『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(1)

2019-12-23 13:11:37 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(1)

 

 

◎生産手段の価値の移転問題(大谷新著の紹介の続き) 

 前回は、大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」のなかの「第10章 商品および商品生産に関するいくつかの問題について」の〈論点2 価値の「論証」という偽問題について〉を取り上げました。今回はその次の〈論点3 社会的必要労働時間による生産手段からの移転価値の規定について--置塩信雄氏の見解の検討--〉からです。ここで取り上げられている問題は、私が以前所属していた組織内でも大きな論争になった問題でもありますので、少し詳しく論じたいと思います。若干、長くなりますが、ご了解ください。 

  まず大谷氏は置塩氏の問題提起を次のように紹介しています。

  〈「だれでも知っているように,1つの商品の生産には生産財と労働の投入が必要である。その商品への投下労働は,直接に投下される労働だけでなく,生産財を生産するのに投下される労働をも加算されなくてはならない。ところが,生産財を生産するのにも,労働だけでなく生産財の投入が必要である,等々。こうして,議論は堂々めぐりをはじめる。/この「難問」をどう解決するか。これが解決しないがぎり,マルクスの体系は,私にとっては,砂上の楼閣であった。」(同書,4-5ページ。)   氏は,この「難問」は,「つぎつぎに過去にさかのぼってゆき,最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面まで戻って,こんどは逆に労働を加算する方法」では解決できないとされる。なぜなら,氏の考えでは,「マルクスの体系の基礎としての投下労働量は,過去にさかのぼっていかほどの労働が投下されたかではなく,現存の生産技術のもとでその商品を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないかが問題」なのだからである。〉 (454頁) 

  ここには二つの問題があるように思えます。
    (1)生産手段に投下された労働はそれを生産する生産手段に投下された労働を一部分含むというように、どんどん遡って計算される必要があるのかどうか、という問題。
    (2)生産手段に投下された労働量というのは、それを使って生産する時点の生産力に規定された投下労働量なのかどうか、という問題です。
    置塩氏は(2)の理由から(1)のようにどんどん遡っていくことは出来ないとします。そしてどうしても数学的方法が必要として数式を提示するのですが、その数式はここでは紹介は省きます。
    大谷氏の批判は、まず(2)に対するものです。それは次のようなものです。 

 原料の小麦の価値は,原料の小麦の播種以前に規定されていたのであって,それが生産に入り,生産物の小麦のなかに移転したのだからである。今年の生産に使われる原料の小麦の価値は,この小麦を生産した昨年の生産における社会的必要労働時間によって規定されているのである。〉 (456頁、太字は大谷氏による強調箇所)
 〈つまり生産手段の価値はそれが生産に入る以前に,それ以前の生産での社会的必要労働時間によって規定されているのだ,〉 (457頁)
   〈ただ,商品生産の場合には,価値とは労働生産物に,つまり人間の外部に存在する物に対象化したものであって,それは社会的必要労働時間によって決定されるということから,生産手段の価値も,それが生産過程に入るときの(それが生産物を生産し終えたときの,ではなく)社会的必要労働時間によって決定されるのであって,それが実際に生産されたときの社会的必要労働時間によって決定されるのではない,という独自の事情が付け加わるというわけである。この事情は,たとえば,充用されてきている機械が現在では社会的平均的にかつてよりもはるかに安価に生産されるために,いまでは,それから生産物のなかに移転する価値もわずかになってしまう,といったかたちで大きな問題をもたらすのであるが,だからと言って,生産手段からの移転価値も,新価値が創造される時点での社会的必要労働時間によって規定されると考えなければならないのだ,などということになるわけではない。〉 (458頁)
   〈このように見てくると,置塩氏のさきの「問題」そのものが,問題であることがわかる。すなわち,氏は,「マルクスの体系の基礎としての投下労働量は,過去にさかのぼっていかほどの労働が投下されたかではなく,現存の生産技術のもとでその商品を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないかが問題なのである」,と言われていたのであるが,「現存の生産技術のもとでその商品を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないか」というのは,まさに生きた労働の量について言われるべきことで,生産手段の価値については,これと区別して,「生産手段をその商品の生産に充用する前の時点での生産技術のもとでその生産手段を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないか」が問題なのである。この二つの時点がどんなに接近したものであったとしても,その先後関係は明確にされなければならないのであって,そうだとすれば,置塩氏の言われる「商品の投下労働量の決定」の式は,さきに見たように,t1=α1t1 +τ1 ではなくて,t1=α1t'1 +τ1 でなければならないということになり,氏の立論は意味をなさないものとなるのである。〉 (460頁) 

  出てくる数式は、これだけでは意味不明かも知れませんが、それはまあ問わないとして、以上が大体、(2)に対する大谷氏の主張です。最後の要約も同じ問題を論じていますので、前後しますがそれもついでに抜粋しておきましょう。 

  〈要約しよう。ある生産の生産物が他の生産に生産手段として入っていくという関係が,社会的にどんなに複雑に絡み合ったかたちで存在するとしても,生産手段が生産に入るときには,その価値はすでに与えられたものであって,その生産以前の時点で社会的必要労働時間によって規定されている。だから,生産手段の価値減価などの問題を考えるときには,その生産手段によって生産される生産物の完成の時点とほとんど同時的にそれの現在の価値を考えなければならないとしても,理論的には,それの生産が開始されるときにはすでにその生産手段の価値は決まっていたと考えなければならず,したがって,その時点は生産物の完成の時点よりも以前でなければならない。そうでなければ,生産物の完成の時点でようやく,生産物自身の価値ばかりでなく,生産手段の価値までも確定される,という奇妙なことになるのだからである。置塩氏の t1=α1t1 +τ1 とは,まさにこのような,生産物の価値と生産手段の価値との同時決定,あるいは相互依存的決定を表わす式である。この式は「商品の投下労働量の決定」の式ではあっても,商品の価値の規定を表わすものではありえない。〉 (460-461頁) 

  では(1)の問題についてはどうかというと、それについては大谷氏は次のように述べています(出てくる数式の説明はやりだすと大変になことになるので省略します)。 

 〈しかし,そうだとすれば,このt'1も,これに使用された小麦はその前年の小麦の価値によって規定されることになり,結局,「つぎつぎに過去にさかのぼってゆき,最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面まで戻って,こんどは逆に労働を加算する方法」(置塩氏)をとらざるをえないことにならないであろうか。そのとおりなのである。「原始的場面」であるかどうかはともかくとして,この小麦の事例では,生産物である小麦を原料に使用するかぎりは,まさにそのようにして,価値が決定されているということにならざるをえない。しかし,このことは,小麦の生産者が毎年こういう計算をしていることを意味するのではまったくない。彼は,年々,自分の小麦の価値を価格の形態ではっきりとつかんでいるのであって,翌年はそれにもとついて原料価格を考えればいいのだからである。〉 (457頁)

   このように大谷氏は生産手段の価値をどんどん遡って、生産手段の投入を必要としない原始的場面まで遡らざるを得ないということを、〈そのとおりなのである〉と肯定しています。同じ問題を論じている部分をさらに抜粋しておきましょう。 

  〈だが,一歩立ち止まって,置塩氏が言われる,「最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面まで戻る」ことがおかしいかどうかを見ておこう。
  およそ,生産物の生産費用としての抽象的労働を考えるかぎり,それのなかには生産手段の生産費用も含められなければならない。そうだとすれば,計算可能であるかどうかは別として--そしてじっさい計算できるかどうか,そのような計算が意味をもつかどうかはまったく別の問題である--,生産手段が労働生産物であり,それがまた労働生産物である生産手段を消費して生産されたものであるかぎり,生産物の生産費用には,それらの生産手段の生産に必要であった抽象的労働のすべてが入ると言わなければならない。それでは,その遡及はどこまでいってもきりがないか。いや,置塩氏が「最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面」なるものが,「原始的」であるかどうかはともかく,確実にあるはずである。なぜなら「道具をつくる動物」である人間も,どこかではじめて道具をつくるようになったのであって,そのときから,道具の生産に抽象的労働を,つまり費用をかけはじめたのだからである。にもかかわらず,それからあとも,人間はつねに生産のなかで人間の労働生産物ではない生産手段,つまりなんの生産費用もかかっていない生産手段を充用してきたし,現在でもそうである。すなわち,人間にとっての「天然の武器庫」である大地が供給する労働対象である。人間の最初の生産は,この大地が供給するがままの労働手段によって大地が与える労働対象を変形加工することであったはずである。そうだとすると,生産物を生産するどんな過去の労働も,結局は,生きた労働に帰着することにならざるをえない(第10.6図)。 (図は省略)
   これを価値について言えば,一切の旧価値が結局のところ,新価値の創造以前のどこかで創造された価値に帰着する,ということになる。ただし,その旧価値の大きさは,それを含んでいる生産手段が生産過程に入る前の時点での社会的必要労働時間によって決定されるのである。
 
  念のために言っておかなければならないが,ここで述べたことは,いわゆる「アダム・スミスのⅴ+mのドグマ」,つまり社会の総生産物の価値は全部収入に分解するという考え方が正しいということではない。むしろ逆に,これまで述べてきたように,さきの「原始的場面」を除けば(そして資本主義的生産では,およそそのような「場面」は問題になりようがない),どんな生産に用いられる生産手段も,その生産以前に生産されたものであり,それ以前に形成された価値を含んだ生産手段を前提する,ということである。そうだとすれば,年間の総生産物の再生産がどのように行なわれるか,ということを考察しようとするときは,前年度に生産されてすでに価値が規定されている総生産物を前提しなければならない。そしてこの生産物の一部が今年度生産手段として充用されるのである。だから,社会の総生産物が不変資本価値(c)--つまり生産手段の移転価値--を含んでいなければならないのであり,この点でスミスのドグマは誤っているのである。〉 (458-460頁) 

