアンカレが考えた宇宙像には強い重力場の存在ブラックホールなどは想像もしていなかったであろう。

宇宙が形であるなら別の世界がそこから広がっているはずである。空間は無限なのか、時間は有限なのか、もしひもを宇宙に掛けて戻って来るまでの時間は有限であるのかという問題も提起しなければならない。

ボアンカレ予想が記述されている分権をわたしは知らない。

きのこ狩りはペレルマンにとっては単なる趣味ではなさそうである。
きのこの奇妙な形態と毒を含む不気味さとペレルマンは何となく共通点がありそうで、ペレリマンのはきのこの精霊であるかもしれない。


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10月28日は群馬県民の日 JRのフリーパスで1日乗り放題1100円

2007年10月29日 13時41分31秒 | 未分類
ぐんまフリーパスはJRの群馬内の電車は乗り降り自由で1100円とお得である。

県外から行く場合は熊谷から高崎、小山から桐生へ入らねばならないから、そこへ行くまでの料金が高いとあまりメリットがない。

それでも1100円で横川まで行って釜飯を食べるとか、長野原草津口まで行って草津温泉まで行くとか、万座鹿沢駅まで行って万座温泉に向かうとかいろいろ手はある。

ただし、バスの往復料金はバカにならない。

万座鹿沢駅からだと草津温泉まで14キロほどであるから、歩いて3時間ほどで行くことが出来る。

山登りすることを考えれば片道3時間はそれほど長い道のりではない。
往復するとさすがにくたびれるが、ゆっくり紅葉を見るのも中々情緒があってよい。

大体歩いている人間は皆無に近いから、たった一人で成し遂げる快挙に自分の偉大さに気づくものである。

彼女といれば時間は忘れるが、必ず彼女から文句がでるから、一人で歩いた方がよい。いまでき、忍耐深く歩く女性はほとんどいない。

私はサハラ砂漠を8時間背広姿で歩いたことがあるが、平気であった。
もともと人間の二本足は長距離を歩くように作られている。

世界中に人間が広がっているのもこの二本足のおかげである。
それを現代人は使わなくなった。もったいない話である。

それでも観光地などへ行くとがっかりする。どこもかしこも年寄りばかりで、しかもババアばかりであるから風光明媚な紅葉もババアでケガされている。

昔は観光地へ行けば若くて奇麗な女の子が結構いたものであるが、観光地もほとんど廃れて、若者はあまり近づかない。

東京首都圏交通実態調査でサーベイ・リサーチ会社の藤原さんのような美人は見かけなくなった。

紅葉にああいう美人はいなくなったのは寂しい。その替わり年金を食い尽くすババア連中は元気である。電車内ではキャキャーいいながら我が物顔で、亀田の柿の種をお仲間に配って走り回っている。

