『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.24(通算第74回)(1)

2020-12-21 16:17:51 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.24(通算第74回)(1)

 

◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(大谷新著の紹介の続き)

  今回からは大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」を取り上げたいと思います。
  この章で紹介されているものは、1988年10月にドイツのベルリンで「DDRマルクス=エンゲルス研究学術会議」の第40回大会に参加し報告を行ったものがベースになっているようです(日本からは著者の他に大村泉、宮川彰両氏も参加したらしい)。大谷氏は事前に文書で報告書を提出し、当日、口頭でも報告したようです。だからこの章で紹介されている「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」はドイツ語で書かれた報告書の邦訳であり、「Ⅱ フランス語版に関する追記」は著者が当日口頭で報告したもののようです。

 最初のものはその表題から明らかなように、久留間鮫造氏が『価値形態論と交換過程論』(岩波書店1962年)で展開した、いわゆる「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」というシェーマ(定式)に関連したものです。大谷氏は文書報告の基本的立脚点について次のように述べています。

  〈以上の報告の内容は,基本的に久留間鮫造の見解に一致しており,海外へのその紹介と考えられてさしつかえないが,しかし,盛行するわが国での久留間批判をも念頭に置きながら,これらの批判にもかかわらずいささかもゆらいでいないと考えられる久留間説の基本思想にもとづいて,「貨幣生成論の問題設定とその解明」というテーマについてどうしても触れなければならないと思われた事項を,きわめて簡潔にまとめたものである。〉 (549頁)

  この久留間氏の問題提起については、このブログ(特に前半部分の「『資本論』を読む会」の報告)のなかで何度も取り上げて批判的に検討してきました。今回の大谷氏の報告はそうした私たちの批判も含めて、それに反論を加えようと意図したもののように思えます。
  だからこの問題を論じるとどうしても以前、このブログで書いたものを再び問題にせざるを得ませんが、その点はご容赦願います。しかもこのテーマはこのようなイントロで取り上げる範囲を超えており、だからやや変則的ですが、何回かの連続ものとして論じる必要があることもご承知いただきたい思います。

  まず大谷氏は久留間氏の問題提起は、あくまでも貨幣生成論という観点から見たときに、価値形態論、物神性論、交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしているのであって、価値形態論、物神性論、交換過程論の課題をそれ自体として(つまり『資本論』におけるそれぞれの課題や位置づけを)問題にしているのではないのだと次のように述べています。

  〈本稿では,『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている。久留間がこの三つの部分の課題を問うたときも,まさにそうであった。価値形態論について言えば,それはけっして,『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない。第3節「交換価値または価値形態」が価値の形態を解明することを課題としていることは,言うまでもないことであり,この課題を果たすことが「いかにして貨幣は商品であるのか」という問題に解答を与えることになるとしても,この「いかにして」という問題が価値形態論そのものの課題であるなどということはできない。価値形態論には久留間の言うところとは違った重要な課題があるのだ,と言うことで,久留間説を批判していると考えておられるように見受けられる論者もあるが,見当違いも甚だしいと言わなければならない。久留間の『価値形態論と交換過程論』の「はしがき」を虚心に読めば,そのような誤解が出てくるはずもないのである。価値形態論,物神性論,交換過程論は,それぞれ固有の課題をもっている。しかしこれらが,同時に貨幣生成について論じているとすれば(もちろんこのこと自体を否定する議論もありうるが),それらは貨幣生成の問題についてそれぞれどのような位置を占めるものかが明らかにされなければならない。そのことを問う問題が立てられなければならない。それが,久留間が問題にしたところであり,また筆者のこの報告が問題にしたところでもある。〉 (550頁、太字は大谷氏による強調)

  しかしこうした主張はなかなかすんなりとは納得が行くものではありません。大谷氏は〈久留間の『価値形態論と交換過程論』の「はしがき」を虚心に読めば,そのような誤解が出てくるはずもない〉と言われるのですが、果たしてそうでしょうか。いわゆる久留間氏のシェーマが提起されているのは、同書の前編のなかでですが、その課題を「はしがき」では久留間氏自身は〈次の第四論では、価値形態論と交換過程論とのあいだの差異と関連とについてのわたくしの積極的な見解を展開する予定であった〉としています。しかしそれがなかなか書けなかったが、雑誌『法政』の企画の「公開講座」でそれについて話す機会があり、その速記をもとに手を入れて、それ以前に書いたものと順序を逆にして前編にもってきたものが「価値形態論と交換過程論」だと述べています。しかし残念ながら、「はしがき」には大谷氏がいうような〈価値形態論,物神性論,交換過程論は,……貨幣生成の問題についてそれぞれどのような位置を占めるものかが明らかにされなければならない。そのことを問う問題が立てられなければならない〉というような問題提起は見当たりませんし、〈それが,久留間が問題にしたところであり,また筆者のこの報告が問題にしたところでもある〉といわれてもなかなかすんなりとは納得行かないわけなのです。
  それでは、実際問題として、久留間氏自身は前編の「価値形態論と交換過程論」のなかでどのように論じているのかを見なければなりませんが、それをやりだすと長くなりすぎますので、一応、今回はここまでで終わります。続きは次回に、乞ご期待。

  どうもイントロとして書いているものが連続ものになってしまい困った話なのですが、とにかく『資本論』の解説という本来の課題に入りたいと思います。今回から「c 世界貨幣」に入りますが、まずその下位項目の位置づけとその理由について問題にしたいと思います。


◎表題(c 世界貨幣)

   今回から「世界貨幣」に入りますが、これは「第3節 貨幣」の下位項目「c 世界貨幣」となっています。しかしそもそも世界貨幣が問題になる世界市場というのは、これまで私たちが見てきた一国のなかにおける商品流通の枠を越えたものです。それに商品交換は、共同体と共同体とが接触するところではじまったとマルクスが述べていましたように、商品流通はむしろ世界市場から始まったといっても良いぐらいのものなのです。しかし『資本論』ではなぜか「第1部 資本の生産過程」「第1篇 商品と貨幣」「第3章 貨幣または商品流通」の「第3節」の「c」で問題にされています。どうしてそうなっているのでしょうか?

  私たちはこれまで貨幣を「第1節 価値の尺度」「第2節 流通手段」「第3節 貨幣」の順序で考察してきました。しかし貨幣の尺度規定や鋳貨規定そのものは、歴史的には世界貨幣のあとに生まれてきたものなのです。マルクスはそこらあたりの事情を次のように述べています。

  〈貨幣は一般に尺度として(度量単位の確定およぴ度量単位の区分を通じて)形態上国民的、政治的な制限を受ける、そして鋳貨においては、国家によって発行される価値章標が現実の金属の代わりをつとめるかぎりでは、この国民的、政治的制限は〔単に形態的なものにとどまらず〕内容にまでも及びうるが、こうした制限は、貨幣が一般的商品、世界鋳貨として現われるさいにとる形態よりも歴史的には後のものである。だが、なぜそうなのだろうか。それは、後者〔世界鋳貨〕の場合には貨幣が一般に、貨幣としての具体的な形態において現われるからである。〔これに対して〕尺度であることと流通手段であることとは、どちらも貨幣の機能にすぎず、のちになってこれらの機能が自立化してくることによってはじめて、貨幣はこれらの機能をはたすさいに特殊な存在諸形態をとるのである。〉 (『経済学批判・原初稿』草稿集③51頁)

  ではどうして『資本論』ではこの順序がひっくり返っているのでしょうか。その理由について、『経済学批判要綱』の序文にある「経済学の方法」のなかでマルクスは次のように述べています。

  〈すべての社会形態にはある一定の生産があって、それがその他のすべての生産に順位と影響力とを指定し、したがってその生産の諸関係がまた他のすべての諸関係に順位と影響力とを指定するのである。それは一般的照明であって、その他のすべての色彩はそれにひたされて、それぞれの特殊性のままにに変色させられる。それは特殊的なエーテルであって、そのなかに浮き出てくるすべての定在の比重を決定する。〉 (草稿集①59頁)
  〈したがって経済学的諸範疇を、それらが歴史的に規定的な範疇であったその順序のとおりに並べるということは、実行できないことであろうし、また誤りであろう。むしろ、それらの序列は、それらが近代プルジaア社会で相互にたいしてもっている関連によって規定されているのであって、この関連は、諸範疇の自然的序列として現われるものや、歴史的発展の順位に照応するものとは、ちょうど反対である。問題になるのは、経済的諸関係がさまざまの社会形態の継起するなかで歴史的に占める関係ではない。ましてや、(歴史の運動のぼやけた表象である)「理念における」(プルドン)それらの序列ではなおさらない。そうでなく、近代ブルジョア社会の内部でのそれら諸関係の編制こそが問題なのである。〉 (草稿集①61頁)

  つまり近代ブルジョア社会においては資本主義的な生産関係がすべての昔からある生産や諸関係を自身の契機に貶めて、その編制のなかに組み込み、従属的契機にしています。だから歴史的には資本主義に先行して独立した存在を持っていた土地所有(地代)や利子生み資本(高利資本)、あるいは商人資本といった諸関係も、資本主義的生産様式の諸関係の編制においては、基本的な生産である産業資本の諸関係と諸法則の解明の後に逆転して位置づけられるようになるというのです。
  同じように商品流通の原初から存在した世界貨幣も、歴史的にはあとから生じてきた貨幣の諸機能である価値尺度や鋳貨(流通手段)のあとに、論理的には一番最後に論じられるように逆転しているわけです。これが世界貨幣が「c」の項目で問題になっている理由なのです。
  (なおついでに指摘しておきますと、先に紹介した『経済学批判・原初稿』では、マルクスは〈世界鋳貨〉という用語を使っていますが(付属資料を見ていただければ分かりますが、『経済学批判要綱』も同じです)、「世界貨幣」という用語を使うようになるのは『経済学批判』からのようです。)

  それでは本文の検討を始めましょう。


◎第1パラグラフ(貨幣は世界貨幣としては局地的な諸形態を脱ぎ捨て、貴金属のもとの地金形態に逆戻りする)

【1】〈(イ)国内流通部面から外に出るときには、貨幣は価格の度量標準や鋳貨や補助貨や価値章標という国内流通部面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元来の地金形態に逆もどりする。(ロ)世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。(ハ)したがってまた、ここでは諸商品にたいしてそれらの独立の価値姿態も世界貨幣として相対する。(ニ)世界市揚ではじめて貨幣は、十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。(ホ)貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる。〉

  (イ) 貨幣は、国内の流通部面から外に出るときには、価格の度量標準、鋳貨、補助貨および価値章標という、国内の流通部面で成長してくる局地的な形態をふたたび脱ぎ捨てて、貴金属のもともとの地金形態に逆もどりします。

 まずフランス語版ではより分かりやすく書かれていると思われますので、それを紹介することから始めましょう。

  〈貨幣は、国内の流通部面から外に出ると、それがこの部面で帯びていた地方的な形態、すなわち鋳貨や補助貨幣や価格の尺度標準や価値表章という形態を脱ぎすてて、延棒あるいは地金という元の形態に立ち戻る。〉 (江夏・上杉訳124頁)

  すでに表題を説明したところでも指摘しましたが、私たちが貨幣の諸機能として考察してきた価値尺度や流通手段、そしてそれらのさまざまな存在形態、度量標準や計算貨幣、鋳貨や補助鋳貨、価値章標といったものは、すべてある特定の国のなかの商品流通を前提にしたものでした。だから世界貨幣が問題になる世界市場というのは、そうした国内流通から外に出ることになるわけです。だからそこでは国内流通で通用していた機能や慣習等々はすべて通用しなくなります。つまり貨幣もその本来の姿にもどるわけです。貨幣の本源的な形態というのは、金が地表や地中から見いだされた姿そのものです。つまりフランス語版は〈延棒あるいは地金という元の形態に立ち戻る〉と述べていますように、金属としてのその物質的存在にもどるということです。つまり貨幣は金の物質的な存在としてしか評価されないということです。金の物質的存在のみが価値の絶対的な体現者として現われてくるわけです。
  ついでに『経済学批判・原初稿』からも紹介しておきましょう。

  〈ところが世界貿易においては、金銀は--それの刻印にはおかまいなく--ただその重量によって評価されるにすぎない。すなわち、鋳貨としての金銀は捨象されるのである。金銀は国際的取引においては、金銀が最初に現われたときとまったく同じ形態で、ないしはまったく同じ没形態性において現われる。〉 (草稿集③52頁)

  (ロ) 世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開します。

  これもフランス語版から紹介することにします。

  〈諸国間の商業においてこそ、商品の価値が普遍的に実現される。〉 (同上)

  これは日本のコメを考えればよく分かります。日本のコメの価格(価値)は、何百%という関税と障壁で守られないと外国産のコメと太刀打ちできない状態です。つまり世界市場では、日本のコメの価値も他の国々のコメと同じ商品として評価されなければならないのです。しかしそれを政府は人為的にその作用を押し止めているわけです。しかし諸国間の商業では、商品の価値はそうした国内的な事情などおかまいなしに、同じ商品として評価され普遍的に展開され実現されるわけです。だから日本のコメも同じ商品として他国のコメと評価されるためには、生産性を上げてその価値を低下させる必要があるわけです。

  (ハ) ですから世界貿易では、諸商品の自立した価値姿態もまた、諸商品にたいして世界貨幣として向かい合います。

  この部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈商品の価値姿態が、普遍的貨幣--ジェームズ・ステュアートが呼ぶように、世界貨幣〈money of the world〉であり、彼の後でアダム・スミスが述べたように、大商業共和国の貨幣である--の姿態のもとで、商品に向かいあうのも、そこにおいてである。〉 (同)

  諸商品が世界市場では普遍的に評価され実現されなければならないのですから、その価値の自立した姿態(すなわち貨幣)も、普遍的貨幣として、すなわち世界貨幣として諸商品にむきあいその価値を評価し実現するものとして存在しなければならないわけです。『経済学批判・原初稿』からも紹介しておきましょう。

  〈世界市場において貨幣はつねに、実現されている価値〔realisirter Werth〕である。貨幣は、まさにその直接的物質性において、貴金属の重量として、価値量〔Werthgrösse〕なのである。〉 (草稿集③49頁)

  (ニ)(ホ) 貨幣は、世界市揚ではじめて、自分の現物形態が同時に「抽象的な意味での」人間労働の直接に社会的な実現形態となっている商品として、十分な規模で機能します。貨幣の存在の仕方が貨幣の概念にふさわしいものになります。

  同じくフランス語版です。

  〈貨幣は世界市場で、またこの市場でだけ、自然形態が同時に人間労働一般の社会的化身でもあるような商品として、言葉のあらゆる意味において機能する。そこでは、貨幣の存在様式がその概念に適切なものになる。〉 (同)

  商品の価値というのはその商品に対象化された抽象的な人間労働でした。つまりそれは商品を生産する労働の社会的な関係が価値という対象的な存在になっているものなのです。そして貨幣とは、その商品の価値が自立的な形態として存在しているものです。だから貨幣は人間の社会的関係が物そのものとして人間から独立して現われているものなのです。それは人間が彼らの社会的生産において直接社会的な関係を取り結ぶことかできないために、それが物関係として現われているものです。
  しかし貨幣形態は最初はさまざまな商品に固着し、諸商品の関係が発展するにつれて、それはやがて金銀という金属に固着し、貨幣としての普遍的存在を受け取りました。世界貨幣というのは、こうした原初的な貨幣、金銀の現物として存在している貨幣として存在しているのです。しかしそれは同時に貨幣の概念にその物的形態が一致したものでもあるのです。商品流通が国際的な広がりを持てば持つほど商品の価値はその概念に相応しいものになります。だから貨幣も世界貨幣において、その原初の姿にもどるとともに、貨幣の概念に相応しい物的姿になっているともいえるわけだと思います。〈個人として関連しあっている諸個人に対立して社会的連関が貨幣という姿でもつ外面性と自立化とは、金銀の姿をとって世界鋳貨として現われる〉(草稿集③49頁)