   私はこの問題を将来の社会では生産手段はその使用価値、そしてその物質的生産力(だからそれが生きた労働と結合する場合の技術的構成)だけが問題になり、それに過去に如何なる労働が支出されたか、ということは問題になり得ないと論じたことがあります(「林理論批判」という連載のなかで)。それを今すぐに思い出すことは出来ませんが、大谷氏は結局、生産手段に投下された労働量というものはどんどん遡らざるを得ないという結論らしいのですが、果たしてそれが正しいのかどうかが問題だと思います。
  ただこの問題は確かに"難問"なのであって、マルクスが書いた『資本論』の最後の草稿である第2部第8草稿のなかで(エンゲルス版では第20章第10節「資本と収入 可変資本と労賃」に該当する部分です。この部分は草稿では「単純再生産」の一番最後にあるのですが、エンゲルスがここに移したのです)、最初にわざわざ部門Ⅰ(生産手段の生産部門)のc(不変資本)を問題にすると断っておきながら(草稿にあるこの冒頭の文章はエンゲルスによって削除されていますが)、結局、途中から問題意識が逸れてⅠ 1000v(可変資本)とII(生活手段生産部門) 1000cの関係の問題に問題意識をそらしてしまった(あるいはそこからさらに展開する予定だったのかも知れませんが、それを途中で打ち切ってしまった)ことの、あるいは隠された理由ではないかと私は勘繰っているほどなのです。しかし大谷氏は大谷氏らしくそれについて真面目に回答しようとしているかのようです。しかしそれが果たして正しいのかどうかについては私は疑問を持っています。
 そもそも生産手段に対象化された過去の労働(つまりその価値)が、なぜ問題になるのかを考えてみる必要があります。それはそれらの労働が直接には私的労働として支出されたものであり、直接には社会的関係を持ったものとして支出されたものではないがために、それらの社会的関係が価値として(そしてその移転として)現われているものなのです。もし生産手段が前もって社会的に結びついた労働によって生産されたものなら、その生産手段にどれだけの労働が過去に支出されたのか(そしてそれが今日の生産物の中にどのように引き継がれるのか)というようことは問題にもならず、それらの使用価値だけが問題になり、それらを使って生産する過程での、生きた労働と結合するときの技術的条件(原料や機械等の生産手段の使用価値量と生きた労働量、だからその生産に割り当てられる労働力の数との割合)だけが問題になるだけなのです。
 このように考えたときに、生産手段の価値がどこまでいま現在の生産において問題になるのかということは、それらに支出された過去の労働と現在の生きた形で支出されるものとの社会的関係がどこまで問われるのかということと関連していることが分かります。確かに抽象的に考えるなら、生産手段の生産手段、さらにその生産手段の生産のための生産手段といくらでも無限に支出された労働を過去に遡ることは可能でしょう。そして究極的には大谷氏のいうように、最終的に生産手段を必要としない生産に行き当たると考えることも可能です。しかしそれは問題を単に抽象的に考えているからそうなるのであって、現実の生産過程やその社会的関係としてはそうしたものではありません。
 社会全体をみれば、生産物として存在するものは、その使用価値の具体的形態によって、①一つは消費手段であり(衣服など)、②その消費手段を生産するための生産手段であり(布や糸など)、③さらには生産手段を生産するための生産手段(綿花や機械など)です。使用価値の具体的な形態から考えるなら社会的にはこの三つのものしか存在しないのです(もっとも現実にはこれらの両者にまたがるものや、中間的なものもありますがそれらは今は捨象しておきます)。そして社会はそれらを年々再生産して社会的生産と生活を維持しているのです。そう考えれば、問題はまず社会の構成員の年々の消費を考えて、その経験にもとづく数値として、①が年々どれだけのものが生産物として生産される必要があるかが問題になり、そしてそれを生産する過程で②がどれだけ年々消費されるか(よって再生産される必要があるか)が問題になります。そしてそれらを再生産する過程で③がどれだけ年々消費されるか(よってまたその再生産が必要か)が問題になるだけなのです。そしてこれらはすべてそれぞれの使用価値に固有の数量が問われているだけであり、しかもそれを生産するために年間に支出される生きた労働の量だけが問われているだけなのです。だから、ここには過去の労働など入る余地はまったくないのです。そしてこれらは決して計算・計測不可能なものではありません。それらは年々の経験によって数値として出てきます。それぞれの生産分野の生産力(すなわち技術的構成)が分かっていれば、どれだけの生きた労働をそれぞれの生産分野に一年間に配分すべきかも分かってきます。だから生産手段の価値の移転分がどうで、そこにはさらに年を遡った過去の労働分がどれだけあるか、などという計算はまったく不必要なのです。詳しくは以前書いたものを参照してください(上記ブログを参照)。 

  やや大谷氏の新著の紹介が長くなりすぎましたが、前回の続きに取りかかりましょう。今回は第6パラグラフから、「c 鋳貨。価値章標」の最後までです。

 

◎第6パラグラフ(紙幣流通の独自の法則)

 

【6】〈(イ)1ポンド・スターリングとか5ポンド・スターリングなどの貨幣名の印刷されてある紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれる。(ロ)それが現実に同名の金の額に代わって流通するかぎり、その運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映するだけである。(ハ)紙幣流通の独自な法則は、ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけである。(ニ)そして、この法則は、簡単に言えば、次のようなことである。(ホ)すなわち、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである、というのである。(ヘ)ところで、流通部面が吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下に絶えず動揺している。(ト)とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最小限より下にはけっして下がらない。(チ)この最小量が絶えずその成分を取り替えるということ、すなわち、つねに違った金片から成っているということは、もちろん、この最小量の大きさを少しも変えはしないし、それが流通部面を絶えず駆けまわっているということを少しも変えはしない。(リ)それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き替えられることができるのである。(ヌ)これに反して、もし今日すべての流通水路がその貨幣吸収能力の最大限度まで紙幣で満たされてしまうならば、これらの水路は、商品流通の変動のために明日はあふれてしまうかもしれない。(ル)およそ限度というものがなくなってしまうのである。(ヲ)しかし、紙幣がその限度、すなわち流通しうるであろう同じ名称の金鋳貨の量を越えても、それは、一般的な信用崩壊の危険は別として、商品世界のなかでは、やはり、この世界の内在的な諸法則によって規定されている金量、つまりちょうど代表されうるだけの金量を表わしているのである。(ワ)紙券の量が、たとえば1オンスずつの金のかわりに2オンスずつの金を表わすとすれば、事実上、たとえば1ポンド・スターリングは、たとえば1/4オンスの金のかわりに1/8オンスの金の貨幣名となる。(カ)結果は、ちょうど価格の尺度としての金の機能が変えられたようなものである。(ヨ)したがって、以前は1ポンドという価格で表わされていたのと同じ価値が、いまでは2ポンドという価格で表わされることになるのである。〉

 

 (イ)(ロ) 1ポンド・スターリングとか5ポンド・スターリングなどの貨幣名の印刷されてある紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれます。それが現実に同名の金の額に代わって流通しているかぎり、それの運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映しているだけです。 

  1ポンドとか5ポンドなどの名称が印刷されている紙券が、国家によって外から流通過程に投げ込まれたとします。それらが現実に度量標準によって決められた同じ額だけの金に代わって通用するのなら、それらの運動はただ貨幣の流通法則に則っているだけです。つまりそれらの流通量は、流通する商品の価格総額と貨幣の流通速度に規定されることになります。
  ここでマルクスは〈紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれ〉と書いています。これを読んでどんなイメージを持つでしょうか? 国家が流通に投げ込むというのは、一つの比喩であって、実際には、国家が紙券を発行して、それで何らかの商品を購入するということです。それは歴史的には国家財政の支出のために租税収入の不足を補う形で、国家紙幣を発行して、それでさまざまな国家に必要な諸商品を購入したり、国家のためにさまざまな事業を行なう資本にその費用を支払ったり、あるいは国家に雇われている役員の給与を支払うわけです。それが紙幣が国家によって流通の外から投げ込まれるということの内容なのです。(ここで国家が発行した紙幣で何らかの商品を購入するだけではなくて、直接、紙幣で金を購入する、つまり紙幣と金貨や金地金と交換するということはないのか、という意見がありましたが、これはやはり無いのではないかと思います。紙幣はあくまでも流通手段に特化したものですが、金地金や金貨はそれ自体価値を持つものであり、蓄蔵も可能なものですから、それらの所持者がその時点で流通手段を必要としているときであればともかく、そうでなければそれを紙幣と交換するということはないのではないでしょうか。)
  ここで〈外から流通過程に投げこまれ〉とありますが、金鋳貨の場合は、現実の商品流通の過程に存在している金地金を、政府が鋳造した金貨と交換することによって、それは流通に出て行きます。だからそれは〈外から〉ではないことになります。
  本来の貨幣としての金そのものは、金産源地において他の諸商品との直接的な交換によって流通過程に入ってきます。マルクスはこの金産源地における金と他商品との直接的な交換を流通過程にあいている「穴」だと述べていました。その意味ではあるいはこれも流通過程の〈外から〉金が投入されるといえるのかも知れません。しかしいうまでもなく、金の生産には一定の社会的に必要な労働が支出されており、価値を持っています。産源地における直接的な交換は等価交換なのです。
  しかし国家紙幣の場合、それはただ国家が印刷機を回して作ったものであり、それ自体にはほとんど価値のないものです。政府はそれを政府の支出として何らかの商品の購入や役員の雇用等のために支出することによって流通に投じることになるわけです。この場合、紙幣は、流通の外から入ってきますが、しかし商品との等価交換として入ってくるわけではありません。ただ本来的に流通過程にその存在が前提されている流通手段としての金鋳貨を代理するものとして流通過程に入ってくるわけです。しかしそれが流通手段であるなら、そのGはW-Gの過程を経たGでなければなりません。しかし政府が発行する紙幣はそうしたものではありません。だからそれは〈外から〉流通過程に入ってくるといえるのかもしれません。しかし内容から考えるなら、現実の流通過程そのものにとっては〈外から〉とはいえません。なぜなら、それは本来的に流通過程にある金片の代わりに、それを代理するものとして流通するのだからです。しかし形式的にはやはり〈外から〉であり、だからこそそれは流通過程が必要とする金鋳貨の量以上に流通過程に投げ込むことができるわけです。そうなればそれは内容からみてもそれは〈外から〉になるといえます。
  いずれにせよ、現実に流通する金貨に代わって流通する限りでは(つまり紙券の量が流通に必要な金量の枠内にある限りでは)、紙券は貨幣の流通法則に規制されて流通することになるわけです。

   (ハ)(ニ)(ホ) 紙幣流通の独自な法則は、ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけです。そして、この法則とは、まさに次のことです。すなわち、紙幣の発行額は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないはずの量に制限されるべきだ、ということです。 

