『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(3)

2019-12-23 12:11:22 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(3)

  

 【付属資料】 

 

●第6パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈補助通貨〔subsidiary currency〕では、流通手段としての流通手段が、つまりたんに瞬過的な手段としての流通手段が、同時に等価物であり諸価格を実現し自立的な価値として蓄積される流通手段のほかに、一つの特殊的存在を取るのである。つまりこの場合、純粋な章標という存在である。だからそれは、それの蓄積をもたらすことのまったくありえない小規模な小売取引に絶対に必要とされる量が発行されさえすればよい。その量は、それを流通させる諸価格の総額をそれの速度で割ったものによって規定されざるをえない。ある大きさの価値をもつ、流通する媒介物の総額はそうした諸価格によって規定されているので、その帰結として自ずから次のことがでてくる。すなわち、もしも流通そのものが必要とする量よりも大きな量〔の流通媒介物〕が人為的に流通に投入され、しかもそこから流れ出ることができないのであれば(こういうことがここで生じるのは、流通媒介物が、流通手段としてはそれの内在的価値を上回っているからなのではない)、それは減価する、ということである。それは、量が諸価格を規定するのではなくて、諸価格が量を規定しており、したがって特定の価値をもった一定量しか流通のなかにとどまることができないからなのである。だから、流通にそれが過剰な量を放出できるような開口部がなく、流通する媒介物が自己の形態を流通手段としての形態から独立した価値の形態に転化できなければ、流通手段の価値は低下せざるをえない。しかし、こういうことが生じるのは、溶解の禁止、輸出の禁止、等々のような人為的な障害の場合のほかは、流通する媒介物が章標にすぎなくて、それ自身は自己の名目価値に対応する実質価値をもたず、したがって流通する媒介物の形態から商品一般の形態に移行して自己の刻印を拭いさることができない場合だけ、すなわち、それが自己の鋳貨としての存在に呪縛されている場合だけである。他方、で、さきのことの帰結として次のことがでてくる。すなわち、章標、つまり貨幣票券〔Geldmarke〕は、それがただ、流通手段そのものが流通するとした場合の量の流通手段だけを代表している、というかぎりで、自己の代表している貨幣の名目価値で--それ自身のなんらかの価値をもっていなくても--流通することが、できるのだ、ということである。しかしその場合には、同時に次のどちらかのことが条件となる。すなわち、その場合に章標そのものが少量しか存在しないので、それが補助的な形態でしか流通せず、したがって一瞬たりとも流通手段であることをやめず(この場合それはたえず、一部は少量の商品との交換で、一部はたんに現実の流通手段にたいして釣り銭を出すのに役立っている)、だから蓄積されることがまったくありえない、ということか、それとも、章標が価値をまったくもってはならないので、それの名目価値がその内的価値と比較されることがありえない、ということである。後者の場合には、それはたんなる章標として措定されているのであって、それは自己自身によって、自己の外に存在するものとしての価値を指し示しているのである。他方の場、それの内的価値がそれの名目価値と比較され始めるようになることはけっしてない。〉(草稿集②675-677頁)