  最後により詳しく展開している『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  〈金が鋳貨と区別された貨幣になるのは、第1には蓄蔵貨幣として流通から引き揚げられることによるのであり、次には非流通手段として流通にはいることによるのであるが、最後には、商品の世界で一般的等価物として機能するために国内流通の制限を突破することによるのである。こうして金は世界貨幣となる。
  貴金属の一般的重量尺度が原初の価値尺度として役だったように、世界市場の内部では、貨幣の計算名はそれに対応する重量名にふたたび転化される。無定形の地金(aesrude)が流通手段の原初の形態であって、鋳貨形態はもともとそれ自体、金属片にふくまれている重量の公定の章標にすぎなかったのと同様に、世界鋳貨としての貴金属は、形状と極印とをふたたび脱ぎすてて、無差別な地金形態にもどる。言いかえるなら、ロシアのインペリアール、メキシコのターレル、イギリスのソヴリンのような国民的鋳貨が外国で流通する場合には、その称号はどうでもよいものとなり、ただその中味だけがものをいうのである。最後に貴金属は、国際的貨幣としていま一度、交換手段としてのその原初の機能を、商品交換そのものと同様に、原生的な共同体の内部でではなくいろいろな共同体の接触点で発生した機能を果たす。だから世界貨幣としては、貨幣はその原生的な最初の形態を取りもどすのである。貨幣は国内流通を去ることによって、この特殊な領域の内部での交換過程の発展から生じた特殊な諸形態を、価格の度量標準、鋳貨、補助貨幣、価値章標としてのその地方的諸形態をふたたび脱ぎすてる。〉 (全集第13巻126-127頁)
  〈金と銀は貨幣としては、その概念上一般的商品であるが、それらは世界貨幣で普遍的商品というそれに適応した存在形態を得る。すべての生産物が金銀と引き換えに譲渡される割合におうじて、金銀はすべての商品の転化された姿となり、したがって全面的に譲渡可能な商品となる。現実的労働の物質代謝が地球にゆきわたるにつれて、金銀は一般的労働時間の物質化したものとして実現される。金銀は、その交換領域をなす特殊な等価物の系列が発展する程度におうじて、一般的等価物となる。世界流通では、諸商品がそれら自身の交換価値を普遍的に展開するから、金銀に転化された交換価値の姿が世界貨幣として現われるのである。それで商品所有者の諸国民は、彼らのあらゆる方面にわたる産業と全般的な交易とによって金を十全な貨幣につくりかえるのであるが、彼らにとっては産業と交易とは、貨幣を金銀の形態で世界市場から引き出すための手段としか見えないのである。だから世界貨幣としての金銀は、一般的商品流通の産物であるとともに、その範囲をさらに拡大するための手段である。錬金術師たちが金をつくりだそうとしているうちに、いつのまにか化学が成長したように、商品所有者たちが魔法にかけられた姿の商品を追いかけているうちに、いつのまにか世界産業と世界商業との源泉が湧き出したのである。金銀はその貨幣概念のうちに世界市場の定在を予想することによって、世界市場の創出を助ける。金銀のこの魔術作用が、けっしてブルジョア社会の幼年時代に限られるものではなく、商品世界の担い手たちにとって彼ら自身の社会的労働が転倒して現われることから必然的に生じるものだということは、19世紀なかばの新しい金産地の発見が世界交易に及ぼしつつある異常な影響がこれを証明している。〉 (全集第13巻129頁)


◎第2パラグラフ(世界市場では金と銀という二通りの価値尺度が支配する)

【2】〈(イ)国内流通部面ではただ一つの商品だけが価値尺度として、したがってまた貨幣として役だつことができる。(ロ)世界市場では二とおりの価値尺度が、金と銀とが、支配する(108)。〉

  (イ) 国内の流通部面では、ただ一つの商品だけが価値尺度として、だからまた貨幣として、役だつことができます。

  少し以前学習した「第1節 価値尺度」に戻ってみましょう。

  〈価値尺度機能のためには、ただ想像されただけの貨幣が役だつとはいえ、価格はまったく実在の貨幣材料によって定まるのである。たとえば1トンの鉄に含まれている価値、すなわち人間労働の一定量は、同じ量の労働を含む想像された貨幣商品量で表わされる。だから、金や銀や銅のどれが価値尺度として役だつかによって、1トンの鉄の価値は、まったく違った価格表現を与えられる。すなわち、まったく違った量の金や銀や銅で表わされるのである。
  それゆえ、もし2つの違った商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として役だつとすれば、すべての商品はふたとおりの違った価格表現、すなわち金価格と銀価格とをもつことになる。これらの価格表現は、銀と金との価値比率、たとえぽ1対15というようなそれが不変であるかぎり、無事に相並んで用いられる。しかし、この価値比率の変動が起きるたびに、それは諸商品の金価格と銀価格との比率を撹乱して、この事実によって、価値尺度の二重化がその機能と矛盾することを示すのである。〉 (全集第23a127-128頁)

  だから国内流通においてはある特定の一つの金属、金あるいは銀が価値尺度として機能することによってその矛盾を無くすことかできたのです。

  (ロ) 世界市場では二とおりの価値尺度が、金と銀とが支配します。

   ところがマルクスが生きていた時代においては、世界市場では、金が価値尺度になっている国(例えばイギリス)もあれば、銀が価値尺度になっている国(例えばオランダ、あるいはアジアではほぼ銀が価値尺度になっていた)もあったのです。だからマルクスは当時の状況を踏まえて、世界市場では二通りの金と銀とが価値尺度として支配していると述べているのです。では今日においてはどうなのかという問題は、一番最後に論じたいと思います。
  ここではやはりより詳しい『経済学批判』から抜粋しておきましょう。

  〈すでに見たように、一国の国内流通では、ただひとつの商品だけが価値の尺度として役だつ。しかしある国では金が、他の国では銀がこの機能を果たすのであるから、世界市場では二重の価値尺度が通用し、貨幣は他のすべての機能でもその存在を二重化する。商品価値の金価格から銀価格への換算とその逆とは、そのたびごとに両金属の相対的価値によって規定されるが、この相対的価値はたえず変動し、したがってそれを決めることは、たえまない過程として現われる。それぞれの国内流通領域の商品所有者たちは、金と銀とをかわるがわる国外流通のために使用するよう、こうして国内で貨幣として通用する金属をほかならぬ外国で貨幣として必要とする金属と交換するよう強制される。だからどの国民も、金と銀との二つの金属を世界貨幣として用いる。〉 (全集第13巻127頁)


◎原注108

【原注108】〈108 (イ)それだから、国内で貨幣として機能している貴金属だけを蓄蔵することを国の中央銀行に命ずるような立法は、すべて愚かなのである。(ロ)たとえば、イングランド銀行の、こうして自分でつくりだした「親切な障害」は、人々の知るところである。(ハ)金銀の相対的価値変動のひどかった歴史上の諸時代については、カール・マルクス『経済学批判』、136ぺージ以下を見よ。〔本全集、第13巻、131(原)ページ以下を見よ。〕-- (ニ)第2版への追補。サー・ロバート・ピールは、その1844年の銀行法のなかで、イングランド銀行に、銀地金を保証として、といっても銀準備が金準備の4分の1を越えない範囲内で、銀行券を発行することを許すことによって、不便を取り除こうとした。(ホ)その場合、銀価値はロンドン市場での銀の市場価格(金での)によって評価される。(ヘ){第4版への追補。--再びわれわれは金銀の相対的価値変動のはなはだしい時代に際会している。(ト)約25年前には銀にたいする金の価値比率は15[1/2]対1だったが、いまではほぼ22対1であり、なお引き続き銀は金にたいして下がっている。(チ)これは、主として、両金属の生産方法の変革の結果である。(リ)以前は、金は、ほとんどただ、金を含有する沖積地層の、すなわち金を含有する岩石の風化物の、洗鉱だけによって得られた。(ヌ)いまでは、この方法はもはや不十分なものになり、金を含有する石英鉱そのものの加工によって後方に退けられている。(ル)この加工は、すでに古代人にも(ディオドロス、Ⅲ、12-14)よく知られていたとはいえ、以前はただ付随的に営まれていただけのものである。(ヲ)他方では、アメリカのロッキー山脈の西部で巨大な新しい銀鉱床が発見されただけではなく、これらの新鉱床とメキシコの銀鉱山とが鉄道によって開発され、近代的な機械や燃料の供給、またこれによって最大の規模と最小の費用での銀の採取が可能にされた。(ワ)しかし、両金属が鉱脈中に現われている状態にはやはり大きな違いがある。(カ)金はたいてい混じりもののない状態にあるが、そのかわりにほんのわずかな量が石英中に散在しているだけである。(ヨ)だから、岩石全体を砕いて金を洗い出すか、水銀で抽出するかしなければならない。(タ)そこで、100万グラムの石英からやっと1-3グラムの金しかとれないことも多く、ごくまれに30-60グラムの金がとれるだけである。(レ)銀は、混じりもののない状態にあることはまれであるが、そのかわりに、独特な、比較的容易に岩石から分離される鉱石になっており、これはたいてい40-90%の銀を含んでいる。(ソ)あるいはまた、比較的少量にではあるが、銅や鉛などの、それ自身でもすでに加工に値する鉱石のなかに含まれている。(ツ)すでにこのことから明らかなように、金の生産労働はむしろ増加しているのに、銀のそれは決定的に減少しており、したがって銀の価値下落もまったく当然だということがわかる。(ネ)この価値下落は、もしも銀価格が今日なお人為的な手段によって高位に維持されているということがなかったならば、もっとひどい価格下落に表現されたことであろう。(ナ)しかし、アメリカの埋蔵銀にはまだほんの一部分に手がつけられたばかりであり、したがって、銀価値はまだかなり長いあいだ下落を続けるという十分な見通しがある。(ラ)これには、さらに、日用品や奢修品のための銀需要の相対的減少、めっき品やアルミニウムなどによる銀の代用も力を添えるにちがいない。(ム)これらのことによって、国際的な通用強制が再び銀をもとの1対15[1/2]という比価までつり上げるだろうという複本位制的観念のユートピア主義が推し量られるであろう。(ウ)むしろ、世界市場でも銀はますますその貨幣資格を失ってゆくにちがいないであろう。--F・エンゲルス}〉

  (イ) ですから、国内で貨幣として機能している貴金属だけを蓄蔵することを国の中央銀行に命ずるような立法は、すべて愚かなのである。

 この原注は〈世界市場では二とおりの価値尺度が、金と銀とが、支配する〉という本文に付けられたものです。
  つまり国内で金が価値尺度として機能しているからといって、中央銀行に金だけを蓄蔵しているならば、銀が価値尺度として機能している諸外国との取り引きを行なう業者たちは、対外支払のために銀を必要とするから、当然、金を銀と交換してもらうために中央銀行にやってきます。だから金だけを蓄蔵していればそれに応じることができないわけで、だからそうした措置は愚かだとマルクスは述べているわけです。

  (ロ) たとえば、そのようにしてイングランド銀行が自分でつくりだしてしまった「親切な障害」は、周知のとおりです。

  これはこのあとの「第2版への追補」で1844年のピール銀行条例でそうした障害を取り除こうとしたとありますから、恐らく銀行条例以前のイングランド銀行の措置について述べているのだと思いますが、〈「親切な障害〉が何を意味するのか詳しいことは分かりませんでした。
  渡辺佐平氏は、『地金論争・通貨論争の研究』で1797年にナポレオン戦争によって兌換が停止されたあと、1821年に正貨支払が再開されるまでの過程を詳しく紹介していますが、1819年の「ピール通貨法」(これは1844年のビール銀行条例とは違うものです)では細かく支払再開までの手順が示されたことを紹介しています。そして〈この法律によって支払の再開は4年延ばされたが(しかし実際には支払再開は1821年に前倒しされた--引用者)、それまでの間にイングランド銀行の金庫には金銀が急激に蓄積されていった〉(30頁)と述べています。つまり金だけでなく銀も蓄積されていったというのです。また同法の規定を紹介するところでは〈5、これらの支払はそれぞれ6オンスの重量をもつ金条もしくは金塊(bars or ingots)によってなさるべきこと。また、銀行は右の額を超える40シリング以上の端数は銀鋳貨で支払ってもよろしい〉となっています。つまり銀による銀行券に対する支払も規定されています。だから最初に述べている〈国内で貨幣として機能している貴金属だけを蓄蔵することを国の中央銀行に命ずるような立法〉が具体的には何を指しているのかはいま一つよく分かりません。ただこれは一般論として述べているとも解釈することは可能です。
  さらにマルクスは〈イングランド銀行の、こうして自分でつくりだした「親切な障害」〉と述べているわけですから、イングランド銀行自身が作り出したということは、同行の内規か何かでそうしたことを決めたのかも知れません。1844年の銀行条例以前のイングランド銀行には「パーマー・ルール」という原則があったと金井雄一氏は『イングランド銀行金融政策の形成』で述べています。その内容は〈「パーマー・ルール」とは以下のようなものである。平時においては,イングランド銀行は原則として債務(発券額十預金額)の2/3にあたる額を証券で,1/3にあたる額を金で,保有することとし,その証券保有額は一定に維持する。そうすれば,たとえば外国為替相場が下落して兌換請求が発生しイングランド銀行から金が流出する場合には,それだけ「通貨流通」が減少することになる。つまり,「通貨流通」は外国為替相場の変動に応じて(金流出入に応じて)調整されることになる,というのである。なお,この場合の「証券」は,商業手形ではなく市場で販売可能な,大蔵省証券Exchequer Bill・公債Stockなどの利付き証券にすべきである,と考えられていた。したがって,イングランド銀行は市場利率よりも高い利率を設定し,平時においては手形割引は行なわないようにする,ということが想定されているのである。〉(29)と説明されていますが、確かに〈金で,保有することとし〉とは述べられていますが、銀での保有を認めなかったとは書いていません。

  (ハ) 金と銀との相対的な価値変動のひどかった歴史上の諸時代については、カール・マルクス『経済学批判』、136ぺージ以下を見てください。〔本全集、第13巻、131(原)ページ以下を見よ。〕

  これについては【付属資料】『経済学批判』のマルクスの指示している部分を紹介していますので、参照してください。

  (ニ)(ホ) 第2版への追補。サー・ロバート・ピールは、彼の1844年の銀行法のなかで、イングランド銀行に、銀準備が金準備の4分の1を越えない範囲内で、銀地金を保証として銀行券を発行することを許すことで、この不便を取り除こうとしました。その場合、銀の価値は、ロンドン市場での銀の市場価格(金によって計られる)によって評価されのです。

  1844年の銀行条例では、銀準備も金準備の4分の1を超えない範囲内で認め、それを保証に銀行券の発行を許したということです。つまり銀準備も金準備と同時に認めていたということのようです。その場合の金と銀との価格差はロンドン市場での市場価格によってその都度評価されたということのようです。ということは銀地金をその時の市場価格にもとづいて金地金に換算して、イングランド銀行券の発行が許されたということでしょう。
 ピール条例についての詳しい内容はあまり詮索する必要はないとは思いますが、金井雄一氏の前著から少し紹介しておきましょう。金井氏はピール銀行法には、〈A イングランド銀行に金準備と発券を集中していくこと。B イングランド銀行券を同行の金準備によって統制すること。〉(71)という二つの内容があるとし、それぞれについて、該当条項を紹介しています。

  〈Aに帰着するのは以下の諸条項である。イングランド銀行券は金1オンスにつき3ポンド17シリング9ペンスで求められ次第与えられねばならない(第Ⅳ条)。銀は金属全体の1/5以上に増加しえない(第Ⅲ条)。1844年5月6目に発券している銀行以外は発券禁止(第X条)。共同出資者Partnerが6名を超えれば発券禁止(第XI条)。一度発券をやめた場合は再発券禁止(第XⅡ条)。既存発券銀行もその発券額は1844年4月27目に先立つ12週間の平均額を超ええない(第XⅢ条)。イングランド銀行は放棄された発券額の2/3までを証券を基礎とする同行の発券額に追加しうる(第V条)。
 Bに帰着するのは以下の諸条項である。イングランド銀行の発券業務を同行の一般銀行業務genera1 Banki㎎ Businessから分離する(第I条)。1,400万ポンドの証券と,日常の銀行業務に必要な金鋳貨・銀鋳貨を除いた金属(金地金・銀地金・金鋳貨)とを発券部Issue Departmentに移管し,同部は,1,400万ポンドと同部保有金属との合計額から現在流通中の銀行券額を控除した額に等しい銀行券を銀行部Banki㎎ Departmentに渡し,イングランド銀行の発券が発券部保有の証券および金属に基礎づけられるようにする(第Ⅱ条)。〉 (71)

  これを見ると、発券部の保有する貴金属には金地金だけではなく、銀地金と金鋳貨もあり、銀行部の準備ファンドにはイングランド銀行券だけではなく、日常の銀行業務に必要な金鋳貨や銀鋳貨があったことがわかります。
  これまでの部分についてはフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈(57) それだから、国立銀行にたいし、国内で貨幣として機能する貴金属だけを蓄蔵するように命ずる立法は、どれもこれも愚かなのである。たとえば、イングランド銀行がこうしてみずから進んでつくり出した困難は有名である。サー・ロバート・ピールは1844年の銀行法のなかで、銀準備がけっして金準備の1/4を超過しないという条件づきではあるが、銀地金にもとづいて銀行券を発行することをこの銀行に許すことによって、上記の不都合をとりのぞこうと努めた。このぱあい、銀の価値はその都度、ロンドン市場での銀の金価格にしたがって評価される。--金と銀との相対的価値変動のひどかった歴史上の時代については、カール・マルクス『経済学批判』、136ページ以下を見よ。〉 (江夏・上杉訳124-125頁)