   先の場合には、紙券の運動には、貨幣流通の諸法則が反映されているとありましたが、ここでは〈紙幣流通の独自な法則〉というものが問題になっています。つまり紙券の流通にはそれに固有の法則があるというのです。ではそれはどんなものでしょうか。
  それは〈ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけで〉すが、〈紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである〉というものだそうです。
  しかしそもそも紙幣の発行量が紙幣が代理する金量の枠内に制限されているなら、それは貨幣流通の諸法則に規制されているということではなかったでしょうか。だからここで紙幣流通に独自なものとは、〈制限されるべきである〉というところにあるように思えます。つまり例え紙券がその制限を越えて発行されたとしても、それはその代理しなければならない貨幣量しか代理し得ないのだということです。それが紙幣流通の独自性なのです。例えば流通に必要な貨幣量が1000万ポンド・スターリングだった場合(この量は現実に流通する商品の価格総額と貨幣の平均的な流通速度によって決まってきます)、1ポンド券を例えば2000万枚発行したとしても、その紙券に書かれた額面では2000万ボンドになる紙券は、しかしただ1000万ボンド・スターリングの貨幣の代理として流通するだけだということなのです。つまり1ポンド券は実際には1ポンド金貨を代理していると言えず、その半分しか代理していないことになります。つまり1ポンド券は"減価"するのです。そしてそれによってその価格が実現される商品の価格が騰貴することでもあります。なぜなら商品の価値が同じなら、金鋳貨で1ポンドの商品は、1ポンドの紙券だと2枚必要になり、だから2ポンドと評価されることになるからです。これが紙幣流通の独自の法則なのです。 

  (ヘ)(ト)(チ)(リ) ところで、流通部面が吸収することのできる金量は、たしかに、ある平均水準の上下に絶えず動揺しています。けれども、ある与えられた国における流通する媒介物の量が、経験的に確認される一定の最小限よりも少なくなることはけっしてありません。この最小量が絶えずその成分を取り替えるということ、すなわち、つねに違った金片から成っているということは、もちろん、この最小量の大きさを少しも変えはしませんし、それが流通部面を絶えず駆けまわっているということをも少しも変えはしません。だからこそ、この最小量は紙製の象徴(シンボル)によって置き替えられることができるのです。 

  〈流通部面が吸収しうる金量〉というのは、流通する商品の価格総額と貨幣の平均的な流通速度によって決まってきますが、それは絶えず増減しています。しかしある国の流通する媒介物の量は、経験的には一定量よりも少なくなることはない最低限というものがあります。それはこの流通量がその社会の物質代謝の現実に規制されていることから出てきます。それはその社会が社会として維持して再生産されていくために必要最小限の量ということでもあるわけです。この必要最小限の金量というのは、それを構成するさまざまな金貨幣(金片)によって成り立っており、それらが絶えず入れ代わっていることも容易に想像できます。しかしそれを構成する諸部分がどんなに入れ替わっても、全体としての必要最小量というものは依然として存在しているというわけです。だからこの必要最小量のものについては、つねに流通手段としてだけ機能していることになりますから、紙製の象徴(ようするに紙券)と置き換えることできるということです。だからこの限りでは紙券の運動は貨幣の流通法則に規制されているといえます。 

  (ヌ)(ル) これとは反対に、もし今日すべての流通水路がその貨幣吸収能力の最大限度まで紙幣で満たされてしまったならば、これらの水路は明日、商品流通の変動〔すなわち流通に必要な貨幣総額の減少〕の結果、あふれてしまう、ということが起こりえます。およそ限度というものがなくなってしまうのです。 

  しかしもしその必要最小量の金量がすべて紙券によって置き換えられてしまった場合はどうなるでしょうか。そうなれば、必要最低金量の増減によっては、紙券がその枠を越えてしまうことにもなりかねません。必要最低金量が増大する場合は、紙券の不足分は金鋳貨が流通するでしょうが、減少する場合、紙券は流通必要金量より大きくなることになります。紙券の場合は金とは違って、流通に不要なものは流通から引き上げられるということがありませんから(なぜなら紙券には価値はほとんど無いですから、流通から引き上げられた紙券はただの紙屑になるからです)、相変わらず流通に留まり続け、結果として、流通に必要な金量より多い紙券が流通する事態が生じてきます。そうなると〈国家によって外から流通過程に投げこまれる〉ということから、歯止めが効かなくなります。つまり国家が紙幣を恣意的に流通必要最小限の金の量を越えて乱発することになりかねません。そうなると先に見た〈紙幣流通の独自な法則〉が問題になってくるわけです。 

  (ヲ) しかし、紙幣がその限度、すなわち流通できるはずの同じ名称の金鋳貨の量を越えても、それは、一般的な信用崩壊の危険が生じうるという危険を別とすれば、商品世界のなかでは、やはり、商品世界の内在的な諸法則によって規定されている金量、つまりそれが代表できるだけの金量を表わしているのです。 

   フランス語版ではここで改行しています。
   その〈紙幣流通の独自な法則〉というのは〈紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである〉というものでした。つまり紙幣の流通量が、例え流通に必要な最小の金量を越えたとしても、それは一般的な信用危機が生じる可能性を別にすれば、紙券はそのまま流通手段として流通しますが、しかしその代わりに商品世界で貫徹している法則が自己を貫徹するというわけです。つまり流通に必要な金量というのは、商品流通の法則そのものですから、結局、例え流通必要金量を越えて発行された紙券であっても、その必要量以上のものは代理できない、つまりその必要量しか代理できないということになるのです。 

  (ワ)(カ)(ヨ) 紙券の量が、たとえば金鋳貨であれば流通できるはずの総量の二倍になって、それぞれの紙券が本来のそれぞれ2オンスずつの金の代わってそれぞれ1オンスずつの金を表わすとすれば、事実上、たとえば1ポンド・スターリングは、おおよそ1/4オンスの金に代わっておおよそ1/8オンスの金の貨幣名となります。もたらされる結果は、金が価格の尺度としてのそれの機能において変更されたとした場合の結果と同じです。ですから、以前は1ポンドという価格で表わされていたのと同じ価値が、いまでは2ポンドという価格で表わされることになるのです。 

  だから例えば、金鋳貨であれば流通できるはずの総量の二倍の紙券が流通することになれば、それぞれの紙券が本来なら2オンスの金に代わって流通するものが、結局、それぞれが1オンスの金を代理して流通することになるわけです。ということは、事実上、1ポンド券は、1/4オンスの金に代わって、1/8オンスの金を代理していることになります。これは1ポンドが、1/4オンスの金の貨幣名ではなく、1/8オンスの金の貨幣名になるということと同じです。だから以前は1ポンドという価格で表されていた商品の価値が、いまでは2ポンドという価格で表されることになるのです。つまり商品の価格が騰貴するということです。
 『経済学批判』には次のような一文があります。 

 〈紙幣は正しい量で発行されるならば、価値章標としてのそれに固有でない運動をとげるのに、紙幣に固有な運動は、諸商品の変態からは直接に生じないで、金にたいするその正しい比率の侵害から生じる〉 (全集第13巻102頁) 

 つまり紙幣が正しい量、すなわち流通に必要な金量以上にならないような量で、発行されているならば、それは貨幣の流通法則に則っているだけですが、しかし商品変態に必要な金量を超えて発行されれば、紙幣に独自な運動が生じてくるということです。つまり“減価”する(それが代表する金量が減少する)ということです。

 

  (字数がブログの制限をオーバーしましたので、全体を3分割して掲載します。)

 

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『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(2)

2019-12-23 12:42:38 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(2

 

◎第7パラグラフ(紙幣は金量を象徴する金章標であり、その限りでの価値章標である)

 

【7】〈(イ)紙幣は金章標または貨幣章標である。(ロ)紙幣の商品価値にたいする関係は、ただ、紙幣によって象徴的感覚的に表されているのと同じ金量で商品価値が観念的に表わされているということにあるだけである。(ハ)ただ、すべての他の商品量と同じにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのである。84〉 

  (イ) 紙幣は金章標または貨幣章標です。 

  紙幣というのは、これまでの展開を振り返ってみれば分かりますように、金鋳貨が流通手段として流通する過程で磨滅し、その自体のシンボルとなるところから、シンボルなら別に金でなくてもというところから生じてきました。だからそれは金鋳貨の象徴かというと、そうではなく、磨滅した金鋳貨は度量標準で確定している一定量の金(これ自体は観念的なものです)の象徴なのです。つまりそれは金そのものの象徴(シンボル)、あるいは貨幣金の象徴なのです。 

  (ロ) 商品価値にたいする紙幣の関係は、ただ、紙幣によって象徴として感覚的に表されている金量で、諸商品の価値が観念的に表現されているということだけです。 

  では紙幣で表される諸商品の価格というものはどのように捉えればよいのでしょうか。諸商品の価値は、観念的な金によって、価格として表示されます。金がこのような価値を尺度する機能を持つのは、金そのものが価値を持つ一つの商品だからです。しかし紙幣それ自体には価値はほとんどありませんから、紙幣が直接諸商品の価値を尺度し価格として表示する機能があるわけではありません。だから紙幣による諸商品の価格表示というのは、度量標準で決められている金のある一定量(これ自体は観念的なものですが)を、紙幣が象徴しているからなのですが、さらに紙幣は、流通手段としての貨幣の機能を果すものですから、その観念的な金を感覚的に手で掴めるものとして象徴して表していることになります。だから紙幣は直接商品の価値ではなく、それを価格として表示する金量を、だから諸商品の価格を象徴しているということができるわけです。そしてこうした回り道を通って、それは諸商品の価値を表象しているということができるのです。 

  (ハ) 紙幣が、すべてのほかの商品量と同様にやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのです。 

 すなわち、他の諸商品と同じようにそれ自体価値をもつ金分量を紙幣が代理している限りで、紙幣は諸商品の価値の章標だもということができるわけです。 

  『経済学批判』から紹介しておきます。 

 〈鋳貨として機能する価値章標、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている金量の章標であり、したがって金章標である。一定量の金それ自身が価値関係を表現しないのと同じように、それにとって代わる章標も価値関係を表現しない。一定量の金が対象化された労働時間として一定の価値の大きさをもつかぎりでは、金章標は価値を代表している。しかし金章標によって代表される価値の大きさは、いつでもそれによって代表される金量の価値に依存している。諸商品にたいしては、価値章標はそれらの価格の実在性を代表するのであって、価格の章標〔signum pretii〕であり、それが諸商品の価値の章標であるのは、諸商品の価値がその価格に表現されているからにほかならない。過程W-G-Wでは、この過程が二つの変態のたんに過程的な統一または直接的な相互転化として現われるかぎり--そして価値章標が機能する流通部面では、それはこのようなものとして現われるのだが--、諸商品の交換価値は、価格ではたんに観念的な存在を、貨幣ではたんに表象された象徴的な存在を受け取る。こうして交換価値は、ただ考えられたもの、または物的に表象されたものとしてだけ現われるのであるが、しかしそれは、一定量の労働時間が諸商品に対象化されているかぎり、それらの諸商品そのもののほかには、なんらの現実性をももたないのである。だから価値章標は、金の章標としては現われないで、価格にただ表現されているだけで、ただ商品のうちにだけ存在する交換価値の章標として現われることによって、商品の価値を直接に代理しているかのように見える。だがこういう外観は誤りである。価値章標は、直接にはただ価格章標であり、したがって金章標であり、ただ回り道をして商品の価値の章標であるにすぎない。〉 (全集第13巻95-96頁) 