《経済学批判》

  〈無価値の表章が価値章標であるのは、ただそれが流通過程の内部で金を代理するかぎりだけのことであり、そしてそれが金を代理するのは、ただ金そのものが鋳貨として流通過程にはいりこむであろうかぎりだけであり、この金の量は、諸商品の交換価値とそれらの変態の速度とがあたえられていれば、それ自身の価値によって規定される。5ポンド・スターリングの額面の紙券は、1ポンド.スターリングの額面の紙券の枚数の5分の1でだけしか流通しないであろうし、またすぺての支払がシリング券でなされるとすれぽ、ポンド券の20倍の枚数のシリング券が流通しなけれぽならないであろう。金鋳貨がいろいろな額面の紙券、たとえば5ポンド券、1ポンド券、10シリング券によって代理されるとすれば、これらのいろいろな種類の価値章標の量は、総流通に必要な金の量によって規定されるだけでなく、それぞれ特殊な種類の価値章標の流通範囲のために必要な金の量によっても規定されるであろう。もし1400万ポンド・スターリング(これはイギリスの銀行立法の前提であるが、ただし鋳貨についての前提ではなく、信用貨幣についての前提である)が一国の通貨がそれ以下にはけっして下がらない水準であるとすれば、それぞれが1ポンド・スターリングをあらわす価値章標である1400万枚の紙券が流通しうるであろう。金の生産に必要な労働時間が減少または増加したために、金の価値が低下または上昇したとすれば、流通するポンド券の枚数は、商品総量が同じでその交換価値がもとのままであれば、金の価値変動に反比例して増減するであろう。価値の尺度としての金が銀にとって代わられ、銀と金との比価が1対15であり、今後は各紙券は、いままで金を代理していたときと同じ量の銀を代理するものとすれば、これからは1400万枚の代わりに2億1000万枚のポンド券が流通しなければならないであろう。だから紙券の量はそれが流通のなかで代理する金貨幣の量によって規定され、紙券は金貨幣を代理するかぎりでだけ価値章標であるから、紙券の価値は単純にその量によって規定されるのである。だから流通する金の量は商品価格に依存するのに、流通する紙券の価値は逆にもっぱらそれ自身の量に依存する。
  強制通用力をもつ紙幣--われわれはただこの種の紙幣だけを論じるのだが--を発行する国家の干渉は、経済法則を揚棄するように見える。国家は鋳造価格では一定の金重量に洗礼名をあたえただけであり、貨幣鋳造では金に自分の極印をおしただけであったが、この国家はいまやその極印の魔術によって紙を金に転化するように見える。紙幣は強制通用力をもっているから、国家が思うままに多数の紙幣を強制流通させ、1ポンド、5ポンド、20ポンドといった任意の鋳貨名をそれらに極印するのを、だれも妨げることはできない。ひとたび流通にはいった紙券は、これを流通から投げだすことは不可能である。なぜなら、その国の境界標がその進路をとどめるだけでなく、紙券は流通の外では、すべての価値を、使用価値をも交換価値をも失うからである。その機能上の定在から切り離されると、紙券はなんの価値もない紙くずに転化する。けれども、国家のこのような権力は、たんなる見せかけにすぎない。国家は任意の鋳貨名をもつ任意の量の紙券を流通に投げこむごとができるであろうが、しかし、この機械的行為とともに国家の統制は終わる。流通にまきこまれると、価値章標または紙幣は、それに内在する諸法則に支配されるのである。
  もし1400万ポンド・スターリングが商品流通に必要鋤な金の総額であって、国家がそれぞれ1ポンドの名称をもつ2億1000万枚の紙券を流通に投じたとすれば、この2億1000万枚は1400万ポンド・スターリングの金の代理者に転化されたことになろう。これはちょうど国家がポンド券を以前の15分の1の価値しかない金属の代理者にしたか、または以前の15分の1の重量しかない金の代理者にしたのと同じであろう。価格の度量標準の名づけ方以外にはなにひとつ変わらなかったであろうが、この名づけ方はもちろん慣習的なものであって、それが鋳貨の品位の変動によって直接に生じようとも、新たなより低い度量標準にとって必要な数だけ紙券が増加することによって間接に生じようとも、どちらも同じことである。ポンドという名称はいまやいままでの15分の1の金量を示したのであるから、すべての商品価格は15倍に騰貴し、いままで1400万枚のポンド券が必要であったのとまったく同じように、いまでは実際に2億1000万枚のポンド券が必要となるであろう。価値章標の総額が増加するのと同じ割合で、それぞれ1枚の章標の代理する金の量は減少するであろう。価格の騰貴は、価値章標がその代理として流通すると称する金の量にこの価値章標をむりやりに等置する流通過程の反作用にすぎないであろう。