 (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ)(ネ)(ナ)(ラ)(ム)(ウ) 第4版への追補。私たちはふたたび、金と銀との相対的な価値変動のはなはだしい時代にあります。約25年前には両金属の価値比率は、金対銀が15[1/2]対1でしたが、いまではそれはほぼ22対1で、なお引きつづいて銀が金にたいして下がりつつあります。これは主として、両金属の生産方法に生じた変革の結果です。金は、以前はほとんどもっぱら、金を含有する沖積地層--すなわち金を含有する岩石の風化物--の洗鉱によって得られていました。いまではこの方法はもはや不十分なものになり、金を含有する石英鉱そのものの加工にとって取って代わられつつあります。この方法は、すでに古代人もよく知っていた(ディオドロス、Ⅲ、12-14)ものですが、しかし以前は、ただ付随的に営まれていただけのものです。他方、アメリカのロッキー山脈の西部で巨大な新しい銀鉱床が発見されただけではなく、これらの新鉱床とメキシコの銀鉱山とが鉄道によって開発されて、近代的な機械や燃料の供給が、またこれによる最大の規模と最小の費用での銀の採取が、可能となりました。それにしても、両金属が鉱脈のなかに存在する仕方にはやはり大きな違いがあります。金はたいてい混じりもののない状態にありますが、そのかわりにほんのわずかな量が石英のなかに散在しているだけです。ですから、岩石全体を砕いて金を洗い出すか、水銀を使って抽出するかしなければなりません。そこで、100万グラムの石英からやっと1-3グラムの金しかとれないことも多く、ごくまれに30-60グラムの金がとれるだけです。銀は、混じりもののない状態にあることはまれですが、そのかわりに、比較的容易に岩石から分離される特有の鉱石になっていて、これはたいてい40-90%の銀を含んでいます。あるいはまた、比較的少量にではですが、銅や鉛などの、それ自身でもすでに加工に値する鉱石のなかに含まれています。すでにこのことから明らかなように、金の生産労働はむしろ増加しているのに、銀の生産労働は決定的に減少しており、したがって銀の価値下落もまったく当然のことなのです。この価値下落は、もしも銀価格が今日なお人為的な手段によって高位に維持されているということがなかったならば、もっとひどい価格の下落として表現されていることでしょう。しかし、アメリカの埋蔵銀にはまだそれのほんの一部分に手がつけられたばかりですから、銀価値はまだかなり長いあいだ下落を続けるという十分な見通しがあります。これには、さらに、日用品や奢修品のための銀需要の相対的減少、めっき品やアルミニウムなどによる銀の代用も力を添えるにちがいありません。こうしたことに照らしてみれば、国際的な強制的通用が再び銀をもとの1対15[1/2]という比価までつり上げるだろう、という複本位制的な観念のユートピア主義が推し量られるというものです。むしろ、世界市場でも銀はますますその貨幣資格を失っていくことでしょう。--F・エンゲルス

  これはエンゲルスの署名入りの、第4版につけられた追補ですが、すべて一まとめにしました。これは読むだけで特に解説が必要というようなものではないと思ったからです。【付属資料】『経済学批判・原初稿』にも同じような指摘がありますので、一読下さい。


◎第3パラグラフ(世界貨幣の三つの機能)

【3】〈(イ)世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、富一般(universal wealth)の絶対的社会的物質化として機能する。(ロ)支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する。(ハ)それだからこそ、重商主義の標語--貿易差額!(109) (ニ)金銀が国際的な購買手段として役だつのは、おもに、諸国間の物質代謝の従来の均衡が突然撹乱されるときである。(ホ)最後に、富の絶対的社会的物質化として役だつのは、購買でも支払でもなく、一国から他国への富の移転が行なわれる場合であり、しかも商品形態でのこの移転が、商品市場の景気変動や所期の目的そのものによって排除されている場合である(110)。〉

  (イ) 世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、富一般(「普遍的富」universal wealth)の絶対的に社会的な物質化として機能します。

  ここでは世界貨幣の三つの機能が指摘されています。①一般的支払手段〔(ロ)(ハ)〕、②一般的購買手段〔(ニ)〕、そして③富一般の絶対的・社会的物質化〔(ホ)〕についてです。〔 〕内で示した文節で、それぞれについて語られています。

  (ロ)(ハ) 支払手段としての機能は、国際収支の差額を決済するために不可欠であり、ほかの機能に優越します。それだからこそ、重商主義のスローガンが「貿易差額!」なのです。

  まず一般的支払手段としての機能ですが、これは国際収支の差額を決済する時に必要となります。貿易における取り引きは一般には為替で行なわれます。為替は一つの貨幣請求権であって、利子生み資本の運動ですから、需給によってその価格が上下します。高い為替を買うより金で支払った方が、金の運送料を払っても安い場合は、金が現送されました。外国為替が高いということは、対外支払が外国からの支払より多い場合ですが、こういう場合には、結局、金が流出していくということになるわけです。我が国でも戦前の一時期までは国際的な決済のために金の現送が行なわれていました。〈ここ〔国際交易〕では金銀は、対自的に〔それ自身で自立的に〕存在する価値、一般的等価物として、絶対的で排他的な国際的支払手段なのである。価値は正貨で〔in specie〕移転されなければならず、それ以外のいかなる形態の商品によっても移転することはできない〉(『経済学批判・原初稿』草稿集③56-57頁)のです。
  だからまた資本主義の黎明期の重商主義のスローガンは貿易差額によって金を国内に持ち帰ることだったのです。第3巻には次のような説明があります。

  〈重金主義を受け継いだ重商主義では、決定的なものは、もはや商品価値の貨幣への転化ではなく、剰余価値の生産なのであるが、しかし流通部面の無概念的立場から見てのそれであり、したがって同時にこの剰余価値は剰余貨幣として現われ貿易収支の残高として現われるのである。〉 (全集第25巻b1006頁)

 重金主義と重商主義については【付属資料】『経済学批判要綱』『経済学批判』の一文を参照してください。

  (ニ) 金銀が国際的な購買手段として役だつのは、おもに、さまざまの国のあいだ行われてきていた物質代謝の従来の均衡が突然撹乱されるときです。

  『経済学批判』では次のよう述べています。

  世界市場では……金銀は、物質代謝がただ一方的で、したがって購買と販売とが互いに分離している場合に、購買手段として現われる。たとえばキャフタの国境貿易(*)は、事実のうえでも条約のうえでも交換取引〔物々交換〕であり、そこでは銀はただ価値尺度にすぎない。1857-1858年の戦争(**)は、中国人をして買わないで売るようにさせた。そこで銀が突然に購買手段として現われた。ロシア人は、条約の文言を顧慮して、フランスの5フラン銀貨に加工して粗雑な銀製品をつくり、これが交換手段として役だった。銀は、一方のヨーロッパおよびアメリカと他方のアジアとのあいだで、ひきつづき購買手段として機能しており、アジアでは銀は蓄蔵貨幣として沈澱するのである。さらにまた貴金属は、2国間の物質代謝の伝統的均衡が突然に破られると、たとえば不作のために一方の国が異常に大量に買わざるをえなくなると、すぐに国際的購買手段として機能する。
  *  主として交換取引(物々交換) の形式でなされた露中貿易は、1727年10月21日にロシアと中国のあいだに締結されたキャフタ通商・国境条約の結果、いちじるしく拡大した。
  ** 1857-1858年の戦争--中国で新たな特権を獲得し、中国を従属的な半植民地国家におとしいれる目的で、イギリスとフランスが遂行した第2次アヘン戦争のこと。この戦争は中国の敗北と、強盗的な天津条約の締結とに終わった。〉 (全集第13巻127-128頁)

  例えばイギリスの1847年の貨幣恐慌は、凶作による穀物の大量輸入のために、金が国外に流出したこともその背景にはありました。

  (ホ) 最後に、富の絶対的に社会的な物質化として役だつのは、購買でも支払でもなく、一国から他国への富の移転が行なわれる場合で、しかも商品市場の景気変動の状況や所期の目的そのもの性質から、商品形態でそうした移転をすることができない場合です。

  これは原注110で具体的な例が挙げられていますが、戦争への支援として物資だけでなく、貨幣で送る場合や、敗戦国に課せられる賠償金なども該当します。日清戦争にける賠償金(それは同時期の日本の一般会計予算の3カ年分に等しい約3億6千万円に上る)をもとに日本は金本位制に移ることができたとも言われています。

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『資本論』学習資料No.24(通算第74回)(2)

2020-12-21 15:25:25 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.24(通算第74回)(2)

◎原注109

【原注109】〈109 (イ)重商主義は、金銀による貿易差額の決済を世界貿易の目的として取り扱うのであるが、その反対者たちもまた世界貨幣の機能をまったく誤解していた。(ロ)流通手段の量を規制する諸法則の誤解が貴金属の国際的運動の誤解に反映しているだけだということを、私はリカードについて詳しく指摘しておいた。(『経済学批判』、150ページ以下。〔本全集、第13巻、143(原)ページ以下を見よ。〕)(ハ)それだから、リカードのまちがった説、すなわち、「貿易の逆調の結果ではなく、むしろその原因である」という説は、すでにバーボンの次のような言葉のうちに見いだされるのである。(ニ)「貿易の差額は、もしそういうものがあるとすれば、1国から貨幣が輸出されることの原因ではなく、この輸出は、むしろ、地金の価値が国によって違うことから起きるのである。」(N・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、59ぺージ。) (ホ)マカロックは、『経済学文献、分類目録』、ロンドン、1845年のなかで、バーボンのこの先見をほめてはいるが、しかし、バーボンではまだ「通貨主義」の不合理な諸前提がとっている素朴な形態には、言及することさえも用心深く避けている。(ヘ)この目録の無批判性、じつにその不誠実ささえもが、貨幣理論の歴史に関する篇では頂点に達している。(ト)というのは、マカロックが、ここでは、彼が「随一の銀行家」〔"facile princeps argentarlorum"〕と呼ぶオーヴァストン卿(元銀行家ロイド) の追従者として、しっぽを振っているからである。〉

  (イ)  重商主義は、超過した貿易差額を金銀で決済することが世界貿易の目的だと誤って論じたのですが、その反対者たちもこれはまたこれで、世界貨幣の機能をまったく誤解していました。

  これは〈支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する。それだからこそ、重商主義の標語--貿易差額〉という本文につけられた原注です。しかし本文と関連するのは、この最初の文節だけで、あとは通貨主義の誤った貨幣論の批判に当てられています。ここでは重商主義について論じている『経済学批判』から紹介しておきましょう。

 〈近代ブルジョア社会の幼年期である16世紀と17世紀に、一般的な黄金欲が諸国民と諸王侯とを海を渡り越える十字軍によって黄金の聖杯を追いもとめさせたが、それと同様に、近代世界の最初の解釈者である重金主義--重商主義はただその一変種にすぎない--の創始者たちは、金銀すなわち貨幣を唯一の富である、と宣言した。適切にも彼らは、ブルジョア社会の使命は金(カネ)を儲けること、したがって単純な商品流通の立場からすれば、紙魚(シミ)にも錆にもおかされない永遠の財宝を形成することである、と明言した。……重金主義と重商主義とが、世界商業と世界商業に直接つながる国民的労働の特殊諸部門とを富または貨幣の唯一の真の源泉だとしてとくに取り出したとするならば、その時代には国民的生産の大部分がまだ封建的形態で運動していて、直接の生計源泉として生産者自身に役だっていた、ということを考慮にいれなければならない。生産物は、大部分が商品に転化されず、したがって貨幣に転化されず、一般的な社会的物質代謝に全然はいっていかなかったから、したがって一般的抽象的労働の対象化としては現われず、実際上、すこしもブルジョア的富を形成しはしなかった。流通の目的としての貨幣は、生産を規定する目的および推進する動機としての交換価値または抽象的富--富のなんらかの素材的要素ではなく--である。ブルジョア的生産の前段階にふさわしく、あの認められない予言者たちは、交換価値の純粋な、手でつかむことのできる、光り輝く形態を、すべての特殊な商品に対立する一般的商品としての交換価値の形態を、しっかりとらえたのである。〉 (全集第13巻134-135頁)

  〈その反対者たちもまた世界貨幣の機能をまったく誤解していた〉という部分についても『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  〈貨幣を流通の結晶した産物としての形態規定性だけで知っているにすぎない重金主義と重商主義に対立して、古典派経済学がそれをなによりもまずその流動的な形態で、商品変態そのものの内部でつくりだされてはまた消え去る交換価値の形態として把握したのは当然至極なことであた。だから商品流通がもっぱらW-G-Wの形態で、この形態がまたもっぱら販売と購買との過程的統一という規定性で把握されるように、貨幣は、貨幣としてのその形態規定性に対立して、流通手段としてその形態規定性において主張される。流通手毅そのものが、鋳貨としてのその機能において孤立させられると、すでに見たように、それは価値章標に転化する。だが、古典派経済学は、まずもって流通の支配的形態としての金属流通に対面したのであるから、金属貨幣を鋳貨として、金属鋳貨をたんなる価値章標としてとらえる。そういうわけで、価値章標の流通の法則に照応して、商品の価格は流通する貨幣の量によって決まるのであって、逆に流通する貨幣の量が商品の価格によって決まるのではない、という命題がうちたてられる。〉 (全集第13巻135頁)

  つまり重商主義を批判した古典派経済学も商品の価格は流通手段の量によって決まるという間違った解釈に立っていたということです。そしてそうした主張を18世紀に代表したのがヒュームであり、19世紀における代表者はリカードということなのでしょう。

  (ロ)  流通手段の量を規制する諸法則の誤った理解が貴金属の国際的運動の誤った理解に反映しているだけだということを、私はリカードについて詳しく指摘しておきました。(『経済学批判』、150ページ以下。〔本全集、第13巻、143(原)ページ以下を見よ。〕)

  通貨学派は、商品の価格は貨幣の流通量によって規定されると主張したのですが、これはリカードの誤った貨幣理論をもとにしていました。その批判をマルクスは『経済学批判』の「C 流通手段と貨幣に関する諸理論」のなかで展開していますが、それは非常に長いもので残念ながらその紹介は割愛せざるをえません。各自、直接当たってみてください。

  (ハ)(ニ) ですから、リカードの誤ったドグマ、すなわち、「貿易差額の逆調は通貨の過剰以外のものからはけっして生じない。……鋳貨が輸出されるのはそれが安いせいであって、貿易差額の逆調ではなく、むしろその原因である」というドグマは、すでにバーボンに見られます。「貿易の差額は、もしそういうものがあるとすれば、1国から貨幣が輸出されることの原因ではなく、この輸出は、むしろ、地金の価値が国によって違うことから起きるのである。」(N・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、59ぺージ。)

  この〈リカードのまちがった説、すなわち、「貿易の逆調の結果ではなく、むしろその原因である」という説〉というのは、『経済学批判』の次の一文に該当するように思えます。

  〈リカードが現実の諸現象を彼の抽象的理論の趣旨に合わせてどんなにむりやり組み立てているかは、2、3の例で示されよう。たとえぽ彼は次のように主張する。1800年から1820年までの期間にイギリスでしばしば起こった不作のさいに金が輸出されるのは、穀物が必要とされ、金が貨幣であり、したがって世界市場でつねに有効な購買手毅であり支払手段であるからではなくて、金の価値が他の諸商品にたいして低下し、その結果不作に見まわれた国の通貨〔currency〕が他の諸国の通貨〔currencies〕にくらべて減価したからである、と。すなわち、凶作が流通する商品の量を減少させたから、流通する貨幣のあたえられた量がその正常な水準を上回るようになり、その結果すべての商品価格が騰貴した、というのである。ところが、この逆説的説明とは反対に、1793年から最近時にいたるまでイギリスで不作が生じた場合には、流通手段の現在量は過剰とはならないで不足し、したがって以前よりも多くの貨幣が流通したし、また流通しなければならなかったことが、統計的に立証されたのである。〉 (全集第13巻152-153頁)

  なおバーボン(1640-1698)については、『資本論辞典』から簡単に紹介しておきましょう。

  〈イギリスの医者・経済学者.……主著としては《A Discourse of Trade》(1690) (久保芳和訳)と《A Discourse concerning Coining the New Money Lighter》(1696)とがあるが.前著では国富としての金銀の重視をしりぞけ,黄金属の輸出にたいする重商主義的統制に反対し,過度の節約をいましめて国際分業と貿易の自由を主張した.後著では当時やかましく論議された時事問題たる貨幣改鋳の問題にかんしてロックの軽鋳反対論を論駁し. 軽鋳の利を説いた.マルクスはバーポンを引用するばあい,……もっぱら後者のみから引用している. ……しかし他方では,商品価格は流通手段の分量によって規定されるとなすヴァンダーリントやヒュームと共通した幻想をいだいていたとの批判をも記している。〉(534頁)

  なお『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』については次のサイトで抄訳が掲載されていますが、残念ながら今回引用されている部分は含まれていません。

  (ホ)(ヘ)(ト) マカロックは、『経済学文献、分類目録』、ロンドン、1845年のなかで、バーボンのこの先見の明を称賛してはいますが、しかし、バーボンでは、まだ素朴な形態でではあるにせよ、「通貨主義」のばかげたもろもろの仮定が現われていることには、言及することさえも用心深く避けています。この目録の無批判性、じつにその不誠実ささえもが、貨幣理論の歴史に関する篇では頂点に達しています。というのも、ここではマカロックは、彼が「銀行業者の熟達した第一人者」〔"facile princeps argentarlorum"〕と呼ぶオーヴァストン卿(元銀行家ロイド) の追従者として、この人物にしっぽを振っているからです。