 また大谷禎之介著「貨幣の機能」(『経済志林』61巻4号)からも紹介しておきましょう。 

  〈紙幣は,正確には,金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする独自な関係は、商品の価値を観念的に表現している金量も、紙幣が象徴的感覚的に表している金量も、どちらも同じ金の量であり,どちらも社会的必要労働時間によって規定される価値を含んでいるのだ、ということにあるだけである。そのかぎりでは、金の章標は或る価値量を含む金の章標であるので、そこから、金の章標であるものは、また〈価値章標〉とも言われる。紙幣もまた価値章標である。〉 (279-280頁)
 

◎注84
 

【注84】〈84 第二版への注。(イ)貨幣のことについての最良の著述家たちでさえ、貨幣のいろいろな機能をどんなに不明瞭にしか理解していないかは、たとえばフラートンからの次の箇所に示されている。(ロ)「われわれの国内取引に関するかぎりでは、通常は金銀鋳貨によって果たされる貨幣機能のすべてが、法律によって与えられる人為的慣習的な価値のほかにはなんの価値もない不換紙幣の流通によっても同様に有効に遂行されうるということは、思うに、否定することのできない事実である。(ハ)この種の価値は、その発行高が適当な限度内に保たれていさえすれば、内在的な価値のすべての目的に役だてられることができ、また度量標準の必要をさえなくすことができるのである。」(フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、21ページ。〔岩波文庫版、福田訳、42ページ。〕)(ニ)つまり、貨幣商品は、流通のなかでは単なる価値章標によって代理されることができるのだから、価値の尺度としても価格の度量標準としても不要だというのである!〉

 

  (イ) 貨幣に関する最良の著述家たちでさえ、貨幣のいろいろな機能をいかにあいまいにしか理解していないかは、たとえばフラートンからの次の箇所に示されています。 

 この原注は第7パラグラフ全体に付けられたものです。ここで〈最良の著述家たち〉と言われているのは、フラートンが例に挙げられているようにいわゆる銀行学派を指しています。銀行学派の貨幣のとらえ方の問題点は『経済学批判』に次のように指摘されています(付属資料も参照)。 

  〈すべてこれらの著述家たち(トゥック、ウィルソン、フラートン等--引用者)は、貨幣を一面的にではなくそのさまざまな諸契機で把握してはいるが、しかしたんに素材的に把握しているだけで、それらの諸契機相互のあいだや、これらの諸契機と経済学的諸範疇の全体系とのあいだの生きた関連をすこしも見ていない。……総じてこれらの著述家たちは、まずもって、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程を経る諸商品それ自体の関連から生じてくるような抽象的な姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかでうけとる抽象的な諸形態規定性と、資本や収入〔revenue〕などのような、もっと具体的な諸関係をうちにかくしている貨幣の諸規定性とのあいだを、たえずあちこちと動揺するのである。〉 (全集第13巻161-162頁) 

  (ロ)(ハ) 「われわれの国内取引に関するかぎりでは、通常は金銀鋳貨によって果たされる貨幣機能のすべてが、法律によって与えられる人為的慣習的な価値のほかにはなんの価値もない不換紙幣の流通によっても同様に有効に遂行されうるということは、思うに、否定することのできない事実である。この種の価値は、その発行高が適当な限度内に保たれていさえすれば、内在的な価値のすべての目的に役だてられることができ、また度量標準の必要をさえなくすことができるのである。」(フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、21ページ。〔岩波文庫版、福田訳、42ページ。〕) 

 これはフラートンの著書からの引用だけですが、このフラートンの著書はなかなか興味深いものです。『資本論』第3部第5篇第28章のなかでもフラートンら銀行学派たちの主張する「通貨」や「資本」の概念の混乱が批判されています。 

  (ニ) つまり、貨幣商品は、流通のなかでは単なる価値章標によって代理されることができるのだから、それは価値の尺度としても価格の度量標準としても不要なのだ、というわけです! 

  銀行学派たちは、貨幣の抽象的な機能をそれ自体とし考察することができないから、価値章標(紙幣)の流通の根拠も分からないわけです。ただ彼らは紙幣が金鋳貨を代理して流通している現実を見るだけです。そこから彼らは貨幣(金)そのものはもはや不要であり、それによる諸商品の価値の尺度や価格の度量標準の機能そのものも不要だと主張するわけです。
 マルクスが引用している部分に続いてフラートンは次のようにも述べています。 

  〈真鍮板、皮革片、透模様付紙片、などはそれ自体として、商取引における等価物としての役割を演ずる資格を与えられるべき何らの価値をももたない物品である。しかるにこれらの物品のどれにでもとにかく特定のマークを押し、その発行数は対価に応じて限定し、これを貨幣と名付け、一切の公租公課の支払いに使用を許し、しかして何人も社会における普通取引に伴う一切の債務の支払いを果たすためにこの貨幣を十分準備すべきことを法律をもって強制するとしよう。しからば社会はこの貨幣に対して、直ちに、その内的特徴からまったく独立した、かつまたこれに対して向けられる需要と確実に比例関係に立つところの、一つの交換価値をば与えることとなる。ヨーロッパ大陸諸国における政府の発行する紙幣はまさにこの種類のものであって、ほんとどいかなる場合においても、これら紙幣にたいする信用は、それらが究極において鋳貨に兌換されるであろうという期待にはまったく由来していないのである。〉(阿野季房訳、改造選書、39頁)

 

◎第8パラグラフ(なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理できるのか)

【8】〈(イ)最後に問題になるのは、なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理されることができるのか? ということである。(ロ)しかし、すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。(ハ)ところで、この機能の独立化は、摩滅した金貨がひきつづき流通するということのうちに現われるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行なわれるのではない。(ニ)金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通しているあいだだけのことである。(ホ)しかし、一つ一つの金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって代理されることができる最小量の金にはあてはまるのである。(ヘ)この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。(ト)だから、その運動は、ただ商品変態W-G-Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのである。(チ)商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。(リ)それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。(ヌ)それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。(ル)いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。(ヲ)商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである 83。(ワ)しかし、貨幣の章標はそれ自身の客観的に社会的な有効性を必要とするのであって、これを紙製の象徴は強制通用力によって与えられるのである。(カ)ただ、一つの共同体の境界によって画された、または国内の、流通部面のなかだけで、この国家強制は有効なのであるが、しかしまた、ただこの流通部面のなかだけで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。〉

 

  (イ) 最後に問題になるのは、なぜ金は自分自身のたんなる無価値な章標によって置き換えられることができるのか? ということです。 

  私たちは金鋳貨がその流通のなかで磨滅して、それ自身の象徴になり、よって金以外の物によって置き換えられ、最終的にほとんど価値のない紙幣によって象徴され置き換えられる過程を見てきました。これらは磨滅した金鋳貨が、流通手段として機能する限りでは、完全量目の金鋳貨と同じようにその機能を果すことができることから生じています。つまり金鋳貨は磨滅したから流通するのではなく、流通するから磨滅したのです。ではどうして磨滅した金鋳貨が一定の限界内では流通手段として機能し続けられるのかという問題が最後に片づけねばならない課題として出てきます。 

  (ロ) しかし、すでに見ましたように、金がそのように置き換えられることができるのは、ただ、鋳貨または流通手段としている金が孤立化または自立化されるかぎりででしかありません。 

  しかしその問題は、すでに私たちが検討してきた過程そのもののなかに解決があります。金鋳貨というのは、貨幣としての金が流通手段としての機能を果す上での技術的な問題から生じてきました。貨幣金が流通手段としての機能を果たすためには、その金の純度や重量を正確に秤量する手間が生じます。金鋳貨とは一定の金量を鋳造して、そこに刻印してその純度と重量を保証するものです。それによって生じる手間を省いて流通手段としての機能を容易に果たすことができるようにしたものです。すなわち金鋳貨は、貨幣(金)が流通手段としての機能を果すために特化したものと言うことが出来るのです。これが金が〈流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化される〉ということの内容なのです。だからまた金鋳貨の象徴化や他の金属や紙幣によって代理されるという性格も、その流通手段としての機能そのものから生じているといえるわけです。 

  (ハ)(ニ)(ホ) ところで、この機能の自立化は、摩滅した金片がさらに流通しつづけるというかたちで現われるとしても、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について生じるわけではありません。というのも、もろもろの金貨がたんなる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それらが現実に流通しているあいだだけのことだからです。けれども、一つ一つの金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって置き換えられることのできる最小の総量の金にはあてはまるのです。 

  流通手段という機能に特化したものだからこそ、磨滅した金鋳貨でもその機能を果すことができたのですが、しかしそれは一つ一つの金鋳貨について生じているわけではありません。一つ一つの金鋳貨なら流通から引き上げられることもありえます。それらは流通に入ったりそこから引き上げられたりしているわけです。そうした個々の金鋳貨ではなく、私たちが問題にしているのは流通過程で流通し続けている金鋳貨全体に対してであって、そうしたものについてそれは言いうるのです。絶えず流通過程にあって流通し続けている金鋳貨というものは、ある国においてはその最低限の量というものがあります。必ずこれだけは流通のなかに留まり続けているという分量です。そしてこの常に流通に留まり続けている金鋳貨については、それは流通手段としてだけ機能しているのですから、別のものによって、すなわち紙幣によって置き換えることができるということなのです。 

  (ヘ)(ト) この最小量の総量の金は、つねに流通部面に住んでいて、不断に流通手段として機能し、したがってもっぱらこの機能の担い手として存在しているのです。ですから、それの運動は、ただ商品変態W-G-Wの対立する諸過程が継続的にたがいに転換していることを表わしているだけす。これらの過程では、商品にその価値姿態が向かい合ったかと思えば、それはまたすぐに消えてしまうのです。 