  イギリスやフランスでの政府による貨幣変造の歴史では、価格が銀鋳貨の変造と同じ割合では騰貴しなかったことがしばしば見うけられる。これはまったく、鋳貨が増加された割合が、それが変造された割合に相応しなかったからであり、つまり諸商品の交換価値は、今後は価値の尺度としてのこの低い価値の合金で評価され、この低い度量単位に相応する鋳貨によって実現されるはずであったのに、この合金がそれに相応する数量だけ発行されなかったからである。このことは、ロックとラウンズとの論争で解決されなかった困難を解決する。紙券であろうと、変造された金や銀であろうと、価値章標が鋳造価格にしたがって計算された金や銀の重量を代理する割合は、それ自身の材料によって決まるものではなく、流通にあるその量によって決まるのである。この関係を理解するうえでの困難は、貨幣が価値の尺度および流通手毅としての二つの機能においては、たんに反対の諸法則に従っているだけでなく、この二つの機能の対立に一見矛盾するような法期に従っている、ということから生じるのである。貨幣がただの計算貨幣としてだけ役だち、金がただ観念的な金として役だつにすぎない価値の尺度としての貨幣の機能にとっては、すべてがその自然的材料にかかっている。交換価値は、銀で評価された場合、つまり銀価格としては、金で評価された場合、つまり金価格としてのそれとは、いうまでもなくまったく違ったものとしてあらわされる。逆に貨幣がたんに表象されているだけでなく、現実的な物として他の商品とならんで存在しなければならない流通手段としての貨幣の機能においては、その材料はどうでもよいのであって、すべてはその量にかかっている。度量単位にとっては、それが1ポンドの金であるか、銀であるか、それとも銅であるかが決定的である。ところが、鋳貨にあっては、それの数だけが、その鋳貨をこれらおのおのの度量単位の適当な実現とするのであって、鋳貨自身の材料がなんであろうとかまわない。しかし、ただ考えられただけの貨幣にあっては、すぺてがその物質的な実体にかかり、感覚的に存在する鋳貨にあっては、すぺてが観念的な数的関係にかかるというのは、常群識には矛盾することである。
  だから紙券の数量の増減--紙券が唯一の流通手段をなしている場合のそれ--にともなう商品価格の騰落は、流通する金の量は商品の価格によって規定され、流通する価値章標の量は、それが流通で代理する金鋳貨の量によって規定されるという法則が外部から機械的に破られた場合に、流通過程によってむりやりになしとげられたこの法則の貫徹にほかならない。だから他方では、どんな任意の数量の紙券でも流通過程によって吸収され、いわば消化される。なぜなら、価値章標は、それがどういう金名義をもって流通にはいりこもうとも、流通の内部では、その代わりに流通できるはずの金量の章標にまで圧縮されるからである。
  価値章標の流通では、現実の貨幣流通のすぺての法則があべこべに逆立ちして現われる。金は価値をもつから流通するのに、紙券は流通するから価値をもつのである。商品の交換価値があたえられていれば、流通する金の量はそれ自身の価値によって決まるのに、紙券の価値は流通するその量によって決まる。流通する金の量は商品価格の騰落につれて増減するのに、商品価格は流通する紙券の量の変動につれて騰落するように見える。商品流通はただ一定量の金鋳貨を吸収することができるだけであり、したがって、流通する貨幣の交互の収縮膨張が必然的な法則として現われるのに、紙券はどんなに増加しても流通にはいりこむように見える。国家は、その名目上の実質〔純分〕よりわずか100分の1グレーンだけ少ない鋳貨を発行しても、金銀鋳貨を変造したことになり、したがって流通手段としてのその機能を妨げることになるのに、鋳貨名のほかには金属となんの関係ももたない無価値な紙券の発行については、まったく正しい操作をおこなうことになる。金鋳貨は明らかに、商品の価値そのものが金で評価され、または価格としてあらわされるかぎりでだけ、商品の価値を代理するのだが、価値章標は、商品の価値を直接に代理するように見える。このことから、貨幣流通の諸現象を一面的に強制通用力をもつ紙幣の流通に即して研究した観察者たちが、なぜ貨幣流通のすべての内在的法則を誤解せざるをえなかったかが明らかとなる。じっさい、これらの諸法則は、価値章標の流通においては、ただ逆さまに現われるだけではなく、消え去ったように見えるのである。なぜなら、紙幣は正しい量で発行されるならば、価値章標としてのそれに固有でない運動をとげるのに、紙幣に固有な運動は、諸商品の変態からは直接に生じないで、金にたいするその正しい比率の侵害から生じるからである。〉(全集第13巻98-102頁)