若者たちはそのおかげで汲々している。気の毒である。


亀田興毅の謝罪会見 嘘はなかった

2007年10月26日 17時39分19秒 | 事件・事故・自殺
TVで部分的に亀田興毅の謝罪会見を見る。

親子の関係では必ずしも好ましい親子ではないが、
他人には理解できないような苦労もあろうから、
親子で始めて理解が及ぶところの絆は強靱である。

そのところの涙ぐんだ、亀田興毅の顔には嘘はなかったように思う。

片親が土木工などの仕事をしながら育てていくのはしんどいものがある。
血筋からしても頭もよくない。

ただひたすら他人からどのように言われようと生き抜かなければならない。

とにかく成功しなければ生涯バカにされるのである。
私のようにバカにされない人生は人生に値しないと悟るのは難しい。

まだ若いし正直な人生を送れば、バカにされる人生もまんざらではないと思うようになる。

時間はすぐ過ぎていき、人間は気が付けば白髪三千丈である。

地獄は口を開いて待っているが、天国も同じことである。


エルメスのバッグが似合わない化け物日本人

2007年10月26日 15時55分28秒 | 社会問題
気持ち悪い。
気持ち悪い。

日本の女のブランド好きの8割は気持ち悪い。

似合わない。似合わない。

パリのヘルメス本店やシャネル本店やカルチェ本店や御木本にも出入りしていた頃があるが、日本人は8割が似合わないと本場の人たちは言うのである。

気違いだとも言われているのである。
気持ち悪い。気持ち悪い。
私が言うのではない。

本場の人たちがいうのである。

それでも日本人は安物を沢山買ってくれるので、未熟な職人を育てるにはうってつけらしい。

日本専門のデザインまで登場するルイ・ヴィトンは多角経営をやっているから経営を維持するために日本人をターゲットにしている。

経営の基盤を支えるほどになったブランド各社にとっては内心バカにしている日本人をターゲットにせざるを得ないのである。

それでもエルメス、シャネル、ルイ・ヴィトンはアウトレットを持たない。
アウトレット用の未熟な職人は最初からアウトレット用の品物を作る。

アウトレット用に作ると職人はいつまで経っても未熟なままで、デパートに置く品までアウトレット用品に成りつつある。

日本人は細々とした縫製やステッチの幅までチェックしない。

とにかく日本人は地鶏とブロイラーの区別が付かない国民であり、皮革と合皮の区別もつかないから、いくらでも騙され、裏でバカにされていても、表ではお利口です、お似合いですの、一言に心を躍らせる化け物である。

本物を求める厳しい目を作るには学校へ行ってはいけない。学校は厳しい修行をする場所ではない。

学校へ行かないと亀田親子のように成るかもしれないが、それはそれでよい。本物を求める心を養うには切磋琢磨を10代からやって行かなければならない。

私の塾に来れば本物を見る目がつく。だが、その修行は仙人の修行である。


自動車を愛する若者が減っている 愛車とは何か

2007年10月25日 12時13分55秒 | 事件・事故・自殺
自動車を愛する人間とはどんな人間であろうか?

田舎ではたしかに自動車は生活必需品である。

電車が走っているとは限らないし、一日に何本も走っているとも限らない。

バスは以外と走っていない場合が多い。走っていてもバスに乗るのは年寄りくらいであるし、赤字経営であるから、すぐに走らなくなる。

自転車でも一応間に合うとはいえ、それぞれの店の距離というのは自動車を想定して郊外に作られ、10km前後離れている場合が多い。

田舎で暮らす人間にとっては車がネックになる。
自動車税、車検、ガソリン、オイル、メンテナンスなど余計な金が持って行かれる。

田舎では現金収入を得るには大変な苦労をする。
まず、仕事がない。ファミリーレストランもファーストフード店もコンビニも少ない。

働ける場所はほとんどない。畑でも持っていないとやっていけない。畑を持っている農家などもやっていけない状態である。

それでも車は必需品になっている。恐ろしいことである。

田舎ではいろいろなつき合いがあるが、酒の席でも車を運転するものは飲酒ができない。だから、飲食店などもどんどん客が離れている。

法事でも酒を出さないような事が起きている。罰則はどんどんつよくなる。
だれも好きこのんで自動車を愛するものなどいないし、自動車を愛するという言葉そのものがアホらしくなる。

そんな言葉を流行らせているのは、新聞社や自動車屋である。
あるいは車キチのアホな若者である。

そもそも自動車免許をとってそれを生業とする人間がいるが、どういう職業かを考えてみればよい。

自動車免許を取れば運転手である。
軽トラックの運転手。
ダンプの運転手。
トラックの運転手。
バスの運転手。
タクシー運転手。
会社の運転手。
営業。

どれをとっても社会的にステータスの低い人間のやることである。
金を儲けて高級車を乗り回しても、道路で走っているのはトラック、ダンプ、タクシー、バス、営業車などが7割以上である。

せっかく社会的な地位の高さを手に入れても、結局莫迦連中が好む道路を同じように走るというのは成功はしていても莫迦でしかない。

7割以上がバカであるような道路に出て、高級車を走らせるのが楽しいというのはどう考えても根本に何か欠陥があるとしか考えられない。

やむをえず自動車に乗るにしても、大企業などはほとんど運転手付きの車に乗るもので、自分で運転することはありえない。事故した場合のリスクが高いし、人損事故を起こした場合のリスクは会社や家族を巻き込む大変危険なものとなる。