  この流通過程に留まり続けている最小量の金の総量については、常に流通過程にあって、不断に流通手段としてのみ機能しいるといえます。そしてその運動とは、私たちが商品の変態のところで見ましたように、W-G-Wの対立する過程を媒介しています。ここでは商品は、販売されればすぐに消費過程に落ちていきますが、貨幣は常に流通過程に留まり続けるものとし現われてきました(久留間鮫造の図を参照)。しかしそれを私たちはあくまでも商品の変態として考察したのでした(商品が主体)。まず商品の運動があって、そしてその反映として貨幣の運動があったのです。 

  (チ)(リ)(ヌ) 商品の交換価値の自立的な表示は、ここではただつかのまの契機でしかありません。それは、またすぐに、ほかの商品にとって代わられます。だからこそ、貨幣をたえず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣のたんに象徴的な存在でも十分なのです。 

  W-G-WにおけるGはWの交換価値の自立的な存在です。しかしそれは束の間の契機でしかありせん。なぜならW-Gを経た商品の価値は、すぐさまG-Wによって別の商品へと変態しなければならないからです。そしてその結果が貨幣が絶えず人の手から別の人の手へと遠ざかる運動が生じていたのです。それが貨幣の通流であり、貨幣の流通手段としての機能だったのです。
  だから商品の変態であるW-G-Wの過程における一時的な存在であるGは、商品交換の当時者が互いに納得するなら貨幣のたんなる象徴でも十分可能なのです。 

  (ル) いわば、貨幣の機能的な存在が貨幣の物質的な存在を吸収するのです。 

  だから流通手段としての貨幣の機能だけであるなら、つまり諸商品の交換を媒介するためだけのものなら、そのGは別に金に拘る必要はないということになります。これはいわば貨幣の流通手段としての機能的存在が、その物質的存在を吸収したともいえます。 

  (ヲ) 貨幣は、それがもろもろの商品価格の瞬間的に客体化された反射であるときには、ただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた、章標によって置き換えられることもできるのです。 

  W-G-WにおけるGが、諸商品の価格をただ瞬間的に客観的に写し出し表示するものだけであるなら、それは貨幣を標章するだけでもよいですから、だから標章によって置き換えられるのです。 

  (ワ)(カ) ただし、貨幣の章標は、それに固有の客観的社会的な効力を必要とします。そして、紙製のシンボルがこれを受け取るのが、強制通用力によってなのです。この国家強制が有効なのは、ただ、一つの共同体組織の境界によって画された、すなわち国内の、流通部面のなかだけなのですが、しかしまた、この流通部面のなかだけでは、貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能のなかに埋もれてしまい、したがってまた、紙幣というかたちで、その金属実体から外的に分離された、たんに機能的な存在様式を受け取ることができるのです。 

  W-G-Wにおいて、W-Gで商品の販売者がGの代わりに章標である紙幣を受け取るのは、その次に彼がそのGの代理物である紙幣で、G-Wの過程を確実に実行できると確信しているからにほかなりません。つまり交換当事者たちが互いの共通の意志としてそうした過程を認め合っていることが必要です。つまり販売者が貨幣の代わりにそのシンボルを受け取るのは、そうした社会的了解があってこそです。すなわちそこに強制通用力が働いているからなのです。そして国家がそれを保証したものが国家紙幣です。国家紙幣は、一つの共同体組織の枠内に限られたものですが、しかしまた国内の流通部面のなかでは、貨幣はただ流通手段の機能を果すだけですから、だからそれは紙幣によって置き代えられ、その金属実体から国家によって外的に分離されて、ただ流通手段という機能を果すだけのものとしての存在を受け取るのです。 

  この部分に該当する大谷氏の説明を紹介しておきましょう。 

  〈ここでは、磨滅金貨は、仮象の金--つまり、一見それだけの金に見えるが実際にはそれだけの金ではないもの--として、完全な鋳貨の機能を果し続ける。ほかの商品は、外界との摩擦によってすり減れば、それの理想的な平均見本には及ばないものと見なされるようになるのに,鋳貨だけは,流通のなかで摩滅することによって--すぐあとで見るように,その摩滅が或る限度を越えないかぎりは--,逆にいわば「理想化」されて,金という身体の仮象の定在に転化されるのである。
  このようなことが可能であるのは,なぜであろうか。それは,商品の売り手がこの磨滅に気づいていたとしても、それでもなお、磨滅した鋳貨を、磨滅していない完全量目の鋳貨と同じものとして受け取る、という事実から推測できる。すなわち、この販売ののちにほどなく買い手としてその鋳貨で商品を買うことを予定しており、しかも、彼が買い手として商品を購入するさいに、磨滅した鋳貨が完全量目の鋳貨として通用することが確実であるかぎり、そのような鋳貨を受け取ることになんの問題もないのである。
 しかし,もし彼がこの販売ののちにその鋳貨を価値の自立的な定在として、つまり価値のかたまりとして保蔵するとしたら,どうであろうか。明らかに彼は,完全量目の鋳貨でなければ、受け取ることをいやがるであろう。そのような役割を果たす貨幣を,のちに見るように、蓄蔵貨幣と言うのであるが,摩滅した鋳貨は蓄蔵貨幣とはなりえないのである。   それにたいして,摩滅した鋳貨でも,諸商品の流通を媒介するものとして商品所持者の手から手へと流れていく流通手段の機能は果たすことができるのである。それはなぜか。   流通手段の機能を果たす金もW-Gから次のG-Wに移るまでに、売り手の手のなかで長かれ短かかれ休止しなければならないし、そのあいだはGは商品の価値姿態であり、価値を自立的に表示しているのであるが、そのような価値姿態、価値の自立的な表示は、一時的なものであって、次の購買によってすぎに消えてしまうものでしかない。だからこそ、 金が流通手段として機能するだけなら,それは貨幣のたんに象徴的な存在でも十分なのである。つまり,摩滅した鋳貨の流通は,金が流通手段または鋳貨としてだけ機能するものとして自立化させられていることを表わしているのである。
  その場合,注意が必要であるのは,そのような流通手段機能の自立化は,流通界にある摩滅した鋳貨の全体について生じているのであって,一つ一つの金鋳貨についてではない,ということである。商品の売り手は,自分が受け取る鋳貨にかぎって,それがいくらか摩滅していても,自分の購買にさいして完全な鋳貨と同じく受け取られるであろう,と推測するのではけっしてない。彼は,その種の鋳貨が通用する流通部面、つまり国内流通で一般的に,摩滅した鋳貨でも完全な鋳貨として受け取られることを知っているから,自分もそれを受け取るのである。流通手段機能の自立化は、国内流通で現実に流通している鋳貨の全体について生じるものであること、このことは、のちに不換紙幣流通下のインフレーションを見るときに重要な意味をもつことになる。〉 (「貨幣の機能」272-274頁)
 

◎注85
 

【注85】〈85 (イ)金銀が、鋳貨としては、またはただ流通手段だけとしての機能においては、それ自身の章標になるということから、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」〔"to raise money"〕政府の権利を導きだしている。(ロ)すなわち、たとえばグロッシェンと呼ばれる一定量の銀に、ターレルというようなもっと大きな銀量の名称を与え、こうして債権者にはターレルのかわりにグロッシェンを返済する、というようにである。(ハ)「貨幣は、何度も数えられることによって、摩滅して軽くなる。……(ニ)人々が取引のさいに気をつけるのは、貨幣の名称と通用力とであって、銀の分量ではない。……(ホ)金属を貨幣にするものは、金属にしるされた公の権威である。」(N 。バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、29、30、25ページ。)〉 

  (イ) 金銀が、鋳貨としては、あるいは流通手段としてだけの機能では、自分自身の章標になる、ということから、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」〔"to raise money"〕政府の権利を導きだしています。 

  この原注は〈商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである〉という一文につけられたものです。
  つまりこの原注は貨幣が流通手段としての機能に限定されるなら、その章標によって代理できるということから、あたかも通貨の名称を名づけることを変えれば、貨幣の価値を高めることができると主張したバーボンを紹介したものだといえます。
  ニコラス・バーボンについては、すでに一度紹介したことがありますが(№16)、もう一度『資本論辞典』から簡単に紹介しておきましょう。 

  〈バーボンNicholas Barbon (c.I640-1698)イギリスの医者・経済学者.……主著としては《A Discourse of Trade》(1690) (久保芳和訳)と《A Discourse concerning Coining the New Money Lighter》(1696)があるが.前著では国富としての金銀の重視をしりぞけ,貴金属の輸出にたいする重商主義的統制に反対し,過度の節約をいましめて国際分業と貿易の自由を主張した.後著では当時やかましく論議された時事問題たる貨幣改鋳の問題にかんしてロックの軽鋳反対論を論駁し. 軽鋳の利を説いた.……マルクスは使用価値および価値にかんしてバーボンが先駆者的卓見をもっていたことに注目しているが, しかし他方では,商品価格は流通手段の分量によって規定されるとなすグァンダーリントやヒュームと共通した幻想をいだいていたとの批判をも記している。 (久保芳和)〉(533-534頁) 

  (ロ) すなわち、たとえばグロッシェンと呼ばれる一定量の銀に、ターレルというようなもっと大きな銀量の名称を与え、こうして債権者にはターレルのかわりにグロッシェンを返済する、というようにです。 

  バーボンの「貨幣の価値を高める」政策というのは、グロッシェンと呼ばれる一定量の銀に、ターレルというもっと大きな銀量の名称を与えて、債権者にはターレルの代わりにグロッシェンを返すということだそうです。
 グロッシェンというのは、シリングの100分の1を表す補助単位だそうで、ターレルというのは大型銀貨のことで、国や歴史によってさまざまですが、ターレルはターラーともいわれ、これがダラー、ドルとなって、今のアメリカの貨幣の名称のドルもここから来ているということです。 

  (ハ)(ニ)(ホ) 「貨幣は、何度も数えられることによって、摩滅して軽くなる。……人々が取引のさいに気をつけるのは、貨幣の名称と通用力とであって、銀の分量ではない。……金属を貨幣にするものは、金属にしるされた公の権威である。」(N 。バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、29、30、25ページ。) 

  貨幣は流通手段としての機能においては、その章標によって置き換えることができるということから、だから問題なのは、その貨幣の金属実質ではなく、政府が与える金属に記された名称であり、それを通用させる公の権威なのだというのです。だからグロッシェンと呼ばれている銀に、ターレルというもっと重い銀の名称を付けて、そして政府の債務を返済するときに、ターレルで借りた債務を、ターレルと名づけられたグロッシェンで返せばよいというのです。なるほどこれだと政府は丸儲けですが、しかしそのような政府の国債を買うものは誰も現われなくなることだけは確かでしょう。