  〈マカロックが、ここでは、彼が「随一の銀行家」〔"facile princeps argentarlorum"〕と呼ぶオーヴァストン卿(元銀行家ロイド) の追従者として、しっぽを振っているからである〉という部分について、『資本論辞典』は〈これはマカロックがオーヴァストーンのために彼の論文集を編集したり,オーヴァストーンの費用で経済学の稀観書を数巻にまとめて復刻したことなどから,マカロックがオーヴァストーンのお抱え学者となり,通貨主義者で貨幣数量税論者のオーヴァストーンに遠慮して批判的たりえなかったといっているのである.〉(556頁)と説明しています。

  マカロック(1789-1864)については、マルクスは『剰余価値学説史』のなかで、次のように述べています。

  〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。彼は、リカードだけでなくジェームズ・ミルをも俗流化した男である。
  そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている。〉 (全集第26巻Ⅲ219-220頁)

  マルクスは全体としてマカロックを俗流経済学者として激しい言葉で論難しています。


◎原注110

【原注110】〈110 たとえば、援助金とか、戦争遂行のためや銀行の正貨兌換再開などのための借入金などの場合には、価値は貨幣形態そのもので要求されることがありうる。〉

   これは〈最後に、富の絶対的社会的物質化として役だつのは、購買でも支払でもなく、一国から他国への富の移転が行なわれる場合であり、しかも商品形態でのこの移転が、商品市場の景気変動や所期の目的そのものによって排除されている場合である〉という本文につけられ原注です。だからここではその具体的な例が紹介されているといえるでしょう。①援助金、②戦争遂行のための借入金、③兌換再開のための借入金などの場合だということです。


◎第4パラグラフ(世界貨幣の準備金としての蓄蔵貨幣)

【4】〈(イ)各国は、その国内流通のために準備金を必要とするように、世界市場流通のためにもそれを必要とする。(ロ)だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通・支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生ずる(110a)。(ハ)このあとのほうの役割のためには、つねに現実の貨幣商品、生身(ナマミ)の金銀が要求される。(ニ)それだからこそ、ジェームズ・ステユアートは、金銀を、それらの単なる局地的代理物から区別して、はっきりと世界貨幣〔money of the world〕と呼んで特徴づけているのである。〉

  (イ) どの国も、その国内流通のために準備ファンドを必要とするように、世界市場流通のためにも準備ファンドを必要とします。

  これまで学んできた蓄蔵貨幣の第1の機能は、貨幣の流通手段としての流通量を調節するための準備金という役割でした。  同じ国内の流通領域では、もう一つは支払手段としての貨幣の機能からもその準備金としての蓄蔵貨幣の機能が付け加わります。そして最後に世界貨幣としての貨幣の機能から生じるその準備ファンドとしての蓄蔵貨幣の機能があるわけてす。

  (ロ) つまり、蓄蔵貨幣が果たす諸機能は、一部は国内の流通手段および支払手段としての貨幣の機能から生じますが、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生じるのです。

  だから準備金としての蓄蔵貨幣が果たす機能は、一つは国内の流通領域において、もう一つは世界市場において生じることになります。

  (ハ) 世界貨幣としての役割のためには、つねに現実の貨幣商品が、つまり生身(ナマミ)の金銀が要求されます。

  そして世界貨幣としての貨幣の機能から生じる準備金としての蓄蔵貨幣は、現物の金そのもの、金地金の形態で存在することが要求されます。
  国内流通における準備ファンドは資本主義的生産の発展につれてさまざまな形態を取り得ます(むしろその多く例えば預金のように架空なものにさえ転化します)が、世界貨幣の準備金としては、歴史的には長く金の現物がその役割を果たしてきたのです。
  しかし今日では世界的な信用制度の発展とともに、金の現物はこうした世界貨幣の準備金としての役割からも徐々に解放され、その多くは本源的な蓄蔵貨幣として世界の中央銀行や(それは依然として各国の信用の軸点ですが)、個々の資産家の金庫のなかにある(彼の富裕さの象徴として)だけになっています。これに関しては最後にも論じます。

  (ニ) だからこそ、ジェームズ・ステユアートは、金銀を、金銀の単なる局地的代理物から区別して、はっきりと世界貨幣〔money of the world〕と呼んで特徴づけているのです。

   ジェームズ・ステュアートは、金銀を〈それらの単なる局地的代理物〉、すなわち鋳貨とは区別して、世界貨幣と呼んでいるわけです。マルクスは『経済学批判・原初稿』までは、〈世界貨幣〉ではなく、〈世界鋳貨〉という用語を使っていましたが、『経済学批判』ではこのステュアートの特徴づけに倣って、〈世界貨幣〉という用語を採用したのかも知れません。


◎原注110a

【原注110a】〈110a (イ)第二版への注。「正貨兌換諸国での貨幣蓄蔵の仕組みが、一般流通からこれといった援助も受けずに、国際的調整に必要なあらゆる役目を果たしうることについては、じっさい、次のこと以上に確実な証明は望みえないであろう。すなわち、フランスが、破壊的な外敵の侵入の打撃からやっと立ち直ったばかりのときに、自分に課された連合国にたいする約2000万の賠償金の支払を、しかも金額のかなりの部分を正貨で、27カ月のあいだに容易に完了しながら、しかも国内通貨にはこれというほどの収縮や攪乱もなく、また為替相場のたいした動揺さえもなかったということがそれである。」(フラートン『通貨調節論』、141ページ。〔岩波文庫版、福田訳、177ページ。〕) {(ロ)第四版への追補。--われわれが知っているもっと適切な例は、同じフランスが、1871-73年に、これの10倍以上にのぼる賠償金を、やはりかなりの部分まで金属貨幣で、30カ月のあいだに容易に支払うことができたということである。--F ・エンゲルス}〉

  (イ) 第二版への注。「正貨兌換諸国での貨幣蓄蔵の仕組みが、一般流通からこれといった援助も受けずに、国際的調整に必要なあらゆる役目を果たしうることについては、じっさい、次のこと以上に確実な証明は望みえないであろう。すなわち、フランスが、破壊的な外敵の侵入の打撃からやっと立ち直ったばかりのときに、自分に課された連合国にたいする約2000万の賠償金の支払を、しかも金額のかなりの部分を正貨で、27カ月のあいだに容易に完了しながら、しかも国内通貨にはこれというほどの収縮や攪乱もなく、また為替相場のたいした動揺さえもなかったということがそれである。」(フラートン『通貨調節論』、141ページ。〔岩波文庫版、福田訳、177ページ。〕)

  これは〈だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通・支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生ずる〉という本文につけられた原注です。
  この原注として引用されているフラートンの指摘している歴史的事実は、世界貨幣の第3の機能に、すなわち〈富の絶対的社会的物質化として役だつ〉ものとして〈一国から他国への富の移転が行なわれる場合〉に該当します。これも一国のなかにある蓄蔵貨幣から行なわれるのですが、しかしそれは国内の流通に必要な貨幣量には何の影響も与えることなく、行なわれたのだということです。この蓄蔵貨幣は当然国内の流通に必要な準備金としての役割も果たしていますが、しかしそうした国内流通の準備金としての機能には影響を与えなかったということです。
  フラートンは当時のフランスについて〈フランス王国における金属通貨の使用高は1億2千万ポンドに達する〉とし、退蔵分は〈その流通分ないし活動部分を相当陵駕しているといわざるを得ぬ〉(前掲171頁)と述べています。同じ時期のイギリスの金流入額が〈約1400万ポンドという空前の巨額に達している〉(172頁)とも述べているのと比較すると、当時のフランスの金の退蔵額というのは大変なものだったと想像されます。

  (ロ) 第四版への追補。--私たちの知っているもっと適切な例は、同じフランスが、1871-73年に、これの10倍以上にのぼる賠償金を、やはりかなりの部分まで金属貨幣で、30カ月のあいだに容易に支払うことができたということです。--F ・エンゲルス}

  これはエンゲルスによる追補ですが、同じフランスがフラートンの指摘するケースより10倍もの賠償金を支払っても国内流通には影響を与えることなく、容易に支払うことができたということです。〈1871-73年〉というのは恐らく普仏戦争(1870-1871年、フランスとプロイセンとの間で行われた戦争)における賠償金の支払を指しているようです。フランスは1871年の講和条約によって、50億フランの賠償金の支払とアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)の大半を割譲することになったのです。またこの戦争はパリ・コミューンが圧殺された戦争でもあります。


◎第5パラグラフ(金銀の流れの運動は二重のものである)

【5】〈(イ)金銀の流れの運動は二重のものである。(ロ)一方では、金銀の流れはその源(ミナモト)から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいって行ったり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする(111)。(ハ)この第1の運動は、諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている。(ニ)他方では、金銀は各国の流通部面のあいだを絶えず行ったり来たりしている。(ホ)それは、為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である(112)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 金銀の流れの運動は二つのものがあります。一方では、金銀の流れはその源(ミナモト)から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはさまざまの国の流通部面によってさまざまの大きさでとらえられて、その国内の流通水路にはいって行ったり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりします。この第1の運動を仲立ちするのは、諸商品に実現されている各国の労働と、貴金属に実現されている金銀生産国の労働との直接的交換です。

  貨幣として流通している金銀は、どのようにして流通のなかに入ってくるのかという問題は実はなかなか難しい問題なのです。例えば今日の貨幣(通貨)である日本銀行券は日銀が発行していることは明らかですが、それは果たして貨幣(通貨)として流通のなかに入るのはどの時点でどのようにしてか、という問題はなかなか一筋縄では行きません。これは貨幣とはそもそも何かということとも関連して、というよりその理解によっては貨幣そのものの理解が混乱してくるという点でも重要な問題を持っているのです。ある人は銀行券は日銀の債務証書という形をとっていることから、そもそも貨幣というのは貸借関係から生まれてくるのだと主張しています。内生的貨幣供給論などという説がまことしやかに論じられたりしているのです。
  しかしこうした迷論を批判的に検討するためにも、やはり金銀という金属貨幣流通の基礎をふまえておく必要があるのです。そして金銀の流通については、マルクスは二つのものを区別する必要があると述べています。一つはその生産源から世界のさまざまな国々行き渡る流れです。もう一つは世界の国々のあいだを行ったり来たりしている流れです。後者のものは主要には商品の国際的な売買の結果として流通します(もちろんそれ以外にもただ貨幣を海外に移送するための動きもあります)。
  そしてここではその最初の流れが問題になっています。金銀の生産地から世界の国々へと流れていくケースです。この問題については、すでに私たちは何度か『資本論』の前の部分でお目にかかったことがあります。例えば「第2章 交換過程」(全集第23a巻123頁)や第3章「第2節 流通手段」の「a 商品の変態」のところ (全集第23a巻144頁)、さらには「第3節 貨幣」の「a 貨幣蓄蔵」 (全集第23a巻171-172頁)のところで論じられていました。
  もちろん、これらは金銀が貨幣として実際にも流通していた当時の現実を踏まえたものです。しかしこれは貨幣の本質とその流通の法則を根底において明らかにしたものでもあるのです。確かに現代ではこのように金銀が貨幣として流通しているという現実はありません。しかし銀はともかく金は依然として貨幣として存在しているのです。その多くは本源的な蓄蔵貨幣として存在していますが、しかし諸商品の価値を尺度するものとしても金は、観念的にではありますが、機能しています。そしてこの価値を尺度するという金の観念的な機能には、現実の貨幣としての金の存在が前提されているのです。それは金が東京やニューヨークやロンドンなどの金市場で売買されていることによって示されています。その現実の金の売買価格が金がそれぞれの代理通貨(円、ドル、ユーロ等)の代表する金量を計っているのであり、その代理通貨にもとづいて各国の度量基準が決まっているのです。もちろん、現代の通貨は不換券ですから、度量基準が決まっていると言っても、1円が何グラムの金を代理すると法的に決まっているわけではありません。しかし金市場で金の価格がそれぞれの国の通貨で計られるということはそれぞれの通貨がどれだけの金を代理しているのかを現実の商品流通そのものがそれを示しているのです。つまり1円、1ドル、1ユーロが何グラムの金を代理しているのかをそれぞれの金価格(それは代理通貨と金との関連を表しています)は示しているのです。
  だから日本でも日銀券が通貨として通用している前提には依然として現実の金の存在があり、私たちが軽四輪車が150万円だとか、リンゴ1個が150円だという形で、それぞれの商品の価値が価格によって表示され(円表示)、その価格で売買されている現実には、こうした1万円札が金2グラム(その時の東京の金の市場価格が1グラム5000円だったとして)を代理しているという現実を前提して計られているのです。
  もちろん、価値が価格として表示される過程そのものは一つの内的な法則によるものですから、私たちの目に見えるようなものではありません。それは一見すると商品所有者が恣意的に価格を決めて値札に書いているだけに見えるかも知れません。しかしそれが現実の価値を表しているかどうかは、商品の売買の過程を通して実証されるのであり、商品所有者は決して恣意的には値決めすることはできないのです。軽四輪車1台を150円にして、リンゴ1個を150万円にするのはある意味では勝手ですが、しかしそうしたものは現実の商品市場でたちまち是正されてしまいます。そして内在的に貫いている法則がそうした恣意な価格を是正して、内在的価値を表すものに価格を調整するのです。価格が商品の需給で上下するのは、まさに価格が価値を表示するための法則の貫徹の仕方だということです。そしてこうしたことは何も現実の金が貨幣として流通していたマルクスが生きていた昔の時代にのみ妥当なのではなく、今現在の私たちが生活している現実のなかにも貫いている法則なのです。
  こうして金がその生産地から世界のさまざまな国へと輸出されていく流れは、やはり今日でも存在しています。それらの多くは世界の国々の工業材料や奢侈品の生産材料として消費される以外は、中央銀行の金庫や個々の資産家の金庫のなかに本源的な蓄蔵貨幣としてただ眠っているだけではありますが。しかし市場における金の売買は常に行なわれているのです。

  (ニ)(ホ) 他方では、金銀はさまざまの国の流通部面のあいだを絶えず行ったり来たりしています。この運動は、為替相場のたえまない振動の結果として生じるものです。

  この問題は、マルクスは第3部(現行版の第35章)のなかでも取り上げて論じています。しかしその内容の紹介は字数の関係で割愛せざるを得ません。大谷禎之介著『マルクス利子生み資本論』第4巻の264-269頁を参照してください。


◎原注111

【原注111】〈111 「貨幣は、つねに生産物によって引き寄せられて、国々の必要に応じて国々のあいだに配分される。」(ル・トローヌ『社会的利益について』前出、916ページ。)「絶えず金銀を産出している諸鉱山は、それぞれの国にこのような必要量を供給するに足りるものを産出する。」(J・ヴァンダリント『貨幣万能論』、40ページ。)〉

 この原注は〈一方では、金銀の流れはその源(ミナモト)から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいって行ったり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする〉という本文につけられたもので、二つの著書からの抜粋からなっています。いずれも金銀の生産国から世界に配分されていくことを指摘するものになっています。ここでは二人の著者について『資本論辞典』から紹介しておきましょう(ただし概略だけ)。

・〈ル・トローヌ〉

  〈Guillaume Francois Le Trosne(1728-1780) フランスの経済学者.はじめ自然法学研究に従事したが,やがてケネーの影響をうけて経済学研究に入り.重農主義学説のもっとも有能な説明者の一人となった.……マルクスはル・トローヌにたいして積極的には論評を加えていないが. 『資本論』第1巻第1篇および第2篇で,重農主義の価値論を代表するものとして上記主著からしばしば引用し,彼が交換価値を異なる種類の使用価値の交換における量的関係すなわち比率として相対的なものと理解していること(KI-40;青木1-116;岩波1-74).また彼が商品交換は等価物間の交換であって,価値増殖の手段でないことを明示し(KⅠ-166;青木2-301-302;岩波2-30) .コンディヤックの相互剰余交換鋭をきわめて正当に批判していること(KI-I66;青木2-303-304;岩波2-32)などを指摘している.〉(580頁)

・〈J・ヴァンダリント〉

  〈Jacob Vanderlint(1740) イギリスに帰化したオランダ商人.唯一の著書《Money answers all Things》 (1734)によって知られている.貿易差額脱を批判して自由貿易論へ道を開き,下層・中間階級の地位の引上げを目標とし. 高賃銀を要求し.土地にたいする不生産的地主の独占を攻撃した.マルクスは……第一に,流通手段の量は,貨幣流通の平均速度が与えられているばあいには,諸商品の価格総額によって決定されるのであるが,その逆に,商品価格は流通手段の量により,またこの後者は一国にある貨幣材料の量によって決定されるという見解(初期の貨幣数量説)があり,ヴァンダーリン トはその最初の代表者の一人である.この見解は,商品が価格なしに,貨幣が価値なしに流通に入り込み,そこでこの両者のそれぞれの可除部分が相互に交換されるという誤った仮設にもとづく"幻想"である,と批判されている.またこの諭点に関連して,ヴァンダーリントにおける,貨幣の退蔵が諸商品の価格を安くする,という見解が批判的に,産源地から世界市場への金銀の流れについての叙述が傍証的に引用されている.第二に,ヴァンダーリントはまた,低賃銀にたいする労働者の擁護者としてしばしば引用され,関説されている.第三に,マニュファクチァ時代が,商品生産のために必要な労働時間の短絡を意識的原則として宣言するにいたる事情が,ペティその他からとともにヴァンダーリントからもうかがい知ることができるとされている.上述の批判にもかかわらず.《Money answers all Things》は,‘その他の点ではすぐれた著述'であると評価され,とくにヒュームの《Political Discoureses》(初版1752)が,これを利用したことが指摘されている.……〉(472頁)


