『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.17(通算第67回)(1)

2019-12-12 20:20:06 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.17(通算第67回)(1)

 

◎価値の〈論証〉というのは問題にあらざる偽問題である(大谷新著の紹介の続き)

 今回も前回と同様、大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」のなかの「第10章 商品および商品生産に関するいくつかの問題について」を取り上げます。前回はその中の〈論点1 使用価値の捨象によって抽象的労働に到達するのは「無理」か--置塩信雄氏の見解について--〉を取り上げました。今回は〈論点2 価値の「論証」という偽問題について〉から紹介しましょう。今回は若干、大谷氏の説に批判的なものになる部分もあります。
  まず大谷氏は価値を抽出してくるプロセスは商品の生産費用を抽象するプロセスになっているのだと次のように述べています。 

  〈およそどんな社会についても生産力の発展を考えようとすれば,生産物を生産するための費用,つまり生産費用を考えずにすむはずがない。そしてその生産費用が本源的には労働であるという真理は,すでに常識の世界にさえ属する事柄である。だから,『資本論』の冒頭でマルクスが使用価値とそれを生産する具体的労働を捨象して抽象的人間的労働の対象化としての価値を抽象してくるプロセスは,商品の交換価値を規定するものとしての商品の生産費用を抽象するプロセスにもなっているのであり,これによってマルクスは,労働生産物が商品という形態をとって運動している商品世界を,社会の存立の基礎である労働を根底に理解する道を開いたのである。〉 (451頁) 

  そして商品の価値の実体である「抽象的人間労働」の凝固について次のように述べています。 

 〈マルクスが具体的労働の捨象によってつかみだしたのは,たんなる抽象的人間的労働ではない。抽象的人間的労働の結晶であり,対象化である。これは商品に固有のものである。抽象的人間的労働はあらゆる社会に存在する労働の一側面であるが,抽象的人間的労働の対象化は商品に固有のものである。〉 (451頁) 

  「抽象的人間労働」と「抽象的人間労働の対象化、その結晶」とは異なるといわれればその通りなのですが、しかしこれは生きた労働と対象化された労働との違いを言っただけではないでしょうか。生きた労働とは流動化しつつある労働のことであり、対象化された労働とは生産物という対象物に支出された過去の労働のことです。しかしこの区別はあらゆる社会の労働について言いうることです。だから前者はあらゆる社会に存在する労働の一面であるが、後者は商品に固有のものだととわれても、なかなかすんなりとは納得できるものではありません。
  マルクスは〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである〉(『資本論』第1章第2節最後のパラグラフ、全集第23巻a63頁)と述べ、「抽象的人間労働」を「同等な人間労働」とも言い換えています。これは諸商品の交換によって、それぞれの商品に支出された個別的な私的諸労働が、社会的に同等なものと見なされたもの、あるいはそうしたものに還元されたもののことであり、だからこそそれは商品に固有なものなのです。だから抽象的人間労働そのものが商品に固有のものなのです。
  マルクスがその前に述べている〈生理学的意味での人間の労働力の支出〉という面で捉えられた労働、これは「第4節 商品の呪物的性格とその秘密」で〈いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だ〉(同96-97頁)と述べているものと同じものです。これは価値規定の内容について説明しているものですが、価値の実体である抽象的人間労働の凝固の根底にあるものです。これこそあらゆる社会に妥当するものだと思います。
  そして最後に肝心の偽問題についてです。次のように述べています。 