《初版》

  〈1ポンド・スターリング、5ポンド・スターリング等々のような貨幣名が印刷されている紙幣が、国家の手で外部から流通過程のなかに投げ込まれる。それが同名の金の額に代わって現実に流通するかぎり、それの運動に反映するものは、貨幣流通そのものの諸法則でしかない。紙幣流通の独自な法則は、金にたいする紙幣の代表関係からのみ生じうる。そして、この法則はたんに次のようなことである。すなわち、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされている金(または銀)が、現実に流通しなければならない量に制限されるべきだ、ということ。ところで、流通部面が吸収しうる金量は、確かに、ある平均水準の上下に絶えず動揺している。とはいうものの、与えられた一国内で流通しつつある媒介物の量は、経験的に確定されているある最低限以下には、けっして下がらない。この最低量が、絶えずその成分を取り替えるからといって、すなわち、いつもちがう金片から成り立っているからといって、もちろん、この最低量の大きさは少しも変わらないし、それが流通部面を絶えず駆けめぐる事情も少しも変わらない。だから、この最低量は、紙幣象徴で置き換えることができる。これに反して、すべての流通水路が今日、それの貨幣吸収能力の限度いっぱいまで紙幣でみたされていれば、これらの水路は明日には、商品流通の動揺の結果あふれることもありうる。限度がなにもかも失われてしまう。だが、紙幣がその限度、すなわち、流通しうる同じ名称の金鋳貨の量を越えても、紙幣は、一般的な信用崩壊の危険は別として、商品世界の内部では、やはり、この世界の内在的諸法則によって規定されている金量しか、したがってまた、ちょうど代表されうるだけの金量しか、表わしていないのである。紙券の量が、たとえば1オンスずつの金の代わりに2オンスずつの金を表わすならば、それの貨幣名たとえば金1/4オンス当たり1ポンド・スターリングという貨幣名が、事実上は、金1/8オンス当たり1ポンド・スターリングという貨幣名に引き下げられる。結果は、あたかも金が価格の尺度としての機能において変更をこうむったばあいと同じである。だから、以前は1ポンド・スターリングという価格で表わされていたのと同じ価値が、いまでは2ポンド・スターリングという価格で表わされている。〉(江夏訳121-122頁)

《フランス語版》

  〈国家は、1ポンド・スターリング、5ポンド・スターリングなどのように鋳貨名が記されている紙券を、流通に投ずる。この紙券が同じ名称の金重量にかわって現実に流通するかぎり、紙券の運動は、本物の貨幣の流通法則を反映するほかない。紙券流通の特有な法則は、金または銀の代理人としての役割からしか生まれえないのであり、そしてまた、この法則はきわめて単純であって、紙幣の発行は、紙幣に象徴される金(または銀)の現実に流通すべき量に比例しなければならない、ということなのである。流通が吸収できる金量は確かに、ある平均水準以上または以下に絶えず動揺する。それにもかかわらず、この量は、各国において経験上わかっている最低限以下に、けっして落ちることがない。この最低量が絶えずその構成部分を更新するということ、すなわち、そこに入ったりそこから出たりする個々の鋳貨の往復運動が存在するということ、このことはもちろん、流通域内で、この最低量の大きさをも、その絶え間ない回転をも、全く変えはしない。したがって、この最低量を紙幣象徴で置き換えることは、なにものにも妨げられない。これに反して、流通の運河が、貴金属にたいする吸収能力の限度いっぱい紙幣で満たされておれば、そのばあいには、商品価格のどんなわずかな動揺も、この運河を溢れさせることがありうるだろう。そうなったら、限界はなにもかも失われる。
  一般的な信用崩壊は別として、紙幣がその適法な大きさを超過するものと仮定しよう。この紙幣は相変わらず、商品流通では、この商品流通が自己の内在的法則にしたがって必要とする金の分量しか、したがって、紙幣によってちょうど代理しうる金の分量しか、表わさないのである。たとえば、紙幣の総量がかくあるべき総量の2倍になれば、1/4オンスの金を代表していた1ポンド・スターリング券は、もはや1/8オンスの金しか代表しない。結果は、金が価格の尺度標準としての機能において変質を受けたばあいと、同じになる。〉(江夏・上杉訳107-108頁)

