第25回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎梅雨空
毎日、うっとうしい天気が続きます。
第25回「『資本論』を読む会」が開催された6月20日(日)も、どんよりとした曇り空でしたが、家を出るとすぐにパラパラと降ってきました。私たちは傘を持って出かけたのは言うまでもありません。
鳩山に代わる菅政権になっても、民主党政権の本質は何も変わらないような気がします。理念ばかりの“おぼっちゃま”政治から、庶民感覚の“市民派”政治への転換かと期待したのですが、「消費税10%」が飛び出し、“現実主義”の名のもとにより露骨な庶民いじめの政治が横行しそうな気配です。政治の世界も、相変わらず“うっとうしい”状態が続きそうではあります。
さて、「読む会」は前回から入った「4、単純な価値形態の全体」の続きで、第3パラグラフから始まりましたが、今回は、この「4」の最後まで終えました。さっそく、その報告に移りましょう。
◎「単純な価値形態の全体」の総括的な考察
前回の報告で、この「4」全体の構成を次のように紹介しました。
〈この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展段階(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになる〉と。
だから今回、最初の検討対象になった第3パラグラフでは「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」が行われることになります。これまでと同じように、まずパラグラフ全体の本文を紹介し、それを文節ごとに学習会の報告と併せて詳細に検討していくことにしましょう。また関連する付属資料は最後に別途紹介することにします。まずは第3パラグラフの本文です。
【3】
〈(イ)商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。(ロ)したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。(ハ)したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。〉
(イ)商品Bに対する商品Aの価値関係のなかに含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみますと、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ商品Aの使用価値の姿として意義をもち、商品Bの現物形態は、ただ商品Aの価値形態、すなわち商品Aの価値が形ある物として現われているもの、あるいは価値姿態として、すなわち商品Aの価値が具体的な姿をとった物として意義をもつことが分かりました。
(ロ)だから商品Aのうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、つまり二つの商品の対立的な関係によって表されているわけです。この関係のなかでは、商品A、つまりその価値が表現されるべき一方の商品は、直接には、つまり直接目に見えるものとしては、使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、商品B、つまりそれで価値が表現されるもう一つの商品の場合は、直接には、つまりその目に見えるものとして存在しているものとしては、ただ商品のAの交換価値としてのみ意義をもっていることになります。
ここで、〈内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され〉るとありますが、そもそも「対立」というのは、どう理解したら良いのか、その「内的」なものが「外的」なものによって表されるとはどういう事かが問題になりました。
まず「対立」については、以前、大阪市内で行っていた「『資本論』を学ぶ会」で毎回発行された『学ぶ会ニュース』の一文が亀仙人から紹介されました。それをもう一度、紹介しておきましょう。
【◎「使用価値と価値との内的対立」とは?
これは第3パラグラフの議論で出てきた疑問です。直接には第3パラの内容の理解というよりも、「商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立」という表現に関して、使用価値と価値は商品の二つの「属性」とか「契機」とかであって、「対立」しているとどうして言えるのかという疑問でした。そしてそもそも「使用価値と価値の内的対立」とはどういうことかが問題になり、「対立」と「矛盾」とはどう違うのか、といった論理学的な問題にまで発展しました。
まず「使用価値と価値の対立」の理解としては、次のように言えるのではないでしょうか。商品の使用価値には価値は全く含まれていません。一つの商品をどんなにひねくり回しても、透かして見ても、価値は見えてきません。他方、価値には一原子の自然素材も入り込んでいないということはまた明らかです。このように両者は全く互いに排除しあった関係にあります。また使用価値が大きくなっても、そこに含まれる価値が必ずしも増大するとは限らず、むしろ両者は全く反対の動きさえします。このように量的にも両者は全く独立した動きをするものとしてあります。しかしまた両者は商品の二契機である限り、互いに分かれがたく前提しあっています。価値は使用価値が前提されなければ価値ではありえないし、また使用価値はそれが商品の使用価値であるためには価値の担い手でなければなりません。これが「対立」の内容ではないかと思います。
次に「対立」や「区別」、「矛盾」といった論理学のカテゴリーの説明については、鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)から簡単な紹介をするだけにします。
同書には本質について次のような説明があります。
〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態のうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)
ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。
〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)
〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)
〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)
区別、対立、矛盾の関係がだいたいお分かりいただけたでしょうか? 詳しくは同書を参考にしていただくとしてこれぐらいにしたいと思います。】(「『資本論』を学ぶ会ニュース」No.16より)
ここでは「内的対立」の説明はされていますが、「外的対立」については、そもそも価値表現の両極として相対的価値形態と等価形態というのは、まさに二つの商品が一つの価値表現の兩極として「対立」関係にあることを示しています。例えば、初版付録の項目を紹介しますと、次のようになっています。
〈(一)価値表現の兩極。相対的価値形態と等価形態。
a 両形態の不可分性。
b 両形態の対極性。〉(国民文庫版129-130頁)
このように相対的価値形態と等価形態は、〈その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること〉が分かります。つまりこの両者は二つの商品として外的な「対立」的な関係にあることが分かるのです。
つまり商品Aと商品Bのそれぞれがとる二つの価値の形態、すなわち相対的価値形態と等価形態は、商品Aに内在する使用価値と価値の内的対立が、二商品の価値の形態として、外的な対立として現われたものであることが分かるのです。
(ハ)だから、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのです。
これが「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」の結論ということが出来ます。
初版付録には、次のような具体的な説明が付いています。
〈もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上153頁)
ここでは私たちが「相対的価値形態の内実」に出てくる「商品語」について考察したときに指摘したことが、マルクス自身の言葉として語られています。すなわち、価値関係というのは、商品自身が主体的に関係しあう物象的な商品世界の話であるということです。そこでは商品自身が商品語で他の商品に語りかけているわけです。 つまりリンネル自身が上着との価値関係を取り結ぶことによって、自分が商品であることを語るわけですが、そのためには、(1)まずリンネルは自分は使用価値であり、(2)そしてそれとは区別される交換価値(上着と同じもの)である、と語ることによって、(3)自分自身が商品であることを示すのだというわけです。
(字数制限の関係で、全体を三分割します。よって以下は「その2」に続きます。)