  〈要点を繰り返せば,マルクスが『資本論』の冒頭で商品を分析するときにやろうとしたのは,どんなことをも前提せずにそのなかで一切合財を形式論理的に〈論証〉するなどという途方もない不可能事ではなくて,労働を基礎とする社会把握を根底に置いて資本主義社会の最も表面に現われている最も一般的な事象を分析しようとしているのだ,ということである。そうである以上,商品の使用価値とそれを生産する具体的労働の捨象によってつかみだされるものは,抽象的人間的労働の対象化としての価値以外のものではありえない。そして,そうである以上,商品のこの分析によって,抽象的人間的労働の対象化としての価値概念は間違いなく得られたのであって,それをあらためて〈論証〉することなど,問題になりようがない。〈論証〉できているかいないか,ということを論じるのであれば,それは,マルクスの経済学の体系,正確に言えば『経済学批判』の体系が,その展開の全体を通じて資本主義的生産の全体を精神的に再生産できているかいないか,というかたちで論じられるべきことである。価値の〈論証〉というのは問題にあらざる爲問題である。〉 (453頁) 

  さて、本題ですが、今回から第3章「貨幣または商品流通」第2節「流通手段」「c 鋳貨、価値章標」に入ります。それではその内容を検討して行きましょう。
 

◎表題

  〈c 鋳貨、価値章標〉 

  英語版の表題は「Coin and synbol of Value」(鋳貨と価値象徴)となっています。
  昔、大阪でやっていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースではこの部分の意義について次のように書きました。 

  〈さて前回から第三章第二節「流通手段」の「c 鋳貨。価値章標」に入りました。この部分は、分量としてはそれほどありませんが、現代の貨幣である不換銀行券(日銀券)を考察する上で、重要な部分です。もちろん日銀券は銀行券ですから、次の第三節「貨幣」のところで出てくる「貨幣の支払手段としての機能」に「自然発生的な根源」をもつ「信用貨幣」の一種です。そしてそれは第三巻の銀行制度の研究を待たなければ十分に理解できないものです。しかし日銀券はすでに本来の銀行券のような兌換性はなく、その限りでは限りなく紙幣に近いものです。その意味では、私たちが今学んでいる価値章標の理論が基礎になるのです。不換制下の貨幣についてはこれまでにも「現代インフレーション論争」と関連して様々な論争が行なわれ、その理解はなかなか難しいものです。しかしそれを理解するもっとも基礎的な問題がここで取り扱われるのです。だからここをしっかり理解することが重要なのです。 〉 (№41) 

  これには2000年4月8日の日付がついています(20年ほども昔の話!)が、この部分の意義の説明としては間違っていないと思います。しかしその内容の一部には、今の私自身の理解においては、必ずしも正しいとは言えないところがあります。〈しかし日銀券はすでに本来の銀行券のような兌換性はなく、その限りでは限りなく紙幣に近いものです〉という部分です。日銀券は不換券だから紙幣に近いと書いていますが、それは正しくないのです。銀行券は別にそれが兌換券であうが不換券であろうが、商業流通から一般流通に出て貨幣として通用しているものについては、貨幣の流通法則に規制されると理解すべきだからです。貨幣の流通法則に規制されるということは、同時に紙幣の独自の流通法則にも規制されるということでもあるのです。
  それに対して、商業流通内で流通する銀行券(主に手形割引によって流通する銀行券、これは歴史的には比較的高額の銀行券でした)は、手形流通に立脚するのであって貨幣流通に立脚するものではないのです。同じ銀行券と言ってもこうした違いが歴史的にも理論的にもあるという理解が必要なのです。
  この違いが、これを書いていたときには分からなかったのです(これは『資本論』第3部第5篇第25章以下に該当する部分の草稿の解読を待ってはじめて分かったことです)。だからその点は訂正しますが、しかしこの「c 鋳貨、価値章標」を学習する意義について書いている部分についてはそのまま妥当すると思います。
 

◎第1パラグラフ(流通手段としての貨幣の機能から、鋳貨形態が生じる)
 

【1】〈(イ)流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。(ロ)諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。(ハ)価格の度量標準の確定と同様に、鋳造の仕事は国家の手に帰する。(ニ)金銀が鋳貨として身につけ世界市場では再び脱ぎ捨てるいろいろな国家的制服には、商品流通の国内的または国民的部面とその一般的な世界市場部面との分離が現われている。〉 