●第7パラグラフ

《経済学批判》

  〈鋳貨として機能する価値章標、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている金量の章標であり、したがって金章標である。一定量の金それ自身が価値関係を表現しないのと同じように、それにとって代わる章標も価値関係を表現しない。一定量の金が対象化された労働時間として一定の価値の大きさをもつかぎりでは、金章標は価値を代表している。しかし金章標によって代表される価値の大きさは、いつでもそれによって代表される金量の価値に依存している。諸商品にたいしては、価値章標はそれらの価格の実在性を代表するのであって、価格の章標〔signum pretii〕であり、それが諸商品の価値の章標であるのは、諸商品の価値がその価格に表現されているからにほかならない。過程W-G-Wでは、この過程が二つの変態のたんに過程的な統一または直接的な相互転化として現われるかぎり--そして価値章標が機能する流通部面では、それはこのようなものとして現われるのだが--、諸商品の交換価値は、価格ではたんに観念的な存在を、貨幣ではたんに表象された象徴的な存在を受け取る。こうして交換価値は、ただ考えられたもの、または物的に表象されたものとしてだけ現われるのであるが、しかしそれは、一定量の労働時間が諸商品に対象化されているかぎり、それらの諸商品そのもののほかには、なんらの現実性をももたないのである。だから価値章標は、金の章標としては現われないで、価格にただ表現されているだけで、ただ商品のうちにだけ存在する交換価値の章標として現われることによって、商品の価値を直接に代理しているかのように見える。だがこういう外観は誤りである。価値章標は、直接にはただ価格章標であり、したがって金章標であり、ただ回り道をして商品の価値の章標であるにすぎない。〉(全集第13巻95-96頁)

《初版》

  〈紙幣は、金象徴すなわち貨幣象徴である。商品価値にたいする紙幣の関係は、ただ、紙幣によって象徴的・感覚的に表わされているのと同じ金量で、商品価値が観念的に表わされている、という点にあるにすぎない。紙幣が価値象徴であるのは、紙幣が、他のすべての商品量と同じにやはり価値量である金量を、代表しているかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳122頁)

《フランス語版》

  〈紙幣は金表章または貨幣表章である。紙幣と商品とのあいだに存在する関係は、ただたんに、商品価格のうちに観念的に表現されている金の同じ量が、紙幣によって象徴的に代表されている、ということである。したがって、紙幣が価値表章であるのは、それが、他のすべての商品量と同じにやはり価値量である金量を、代表するかぎりでのことである(34)。〉(江夏・上杉訳108頁)