◎原注112

【原注112】〈112 「為替相場は毎週上がり下がりし、1年のある特定の時期には1国にとって逆に高くなり、また他の時期には反対の方向に同じほど高くなる。」(N・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、39ページ。)〉

  これは〈他方では、金銀は各国の流通部面のあいだを絶えず行ったり来たりしている。それは、為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である〉という本文につけられた原注です。バーボンからの抜粋だけです。またバーボンについてはすでに原注109の解説のところで『資本論辞典』から紹介しましたので、それを参照してください。


◎第6パラグラフ(ブルジョア的生産の発展している諸国では、蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する)

【6】〈(イ)ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する(113)。(ロ)いくらかの例外はあるが、蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を越えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである(114)。〉

  (イ) ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、蓄蔵貨幣の独自なもろもろの機能のために必要とされる最小限に制限します。

  ブルジョア的生産が発展している諸国における蓄蔵貨幣はその中央銀行に集中され、必要最小限に縮小されますが、〈その独自な諸機能〉については、マルクスは現行版『資本論』第3部第5篇第35章で論じています。それはすでに第5パラグラフの解説のなかで紹介しましたが、そのなかで〈⑤〈銀行の地金準備という準備ファンドの使命{だがこの使命だけが地金準備の形成を規制するわけではない,というのは,地金準備は,国内外の商取引が麻痺するだけでも増大することがありうるのだから}は三重のものである〉として述べられていたものに該当します。それは〈1)国際的支払いのための準備ファンド,つまり世界貨幣の準備ファンド。2)膨張したり収縮したりする国内鋳貨流通の準備ファンド。3)銀行業と関連するものであって,貨幣のたんなる貨幣としての諸機能とはなにも関係のないもの,すなわち銀行券の兌換性のためと預金のための準備ファンド〉というものでした。

  (ロ) 蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を越えて目につくほどあふれるということは、例外がないわけではありませんが、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を予示するものです。

  蓄蔵貨幣が平均水準を超えてあふれるという事態はどのような状態と考えているのかは分かりませんが、マルクスは恐らくイギリスの恐慌のあとの一時期のことを考えているのかも知れません。ここでは『経済学批判』から関連する部分を紹介しておきましょう。

 〈ブルジョア的生産の発展した段階では、蓄蔵貨幣の形成は、流通の種々の過程がその機構を自由にはたらかせるために必要とする最小限度に制限される。ここでそのものとしての蓄蔵貨幣になるのは--もしそれが諸支払の差額における超過の瞬間的な形態、中断された物質代謝の結果、したがって商品のその第一変態での硬化したものでないならば--、ただ遊休する富だけである。〉 (全集第13巻128-129頁)

  なおついでに指摘すると先に紹介した第3部第5篇第35章の一文の⑤のなかで〈銀行の地金準備という準備ファンドの使命……は三重のものである〉と書いていましたが、マルクスはそのあいだに挿入文を入れて、〈だがこの使命だけが地金準備の形成を規制するわけではない,というのは,地金準備は,国内外の商取引が麻痺するだけでも増大することがありうるのだから〉と書いていました。つまり国内外の商取引が麻痺するだけでも銀行の地金準備という準備ファンドは増大しうるとしています。これは恐慌後の沈滞期にはそうした事態が生じます。


◎原注113

【原注113】〈113 これらのいろいろな機能は、銀行券の兌換準備金という機能が加わってくれぱ、危険な衝突を起こすことがありうる。〉

   これは〈ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する〉という本文につけられた原注です。つまり本文で〈その独自な諸機能〉に関連して、〈銀行券の兌換準備金という機能〉が加われば危険な衝突を起こすというのですが、それについてはマルクスは現行版『資本論』第5篇第28章で論じています(すでに紹介した第35章でも論じています)。これも少し長くなりますが大谷氏の翻訳された草稿から紹介しておきましょう。

  〈もっとも,次のことによって紛糾の種がはいり込んでくる。すなわち,この準備ファンドが同時に銀行券の兌換性と預金とにたいする保証として役立つということによって,すなわち,私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能,つまり支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払い)のための準備ファンドとしての,通貨〔currency〕の準備ファンドとしての,最後に世界貨幣の準備ファンドとしての,蓄蔵貨幣の機能が,ただ一つの準備ファンドに負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,さらにそのうえに,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能がつけ加えられるということによってであり,そしてこの二つのこととともに,1)一つの主要銀行への一国の準備フプンドの集中,2)できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によってである。〉 (大谷『マルクスの利子生み資本論』第3巻130-131頁)


◎原注114

【原注114】〈114 「国内取引のために絶対に必要であるよりもたくさんある貨幣は、死んだ資本であって、外国貿易で輸入されたり輸出されたりする場合のほかには、それを保蔵している国になんの利得も与えない。」(ジョン・ベラーズ『論考』、13ページ。)「もしわれわれのもっている鋳貨が多すぎる場合は、どうであろうか? われわれは最も重いものを融解して、それを金銀のりっぱな皿にしたり、容器や什器にしてもよいし、あるいはそれを要望しているところへ物品として送り出してもよいし、あるいはまた利子の高いところがあれば利子をとって貸し付けてもよい。」(W・ペティ『貨幣小論』、39ページ。〔松川訳、所収、森戸・大内編『経済学の諸問題』、116ページ。〕)「貨幣は、政治体の脂肪にほかならない。それが多すぎれば政治体の敏活さを妨げることが多く、少なすぎれば政治体を病気にする。……脂肪は筋肉の運動をなめらかにし、栄養の不足を補い、身体のくぼみをみたし、こうして身体を美しくする。それと同じに、国家の場合には貨幣がその行動を敏活にし、国内が飢謹のときは海外から食料をとりいれ、貸借勘定を決済し……しかも全体を美化する。もっとも」、と皮肉に結んで、「それをたっぷりもっている特別な人々を普通以上に、ではあるが。」(W・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、14、15ベージ。〔岩波文庫版、大内・松川訳『租税貢納論』、184-185べージ。〕)〉

  これは〈いくらかの例外はあるが、蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を越えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである〉という本文につけられた原注ですが、ジョン・ベラーズ『論考』とW・ペティの『貨幣小論』と『アイルランドの政治的解剖』という三つの著書からの抜粋でなっています。いずれも内容的には何も難しいことを述べているわけではありません。
 ジョン・ベラーズ(1654-1725)については以前、『資本論辞典』からその人となりを紹介したことがありますが、〈その一生を,貧民のための授産所の経営,教育制度の改善,慈善病院の役立などの社会事業や.監獄の改革,死刑の廃止にささげた〉とされ〈マルクスは,彼を‘経済学史上の非凡なる人物'と呼んで,……高く評価し〉たと指摘されていました。
  ペティ(1623-1687)についてもマルクスは『経済学批判』のなかで〈ペティは、労働の創造力が自然によって制約されているということについて思いちがいをすることなしに、使用価値を労働に分解している。彼は現実的労働をただちにその社会的総姿態において、分業としてとらえた。素材的富の源泉についてのこの見解は、たとえば彼の同時代人ホッブスの場合のように、多かれ少なかれ実を結ばずに終わることなく、彼をみちびいて、経済学が独立の科学として分離した最初の形態である政治算術に到達させた〉等々と高く評価しています。


◎現代の「世界貨幣」について

  「c 世界貨幣」を終えるにあたり、「現代の世界貨幣」について考えてみたいと思います。
  現代でも金は価値の絶対的な化身として通用しており、よって諸商品の価値を尺度する機能を果たしています。しかし諸商品の価格は、それぞれの国の通貨(ドル、ユーロ、円等々)によって表示されており、だからそれぞれの通貨の度量基準が存在しなければなりません(例えば1ドルがどれだけの金量を代表しているのかが客観的に決まってなければならないのです)。しかし度量基準が決まっていると言っても、不換制が一般的である今日では法的・制度的にそれが決まっているわけではなく、商品市場の現実によって日常的に変化するものとして決まっているのです。しかしある一定期間をとればそれぞれの通貨はこれこれの金を代理しているものとして、金の市場価格の平均値という形で表されます。金はこのように日常的に金市場において売買されていますが、しかし世界の金の大半は各国の中央銀行や機関の金庫に金地金として眠ってるだけです。それらは本源的な蓄蔵貨幣ということができます。しかしこうした現実こそ、「金はもはや貨幣ではない」などいう金廃貨論者たちの誤りを実証しているともいえます。そもそも金が貨幣でなければ、どうして世界の中央銀行はあれだけの金を保有をする必要があるでしょうか(*)。

  *2020年9月末の各国の中央銀行と公的機関の金保有量は次のようになっています。
  1位 アメリカ 8,133(トン、以下切り捨て) (79.4% 外貨準備に占める比率)
  2位 ドイツ   3,362                     (76.6)
  3位 IMF   2,814                     (-)
  4位 イタリア 2,451                     (71.1)
  5位 フランス 2,436                     (66.7)
  6位 ロシア   2,298                     (23.9)
  7位 中国     1,948                      (3.6)
  8位 スイス   1,040                      (6.2)
  9位 日本       765                      (3.3)
    〔世界の中央銀行金保有量合計35,106(トン)。〕

  マルクスは金の国際的な運動については、金の生産国から非生産諸国へと流れていく運動と、世界の国々の間を行ったり来たりしている運動とを区別する必要があるとしています。最初の金の産出国から世界の国々への流れは今日でも存在しているといえますが、第2の運動は果たしてどうでしょうか。
  それは以前には、為替相場の変動に応じて、金が輸出入される運動として存在していました。日本でも戦前の金解禁(金本位制への復帰)における金の流出という問題が生じました。この場合は多分に投機を目的とする流出でしたが、一般に、為替の価格が高くなり、その郵送料を入れても金で支払う方が安くつく場合は、金が現送されたのです。
  しかし今日では、こうした為替の帳尻をつけるために、金を現送するようなことはすでにありません。その意味では、マルクスが世界貨幣としての運動のなかで為替の変動につれて世界の国々を行ったり来たりする運動というようなものは特別な例外を除いてすでに無くなっていると言ってもいいでしょう。

  世界市場における商品の売買における支払は為替で行われるという基本は、マルクスの時代も今の時代も同じです。そればかりか為替の歴史は極めて古いもののようです(その前身はすでにギリシア、ローマ、ビザンティン帝国にあったといわれています)。為替というのは遠隔の地域にいる債権者と債務者が、現金(金・銀)を支払わずに、決済を行うための手段なのです。現金を遠くに送る場合には、危険がともないますし、多くの負担が生じます。だからそうしたことをせずに金融機関(昔は両替商など)を介して決済するために信用用具(為替)を使って行う取引の一つなのです。だから為替というのは、貨幣の支払指図証、あるいは貨幣請求権ともいうことができます。これは今日でも電子化されているものもありますが、原理的には同じものが通用しています。戦前の金本位制の時代にも、基本的には世界貿易における諸支払は為替で行われていたのです。しかし為替というのは、一つの債権証書ですから、それは利子生み資本の運動を行います。つまりその“売買”が行われる市場があり、その需要供給によってその額面の金額を中心に上下する価格で売買されるのです(だから為替は投機の対象にもなるわけです)。
  例えば日本の輸入商社がアメリカの穀物を輸入して、その代金をドルで支払う必要があった場合(この場合、アメリカの輸出業者が債権者、日本の輸入業者が債務者です)、日本の為替市場でドル為替(額面にドルで表示された支払額が書かれ、アメリカの銀行が支払義務を負っています)を買い(もちろん円で買うわけです)、それをアメリカに郵送して、その支払を行うことになります。その為替の価格は為替市場における需要と供給によって上下しますから、昔の金本位制の時代においては、高いドル為替を買って支払うよりも、金地金をそのままその送料を負担してでも送った方が安くつく場合もあったのです。その価格を金の現送点と言いますが、その場合は日本からアメリカに金が流出していくことになります。しかしすでに指摘しましたが、こうした金の現送は今は無くなっています。金本位制そのものがすでにないからです。各国の発行している銀行券は不換銀行券です。だから当然、金は兌換保証のための準備や預金の引き出しのための準備という役割もありません。中央銀行に保管されている金地金のほとんどは、ただ本源的な蓄蔵貨幣ということができます。しかし依然としてそれらは、それぞれの国の信用の究極の軸点としての位置づけはやはり残っているのではないでしょうか。アメリカが外貨準備の80%近くを金地金で保有しているのは(それは世界各国の中央銀行の保有する金地金の23%強です)そのことを象徴しています。
  では金が世界貨幣として果たしていた機能は、今は、どのような形で果たされているのでしょうか?
  戦後の世界資本主義の体制においては、「管理通貨制度」とか「ドル本位制」等々といわれる貿易の決済機構が存在してきました。つまりアメリカの国内通貨であるドルが世界の基軸通貨として通用しているのです。これは1971年のドルと金との交換停止以降も基本的には同じです。それ以前は、いわゆる固定相場制といって為替の上下の変動を一定額の範囲に規制する制度がありました。もちろん、為替の変動そのものを直接規制することはできませんから(もちろん為替市場に直接介入して、円やドルの為替を買い支えたり、売ったりするということはありえます)、国家の政策で為替の需給を規定する国際収支(貿易収支と資本収支等)を規制することによって、為替の変動を一定の範囲にとどめようという制度です。だから輸出を制限したりしなければならなかったのです。しかし金・ドル交換停止以降はそれもなくなり、変動相場制へと移行し、今日に至っています。
  ドルが基軸通貨になっているというのはどういうことでしょうか。基軸「通貨」というから、アメリカの通貨である「ドル札」が世界の貿易でも通貨として流通しているかのような錯覚をしている人が多いですが、こうしたことはありません。商品を世界市場で売買する場合も、やはりその商品の価値を価格として尺度しなければなりませんが、それをやるのはいうまでもなく金です。しかし自動車一台金何グラムという形で尺度はしません。価値尺度は国民的な通貨によって行われます。例えば日本では自動車1台100万円という形で価格表示されます。しかし日本の自動車をアメリカに輸出するときは、自動車1台1万ドルという形で、アメリカの通貨であるドルで表示するわけです。こうした円やドルによる価格の表示には背後に金による価値尺度の機能が働いています。もちろんこの金による価値尺度の機能は商品流通の中に貫いている法則ですから、それは私たちの目に見えるような形で行われるわけではありません。直接には日本の自動車メーカーが、そのときの為替相場にもとづいてドル表示をするわけですが、しかしそれによって自動車が輸出され販売される過程でその価格表示がその価値を正しく表しているかどうかを内在的な法則によって評価され、そのときの金の価値にもとづいた価格になるということでしかないのです。
  さて問題は日本の自動車の輸出商社(債権者)とアメリカの輸入商社(債務者)とのあいだの決済がどのように行われるのかということです。自動車1台1万ドルで100台輸出した商社は100万ドルの為替を切ります(これはアメリカの輸入商社とその取引銀行を媒介して発行されます)。それを日本の輸出商社が自分の取引銀行に預金します。取引銀行はそのドル為替を日本の為替市場に売り出して、円で受け取り輸出商社の円預金にします。そのドル為替を日本の穀物の輸入商社の取引銀行は購入して、穀物の輸入代金としてアメリカに郵送します。アメリカの穀物輸出商社はそのドル為替を自社の取引銀行に預金します。その取引銀行は交換所にそれをもちこみ、自動車の輸入商社の取引銀行と交換して相殺し、互いの口座間の振替で決済します。こうして自動車の輸出と穀物の輸入の支払が相殺されて決済されます(この交換所での交換による相殺と、両銀行内部での振替については、かなり簡略化しており、実際にはもっと複雑です)。
  このようにドルが基軸通貨になっているというのは、アメリカの通貨であるドルが商品の価値を尺度する通貨になっているということです。しかしドル為替を切るためには、アメリカの銀行がその支払を保証する必要があります。だからドル為替が流通しているということは、アメリカの銀行がそれを媒介しているということなのです。世界の商品の売買でドルが商品の価値を尺度する通貨になっているということは、アメリカの市中銀行がそうした売買を媒介する銀行になっているということです。
  そして先の例で、アメリカの穀物の輸出商社が取引銀行にアメリカの自動車の輸入商社の取引銀行が支払を保証したドル為替を持ち込めば、その輸出商社の預金額として記帳され、その取引銀行が、為替の支払義務のある自動車の輸入商社の取引銀行と交換所で交換しあって帳尻を合わせて決済しますが、もし帳尻が合わない場合は連邦準備銀行にある互いの当座預金間の振替で最終的に決済します。
  つまりドルが基軸通貨になっているということは、世界の貿易をアメリカの市中銀行が主に媒介しているということですが、それは同時にアメリカの中央銀行(連邦準備銀行)が世界の信用システムの軸点になっているということでもあるのです。
  今日の世界市場で、金が各国間を行き来することはなくなった大きな理由は、こうした世界的な信用システムがアメリカの連邦準備銀行を中軸として確立したことによるのです。それがドルが基軸通貨になっているということの内容です。だから世界の貿易や価値の移転にともなうさまざまな債権・債務の決済は、すべて為替を使った信用取引で行われ、最終的には預金の振替で決済されているのです。
  それは世界資本主義の発展によってその生産の社会化がますます発展して、世界の生産システムがますます社会的に一つの結合したものになっていることの反映でもあるのです。そしてそれはいうまでもなく世界社会主義の物質的基礎を準備しつつあるということでもあるのです。