  (【付属資料】は(3)に掲載します。)

 

 

 

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『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(3)

2019-12-23 12:11:22 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(3)

  

 【付属資料】 

 

●第6パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈補助通貨〔subsidiary currency〕では、流通手段としての流通手段が、つまりたんに瞬過的な手段としての流通手段が、同時に等価物であり諸価格を実現し自立的な価値として蓄積される流通手段のほかに、一つの特殊的存在を取るのである。つまりこの場合、純粋な章標という存在である。だからそれは、それの蓄積をもたらすことのまったくありえない小規模な小売取引に絶対に必要とされる量が発行されさえすればよい。その量は、それを流通させる諸価格の総額をそれの速度で割ったものによって規定されざるをえない。ある大きさの価値をもつ、流通する媒介物の総額はそうした諸価格によって規定されているので、その帰結として自ずから次のことがでてくる。すなわち、もしも流通そのものが必要とする量よりも大きな量〔の流通媒介物〕が人為的に流通に投入され、しかもそこから流れ出ることができないのであれば(こういうことがここで生じるのは、流通媒介物が、流通手段としてはそれの内在的価値を上回っているからなのではない)、それは減価する、ということである。それは、量が諸価格を規定するのではなくて、諸価格が量を規定しており、したがって特定の価値をもった一定量しか流通のなかにとどまることができないからなのである。だから、流通にそれが過剰な量を放出できるような開口部がなく、流通する媒介物が自己の形態を流通手段としての形態から独立した価値の形態に転化できなければ、流通手段の価値は低下せざるをえない。しかし、こういうことが生じるのは、溶解の禁止、輸出の禁止、等々のような人為的な障害の場合のほかは、流通する媒介物が章標にすぎなくて、それ自身は自己の名目価値に対応する実質価値をもたず、したがって流通する媒介物の形態から商品一般の形態に移行して自己の刻印を拭いさることができない場合だけ、すなわち、それが自己の鋳貨としての存在に呪縛されている場合だけである。他方、で、さきのことの帰結として次のことがでてくる。すなわち、章標、つまり貨幣票券〔Geldmarke〕は、それがただ、流通手段そのものが流通するとした場合の量の流通手段だけを代表している、というかぎりで、自己の代表している貨幣の名目価値で--それ自身のなんらかの価値をもっていなくても--流通することが、できるのだ、ということである。しかしその場合には、同時に次のどちらかのことが条件となる。すなわち、その場合に章標そのものが少量しか存在しないので、それが補助的な形態でしか流通せず、したがって一瞬たりとも流通手段であることをやめず(この場合それはたえず、一部は少量の商品との交換で、一部はたんに現実の流通手段にたいして釣り銭を出すのに役立っている)、だから蓄積されることがまったくありえない、ということか、それとも、章標が価値をまったくもってはならないので、それの名目価値がその内的価値と比較されることがありえない、ということである。後者の場合には、それはたんなる章標として措定されているのであって、それは自己自身によって、自己の外に存在するものとしての価値を指し示しているのである。他方の場、それの内的価値がそれの名目価値と比較され始めるようになることはけっしてない。〉(草稿集②675-677頁)

《経済学批判》

  〈無価値の表章が価値章標であるのは、ただそれが流通過程の内部で金を代理するかぎりだけのことであり、そしてそれが金を代理するのは、ただ金そのものが鋳貨として流通過程にはいりこむであろうかぎりだけであり、この金の量は、諸商品の交換価値とそれらの変態の速度とがあたえられていれば、それ自身の価値によって規定される。5ポンド・スターリングの額面の紙券は、1ポンド.スターリングの額面の紙券の枚数の5分の1でだけしか流通しないであろうし、またすぺての支払がシリング券でなされるとすれぽ、ポンド券の20倍の枚数のシリング券が流通しなけれぽならないであろう。金鋳貨がいろいろな額面の紙券、たとえば5ポンド券、1ポンド券、10シリング券によって代理されるとすれば、これらのいろいろな種類の価値章標の量は、総流通に必要な金の量によって規定されるだけでなく、それぞれ特殊な種類の価値章標の流通範囲のために必要な金の量によっても規定されるであろう。もし1400万ポンド・スターリング(これはイギリスの銀行立法の前提であるが、ただし鋳貨についての前提ではなく、信用貨幣についての前提である)が一国の通貨がそれ以下にはけっして下がらない水準であるとすれば、それぞれが1ポンド・スターリングをあらわす価値章標である1400万枚の紙券が流通しうるであろう。金の生産に必要な労働時間が減少または増加したために、金の価値が低下または上昇したとすれば、流通するポンド券の枚数は、商品総量が同じでその交換価値がもとのままであれば、金の価値変動に反比例して増減するであろう。価値の尺度としての金が銀にとって代わられ、銀と金との比価が1対15であり、今後は各紙券は、いままで金を代理していたときと同じ量の銀を代理するものとすれば、これからは1400万枚の代わりに2億1000万枚のポンド券が流通しなければならないであろう。だから紙券の量はそれが流通のなかで代理する金貨幣の量によって規定され、紙券は金貨幣を代理するかぎりでだけ価値章標であるから、紙券の価値は単純にその量によって規定されるのである。だから流通する金の量は商品価格に依存するのに、流通する紙券の価値は逆にもっぱらそれ自身の量に依存する。
  強制通用力をもつ紙幣--われわれはただこの種の紙幣だけを論じるのだが--を発行する国家の干渉は、経済法則を揚棄するように見える。国家は鋳造価格では一定の金重量に洗礼名をあたえただけであり、貨幣鋳造では金に自分の極印をおしただけであったが、この国家はいまやその極印の魔術によって紙を金に転化するように見える。紙幣は強制通用力をもっているから、国家が思うままに多数の紙幣を強制流通させ、1ポンド、5ポンド、20ポンドといった任意の鋳貨名をそれらに極印するのを、だれも妨げることはできない。ひとたび流通にはいった紙券は、これを流通から投げだすことは不可能である。なぜなら、その国の境界標がその進路をとどめるだけでなく、紙券は流通の外では、すべての価値を、使用価値をも交換価値をも失うからである。その機能上の定在から切り離されると、紙券はなんの価値もない紙くずに転化する。けれども、国家のこのような権力は、たんなる見せかけにすぎない。国家は任意の鋳貨名をもつ任意の量の紙券を流通に投げこむごとができるであろうが、しかし、この機械的行為とともに国家の統制は終わる。流通にまきこまれると、価値章標または紙幣は、それに内在する諸法則に支配されるのである。
  もし1400万ポンド・スターリングが商品流通に必要鋤な金の総額であって、国家がそれぞれ1ポンドの名称をもつ2億1000万枚の紙券を流通に投じたとすれば、この2億1000万枚は1400万ポンド・スターリングの金の代理者に転化されたことになろう。これはちょうど国家がポンド券を以前の15分の1の価値しかない金属の代理者にしたか、または以前の15分の1の重量しかない金の代理者にしたのと同じであろう。価格の度量標準の名づけ方以外にはなにひとつ変わらなかったであろうが、この名づけ方はもちろん慣習的なものであって、それが鋳貨の品位の変動によって直接に生じようとも、新たなより低い度量標準にとって必要な数だけ紙券が増加することによって間接に生じようとも、どちらも同じことである。ポンドという名称はいまやいままでの15分の1の金量を示したのであるから、すべての商品価格は15倍に騰貴し、いままで1400万枚のポンド券が必要であったのとまったく同じように、いまでは実際に2億1000万枚のポンド券が必要となるであろう。価値章標の総額が増加するのと同じ割合で、それぞれ1枚の章標の代理する金の量は減少するであろう。価格の騰貴は、価値章標がその代理として流通すると称する金の量にこの価値章標をむりやりに等置する流通過程の反作用にすぎないであろう。
  イギリスやフランスでの政府による貨幣変造の歴史では、価格が銀鋳貨の変造と同じ割合では騰貴しなかったことがしばしば見うけられる。これはまったく、鋳貨が増加された割合が、それが変造された割合に相応しなかったからであり、つまり諸商品の交換価値は、今後は価値の尺度としてのこの低い価値の合金で評価され、この低い度量単位に相応する鋳貨によって実現されるはずであったのに、この合金がそれに相応する数量だけ発行されなかったからである。このことは、ロックとラウンズとの論争で解決されなかった困難を解決する。紙券であろうと、変造された金や銀であろうと、価値章標が鋳造価格にしたがって計算された金や銀の重量を代理する割合は、それ自身の材料によって決まるものではなく、流通にあるその量によって決まるのである。この関係を理解するうえでの困難は、貨幣が価値の尺度および流通手毅としての二つの機能においては、たんに反対の諸法則に従っているだけでなく、この二つの機能の対立に一見矛盾するような法期に従っている、ということから生じるのである。貨幣がただの計算貨幣としてだけ役だち、金がただ観念的な金として役だつにすぎない価値の尺度としての貨幣の機能にとっては、すべてがその自然的材料にかかっている。交換価値は、銀で評価された場合、つまり銀価格としては、金で評価された場合、つまり金価格としてのそれとは、いうまでもなくまったく違ったものとしてあらわされる。逆に貨幣がたんに表象されているだけでなく、現実的な物として他の商品とならんで存在しなければならない流通手段としての貨幣の機能においては、その材料はどうでもよいのであって、すべてはその量にかかっている。度量単位にとっては、それが1ポンドの金であるか、銀であるか、それとも銅であるかが決定的である。ところが、鋳貨にあっては、それの数だけが、その鋳貨をこれらおのおのの度量単位の適当な実現とするのであって、鋳貨自身の材料がなんであろうとかまわない。しかし、ただ考えられただけの貨幣にあっては、すぺてがその物質的な実体にかかり、感覚的に存在する鋳貨にあっては、すぺてが観念的な数的関係にかかるというのは、常群識には矛盾することである。
  だから紙券の数量の増減--紙券が唯一の流通手段をなしている場合のそれ--にともなう商品価格の騰落は、流通する金の量は商品の価格によって規定され、流通する価値章標の量は、それが流通で代理する金鋳貨の量によって規定されるという法則が外部から機械的に破られた場合に、流通過程によってむりやりになしとげられたこの法則の貫徹にほかならない。だから他方では、どんな任意の数量の紙券でも流通過程によって吸収され、いわば消化される。なぜなら、価値章標は、それがどういう金名義をもって流通にはいりこもうとも、流通の内部では、その代わりに流通できるはずの金量の章標にまで圧縮されるからである。
  価値章標の流通では、現実の貨幣流通のすぺての法則があべこべに逆立ちして現われる。金は価値をもつから流通するのに、紙券は流通するから価値をもつのである。商品の交換価値があたえられていれば、流通する金の量はそれ自身の価値によって決まるのに、紙券の価値は流通するその量によって決まる。流通する金の量は商品価格の騰落につれて増減するのに、商品価格は流通する紙券の量の変動につれて騰落するように見える。商品流通はただ一定量の金鋳貨を吸収することができるだけであり、したがって、流通する貨幣の交互の収縮膨張が必然的な法則として現われるのに、紙券はどんなに増加しても流通にはいりこむように見える。国家は、その名目上の実質〔純分〕よりわずか100分の1グレーンだけ少ない鋳貨を発行しても、金銀鋳貨を変造したことになり、したがって流通手段としてのその機能を妨げることになるのに、鋳貨名のほかには金属となんの関係ももたない無価値な紙券の発行については、まったく正しい操作をおこなうことになる。金鋳貨は明らかに、商品の価値そのものが金で評価され、または価格としてあらわされるかぎりでだけ、商品の価値を代理するのだが、価値章標は、商品の価値を直接に代理するように見える。このことから、貨幣流通の諸現象を一面的に強制通用力をもつ紙幣の流通に即して研究した観察者たちが、なぜ貨幣流通のすべての内在的法則を誤解せざるをえなかったかが明らかとなる。じっさい、これらの諸法則は、価値章標の流通においては、ただ逆さまに現われるだけではなく、消え去ったように見えるのである。なぜなら、紙幣は正しい量で発行されるならば、価値章標としてのそれに固有でない運動をとげるのに、紙幣に固有な運動は、諸商品の変態からは直接に生じないで、金にたいするその正しい比率の侵害から生じるからである。〉(全集第13巻98-102頁)