●注84

《経済学批判》

  〈すべてこれらの著述家たち(トゥック、ウィルソン、フラートン等--引用者)は、貨幣を一面的にではなくそのさまざまな諸契機で把握してはいるが、しかしたんに素材的に把握しているだけで、それらの諸契機相互のあいだや、これらの諸契機と経済学的諸範疇の全体系とのあいだの生きた関連をすこしも見ていない。だから彼らは流通手段と区別しての貨幣を、誤って資本と混同し、または商品とさえ混同する。もっとも他方では、ときおり、貨幣と両者との区別をまたもや主張せざるをえなくなっているが。たとえば、金が外国に送られるときには、じつは資本が外国に送られるのであるが、しかしそれと同じことは、鉄、綿花、穀物、つまりどの商品が輸出されるときにも起こるのである。どちらも資本であり、したがって資本としては区別されないで、貨幣および商品として区別される。だから、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としてのその特有の機能から生じるのである。同様に金、またはそのかわりに銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌がきわめて明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。資本が直接に資本として輸出される場合、たとえば一定の価値額が外国で利子をとって貸し付けるために輸出される場合でさえ、それが商品の形態で輸出されるか金の形態で輸出されるかは、景気の状態に依存するのであって、もしもそれが後者の形態で輸出されるとすれば、それは、商品に対立しての貨幣としての貴金属の特有の形態規定性によるのである。総じてこれらの著述家たちは、まずもって、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程を経る諸商品それ自体の関連から生じてくるような抽象的な姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかでうけとる抽象的な諸形態規定性と、資本や収入〔revenue〕などのような、もっと具体的な諸関係をうちにかくしている貨幣の諸規定性とのあいだを、たえずあちこちと動揺するのである。〉(161-162頁)

《フランス語版》

  〈(34) フラートンから引用する次の文章は、最良の著述家でさえ貨幣の性質とそのさまざまな機能についてどんなに混乱した考えを抱いているか、を示している。「わが国内取引にかんするかぎりは、金鋳貨や銀鋳貨が通常果たしている貨幣機能は、不換紙幣--これは、法律に由来する人為的な契約上の価値以外にどんな価値ももたない--によっても、同じくらい有効に遂行されうるということは、思うに、全く否定できない事実である。この種の価値は、その発行高が適当に制限されさえすれば、内在的価値のあらゆる特典をもっているように見なされうるのであって、価値の尺度標準なしにすますことさえも可能にするであろう」(ジョン・フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、21ページ)。こうして、貨幣商品は流通のなかで単なる価値表章によって置き換えられることができるから、価値尺度や価格の尺度標準としての貨幣商品の役割は、余計なものだと宣言される!〉(江夏・上杉訳108-109頁)

●第8パラグラフ

《経済学批判》

  〈けれども金鋳貨がはじめは金属の、次には紙の代理物をつくりだしたのは、それがその金属滅失にもかかわらず、ひきつづいて鋳貨として機能したからにほかならない。それは摩滅したから流通したのではなく、流通しつづけたから摩滅して象徴になったのである。過程の内部で金貨幣そのものがそれ自身の価値のたんなる章標となるかぎりでだけ、たんなる価値章標が金貨幣にとって代わることができるのである。
  運動W-G-Wが直接たがいに転化しあう二つの契機W-GとG-Wとの過程的統一であるかぎり、言いかえるならば、商品がその総変態の過程を通過するかぎり、商品がその交換価値を価格で、また貨幣で展開するのは、すぐにまたこの形態を揚棄して、ふたたび商品に、あるいはむしろ使用価値になるためである。だから商品は、その交換価値のたんに外見上の独立化に向かって進むにすぎない。他方では、すでに見たように、金がただ鋳貨として機能するかぎりでは、すなわちたえず流通にあるかぎりでは、それは実際にはただ諸商品の変態の連鎖とそれらのたんに瞬時的な貨幣存在とをあらわすにすぎず、他の商品の価格を実現するために、ある商品の価格を実現するにすぎないのであって、どこでも交換価値の休止的な定在として、つまりそれ自身休止する商品としては現われない。諸商品の交換価値がこの過程で受け取り、金がその流通であらわす実在性は、ただ電気火花のような実在性にすぎない。この金は現実の金であるとしても、ただ仮象の金としてだけ機能するにすぎず、それだからこそこの機能では、それ自身の章標によって置き換えられることができるのである。〉(全集第13巻94-95頁)
  〈過程W-G-Wでは、この過程が二つの変態のたんに過程的な統一または直接的な相互転化として現われるかぎり--そして価値章標が機能する流通部面では、それはこのようなものとして現われるのだが--、諸商品の交換価値は、価格ではたんに観念的な存在を、貨幣ではたんに表象された象徴的な存在を受け取る。〉(同95頁)、