道路というのは無法地帯である。彼らの運転を見ていて分かるが、交通ルールなどはお構いなしである。運転手の顔を見るとどれも亀田親子に見えてしまう。

最近の若者の自動車離れというのはこのましい現象である。

そもそも走るマシンに対して愛車というのもおかしな表現である。

以前はマイカーという言葉を使っていた。

先ず車は道路が無ければ走らない。道路というのは何処にでもあるようだが、ルートは決まっている。

道路そのものは決して多くない。

しかも、近道をするために走れる道路というのは限られてくる。

以外と交通ルールを分かって乗っている人間は少ない。道路交通法は最近めまぐるしく変わっている。

ゴールド免許で5年間も講習を受けないでいると、違反罰則がかなり厳しくなっている場合がある。

罰金も数十万円から百万円に近いものまで出てきている。

飲酒運転などは言語道断である。しかしそれにも係わらず地方へ行けば、居酒屋や宴会場は車だらけである。

代行を呼んで帰る客は極わずかである。

焼け石に水の世界である。年寄りは残りわずかの人生であるが、若い人は先が長い。

乗っている方も乗らない方も、自動車事故で一生を棒に振る。

輸送の手段として自動車は便利である。
それをレジャーの手段として、家族ごと犠牲にするのはどのような弁解もなく、乗る方も乗せる方もアホとしか言いようがない。

家族全員で一台の車に乗る、危険性を考えないで暢気に考えている連中は何処にでもいる。

子どもの危害を心配する割には、事故の確率の高い自動車に乗せ平気でいる親の思考状態はどういうことであろうか。

今や路上は知的能力の衰えた若者と痴呆症に近い老人と過労死寸前の運転手たちと、色ぼけした主婦たちがひしめいている世界である。ついでに金ぼけした金持ちと医学的文盲の医者たちが自動車を愛するのである。

私も自転車と徒歩での行動が多くなった。田舎は何かに付けて不便である。できれば電車での交通網の発達した都会に住むのが一番よい。

日本の都会は住宅費がバカ高いが、パリなどはまだ日本よりは暮らしやすい。

最近は治安がさらに悪くなっているのが少し危惧する点である。


                           続く


フェルメールを見た 『牛乳を注ぐ女』

2007年10月23日 04時34分18秒 | 美術・建築・工芸
<TITLE>フェルメール</TITLE>

『牛乳を注ぐ女』


新国立美術館がどのような役割の元に作られたかというと、ほとんど莫迦らしい理窟に基づいて作られている。

初代館長は高階秀爾である。館長に収まったかどうかははっきりしたことは知らないが、最初の高階秀爾の説明では、収蔵作品を持たないで過去の展覧会のカタログをすべて集め、研究する美術館というよりも博物館を作るということであった。そのためにわざわざ地価の高い六本木にそのようなものを作る必要があるのかどうか疑ったものである。

建物はモダンな様式であるが、いまではことさら新しいものでもない。
また、建築家黒川紀章氏の最後の大型プロジェクトであるが、ちょっとハイカラであるにしても、どことなく空港をイメージするデザインである。

今では鉄パイプをつなぎ合わせ、ガラス張りにした建物は珍しくはない。
運のよい黒川紀章氏はかっこよく時代を駆けめぐった建築家であった。
語り継がれるほどの絶世の美人を奥さんに迎えたことも僥倖であった。

美術館の雰囲気からすると、フェルメールを展示するにはふさわしくはない場所であり、建物である。

ダ・ヴィンチの『受胎告知』には防弾ガラスがはめられていたが、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』には防弾ガラスもはめられていなかった。

あれはオランダの国宝と言うより、世界の国宝である。
10大絵画のうちに入るような作品であり、フェルメールの傑作中の傑作である。

それにしても今後あの作品が日本にやってくることは先ず無いであろう。先ず無いであろうと思ったから、私はアムステルダムへ一人で出かけたのである。

たしかに聞きしにまさる恐るべき作品である。改め見直したが、やはりあの小さな画布の中に、なんと広がりのある空間を閉じこめてしまったのであろうか。

あれは人間には描きようがない、時間と空間を閉じこめて、その時間と空間が共に永遠に流れるような無限の配置の中で、牛乳は永遠に流れ出しているのである。

すでに300年もあの女性はあの姿のまま牛乳を注いでいる。これは単なる譬喩ではなく、その通りのことが起こっているのである。

あの強力な存在の示すものが何であるか、星野知子の『フェルメールとオランダの旅』を読むと参考になる。女優の星野知子は単なる女優ではない。10代のころから絵画鑑賞を続けている、生粋の絵画好きなのである

