四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

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ガスケの『セザンヌ』 岩波文庫 芸術家・思想家必読の書

2010年01月31日 17時44分49秒 | 美術・建築・工芸
ガスケの『セザンヌ』が岩波文庫から発刊されていた。
ガスケの『セザンヌ』は絵画至上画家が絵について語ったもっとも重要な書物である。
わたしは求龍堂で発売されたものを購入していたが、近代絵画の方向性を与えた書物でもある。

古典・中世期の絵画のあり方を根本的に変えてしまい、印象派をも超え出た画家の思索のあとが伺える。まさにセザンヌ以前の絵画とセザンヌ以後の絵画を区切ってしまったのである。
それは哲学がソクラテス以前と以後で区切られたような重要な位置づけでもある。

そしてセザンヌがいうところの神はわたしの信ずるところの神でもある。
「神を信じないでどうして画家になれるのですか?」

志あるもの、才能ありと自惚れているもの、1000年を単位に生き通したいもの必読の書であります。

合わせて『回想のセザンヌ』も読むことをおすすめする。

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子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

宗教の時間 神は信じる 宗教は考える

2010年01月31日 05時42分57秒 | 行住坐臥
日曜日の早朝にNHKでは「こころの時代」をやっている。
面白いと思ったものは見るようにしている。

こころの時代~宗教・人生「我を照らされて」
沢木興道に師事した西川玄苔さんは、自分のエゴ、「我」へのとらわれと苦闘する求道の人生を送ってきた。坐禅に没頭し、念仏に出会って感得した86歳の禅僧の境地とは。
【ゲスト】宋吉寺前住職…西川玄苔,【きき手】亀井鑛



我の問題を考えていたが、我は常にものの世界には現れるものである。
芸術では我のあるものはうるさく調和しなく品無く安っぽい。傑作は我がはずれ純粋な私のみが残る。

私とは物そのもの(Ding an sich)である。
私とは他人も私と見つけたり、ということである。

我である場合には我と我があらそう。

芸術の傑作にはそれぞれ私がある。
私が抜けた芸術には永遠性がない。

カントもいうように「常に主語であり続け、けっして述語にならないものが、私である。」
この広大な宇宙の中で常に主語であり続ける存在が私であり、すべての人間にそれは共通する。

エドガー・アラン・ポーには『ウィリアム・ウィルソン』という小品がある。
善と悪に分身したようなウィルソンが二人現れる。顔も背丈も声もそっくりである。
悪をなすウィルソンの前にはそれを阻止する善のウィルソンが現れる。
わたしは、映画でもこの作品を見たことがあった。感心したのであるが、この映画の主演で出ていたのが、アラン・ドロンである。彼はいかにもウィルソンに適した役どころであった。後日、私はアラン・ドロンに会う機会に遭遇したとき、彼のウィルソン役のことを褒めたが彼はことの他喜んでくれた。ほとんどこの作品に対してアラン・ドロンを褒め称える人間はいないようであった。

これを個人のウィルソンから団体の善悪の問題を考えても、善と悪は相対するものではあるが、それはどちらも常に相即不離の関係にあるものである。
これは常に対立するが、もしそこに調和というもの私というとこの段階まで高めると双方は和解でき、その存在は雲散霧消する。

芸術にはそういう対立を融和する異種のアドレナリンが含まれている。

宗教は宗とする教えである。教えである以上はそれを考えることができる。たとえばその教えは正しいのか間違っているのか。よく自分が信じる宗教は正しいと鵜呑みする人がいるが、宗とする教えには教典がある。単にあるのではなく、それが宗となる教えである。読まずに信ずることは盲信に繋がる。少なくとも読んで考えてみるということは必要である。

もし、それでも信じたいのであるなら、教えではなく神の存在そのものを信ずればよい。
神は信ずるものであっても、神は生半可な信じ方では姿も現してはくれないし、手伝ってくれることはない。

神を信じることとは命を捧げることである。つまり常なるところに命を捨てるのである。死ぬ以前に自らを神に捧げていなければならない。だれでもできる事ではなく、犠牲の精神を持っていなければならない。学校を出て企業に就職するなどを考えてはいけない。かっこいい相手を見つけて幸せな家庭を持ちたいなどと考えてはいけない。商売が繁盛することを願ってはいけない。それでは神を信じていることにはなっていない。常の所に死するのである。何も考えないで信じていればよい。考えは自然と向こうからやってくる。これが芸術の極意である。