《初版》

  〈最後に、なぜ金が、それ自身の単なる、価値のない象徴で、置き換えられうるか? ということが問題になる。ところが、すでに見たように、金がこのように置き換えられうるのは、それが、鋳貨あるいは流通手段としての機能において孤立化または独立化されている、というかぎりにおいてのことでしかない。ところで、この機能の独立化は、摩滅した金片の継続的な流通のうちに現われているとはいえ、個々の金鋳貨について行なわれているわけではない。金片が単なる鋳貨あるいは流通手段であるのは、まさに、それが現実に流通しているあいだにかぎられている。ところが、個々の金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって置き換えうる最低量の金にはあてはまる。この最低量の金は、絶えず流通部面に滞在し、引きつづき流通手段として機能し、したがって、もっぱらこの機能の担い手としてのみ存在している。だから、それの運動は、商品変態W-G-Wの対立する諸過程の継続的な相互変換のみを表わしているのであって、これらの過程では、商品にたいしてそれの価値姿態が相対したかと思うとまたすぐに消えてしまう。商品の交換価値の独立的な表現は、ここでは、束の間の契機でしかない。その商品は再び、すぐさま他の商品にとって代わられる。だから、貨幣を絶えず一方の手から他方の手に遠ざけてゆく過程では、貨幣のたんに象徴的な存在でも充分である。貨幣の機能的存在が、いわば、貨幣の物質的定在を吸収している。貨幣は商品価格の束の間の客体的な反射であるから、貨幣は、自分自身の象徴としてのみ機能するのであり、したがって、象徴によっても置き換えられることができる(60)。貨幣の象徴に必要なのは、この象徴自身の客観的社会的な妥当性だけであり、この妥当性を、紙幣表章が強制通用力によって受け取るのである。この国家による強制が有効であるのは、一つの共同体の境界で仕切られた・すなわち国内の・流通部面の内部にかぎられているが、しかし、貨幣が、流通手段あるいは鋳貨としての自己の機能のうちにすっかり解消し、したがって、紙幣において、それの金属実体から外面上分離された・たんに機能的な存在様式を、受け取ることができるのも、この流通部面の内部にかぎられている。〉(江夏訳122-123頁)

《フランス語版》

  〈金がなぜ価値のない物、単なる表章によって置き換えられることができるのか、おそらくこのことが問われるだろう。だが、金がこのように置き換えられることができるのは、それがもっばら鋳貨あるいは流通手段として機能するかぎりでのことである。この機能の専属的な性格は、摩減した鋳貨がそれでもなお流通しつづけるという事実のうちに現われているとはいえ、確かにこの性格は、個々別々の金鋳貨または銀鋳貨について実現するわけではない。それぞれの金貨は、それが流通するかぎりにおいてのみ、流通手段であるにすぎない。紙幣によって置き換えることのできる金の最低量については、事情は別である。金の最低量はつねに流通部面に属しており、絶えず流通手段として機能し、もっばらこの機能の担い手として存在する。こうして、この金の最低量の回転は、M-A-Mという変態--ここでは、商品の価値姿態は、すぐ後で消滅するためにのみ商品に対面し、また、一商品による他商品の置き換えが、貨幣を絶えず一方の手から他方の手に滑りこませる--とは逆の運動の継続する交替のみを、表わすものである。貨幣の機能的存在が、いわば、貨幣の物質的存在を吸収する。貨幣は、商品価格の束の間の反映であるから、もはや自分自身の表章としてのみ機能し、したがって、表章によって置き換えることができるのである(35)。貨幣の表章は貨幣として社会的に有効でありさえすればよいのであり、貨幣の表章は強制通用力によってそうなるのである。国家のこの強制行為は、一国の流通域内でしか行使されえないが、貨幣が鋳貨として果たす機能も、ただここでだけ分離されうるのである。〉(江夏・上杉訳109頁)