美術関係に詳しい編集者なども星野知子を買っている。

私も小林頼子よりも星野知子を参考にすることがある。

しかし、この作品が日本に来てこの作品がモナ・リザと同じような重要性を秘めていることに気づかないで展示されている。

フェルメールはそれほど貴重な画家であり、崇高な世界を描き出している。作品の数が少ないという点でもレオナルド・ダ・ヴィンチに似ているのである。

謎の多いフェルメールと云う点でもレオナルド・ダ・ヴィンチに似ている。いやもっとも実情としてはフェルメールは謎が多い、その存在がはっきりしないほどである。

この機会を逃すとオランダまで足を運ばねばならない。アムステルダムへ行けばゴッホ美術館もレンブラントも見ることができる。ついでに美味しい中華のファーストフード店も発見することだろう。

オランダ人はドイツ人よりも足が長いのが多い。自転車をレンタルして町を見学するには短足には向いていないから要注意である。

                          10月21日初出


NTT側の勝訴判決 しかしこの裁判官は何も知らない

2007年10月23日 04時09分02秒 | 社会問題
NTTの電話加入権は基本的には市場で売買される必然性のあった、預託金である。

1980年あたりには日本津々浦々ほぼ全域で通信網が発達し、電話はどこでも引き込む事ができるようになっている。

この時点で電話加入権は値引きしてもおかしくはないのである。すでに業者間では値引きが始まっていた。質権として電話加入権を売買するというのは昔からやっていたのである。

では、NTT側の工事にどれほど費用がかかるかというと、賃貸アパートやマンションにはほどんど室内まで回線が引き込まれている。一度引かれたものは建物を壊さない限りはしようできる。開線工事には来るが接続テストをするだけの簡単なものである。

局内ではジャンパー線に接続するだけの簡単な工事である。いまでは、コンピュータを介して自動的に行うこともできる。

飽き線に差し込む程度で、工事と言うほどたいそうな事ではない。開線費用回線工事費は別途請求しているので、電話加入権を工事費とみなすことはできない。

加入権はいわゆる独占企業が行い得るボッタクリ料でしかない。これを市場で売買していたのであるから、市場価格が暴落するようなことを一挙にやるべきではなかった。段階的に価格を落として行けばよかったのだが、他社の市場参入とソフトバンクのような会社が価格破壊を行ったためNTTは苦境に立たされ、競争力を高めようと値下げに決行したのである。

儲けるだけ儲け、その多くは下らぬ社員の賃金に消えていった。また、莫迦げた投資や役にも立たない研究費に莫大な金が飛んでいったのである。

競争に負けるとすぐに新しい他国の技術を取り入れるやりかたはNTTが群を抜いているが、NHKもそれに劣らないで国民の金をふんだんに使いながら多くは失敗する。アナログハイビジョンなどで損害を被った公共団体や個人は開いた口がふさがらない。

裁判官は法律の勉強はやるが、技術的な勉強は苦手であるし、判断力をやしなう哲学などの学問も苦手である。

そもそも司法試験は法の技術試験であって、適正な判断力を培う試験ではない。

裁判官や司法関係者が一般常識から逸脱することは極めて多いのである。


【朝日新聞】の記事

電話加入料値下げ、原告の請求棄却「返還義務ない」
2007年10月23日02時49分

 固定電話の「電話加入料」の値下げで、持っている電話加入権の資産価値が下がったとして、加入者らが集団でNTTや国に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁(秋吉仁美裁判長)は22日、原告側の請求を棄却する判決を言い渡した。「加入権は金融商品の側面もある譲渡可能な財産権で、一定の価値を持つことが保証されている」とする原告側の主張を退けた。

 判決は、加入権を「加入電話の提供を受ける権利で財産権にあたる」とした。そのうえで、原告側が電話網を整備するための負担金に当たるとした点について「加入契約時に一律に負担すべき工事費用の一部で、加入者に返還されるものではない」との判断を示した。

 加入料の値下げでNTT側に負担金を返還する義務があるとする主張に対しては「値下げには合理的な理由があり、返還などの配慮をする義務はない」と結論づけた。


皇太子様が雲取山を登山 秩父側からは登らない

2007年10月22日 19時37分10秒 | 未分類
皇太子様は奥多摩側からお登りになった。3回目である。小和田家の姫はご同伴ではないようである。

イギリス皇室みたいね。

最初にお登りに成ったときには、くもとり山荘に水洗便所ができ話題になった。

秩父側はケーブル側が中止になっているから、電車では行けない。

そもそも秩父家の名前と同じであるし、秩父側は遠くになるし、西武鉄道を使いたくもないであろうから登らないのであろう。

明日はご下山されるという。

雲取山を甘く見てはいけない。東京都に2000mを越す山はここだけなのである。