具体的なことを知りたければセザンヌの手紙を読み、セザンヌの絵画をじっくりと見ることである。


西川玄苔さんは『驢鞍橋』を引用し、「先ず常に死を優先して思う」ということを強調されておられた。ラテン語のメメント・モリである。現在人は死を想うことを嫌い、死んだ人々のことまでも瞑想できない。人は必ず死ぬがいかような死に方をするかを決めることは困難である。自殺にしても何故自分が自殺に追い込まれたのかということは、そうなったからいざ仕方がないというところへ、追いやられてしまう。借金にしろ病気にしろリストラにしろ複数の要因が重なってしまうと追い込まれる境地に至るのである。他人にはもちろん友人にも家族にもなかなか理解されない複雑な心境がやってくる。

殺人や事故にしろ、自分で決めることはできない。どんなことも起こりえることは避けられないのである。分かっていても避けがたいことは多々ある。さまざまな要因はある。自己が死を導くということもある。

常に死を想うことは大事である。そうすることで今為すべき事は何かという選択肢が見えてくる。



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子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

NHK 「A to Z」言語力を見る。

2010年01月31日 03時23分41秒 | 社会問題
NHK 「A to Z」を見る。
アートディレクター…佐藤可士和,【キャスター】鎌田靖


せっかく「言語力」を取り上げていながら、サッカー選手の言語力程度での問題提起では「言語力」には迫っていない。もちろん何をするにも文章能力が必要にならないはずがない。

重要な課題に取り組みながら、言語力の重要性が幼稚な問題でしかないというのはどうしたことであろうか?

ものごとを考えるには言葉しかない。
数学の親は言葉である。数学者の皆様、言葉を一切使わずに数学の事象を考えて下さい。
たとえば、π・i・eなど文字も使わずに数学を考えて下さい。

音楽家の皆さん、言葉を使わずに音だけで音楽をやって下さい。

自分の存在をことばを使わずに証明して下さい。けっして、わたしに頭突きを喰らわさないで下さい。

言葉を使わずに退屈を凌いで下さい。

考えれば考えるほど、携帯電話に駆け込む人が増えているそうです。

「ここに鉛筆があります」
「この鉛筆を下さい」

「明日、上野駅の南口であいましょう」
「ルーターを3台送って下さい」
「犬がね、子を産みました」
「犬がねこを生みました」

「したたりやまぬ日の光、うつうつまわるみずぐるま」
「青空に越後の山も見えるぞ、今ははや真にさみしいぞ」
「ほのかにひとつまたひとつ」
「あしひきのやまたけのなるなべに」

言葉を使えば伝わることと、言葉を使っても伝わらないことなど、言葉の用途も様々です。
上の「 」で囲まれた文章もすぐに理解できることと、何を表現しているか分からないものがまじっています。

間違って言葉が伝達されると、飛んでもないことが起こります。

物の製造や流通のために使われることばは、比較的わかりやすいものですが、非存在や雰囲気や感じを伝えるには新しい方法が必要となります。個人の感受性に関係する言葉の使い方は時には詩の表現を借りなければなりません。

言語力は人間の力に他なりません。
存在の値打ちは言語力に現れます。

「文は人なり」ということに他なりません。

言語力を獲得することは、本来は学校の仕事だったのです。
いまでは言語力を衰えさせるために学校へ行っているようなものです。

学校へ行くと、親とも友達ともじっくりと話し合うことがなくなります。
いまはとことん話し合うことができる相手と巡り会うことはありません。

だれもそれを望んでいないからです。
友達を見つけるときも○と×で判断するだけです。
好きと嫌いで物事がきまります。

結婚する前は○、結婚後は×。そして離婚。○・×だけの結びつきでは社会が崩壊します。
最近の医者はこの好き嫌いで患者を見ます。○なら少しだけ真面目に診察します。×なら効かない薬を投与します。手術も真面目に行いません。わざとハサミやメスを取り忘れます。

考えることは言語を使って考えるのです。
われ思う故にわれあり。とはデカルトの有名な「cogito ergo sum」の訳です。

もし、考えなければ人間は宇宙にも優越しないようです。

パスカルは人間を「考える葦」にたとえました。
人間は河原に揺らぐ葦のように頼りない存在であるが、宇宙がどんなに広大であっても、その葦は考えることによって宇宙を凌駕していると言います。

まさしく考えるために何をすれば良いか、一番よい方法は、モンテニューが『随想録』でいうように、古典はわれわれよりも精神においてずば抜け、文法の点でも完全である。
モンテニューは幼少の頃からラテン・ギリシア語に秀でた自由人でした。

まあ、わたしは受け売り人間で大した価値はないのですが、モンテニューの『随想録』を読むためにフランス語を習得した人もいるくらいです。

古典は私のようなバカでも読めます。ただし、バカに特有の忍耐だけは必要となります。ご注意下さい。金鉱を掘り当てるには忍耐がものをいうのです。




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