 

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『資本論』学習資料No.24(通算第74回)(3)

2020-12-21 14:28:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.24(通算第74回) (3)

 

【付属資料】


●第1パラグラフ

《経済学批判要綱》
 
   〈金銀による取引は、もはや、余剰物の交換のためではなく、国際的商品交換の全過程における差引残高の清算〔Saldirung des Ueberschusses〕として現われるのである。いまや金銀は、せいぜい世界鋳貨〔Weltmünze〕として鋳貨であるにすぎない。しかし、そのようなものとしては、金銀は、流通手段としてのその形態規定にたいして本質的に無関心であって、それの材料がすべてとなっている。〔しかし〕形態としては、金銀は、あらゆる場所で受けいれられる商品、つまり商品そのものとして、この〔流通手段としての〕規定のうちにとどまっているのである。〉(草稿集①251頁)

《経済学批判・原初稿》

   〈貨幣とは、どの特殊的商品であっても観念的に〔価格として〕または実在的に〔流通手段として〕身にまとう一般的形態であることからしてもすでに、一般的商品である。
  蓄蔵貨幣および一般的支払手段としては、貨幣は世界市場の一般的交換手段となり、単に概念の上からみてだけではなく、その存在様式からみても、一般的商品となる。貨幣が鋳貨として機能するさいに受け取る特殊な国民的形態は、貨幣としての貨幣の定在においては脱ぎすてられている。貨幣は、こういうものとしては、世界市民的である。〉(草稿集③45頁)
  〈国際的な交換手段および支払手段として役立つという貨幣の規定は、事実上、貨幣一般、つまり一般的等価物であり--したがってまた蓄蔵貨幣でもあり支払手段でもあるという規定に追加されるような新しい規定ではない。たしかに貨幣が一般的商品として実現されるのは世界鋳貨となってはじめてのことであるとしても、この一般的商品という概念規定は一般的等価物であるという規定のうちに含まれている。金銀が(すでに述べたように)そもそも貨幣として現われるのは、まずもって国際的な支払手段および交換手段としてであり、しかも、一般的商品としての金銀の概念は、まさしく金銀のこのような現象から抽象してきたものである。貨幣は一般に尺度として(度量単位の確定およぴ度量単位の区分を通じて)形態上国民的、政治的な制限を受ける、そして鋳貨においては、国家によって発行される価値章標が現実の金属の代わりをつとめるかぎりでは、この国民的、政治的制限は〔単に形態的なものにとどまらず〕内容にまでも及びうるが、こうした制限は、貨幣が一般的商品、世界鋳貨として現われるさいにとる形態よりも歴史的には後のものである。だが、なぜそうなのだろうか。それは、後者〔世界鋳貨〕の場合には貨幣が一般に、貨幣としての具体的な形態において現われるからである。〔これに対して〕尺度であることと流通手段であることとは、どちらも貨幣の機能にすぎず、のちになってこれらの機能が自立化してくることによってはじめて、貨幣はこれらの機能をはたすさいに特殊な存在諸形態をとるのである。〉(草稿集③頁)
  〈ところが世界貿易においては、金銀は--それの刻印にはおかまいなく--ただその重量によって評価されるにすぎない。すなわち、鋳貨としての金銀は捨象されるのである。金銀は国際的取引においては、金銀が最初に現われたときとまったく同じ形態で、ないしはまったく同じ没形態性において現われる。〉(草稿集③52頁)
  〈貨幣が現われるさいに受けとる諸規定、つまり価値測定器〔Werthmesser〕、流通手段および貨幣そのものという諸規定のすべてが実際に[表]現しているものは、諸個人が総生産に参加するさいに、言い換えれば社会的生産としての彼ら自身の生産に対して関係するさいに、諸個人が置かれる異なる諸関係にすぎない。しかしこの諸個人の相互にとりむすぷ諸関連は、物象と物象との社会的諸関連として現象する。〉(草稿集③65頁) 

《経済学批判》

  〈金が鋳貨と区別された貨幣になるのは、第1には蓄蔵貨幣として流通から引き揚げられることによるのであり、次には非流通手段として流通にはいることによるのであるが、最後には、商品の世界で一般的等価物として機能するために国内流通の制限を突破することによるのである。こうして金は世界貨幣となる。
  貴金属の一般的重量尺度が原初の価値尺度として役だったように、世界市場の内部では、貨幣の計算名はそれに対応する重量名にふたたび転化される。無定形の地金(aesrude)が流通手段の原初の形態であって、鋳貨形態はもともとそれ自体、金属片にふくまれている重量の公定の章標にすぎなかったのと同様に、世界鋳貨としての貴金属は、形状と極印とをふたたび脱ぎすてて、無差別な地金形態にもどる。〉(全集第13巻126-127頁)
  〈金と銀は貨幣としては、その概念上一般的商品であるが、それらは世界貨幣で普遍的商品というそれに適応した存在形態を得る。すべての生産物が金銀と引き換えに譲渡される割合におうじて、金銀はすべての商品の転化された姿となり、したがって全面的に譲渡可能な商品となる。現実的労働の物質代謝が地球にゆきわたるにつれて、金銀は一般的労働時間の物質化したものとして実現される。金銀は、その交換領域をなす特殊な等価物の系列が発展する程度におうじて、一般的等価物となる。世界流通では、諸商品がそれら自身の交換価値を普遍的に展開するから、金銀に転化された交換価値の姿が世界貨幣として現われるのである。それで商品所有者の諸国民は、彼らのあらゆる方面にわたる産業と全般的な交易とによって金を十全な貨幣につくりかえるのであるが、彼らにとっては産業と交易とは、貨幣を金銀の形態で世界市場から引き出すための手段としか見えないのである。だから世界貨幣としての金銀は、一般的商品流通の産物であるとともに、その範囲をさらに拡大するための手段である。錬金術師たちが金をつくりだそうとしているうちに、いつのまにか化学が成長したように、商品所有者たちが魔法にかけられた姿の商品を追いかけているうちに、いつのまにか世界産業と世界商業との源泉が湧き出したのである。金銀はその貨幣概念のうちに世界市場の定在を予想することによって、世界市場の創出を助ける。金銀のこの魔術作用が、けっしてブルジョア社会の幼年時代に限られるものではなく、商品世界の担い手たちにとって彼ら自身の社会的労働が転倒して現われることから必然的に生じるものだということは、19世紀なかばの新しい金産地の発見が世界交易に及ぼしつつある異常な影響がこれを証明している。〉(全集第13巻129頁)

《初版》

   〈貨幣は、国内流通部面から歩み出るとともに、価格の尺度標準や鋳貨や補助貨や価値象徴という、国内流通部面で急速に成長する地方的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元の地金形態に逆戻りする。世界貿易では、諸商品は、自分たちの価値を普遍的に繰り広げる。だから、諸商品の独立的な価値姿態は、ここではまたも、世界貨幣として諸商品に立ち向かう。世界市場で初めて、貨幣は、充分な範囲にわたって、それの現物形態が同時に、抽象的な、人間的な、労働の・直接的に社会的な実現形態でもある、というような商品として、機能するのである。貨幣の存在様式が、貨幣の概念に適合したものになる。〉(江夏訳138頁)

《フランス語版》

  〈貨幣は、国内の流通部面から外に出ると、それがこの部面で帯びていた地方的な形態、すなわち鋳貨や補助貨幣や価格の尺度標準や価値表章という形態を脱ぎすてて、延棒あるいは地金という元の形態に立ち戻る。諸国間の商業においてこそ、商品の価値が普遍的に実現される。商品の価値姿態が、普遍的貨幣--ジェームズ・ステュアートが呼ぶように、世界貨幣〈money of the world〉であり、彼の後でアダム・スミスが述べたように、大商業共和国の貨幣である--の姿態のもとで、商品に向かいあうのも、そこにおいてである。貨幣は世界市場で、またこの市場でだけ、自然形態が同時に人間労働一般の社会的化身でもあるような商品として、言葉のあらゆる意味において機能する。そこでは、貨幣の存在様式がその概念に適切なものになる。〉(江夏・上杉訳頁)


●第2パラグラフ

《経済学批判》

  〈すでに見たように、一国の国内流通では、ただひとつの商品だけが価値の尺度として役だつ。しかしある国では金が、他の国では銀がこの機能を果たすのであるから、世界市場では二重の価値尺度が通用し、貨幣は他のすべての機能でもその存在を二重化する。商品価値の金価格から銀価格への換算とその逆とは、そのたびごとに両金属の相対的価値によって規定されるが、この相対的価値はたえず変動し、したがってそれを決めることは、たえまない過程として現われる。それぞれの国内流通領域の商品所有者たちは、金と銀とをかわるがわる国外流通のために使用するよう、こうして国内で貨幣として通用する金属をほかならぬ外国で貨幣として必要とする金属と交換するよう強制される。だからどの国民も、金と銀との二つの金属を世界貨幣として用いる。〉(全集第13巻127頁)

《初版》

  〈国内流通部面では、一商品だけが、価値尺度として、したがって貨幣として、役立つことができる。世界市場では、二様の価値尺度である金と銀とが、支配する(90)。〉(江夏訳139頁)

《フランス語版》

  〈国内流通の範囲内では、ただ一つの商品だけが価値尺度として、したがって貨幣として、役立つことができる。世界市場では、金と銀という二重の価値尺度が支配する(57)。〉(江夏・上杉訳頁)


●原注108

《経済学批判・原初稿》

  〈そのうえ金については、それがもっとも古くから知られている金属であり、最初に発見された金属である、と言うことができる。自然そのものが、河流という大きな金洗鉱場というかたちで技術の仕事〔das Werk der Kunst〕を引き受ける、こうして人間の側からは金の発見のために非常に粗放な労働だけが必要とされ、科学も発達した生産用具も必要とされない。……同様に、金は他のすべての金属よりも純粋なかたちで存在している。つまり、純粋な、結晶の形態をとっており、個別化されている、つまり「通常産出される諸物体から分離しており」、銀以外の金属と混ざりあっていることは滅多にない。金は「個別化され、個体化されている」。つまり、「金はごくわずかな例外を除いて、自然のなかに金属の状態で見いだされる(他の金属の場合にはそれらの金属を含む鉱物〔Mineral〕のかたちで(化学的な在り方で)見いだされる)という事実によって、他の金属といちじるしく異なっている。鉄や銅、錫、鉛、銀は通常は、酸素、硫黄、砒素、あるいは炭素と化学的に化合したかたちで見いだされるのであり、これらの金属が他のものと化合していない状態で、つまり以前の呼び名にしたがえば処女の状態で産出されることもわずかな例外としてないわけではないが、これは普通の産出物というよりもむしろ鉱物学上の稀観例として挙げられるべきものである。しかし金はつねに天然に、あるいは金属のかたちで見いだされる……。しかも金は、大気の作用にもっともさらされているような岩石のなかで形成されたという事情から、山々の岩屑(ガンセツ)のなかに見いだされる。……この岩の破片は砕け落ち、……洪水によって谷間に運ばれ、そして流水のたえまない運動によって転がされて礫になる……。金は、その比重が重いために沈澱してゆく。こうして〔金は〕河床に、また沖積地に見いだされるのである。最初に発見された金は河床に堆積した金〔Flußgold〕〔であった〕。(採鉱〔Mine〕よりも先に河水洗鉱〔Flußwäscherei〕が習得された)……。金は純金としてか、そうでなくともいずれにせよほとんど純金に近いかたちで産出される場合がほとんどであるから、それが河川にある場合でも、石英鉱脈のなかにある場合でも、その金属としての性質はひと目で識別することができる……。河川は実際、自然の偉大な選鉱器であり、より軽くて微細な粒子はすべてただちに洗い流し、より重い粒子は水流が勢いや速力を緩めさえすればどこでも、自然の障碍物に遭って立往生するか、あるいはそこに置きざりにされる……。ヨーロッパ、アフリカおよびアジアのほとんどすべての国々で、ひょっとしたらすべての国々で、多寡の差はあれ金が早い時期から単純な装置を使って金鉱床等から洗鉱されてきた。」砂金洗別〔Goldwäsche〕と砂金掘〔Glolddiggen〕とはまったく単純な労働であるが、採鉱〔mining〕となると、これは(したがって金採鉱〔Goldmining〕も)資本の充用を要し、他のいかなる産業よりも多くの関連諸科学の応用を必要とする技術である。{洗鉱は自然によって配慮されている。}〉(草稿集③90-91頁)

《経済学批判》

  〈すでに見たように、金銀は、いつも同じ価値の大きさであるようにという、貨幣としてのそれらにたいして提起される要求をみたすことはできない。それでも金銀は、すでにアリストテレスが言っているように、他の諸商品の平均よりもはるかに永続的な価値の大ぎさをもっている。貴金属の価値増減の一般的作用は別としても、金銀の比価の動揺は、両者が世界市場でともどもに貨幣材料として役だっているので、とくに重要である。こういう価値変動の純粋に経済的な根拠--古代世界で金属の価値に大きな影響を及ぼした征服やその他の政治的変革は、ただ局地的で、一時的に作用したにすぎない--は、これらの金属の生産に必要な労働時間の変動に帰せられなければならない。この労働時間そのものは、これらの金属の相対的な自然的稀少性に、また純粋な金属状態で採取することの難易いかんによって決まるであろう。金は実際上、人間の発見した最初の金属である。一方では自然そのものが、純粋な結晶状態で、個体化された、化学的に他の物体と結合していない状態で、言ってみれば、錬金術師のいう処女状態で金を析出し、他方では、自然そのものが、河流という大きな金洗鉱所で技術上の仕事を引き受ける。だから人間の側では、河溝の砂金を採取するにせよ、沖積土中の金を採掘するにせよ、ただ最も粗放な労働を必要とするにすぎない。ところが、銀の析出は、鉱山労働と、一般に技術の相対的に高度な発展とを前提としている。だから銀の絶対的稀少性は金よりも小さいのに、その最初の価値は金の価値よりも相対的に大きかった。ストラポンは、アラビアのある種族では、1ポンドの鉄にたいして10ポンドの金があたえられ、1ポンドの銀にたいして2ポンドの金があたえられた、と断言しているが、これはけっして信じられないことではない。しかし社会的労働の生産力が発展し、したがって単純労働の生産物が結合労働の生産物にたいして騰貴するのに比例して、また地殻がいたるところ掘りかえされて、地表にある最初の金の供給源が枯渇するのに比例して、銀の価値は金の価値にくらべて低下するであろう。技術学と交通手段とのあるあたえられた発展段階では、新しい金銀産地の発見は決定的に重要となるであろう。古代アジアでは、金銀の比価は6対1または8対1であったが、このあとのほうの比価は、中国と日本では、19世紀のはじめにまだそのままであった。クセノフォン時代の比価の10対1は、古代中期の平均比価とみなすことができる。カルタゴによる、のちにはローマによるスペインの銀山の採掘は、アメリカの鉱山の発見が近代ヨーロッパに及ぼした影響に似た影響を古代に及ぼした。ローマ帝政時代には、ローマでは銀の激しい減価がしばしば起こったが、15ないし16対1がだいたいの平均値だったと考えてよい。同じ運動、金の相対的な減価に始まり、銀価値の下落に終わる運動は、それにつづく中世から最近世に及ぶ時代にくりかえされている。中世の平均比価は、クセノフォンの時代と同じように10対1であったが、アメリカの鉱山の発見のために、ふたたび16ないし15対1に急変した。オーストラリア、カリフォルニア、コロンビアの金産地の発見は、金の価値をもういちど低下させることになりそうである*。
  *いままでのところでは、オーストラリア等々の発見は、金銀の比価にまだ影響を及ぼしていない。ミシェル・シュヴァリエの反対意見は、この往年のサン-シモン主義者の社会主義と同じくらいの価値しかない。なるほど、ロンドン市場の銀相場の示すところでは、1850-1858年の銀の平均金価格は、1830-1850年の時期にくらべて、3%たらず高い。しかしこの騰貴は、アジアの銀の需要から簡単に説明される。1852-1858年のあいだには、銀の価格は、ただこの需要につれてある年やある月に変動しただけであって、けっして新たに発見された産地からの金の流入につれて変動したのではない。次に示すのは、ロンドン市場における銀の金価格の一覧表である。

  1オンスあたりの銀の価格
           3月                 7月              11月
1852年・・60[1/8]%ペンス   60[1/4]%ペンス   61[7/8]%ペンス
1853〃・・61[3/8]% 〃    61[1/2]% 〃    61[7/8]% 〃
1854〃・・61[7/8]% 〃    61[3/4]% 〃    61[1/2]% 〃
1855〃・・60[7/8]% 〃    61[1/2]% 〃    60[7/8]% 〃
1856〃・・60% 〃         61[1/4]% 〃    62[1/8]% 〃
1857〃・・61[3/4]% 〃    61[5/8]% 〃    61[1/2]% 〃
1858〃・・61[5/8]% 〃〉(全集第13巻133-134頁)