《初版》

  〈1ポンド・スターリング、5ポンド・スターリング等々のような貨幣名が印刷されている紙幣が、国家の手で外部から流通過程のなかに投げ込まれる。それが同名の金の額に代わって現実に流通するかぎり、それの運動に反映するものは、貨幣流通そのものの諸法則でしかない。紙幣流通の独自な法則は、金にたいする紙幣の代表関係からのみ生じうる。そして、この法則はたんに次のようなことである。すなわち、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされている金(または銀)が、現実に流通しなければならない量に制限されるべきだ、ということ。ところで、流通部面が吸収しうる金量は、確かに、ある平均水準の上下に絶えず動揺している。とはいうものの、与えられた一国内で流通しつつある媒介物の量は、経験的に確定されているある最低限以下には、けっして下がらない。この最低量が、絶えずその成分を取り替えるからといって、すなわち、いつもちがう金片から成り立っているからといって、もちろん、この最低量の大きさは少しも変わらないし、それが流通部面を絶えず駆けめぐる事情も少しも変わらない。だから、この最低量は、紙幣象徴で置き換えることができる。これに反して、すべての流通水路が今日、それの貨幣吸収能力の限度いっぱいまで紙幣でみたされていれば、これらの水路は明日には、商品流通の動揺の結果あふれることもありうる。限度がなにもかも失われてしまう。だが、紙幣がその限度、すなわち、流通しうる同じ名称の金鋳貨の量を越えても、紙幣は、一般的な信用崩壊の危険は別として、商品世界の内部では、やはり、この世界の内在的諸法則によって規定されている金量しか、したがってまた、ちょうど代表されうるだけの金量しか、表わしていないのである。紙券の量が、たとえば1オンスずつの金の代わりに2オンスずつの金を表わすならば、それの貨幣名たとえば金1/4オンス当たり1ポンド・スターリングという貨幣名が、事実上は、金1/8オンス当たり1ポンド・スターリングという貨幣名に引き下げられる。結果は、あたかも金が価格の尺度としての機能において変更をこうむったばあいと同じである。だから、以前は1ポンド・スターリングという価格で表わされていたのと同じ価値が、いまでは2ポンド・スターリングという価格で表わされている。〉(江夏訳121-122頁)

《フランス語版》

  〈国家は、1ポンド・スターリング、5ポンド・スターリングなどのように鋳貨名が記されている紙券を、流通に投ずる。この紙券が同じ名称の金重量にかわって現実に流通するかぎり、紙券の運動は、本物の貨幣の流通法則を反映するほかない。紙券流通の特有な法則は、金または銀の代理人としての役割からしか生まれえないのであり、そしてまた、この法則はきわめて単純であって、紙幣の発行は、紙幣に象徴される金(または銀)の現実に流通すべき量に比例しなければならない、ということなのである。流通が吸収できる金量は確かに、ある平均水準以上または以下に絶えず動揺する。それにもかかわらず、この量は、各国において経験上わかっている最低限以下に、けっして落ちることがない。この最低量が絶えずその構成部分を更新するということ、すなわち、そこに入ったりそこから出たりする個々の鋳貨の往復運動が存在するということ、このことはもちろん、流通域内で、この最低量の大きさをも、その絶え間ない回転をも、全く変えはしない。したがって、この最低量を紙幣象徴で置き換えることは、なにものにも妨げられない。これに反して、流通の運河が、貴金属にたいする吸収能力の限度いっぱい紙幣で満たされておれば、そのばあいには、商品価格のどんなわずかな動揺も、この運河を溢れさせることがありうるだろう。そうなったら、限界はなにもかも失われる。
  一般的な信用崩壊は別として、紙幣がその適法な大きさを超過するものと仮定しよう。この紙幣は相変わらず、商品流通では、この商品流通が自己の内在的法則にしたがって必要とする金の分量しか、したがって、紙幣によってちょうど代理しうる金の分量しか、表わさないのである。たとえば、紙幣の総量がかくあるべき総量の2倍になれば、1/4オンスの金を代表していた1ポンド・スターリング券は、もはや1/8オンスの金しか代表しない。結果は、金が価格の尺度標準としての機能において変質を受けたばあいと、同じになる。〉(江夏・上杉訳107-108頁)

●第7パラグラフ

《経済学批判》

  〈鋳貨として機能する価値章標、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている金量の章標であり、したがって金章標である。一定量の金それ自身が価値関係を表現しないのと同じように、それにとって代わる章標も価値関係を表現しない。一定量の金が対象化された労働時間として一定の価値の大きさをもつかぎりでは、金章標は価値を代表している。しかし金章標によって代表される価値の大きさは、いつでもそれによって代表される金量の価値に依存している。諸商品にたいしては、価値章標はそれらの価格の実在性を代表するのであって、価格の章標〔signum pretii〕であり、それが諸商品の価値の章標であるのは、諸商品の価値がその価格に表現されているからにほかならない。過程W-G-Wでは、この過程が二つの変態のたんに過程的な統一または直接的な相互転化として現われるかぎり--そして価値章標が機能する流通部面では、それはこのようなものとして現われるのだが--、諸商品の交換価値は、価格ではたんに観念的な存在を、貨幣ではたんに表象された象徴的な存在を受け取る。こうして交換価値は、ただ考えられたもの、または物的に表象されたものとしてだけ現われるのであるが、しかしそれは、一定量の労働時間が諸商品に対象化されているかぎり、それらの諸商品そのもののほかには、なんらの現実性をももたないのである。だから価値章標は、金の章標としては現われないで、価格にただ表現されているだけで、ただ商品のうちにだけ存在する交換価値の章標として現われることによって、商品の価値を直接に代理しているかのように見える。だがこういう外観は誤りである。価値章標は、直接にはただ価格章標であり、したがって金章標であり、ただ回り道をして商品の価値の章標であるにすぎない。〉(全集第13巻95-96頁)

《初版》

  〈紙幣は、金象徴すなわち貨幣象徴である。商品価値にたいする紙幣の関係は、ただ、紙幣によって象徴的・感覚的に表わされているのと同じ金量で、商品価値が観念的に表わされている、という点にあるにすぎない。紙幣が価値象徴であるのは、紙幣が、他のすべての商品量と同じにやはり価値量である金量を、代表しているかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳122頁)

《フランス語版》

  〈紙幣は金表章または貨幣表章である。紙幣と商品とのあいだに存在する関係は、ただたんに、商品価格のうちに観念的に表現されている金の同じ量が、紙幣によって象徴的に代表されている、ということである。したがって、紙幣が価値表章であるのは、それが、他のすべての商品量と同じにやはり価値量である金量を、代表するかぎりでのことである(34)。〉(江夏・上杉訳108頁)

●注84

《経済学批判》

  〈すべてこれらの著述家たち(トゥック、ウィルソン、フラートン等--引用者)は、貨幣を一面的にではなくそのさまざまな諸契機で把握してはいるが、しかしたんに素材的に把握しているだけで、それらの諸契機相互のあいだや、これらの諸契機と経済学的諸範疇の全体系とのあいだの生きた関連をすこしも見ていない。だから彼らは流通手段と区別しての貨幣を、誤って資本と混同し、または商品とさえ混同する。もっとも他方では、ときおり、貨幣と両者との区別をまたもや主張せざるをえなくなっているが。たとえば、金が外国に送られるときには、じつは資本が外国に送られるのであるが、しかしそれと同じことは、鉄、綿花、穀物、つまりどの商品が輸出されるときにも起こるのである。どちらも資本であり、したがって資本としては区別されないで、貨幣および商品として区別される。だから、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としてのその特有の機能から生じるのである。同様に金、またはそのかわりに銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌がきわめて明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。資本が直接に資本として輸出される場合、たとえば一定の価値額が外国で利子をとって貸し付けるために輸出される場合でさえ、それが商品の形態で輸出されるか金の形態で輸出されるかは、景気の状態に依存するのであって、もしもそれが後者の形態で輸出されるとすれば、それは、商品に対立しての貨幣としての貴金属の特有の形態規定性によるのである。総じてこれらの著述家たちは、まずもって、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程を経る諸商品それ自体の関連から生じてくるような抽象的な姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかでうけとる抽象的な諸形態規定性と、資本や収入〔revenue〕などのような、もっと具体的な諸関係をうちにかくしている貨幣の諸規定性とのあいだを、たえずあちこちと動揺するのである。〉(161-162頁)