●注85

《経済学批判》

  〈ロックはとりわけ次のように言っている。「以前に半クラウンとよばれていたものを1クラウンとよぶとする。価値はやはり金属実質によって規定されている。もし諸君が鋳貨の価値を減らさずに、その銀重量の20分の1をへずることができるというなら、諸君は同様にその銀重量の20分の19をもへずることができるはずである。この論法によれば、1ファージング〔4分の1ペニー貨〕は、それをクラウンと名づけるならば、その60倍の銀をふくむ1クラウン貨が買うのと同じだけの香料、絹、その他の商品を買えるはずである。諸君にできることは、ただより少ない量の銀により多くの量の極印と名称をつけることだけである。しかし、債務を支払ったり、商品を買ったりするのは、銀であって名称ではない。もし諸君の言う貨幣価値の引上げが、銀貨の可除部分に好きかってな名称をつけること、たとえば1オンスの銀の8分の1をペニーとよぶことにほかならないとすれば、諸君は事実上、貨幣の価値を好むがままの高さに定めることができるわけである。」同時にロックは、ラウンズに次のように答えている。市場価格の鋳造価格以上への騰貴は、「銀価値の上昇からではなく、銀鋳貨の軽くなったことから」起こるのである。削りとられた77個のシリング貨は、完全量目の62個のシリング貨よりすこしも重くはない、と。最後に彼は正当にも、流通鋳貨の銀量の減少を度外視しても、イギリスでは銀地金の輸出は許されていて、銀鋳貨の輸出は禁止されているのだから、銀地金の市場価格はある程度まで鋳造価格以上に騰貴しうることを強調した(前掲書、54-116ページの諸所を参照)。ロックは国債という焦点にふれることをひどく警戒し、同様に微妙な経済問題にたちいることも用心ぶかく避けた。この問題というのは、為替相場も銀地金の銀鋳貨にたいする比率も、流通貨幣の減価がその現実の銀量減少にとうてい比例しないほど大きなものであったことを示した、ということである。この問題には一般的形態で、流通手段の節でたちかえろう。ニコラス・バーボンは、『新貨幣をより軽く鋳造することにかんする一論、ロック氏の「考察」に答えて』、ロンドン、1696年、のなかで、ロックをめんどうな領域にさそいだそうとしたが、むだだった。〉(全集第13巻60-61頁)

《初版》

  〈(68) 金銀が、鋳貨としては、あるいは流通手段としての排他的機能においては、それ自身の象徴になる、ということから、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」政府の権利を導き出している。すなわち、たとえばグロッシェンと呼ばれるある分量の銀に、ターレルというもっと多量の銀の名称を与え、こうして、債権者には夕ーレルの代わりにグロッシェンを返済する、という政府の権利である。「貨幣は、幾度も数えられると摩滅して軽くなる。……人々が取引のさいに気をつけるのは、貨幣の名称と通用性であって、銀の量ではない。……金属を貨幣たらしめるものは、金属にしるされた公権力である。」(N・バーボン、前掲書、29、30、25ページ。)〉(江夏訳123頁)

《フランス語版》

  〈(35) 金銀が、鋳貨としては、あるいは、流通手段としての専属的な機能では、自分自身の単なる表章でしかなくなるという事実から、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」政府の権利を、すなわち、フランと呼ばれている銀の分量にたいしエキュのようなもっと大きな分量の名称を与え、こうして政府の債権者にたいしエキュのかわりにフランしか与えない、という政府の権利を、導ぎ出している。「貨幣は、多勢の人の手を通りぬけることによって摩滅し目減りする。……取引のさいに人が注目するのは、貨幣の名称とその通用性であって、貨幣の銀量ではない。金属は、公の権力によってはじめて貨幣になる」(N ・バーボン、前掲書、29、30、25ページ)。〉(江夏・上杉訳109-110頁)

 

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