《初版》

  〈(9O) だから、国内で貨幣として機能している貴金属だけを蓄蔵するようにと国立銀行に命ずる立法は、どれも愚かである。たとえば、イングランド銀行がこうしてみずから作り出した「愛矯のある障害」は、よく知られている。金銀の比価の変動がひどかった歴史上の時代については、カール・マルクス、前掲書〔『経済学批判』〕、136ページ以下、を見よ。〉(江夏訳139頁)

《フランス語版》

  〈(57) それだから、国立銀行にたいし、国内で貨幣として機能する貴金属だけを蓄蔵するように命ずる立法は、どれもこれも愚かなのである。たとえば、イングランド銀行がこうしてみずから進んでつくり出した困難は有名である。サー・ロバート・ピールは1844年の銀行法のなかで、銀準備がけっして金準備の1/4を超過しないという条件づきではあるが、銀地金にもとづいて銀行券を発行することをこの銀行に許すことによって、上記の不都合をとりのぞこうと努めた。このぱあい、銀の価値はその都度、ロンドン市場での銀の金価格にしたがって評価される。--金と銀との相対的価値変動のひどかった歴史上の時代については、カール・マルクス『経済学批判』、136ページ以下を見よ。〉(江夏・上杉訳124-125頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈重金主義〔Monetarsystem〕は、価値の自立性を、価値が単純流通から生じるというかたちで--つまり貨幣のかたちで、把握したにすぎなかった。したがって彼らは、この富の抽象的形態を諸国民の唯一の目的としたのだが、これらの諸国民は、致富そのものが社会それ自体の目的として現われた時期に、まさにはいりつつあったのである。つづいて重商主義〔Mercantilsystem〕が現われたが、それはマニュファタチュアというかたちで産業資本と、したがってまた賃労働とが登場して、非産業的富、封建的土地所有と対立し、またそれらを犠牲にしながら発展しつつある時期にあたっていた。彼らにとって、貨幣はすでに資本として思い浮かべられているのだが、しかし、彼らに思い浮かべられている資本とは、厳密にいえば、やはりそれ自体としては、貨幣の形態にある資本、商業資本〔mercantiles Capital〕つまり貨幣に転化しつつある資本の流通の形態をとっている資本でしかないのである。彼らにとって産業資本が価値をもつのは、しかも最高の価値をもつのは--手段としてなのであって--生産過程にある富そのものとしてではなく--つまり、それが商業資本をつくりだし、またこの商業資本が流通のなかで貨幣となるからである。マニュファクチュア労働〔Manufacturarbeit〕--これは結局、産業労働〔industrielle Arbeit〕のことであった。しかしそれと反対に、農業労働〔Agriculturararbeit〕は彼らにとって、主として使用価値を生産するものとして存在したし、またそう考えられたのである。原料生産物が加工されるとより多くの価値をもつようになるのは、それがはっきりした形態、つまり流通や通商〔commerce〕のためにより適した商業的形態をとっているために、より多くの貨幣をつくりだすからである。……こうして産業労働という賃労働の一形態と産業資本という資本の一形態とが、富の源泉として認められてはいたのだが、しかしそれらのものが貨幣をつくりだすかぎりにおいて認められていたにすぎなかった。したがって交換価値そのものはまだ、資本の形態で理解されていたわけではなかったのである。〉(草稿集①402-403頁)

《経済学批判・原初稿》

  〈金銀が、16世紀、つまり市民社会の幼年期に諸国家および始まったばかりの経済学の関心をもっぱらとらえたのは、主として国際的貨幣としてであった。金銀が国際交易のなかで演ずる特有な役割については、1825年、1839年、1847年、1857年に大量の金流出と恐慌とが起こって以来、ふたたび一目瞭然となってきており、経済学者たちのふたたび認めるところとなってきている。ここ〔国際交易〕では金銀は、対自的に〔それ自身で自立的に〕存在する価値、一般的等価物として、絶対的で排他的な国際的支払手段なのである。価値は正貨で〔in specie〕移転されなければならず、それ以外のいかなる形態の商品によっても移転することはできない。〉(草稿集③56-57頁)
  〈一般的な国際的購買手段および支払手段としての貨幣は、なにも貨幣の新しい規定ではない。それはむしろ、貨幣がその概念の一般性に照応した現象の普遍性において現われたもの、貨幣にもっとも適合した存在様式にすぎない。こうした存在様式をとることによって貨幣が普遍的商品であることが実際に確証されるのである。〉(草稿集③58頁)

《経済学批判》

  〈国際的商品流通では、金銀は流通手段としてではなく、一般的交換手段として現われる。しかし一般的交換手段は、購買手段支払手段という二つの発展した形態でだけ機能するが、けれども両者の関係は世界市場では逆になる。国内流通の領域では、貨幣はそれが鋳貨であり、W-G-Wという過程的統一の媒介者をあらわしたかぎりで、言いかえれぽ、諸商品の止むところない位置転換のなかの交換価値のただ一時的な形態をあらわしたかぎりで、もっぱら購買手段として作用した。世界市場では逆である。ここでは金銀は、物質代謝がただ一方的で、したがって購買と販売とが互いに分離している場合に、購買手段として現われる。たとえばキャフタの国境貿易(*)は、事実のうえでも条約のうえでも交換取引〔物々交換〕であり、そこでは銀はただ価値尺度にすぎない。1857-1858年の戦争(**)は、中国人をして買わないで売るようにさせた。そこで銀が突然に購買手段として現われた。ロシア人は、条約の文言を顧慮して、フランスの5フラン銀貨に加工して粗雑な銀製品をつくり、これが交換手段として役だった。銀は、一方のヨーロッパおよびアメリカと他方のアジアとのあいだで、ひきつづき購買手段として機能しており、アジアでは銀は蓄蔵貨幣として沈澱するのである。さらにまた貴金属は、2国間の物質代謝の伝統的均衡が突然に破られると、たとえば不作のために一方の国が異常に大量に買わざるをえなくなると、すぐに国際的購買手段として機能する。最後に貴金属は、金銀を生産する国々の手中では、国際的購買手段であり、そこでは金銀は直接的な生産物であり、商品であって、商品の転化された形態ではない。いろいろな国民的流通領域のあいだの商品交換が発展すればするほど、国際差額決済のための支払手段としての世界貨幣の機能が発展する。
  *  主として交換取引(物々交換) の形式でなされた露中貿易は、1727年10月21日にロシアと中国のあいだに締結されたキャフタ通商・国境条約の結果、いちじるしく拡大した。
  ** 1857-1858年の戦争--中国で新たな特権を獲得し、中国を従属的な半植民地国家におとしいれる目的で、イギリスとフランスが遂行した第2次アヘン戦争のこと。この戦争は中国の敗北と、強盗的な天津条約の締結とに終わった。〉(全集第13巻127-128頁)

《初版》

  〈世界貨幣は、一般的な支払手段一般的な購買手段、および一般(universal wealt)の絶対的社会的な具象物として、機能する。支払手段としての機能は、国際貸借の決済のさいには、優勢である。だから、重商主義の合言葉--貿易差額(91)! いろいろな国々のあいだの物質代謝のこれまでの均衡が、突然に乱されるたびごとに、金銀が、国際的な購買手段として本質的に役立つことになる。最後に、金銀が富の絶対的・社会的具象物として役立つのは、購買も支払いも問題ではなくて1国から他国への富の移転が問題になるばあいであり、しかも、商品形態でのこの移転が、商品市場の商況なりまたは所期の目的そのものなりによって、排除されているばあいである(92)。〉(江夏訳139頁)

《フランス語版》

  〈普遍的貨幣は、支払手段、購買手段、富一般〈universal wealth〉の社会的な素材、という三つの機能を果たす。国際収支を決済することが問題であるばあいには、第一の機能が優勢を占める。ここから、重商主義の合言葉--貿易差額が生じたのである(58)。さまざまな国々のあいだでの物質代謝において通常の均衡が乱れるたびごとに、金と銀は本質的に、国際的な購買手段として役立つ。最後に、問題がもはや購買でも支払いでもなく一国から他国への富の移転であるばあい、しかも、商品形態でのこの移転が市場の偶発性か所期の目的そのものによって妨げられるばあいには、金と銀は富の絶対的形態として機能する(59)。〉(江夏・上杉訳125頁)


●原注109

《経済学批判》

  〈近代ブルジョア社会の幼年期である16世紀と17世紀に、一般的な黄金欲が諸国民と諸王侯とを海を渡り越える十字軍によって黄金の聖杯を追いもとめさせたが、それと同様に、近代世界の最初の解釈者である重金主義--重商主義はただその一変種にすぎない--の創始者たちは、金銀すなわち貨幣を唯一の富である、と宣言した。適切にも彼らは、ブルジョア社会の使命は金を儲けること、したがって単純な商品流通の立場からすれば、紙魚(シミ)にも錆にもおかされない永遠の財宝を形成することである、と明言した。3ポンド・スターリングの価格の1トンの鉄は、3ポンド・スターリングの金と同じ大きさの価値であると言ったのでは、重金主義にたいして回答をあたえたことにはならない。ここで問題になっているのは、交換価値の大きさではなくて、その十全な形態である。重金主義と重商主義とが、世界商業と世界商業に直接つながる国民的労働の特殊諸部門とを富または貨幣の唯一の真の源泉だとしてとくに取り出したとするならば、その時代には国民的生産の大部分がまだ封建的形態で運動していて、直接の生計源泉として生産者自身に役だっていた、ということを考慮にいれなければならない。生産物は、大部分が商品に転化されず、したがって貨幣に転化されず、一般的な社会的物質代謝に全然はいっていかなかったから、したがって一般的抽象的労働の対象化としては現われず、実際上、すこしもブルジョア的富を形成しはしなかった。流通の目的としての貨幣は、生産を規定する目的および推進する動機としての交換価値または抽象的富--富のなんらかの素材的要素ではなく--である。ブルジョア的生産の前段階にふさわしく、あの認められない予言者たちは、交換価値の純粋な、手でつかむことのできる、光り輝く形態を、すべての特殊な商品に対立する一般的商品としての交換価値の形態を、しっかりとらえたのである。その当時の本来ブルジョア的な経済の領域は、商品流通の領域であった。だから彼らはこの原初的な領域の視点から、ブルジョア的生産のはなはだ錯雑した全過程を判断し、そして貨幣を資本と混同したのである。重金主義と重商主義とにたいする近代の経済学者たちのあくことを知らない闘争は、大部分は、この主義が粗野で素朴な形態でブルジョア的生産の秘密を、それが交換価値によって支配されていることを口外したことから生じている。リカードは、まちがってこれを適用するためにではあるが、飢饒のときでさえ、国民が飢えているから穀物が輸入されるのではなく、穀物商人が金儲けできるから輸入されるのだ、とどこかで言っている。それゆえ、経済学が重金主義と重商主義との批判で失敗しているのは、それがこの主義をたんなる幻想として、ただまちがった理論として敵視するだけで、それ自身の基本的前提の未開な形態として再認識しないからである。しかもそのうえに、この主義は、たんに歴史的権利を保持しているばかりでなく、近代経済の一定の領域内では完全な市民権をも保持している。富が商品という元素形態をとるブルジョア的生産過程のすべての段階で、交換価値は貨幣という元素形態をとり、そして富は生産過程のすべての局面で、くりかえし瞬間的に商品という一般的元素的形態に復帰する。最も発達したブルジョア的経済においてさえ、流通手段としての金銀の機能とは違った、また他のすべての商品に対立した、貨幣としての金銀の特有な諸機能は、揚棄されないで、ただ制限されるだけであって、それゆえにまた重金主義と重商主義とはその権利を保持するのである。金銀が社会的労働の直接の化身として、したがって抽象的富の定在として、世俗的な他の諸商品に対立するというカトリック的な事実は、当然にブルジョア経済学のプロテスタント的な体面〔poinr d'honneur〕を傷つけるのであって、ブルジョア経済学は、重金主義の諸偏見をおそれるあまり、長いあいだ、貨幣流通の諸現象について判断をくだせなかったのであるが、それは次の叙述の示すとおりである。
  貨幣を流通の結晶した産物としての形態規定性だけで知っているにすぎない重金主義と重商主義に対立して、古典派経済学がそれをなによりもまずその流動的な形態で、商品変態そのものの内部でつくりだされてはまた消え去る交換価値の形態として把握したのは当然至極なことであた。だから商品流通がもっぱらW-G-Wの形態で、この形態がまたもっぱら販売と購買との過程的統一という規定性で把握されるように、貨幣は、貨幣としてのその形態規定性に対立して、流通手段としてその形態規定性において主張される。流通手段そのものが、鋳貨としてのその機能において孤立させられると、すでに見たように、それは価値章標に転化する。だが、古典派経済学は、まずもって流通の支配的形態としての金属流通に対面したのであるから、金属貨幣を鋳貨として、金属鋳貨をたんなる価値章標としてとらえる。そういうわけで、価値章標の流通の法則に照応して、商品の価格は流通する貨幣の量によって決まるのであって、逆に流通する貨幣の量が商品の価格によって決まるのではない、という命題がうちたてられる。われわれは、こういう見解が17世紀のイタリアの経済学者たちのあいだで多かれ少なかれほのめかされ、ロックによってときには肯定され、ときには否定され、『スペクテーター』(1711年10月19日号) によって、モンテスキューヒュームとによって決定的に展開されているのを見いだすのである。ヒュームはの18世紀におけるこの理論の最も重要な代表者であるから、われわれの展望も彼から始めよう。〉(全集第13巻134-136頁)

《初版》

  〈(91) 重商主義は、金銀による貿易差額の決済を世界貿易の目的として扱うが、それの反対者のほうも、世界貨幣の機能を全く誤解していた。流通手段の量を規制する諸法則の誤解が、貴金属の国際的運動の誤解のうちに反映しているにすぎないことは、私がリカードについて詳細に指摘しておいたところだ。(同前、150ページ以下。)だから、リカードのまちがった学説、すなわち、「貿易の逆調は通貨の過剰のみから生ずる。……鋳貨の輸出は、鋳貨の価格が安いためにひき起こされるのであって、逆調の結果ではなくて原因である」という学説は、すでにバーボンの次の言葉のうちに見いだされる。「貿易差額は、もしあるとしても、一国から貨幣が輸出されることの原因ではなく、むしろこの輸出は各国における地金の価値の差から生じている。」(N・バーボン、前掲書、59、60ページ。)マカロックは『経済学文献、分類目録、ロンドン、1845年』のなかで、バーボンのこの先見を称賛しているが、しかし、バーボンでは「通貨主義」の不合理な諸前提がいまだにとっている素朴な形態には、言及することさえも用心深く避けている。上記の目録が無批判であり不誠実でさえあることは、貨幣理論の歴史にかんする篇では頂点に達している。なぜならば、マカロックは、ここでは、彼が「銀行家のなかでも定評ある指導者」と呼んでいるロード・オーヴァストーン(元銀行家ロイド)のおべっか使いとして、しっぽを振っているからである。〉(江夏訳139-140頁)

《フランス語版》

  〈(58) 重商主義の意見によれば、国際貿易の目的は、一方の他方にたいする貿易差額の超過を金または銀で決済することにほかならないが、この主義の反対者のほうでも、普遍的貨幣の機能を完全に無視したのである。貴金属の国際的運動の誤った解釈は、私がリカードの事例によって証明しておいたように(『経済学批判』、150ページ)、国内の流通手段量を規制する諸法則の誤った解釈を反映するものにほかならない。「貿易の逆調は流通する貨幣の過剰からのみ生ずる……」、「鋳貨の輸出は、鋳貨の低価格によって惹き起こされるのであって、逆調の結果ではなく原因である」、というリカードの誤ったドグマは、すでにバーボンに見出される。「貿易差額は、もしあるとすれば、一国から他国への貨幣の輸出の原因ではなく各国における金地金または銀地金の価値の差から生ずるものである」(N・バーボン、前掲書、59、60ページ)。マカロックは、彼の『経済学文献、分.類目録』、ロンドン、1845年、のなかで、バーボンのこの先見を称賛しているが、しかし、バーボンではまだ「通貨主義」の不合理な諸仮定がとっている素朴な形態には、一言することを用心深く避けている。この目録が無批判であり不誠実でさえあることは、貨幣理論の歴史を論ずる部分で、とりわけはっきりとうかがえる。その理由は、おべっかづかいのマカロックが、ここでは、彼が「銀行家中の定評ある指導者」と呼ぶロード・オーヴァストン(元銀行家ロイド) にしっぽを振っているからである。〉(江夏・上杉訳125頁)


●原注110

《初版》

  〈(92)たとえば、援助金とか、戦争遂行のためや銀行の正貨支払再開のための貨幣借款等々のばあいには、価値は、まさに貨幣形態で、要求されることがありうる。〉(江夏訳140頁)

《フランス語版》

  〈(59) たとえば、援助金のばあい、戦争を行なうために、 または、 銀行をして銀行券の支払いを再開できるようにさせるなどのために、借款を負うばあいには、価値の貨幣形態は厳格でありうる。〉(江夏・上杉訳125-126頁)