《フランス語版》

  〈(34) フラートンから引用する次の文章は、最良の著述家でさえ貨幣の性質とそのさまざまな機能についてどんなに混乱した考えを抱いているか、を示している。「わが国内取引にかんするかぎりは、金鋳貨や銀鋳貨が通常果たしている貨幣機能は、不換紙幣--これは、法律に由来する人為的な契約上の価値以外にどんな価値ももたない--によっても、同じくらい有効に遂行されうるということは、思うに、全く否定できない事実である。この種の価値は、その発行高が適当に制限されさえすれば、内在的価値のあらゆる特典をもっているように見なされうるのであって、価値の尺度標準なしにすますことさえも可能にするであろう」(ジョン・フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、21ページ)。こうして、貨幣商品は流通のなかで単なる価値表章によって置き換えられることができるから、価値尺度や価格の尺度標準としての貨幣商品の役割は、余計なものだと宣言される!〉(江夏・上杉訳108-109頁)

●第8パラグラフ

《経済学批判》

  〈けれども金鋳貨がはじめは金属の、次には紙の代理物をつくりだしたのは、それがその金属滅失にもかかわらず、ひきつづいて鋳貨として機能したからにほかならない。それは摩滅したから流通したのではなく、流通しつづけたから摩滅して象徴になったのである。過程の内部で金貨幣そのものがそれ自身の価値のたんなる章標となるかぎりでだけ、たんなる価値章標が金貨幣にとって代わることができるのである。
  運動W-G-Wが直接たがいに転化しあう二つの契機W-GとG-Wとの過程的統一であるかぎり、言いかえるならば、商品がその総変態の過程を通過するかぎり、商品がその交換価値を価格で、また貨幣で展開するのは、すぐにまたこの形態を揚棄して、ふたたび商品に、あるいはむしろ使用価値になるためである。だから商品は、その交換価値のたんに外見上の独立化に向かって進むにすぎない。他方では、すでに見たように、金がただ鋳貨として機能するかぎりでは、すなわちたえず流通にあるかぎりでは、それは実際にはただ諸商品の変態の連鎖とそれらのたんに瞬時的な貨幣存在とをあらわすにすぎず、他の商品の価格を実現するために、ある商品の価格を実現するにすぎないのであって、どこでも交換価値の休止的な定在として、つまりそれ自身休止する商品としては現われない。諸商品の交換価値がこの過程で受け取り、金がその流通であらわす実在性は、ただ電気火花のような実在性にすぎない。この金は現実の金であるとしても、ただ仮象の金としてだけ機能するにすぎず、それだからこそこの機能では、それ自身の章標によって置き換えられることができるのである。〉(全集第13巻94-95頁)
  〈過程W-G-Wでは、この過程が二つの変態のたんに過程的な統一または直接的な相互転化として現われるかぎり--そして価値章標が機能する流通部面では、それはこのようなものとして現われるのだが--、諸商品の交換価値は、価格ではたんに観念的な存在を、貨幣ではたんに表象された象徴的な存在を受け取る。〉(同95頁)、

《初版》

  〈最後に、なぜ金が、それ自身の単なる、価値のない象徴で、置き換えられうるか? ということが問題になる。ところが、すでに見たように、金がこのように置き換えられうるのは、それが、鋳貨あるいは流通手段としての機能において孤立化または独立化されている、というかぎりにおいてのことでしかない。ところで、この機能の独立化は、摩滅した金片の継続的な流通のうちに現われているとはいえ、個々の金鋳貨について行なわれているわけではない。金片が単なる鋳貨あるいは流通手段であるのは、まさに、それが現実に流通しているあいだにかぎられている。ところが、個々の金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって置き換えうる最低量の金にはあてはまる。この最低量の金は、絶えず流通部面に滞在し、引きつづき流通手段として機能し、したがって、もっぱらこの機能の担い手としてのみ存在している。だから、それの運動は、商品変態W-G-Wの対立する諸過程の継続的な相互変換のみを表わしているのであって、これらの過程では、商品にたいしてそれの価値姿態が相対したかと思うとまたすぐに消えてしまう。商品の交換価値の独立的な表現は、ここでは、束の間の契機でしかない。その商品は再び、すぐさま他の商品にとって代わられる。だから、貨幣を絶えず一方の手から他方の手に遠ざけてゆく過程では、貨幣のたんに象徴的な存在でも充分である。貨幣の機能的存在が、いわば、貨幣の物質的定在を吸収している。貨幣は商品価格の束の間の客体的な反射であるから、貨幣は、自分自身の象徴としてのみ機能するのであり、したがって、象徴によっても置き換えられることができる(60)。貨幣の象徴に必要なのは、この象徴自身の客観的社会的な妥当性だけであり、この妥当性を、紙幣表章が強制通用力によって受け取るのである。この国家による強制が有効であるのは、一つの共同体の境界で仕切られた・すなわち国内の・流通部面の内部にかぎられているが、しかし、貨幣が、流通手段あるいは鋳貨としての自己の機能のうちにすっかり解消し、したがって、紙幣において、それの金属実体から外面上分離された・たんに機能的な存在様式を、受け取ることができるのも、この流通部面の内部にかぎられている。〉(江夏訳122-123頁)

《フランス語版》

  〈金がなぜ価値のない物、単なる表章によって置き換えられることができるのか、おそらくこのことが問われるだろう。だが、金がこのように置き換えられることができるのは、それがもっばら鋳貨あるいは流通手段として機能するかぎりでのことである。この機能の専属的な性格は、摩減した鋳貨がそれでもなお流通しつづけるという事実のうちに現われているとはいえ、確かにこの性格は、個々別々の金鋳貨または銀鋳貨について実現するわけではない。それぞれの金貨は、それが流通するかぎりにおいてのみ、流通手段であるにすぎない。紙幣によって置き換えることのできる金の最低量については、事情は別である。金の最低量はつねに流通部面に属しており、絶えず流通手段として機能し、もっばらこの機能の担い手として存在する。こうして、この金の最低量の回転は、M-A-Mという変態--ここでは、商品の価値姿態は、すぐ後で消滅するためにのみ商品に対面し、また、一商品による他商品の置き換えが、貨幣を絶えず一方の手から他方の手に滑りこませる--とは逆の運動の継続する交替のみを、表わすものである。貨幣の機能的存在が、いわば、貨幣の物質的存在を吸収する。貨幣は、商品価格の束の間の反映であるから、もはや自分自身の表章としてのみ機能し、したがって、表章によって置き換えることができるのである(35)。貨幣の表章は貨幣として社会的に有効でありさえすればよいのであり、貨幣の表章は強制通用力によってそうなるのである。国家のこの強制行為は、一国の流通域内でしか行使されえないが、貨幣が鋳貨として果たす機能も、ただここでだけ分離されうるのである。〉(江夏・上杉訳109頁)

●注85

《経済学批判》

  〈ロックはとりわけ次のように言っている。「以前に半クラウンとよばれていたものを1クラウンとよぶとする。価値はやはり金属実質によって規定されている。もし諸君が鋳貨の価値を減らさずに、その銀重量の20分の1をへずることができるというなら、諸君は同様にその銀重量の20分の19をもへずることができるはずである。この論法によれば、1ファージング〔4分の1ペニー貨〕は、それをクラウンと名づけるならば、その60倍の銀をふくむ1クラウン貨が買うのと同じだけの香料、絹、その他の商品を買えるはずである。諸君にできることは、ただより少ない量の銀により多くの量の極印と名称をつけることだけである。しかし、債務を支払ったり、商品を買ったりするのは、銀であって名称ではない。もし諸君の言う貨幣価値の引上げが、銀貨の可除部分に好きかってな名称をつけること、たとえば1オンスの銀の8分の1をペニーとよぶことにほかならないとすれば、諸君は事実上、貨幣の価値を好むがままの高さに定めることができるわけである。」同時にロックは、ラウンズに次のように答えている。市場価格の鋳造価格以上への騰貴は、「銀価値の上昇からではなく、銀鋳貨の軽くなったことから」起こるのである。削りとられた77個のシリング貨は、完全量目の62個のシリング貨よりすこしも重くはない、と。最後に彼は正当にも、流通鋳貨の銀量の減少を度外視しても、イギリスでは銀地金の輸出は許されていて、銀鋳貨の輸出は禁止されているのだから、銀地金の市場価格はある程度まで鋳造価格以上に騰貴しうることを強調した(前掲書、54-116ページの諸所を参照)。ロックは国債という焦点にふれることをひどく警戒し、同様に微妙な経済問題にたちいることも用心ぶかく避けた。この問題というのは、為替相場も銀地金の銀鋳貨にたいする比率も、流通貨幣の減価がその現実の銀量減少にとうてい比例しないほど大きなものであったことを示した、ということである。この問題には一般的形態で、流通手段の節でたちかえろう。ニコラス・バーボンは、『新貨幣をより軽く鋳造することにかんする一論、ロック氏の「考察」に答えて』、ロンドン、1696年、のなかで、ロックをめんどうな領域にさそいだそうとしたが、むだだった。〉(全集第13巻60-61頁)

《初版》

  〈(68) 金銀が、鋳貨としては、あるいは流通手段としての排他的機能においては、それ自身の象徴になる、ということから、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」政府の権利を導き出している。すなわち、たとえばグロッシェンと呼ばれるある分量の銀に、ターレルというもっと多量の銀の名称を与え、こうして、債権者には夕ーレルの代わりにグロッシェンを返済する、という政府の権利である。「貨幣は、幾度も数えられると摩滅して軽くなる。……人々が取引のさいに気をつけるのは、貨幣の名称と通用性であって、銀の量ではない。……金属を貨幣たらしめるものは、金属にしるされた公権力である。」(N・バーボン、前掲書、29、30、25ページ。)〉(江夏訳123頁)

《フランス語版》

  〈(35) 金銀が、鋳貨としては、あるいは、流通手段としての専属的な機能では、自分自身の単なる表章でしかなくなるという事実から、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」政府の権利を、すなわち、フランと呼ばれている銀の分量にたいしエキュのようなもっと大きな分量の名称を与え、こうして政府の債権者にたいしエキュのかわりにフランしか与えない、という政府の権利を、導ぎ出している。「貨幣は、多勢の人の手を通りぬけることによって摩滅し目減りする。……取引のさいに人が注目するのは、貨幣の名称とその通用性であって、貨幣の銀量ではない。金属は、公の権力によってはじめて貨幣になる」(N ・バーボン、前掲書、29、30、25ページ)。〉(江夏・上杉訳109-110頁)

 

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