●第4パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈だが単純な金属流通の基礎上でわかることは、貨幣が機能するさいの諸規定が異なるのに応じて、あるいは社会的素材変換である流通の過程によって、遊休する蓄蔵貨幣として沈澱する現物の金銀の形態も異なってくること、このような蓄蔵貨幣として存在する貨幣部分の構成要素はたえず交替しており、社会の表面では、あれやこれやの機能をはたす貨幣部分のあいだの交替がたえず行なわれており、ある部分は蓄蔵貨幣から流通--国内的または国際的な--へ移行してゆき、ある部分は流通から蓄蔵貨幣貯水池〔Schatzreservoirs〕のなかへ吸収されてゆき、ある部分は奢侈品に転換されてゆくわけであるが、にもかかわらず流通手段としての貨幣の機能は、これらの沈澱物によって少しも制限されてはいないことである。貨幣の出入はかわるがわるこれらのさまざまな貯水池を空にしたり、満たしたりするが、同じことが国内流通においては総価格が上昇したり、低落したりすることによってもなされる。しかし流通そのもののために必要とされる貨幣量が金銀が過剰であるためにその限度〔Maaß〕を越えて増大するわけでもないし、またその限度以下に低落するわけでもない。〉(草稿集③61頁)

《経済学批判》

   〈国内流通と同じように、国際流通もまた金と銀のたえず変動する量を必要とする。だから蓄積された蓄蔵貨幣の一部分は、どの国民のもとでも世界貨幣の準備金として役だち、この準備金は、商品交換の振動におうじて、あるときは空になり、あるときはまたいっぱいになる(*)。
  
  *「実際に流通のなかにあるがために、おこりうぺき通商の場合にそなえて遠ざかって当の流通の領域を去る貨幣額を、貯えられた貨幣が補充する。」(ヴェリ『経済学にかんする考察』へのG・R・カルリの注。所収、クストディ編、前掲書、第15巻、192ページ)〉(全集第13巻128-129頁)

《初版》

  〈各国は、その国内流通にそなえてと同様に、世界市場流通にそなえても、準備金を必要とする。だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の涜通手段および支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生ずる。後者の役割では、不断に実在する貨幣商品、生身の金銀が要求される。それゆえに、ジェームズステュアートは、金銀を、金銀の単なる地方的な代理人と区別して、はっきりと世界貨幣と呼んで特徴づけている。〉(江夏訳140頁)

《フランス語版》

  〈各国は、外国貿易のためにも国内流通のためにも準備金を必要とする。この準備金の機能は、一部が国内流通・支払手段としての貨幣機能に結びつき、一部が普遍的貨幣の機能に結びついている(60)。後者の機能では、素材的な貨幣、すなわち金と銀が、つねに必要とされる。それゆえに、ジェームズ・ステュアートは金と銀を、それのたんに地方的な代理人と区別するために、はっきりと世界貨幣と呼ぶのである。〉(江夏・上杉訳126頁)


●原注110a

《第二版》

  〈110a 第二版への注。「正貨兌換諸国での貨幣蓄蔵の仕組みが、一般流通からこれといった援助も受けずに、国際的決済に必要なあらゆる役目を果たしうることについては、じつのところ、次のこと以上に納得のゆく証拠は望みえないであろう。すなわち、フランスが、破壊的な外敵の侵入の打撃からやっと立ち直ったばかりのときに、自国に課された連合国にたいする約2000万〔ポンド・スターリング〕の賠償金の支払を、しかもこの金額のかなりの部分を正貨で、27カ月のあいだに容易に完遂しながら、しかもなお、国内の通貨にはこれというほどの収縮または攪乱も生ぜず、また、為替相場の不安な動揺さえも生じなかった、ということ。」(フラートン前掲書、191ページ。)〉(江夏訳148頁)

《フランス語版》

  〈(60) 「私の考えでは、準備金が、一般流通からどんな支援も受けることなしに、あらゆる国際取引を成就する能力のあることについては、次のことほど説得力のある証拠はない。すなわち、外国の侵略の衝撃からやっと回復しかけたフランスが容易に、連合諸国から請求された約2000万ポンド・スターリングの賠償金の強制支払いを、27カ月間で完了し、しかも、その最大部分を鋳貨で供給しながら、国内取引にさほどの混乱もなく、為替相場の懸念すべき動揺さえも起こさなかった、ということである」(フラートン、前掲書、141ぺージ)。〉(江夏・上杉訳126頁)


●第5パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈金銀がそこでの直接的生産物であり、ひとつの特殊的な労働様式の対象化であるような諸国においては、金銀の直接的生産者に対する金銀の関係は、どのようになっているのだろうか? 生産者たちの手中においては、金銀は直接には商品として生産される、すなわちその生産者にとってはなんらの使用価値をももたず、それの譲渡〔Entäusserung〕を通じて、つまり金銀が流通のなかへ投げ込まれることによってはじめて、生産者にとっての使用価値となるような、そういう使用価値として生産されるわけである。金銀は生産者の手中でまず蓄蔵貨幣として存在することができる。というのは、この金銀は流通の産物ではなく、つまり流通から引き揚げられたものではなく、まだ流通のなかに入り込んでいないものだからである。金銀は、それが他の諸商品とならんで特殊的な商品として存在しているからには、まずもって他の諸商品と直接に、そのなかに含まれている労働時間に比例して交換されなければならない。しかし他面では、金銀は同時に一般的労働の生産物、一般的労働の人格化〔Personification〕として適用する--金銀は直接的生産物としてはけっしてそういうものではないのに--から、金銀はその生産者を、売り手としてではなく、すぐさま買い手として登場できるという特権を与えられた地位につけるのである。生産者は、貨幣としての金銀を手に入れるためには、直接的生産物としての金銀を譲渡〔entäussern〕しなければならないが、とはいっても同時に彼は、他のどの商品の生産者もが必要としているような媒介を必要としてはいない。彼は買い手の形態にありながら、実は売り手自身なのである。〉(草稿集③55-56頁)
  〈もっとも、貨幣のうち貨幣として機能する部分と鋳貨として機能する部分との比率は、量的には変動するであろうし、また同一の貨幣片が交互にある機能をはたしたり別の機能をはたしたりすることはできるのだが。これは、国内流通のために用いられる部分と国際流通のために用いられる部分とが量的には交替し合い、また質的にはたがいに代理し合うのと、まったく同じことである。しかし金銀の量は、恒常的な貯水池であり、排水講であるとともに、給水溝でもある。〔排水と給水という〕2つの流通の流れといっても、この貯水池が給水溝であるのは、もちろん、それが排水溝であるからである。〉(草稿集③62頁)

《経済学批判》

  〈世界貨幣はそれがさまざまな国民的流通領域のあいだを往復する特殊な運動のほかに、一つの一般的運動をもち、その出発点は金銀の生産源にあって、そこから金銀の流れがさまざまな方向へ世界市場を転々とするのである。この場合、金銀は商品として世界流通にはいり、それぞれの国内的流通領域にはいるまえに、等価物として、それらにふくまれている労働時間に比例して諸商品等価物と交換されている。だから国内的流通領域では、金銀はあたえられた大きさの価値をもって現われる。だから金銀の生産費の変動における一騰一落は、世界市場でそれらの相対的価値に一様に影響を及ぼすが、これに反してこの相対的価値は、さまざまな国民的流通領域が金銀を吸収する程度とはまったく無関係である。金属の流れのうち、商品世界のそれぞれの特殊領域によってとらえられる部分は、一部は摩滅した金属鋳貨を補填するために国内貨幣流通に直接にはいり、一部はせきとめられて、鋳貨、支払手段、世界貨幣のいろいろな蓄蔵貨幣貯水池にはいり、一部は奢侈品に転化され、残りは最後に蓄蔵貨幣そのものになる。〉全集第13巻128頁)

《初版》

  〈金銀の流れの運動は二重のものである。一方では、その流れは、自己の源泉から全世界市場になだれ込み、そこで、いろいろな国々の流通部面によっていろいろな広さでとらえられて、それらの国々の国内流通水路にはいり込んだり、摩滅した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする(93)。この第一の運動は、諸商品のうちに実現されている国々の労働と、貴金属のうちに実現されている金銀生産諸国の労働との、直接交換によって、媒介されている。他方、金銀は、いろいろな国々の流通部面のあいだを絶えずあちこちと流通するのであって、これは、為替相場の不断の変動のあとに続く運動である(94)。〉(江夏訳140頁)

《フランス語版》

  〈銀と金の潮流には、二重の流れがある。一方では、それは、その源泉から全世界市場にひろがり、そこで各国の国内流通の範囲によっていろいろな割合で取りこまれ、それぞれの国の国内流通の水路に入り込み、摩滅した金銀鋳貨を補填し、奢侈品の材料を提供し、最後に、蓄蔵貨幣の形態で石化するのである(61)。この第一の方向は、自国の商品が金銀とそれらの原産地で直接に交換されるような国々によって、この流れに与えられる。とはいえ他方では、貴金属はあっちこっちと、果てしなくひっきりなしに、種々の諸国の流通部面のあいだを流通するのであって、この運動は、為替相場の不断の変動のあとにしたがうものである(62)。〉(江夏・上杉訳126頁)


●原注111

《初版》

  〈(93) 「貨幣は、つねに諸生産物によって引き寄せられながら、……諸国がもっている必要に応じて、諸国のあいだに配分される。」(ル・トローヌ、前掲書、916ページ。) 「絶えず金銀を産出しつつある鉱山は、各国にこのような必要な為替尻を供給するに足りる分だげを、産出している。」(J・ヴアンダリント、前掲書、40ページ。)〉(江夏訳140頁)

《フランス語版》

  〈(61) 「貨幣は、つねに生産物によって引き寄せられながら、……諸国の必要に応じて諸国のあいだに配分される」(ル・トローヌ、前掲書、916ページ)。「銀や金を継続して供給する鉱山は、すべての国の必要に応ずるに充分なだけ銀や金を供給している」(ヴァンダリント、前掲書、40ページ)。〉(江夏・上杉訳126頁)


●原注112

《初版》

  〈(94) 「為替相場は、毎週勝落し、1国にとって、1年のうちの若干の特定時期には逆高になり、他の時期には同じ〈らい順高になる。」(N・バーボン、前掲書、39ページ。)〉(江夏訳140頁)

《フランス語版》

  〈(62) 「為替相場は毎週、交互に騰貴したり低落したりする。それは一国にとって、1年のうちのある時期には逆高となり、別の時期には順高となる」(N・バーボン、前掲書、39ページ)。〉(江夏・上杉訳126頁)


●第6パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈流通手段として不必要なものは、蓄蔵貨幣として〔流通から〕吐き出されるが、それが流通に必要となると、蓄蔵貨幣は流通に吸収されるわけである。だから金属鋳貨だけを通貨として流通させている諸民族にあっては、個人から国庫を預かる国家に至るまで、さまざまな形態で貨幣蓄蔵が行なわれているわけである。ブルジョア社会では、この過程は、総生産過程の必要限度額〔Erheischnisse〕にまで縮減されており、しかも別の諸形態をとっている。貨幣蓄蔵はより素朴な状態においては、一部はすべての私人の業務として、一部は国家業務として営まれていたが、この業務が〔ブルジョア社会においては〕生産の総過程における分業によって必要とされる特殊な業務として現われるのである。ただし基礎はあくまでも変わらない、つまり貨幣は、さまざまな発展した諸機能をはたしながら、しかもまったく幻想的な機能さえもはたしながら、たえず貨幣として機能しているのである。純粋な金属流通についてのこうした考察は、より高度な、より多くの媒介を含む流通の諸形態にかんする経済学者たちの思弁がすべて、単純な金属流通についてどう考えるかにかかっているだけに、ますます重要となる。〉(草稿集③61-62頁)

《経済学批判》

  〈ブルジョア的生産の発展した段階では、蓄蔵貨幣の形成は、流通の種々の過程がその機構を自由にはたらかせるために必要とする最小限度に制限される。ここでそのものとしての蓄蔵貨幣になるのは--もしそれが諸支払の差額における超過の瞬間的な形態、中断された物質代謝の結果、したがって商品のその第一変態での硬化したものでないならば--、ただ遊休する富だけである。〉全集第13巻128-129頁)

《初版》

  〈ブルジョア的生産が発達している諸国は、銀行という貯水池に大量に集積された蓄蔵貨幣を、それの独自な諸機能に必要な最低限に、制限している(95)。若干の例外はあるが、蓄蔵貨幣という貯水池がそれの平均水準を越えて目立って溢れることは、商品流通の停滞あるいは商品変態の流れの中断を、示している(96)。〉(江夏訳141頁)

《フランス語版》

  〈生産が高度な発展に到達した諸国は、銀行の金庫に山と積まれた蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最低限に制限する(63)。若干の例外を除いて、この金庫が平均水準を越えて過度に充溢することは、商品流通の停滞あるいは商品変態の流れの中断の合図なのである(64)。〉(江夏・上杉訳127頁)


●原注113

《経済学批判》

  〈諸支払は、それとしてまた準備金を、支払手段としての貨幣の蓄積を必要とする。こういう準備金の形成は、もはや貨幣蓄蔵の場合のように流通そのものにとって外的な活動としても、また鋳貨準備の場合のように鋳貨のたんなる技術的停滞としても現われないで、むしろ貨幣が将来の一定の支払期日に手もとにあるように、だんだんに積み立てられなければならない。だから致富として考えられている抽象的形態での貨幣蓄蔵は、ブルジョア的生産の発達につれて減少するのに、交換過程によって直接に必要とされる貨幣蓄蔵は増加する、というよりはむしろ、一般に商品流通の領域内で形成される蓄蔵貨幣の一部分が、支払手段の準備金として吸収される。ブルジョア的生産が発達していればいるほど、この準備金はますます必要な最小限度に限られる。ロックは利子率の引下げについての彼の著作で、彼の時代のこの準備金の大きさについて興味ある説明をあたえている。この説明から、銀行制度が発達しはじめたばかりの時代に、イギリスでは支払手段の貯水池が一般に流通していた貨幣のどれほど大きな部分を吸収していたかがうかがい知られる。〉(全集第13巻125頁)

《初版》

  〈(95) これらのいろいろな機能は、銀行券にたいする兌換準備金の機能がつけ加わると、危険な衝突をひき起こすことがありうる。〉(江夏訳141頁)

《フランス語版》

  〈(63) これら種々の機能は、銀行券にたいする兌換準備金という機能が加わるやいなや、危険な衝突に陥ることがありうる。〉(江夏・上杉訳127頁)


●原注114

《初版》

  〈(96) 「国内商業にとって絶対に必要であるよりも多い貨幣は、死んだ資本であって、外国貿易において輸入されたり輸出されたりするばあいのほかは、この資本が保持されている国には、なんの利益ももたらさない。」(ジョン・ベラーズ、前掲書〔『貧民……にかんする論集』〕、12ページ。)「われわれが鋳貨を多くもちすぎたら、どうすればよいか? 最も重いものを溶解して、金銀製の華麗な皿や容器や台所用具に変えてもよいし、それを欲求しているところへ商品として送り出してもよいし、高利のところへ利子をつけて貸し付けてもよい。」(W・ペティ『貨幣小論』、39ページ。)「貨幣は、政治体の脂肪にほかならない。多すぎれば政治体の敏捷さを妨げることが多く、少なすぎれば政治体を病気にする。……脂肪が、筋肉の運動をなめらかにし、食料不足のときには栄養を補給し、平たくないくぼみをみたし、身体を美しくする。同様に、国家における貨幣は、国家の活動を敏活にし、国内が飢饉のときには国外から食物を取り入れ、勘定を決済し、……全体を美化する。とはいっても」、と皮肉に結んでこう言う。「貨幣をたくさんもっている特定の人々をさらにとりわけ美化するのであるが。」(W・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、14ページ。)〉(江夏訳141頁)

《フランス語版》

  〈(64) 「貨幣について言えば、国内商業のための絶対的必要を越えるものは、どれもこれも死んだ資本であって、この資本が保持されている国にはなんの利益ももたらさない」(ジョン・ベラーズ『貧民……にかんする論集』、13ページ)。「われわれが鋳貨をもちすぎたら、どうすれぱよいか? 最も重いものは熔解して、金銀製の華麗な皿か壷か器具に変えるか、または、それを欲求しているところに商品として輸出するか、または、利子をめあてに利子の高いところに預け入れるべきである」(W・ペティ『貨幣小論』、39ページ)。「貨幣は、いわば、政治体の脂肪にほかならない。多すぎれば政治体の敏捷さを害し、少なすぎれぱ政治体を病気にする。……脂肪が筋肉を滑らかにしてその運動を助け、栄養不足のときには体を養い、体のくぼみをみたし、体全体の姿を美しくするのと同じように、貨幣は、国家にあってはその活動を促進し、国内が飢餓のときは国外から食物をとり入れ、勘定を決済し、……全体を美化する」。ペティは皮肉にも付言する。「だが特に、貨幣を豊富にもっている個人を美化するのであるが」と(W・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、14ページ)。〉(江夏・上杉訳127頁)

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