  (イ)(ロ) 流通手段としての貨幣の機能から、鋳貨という貨幣の姿が生まれます。諸商品の価格または貨幣名で思い描かれている金の重量部分は、流通のなかでは、同じ名称の金片すなわち鋳貨のかたちをとって、商品に向かい合わなければなりません。 

  流通手段としての貨幣の機能というのは、その前に出てきた価値尺度の機能とは異なり、流通のなかに貨幣そのものの現物が現われ、商品に対峙する必要がありました。価値尺度の機能では、貨幣はただ観念的なもので十分だったのですが、流通手段としての貨幣は現実の流通のなかで商品と交換されるものでなければならなかったわけです。そしてこの商品に対峙し、交換される貨幣の機能から、その鋳貨形態が生じてくると述べています。これはどういうことかいうと、『経済学批判』にはそこらあたりの事情が詳しく書かれています。 

  〈金はその流通を技術上の諸困難によって妨げられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々であらわされた金の重量部分をふくんでいることをその極印と形状とで示す金片が、鋳貨である。〉 (全集第13巻87頁) 

  現物の貨幣というのは金そのものです。商品の観念された価格を金の現物で置き換え、その価格を実現するのですが、しかし商品の価格が金何グラムと観念されていた場合、その価格を実現するための金は、その純度と重量とを正確に測られたものでなければなりません。しかし商品交換の度にこうしたことをやっていては大変な手間です。だから〈金はその流通を技術上の諸困難によって妨げられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される〉のです。すなわち金の地金を〈貨幣の計算名であるポンド、シリング等々であらわされた金の重量部分をふくんでいることをその極印と形状とで示す金片〉に鋳直されたものが金地金の代わりに流通するようになります。それが鋳貨です。「コイン」と言われるものがそれです。 

  (ハ) 価格の度量標準の確定がそうであるように、鋳造の仕事も国家の手に帰するようになります。 

  価格の度量標準というのは、金の一定量を円とかドルとかで呼ぶことを決めることです。それは国家が決めました。例えば戦前は金2分(ふん)〔750㎎〕=1円と決められていました。
  今度は、その750㎎の金をコインに鋳造して、それに「1円」という刻印を押して鋳貨にするのですが、こうしたこともやはり国家が担うということです。
  ここらあたりを分かりやすく説明している、大谷禎之介著「貨幣の機能」(『経済志林』第61巻第4号)から紹介しておきましょう。 

  〈流通手段としての金は,もともとは,売買のたびに,その純度が確かめられ,その重量が計量された「秤量貨幣」であった。しかし,取引のたびに試金や秤量を行なうのは煩わしいので,商品流通の発展とともに,次第に,一定の極印と形状とをもった鋳貨が生まれてくる。そしてそのような技術的な作業,つまり鋳造は,価格の度量標準の確定と同様に,国家の手によって行なわれるようになり,国家が鋳貨が含む金の品位と重量とを保証するようになるのである。〉 (270-271頁) 

  全体にこの部分の大谷氏の「貨幣の機能」の説明は参考になりますので、長くなりますが、今後も、出来るだけ紹介していくことにします。あるいはやや煩わしく感じられるかも知れませんが、そもそもこのブログは《『資本論』学習資料》と銘打っているのですから、学習になると思われる資料であれば、どんどん紹介していくべきだと思うからです。 

  (ニ) そこでもろもろの鋳貨としてさまざまな違った国民的制服を身につけることになりますが、世界市場ではふたたびそれらを脱ぎ捨てます。ここには、商品流通のもろもろの国内的または国民的な部面と商品流通の一般的な世界市場部面との区分けが現われているわけです。 

  ドルや円というように国によって度量標準の違いがありますように、それらを鋳貨にしたものも、国によって当然違ってきます。つまりこうしたものはそれぞれの国に固有のものであり、その国内でしか通用しません。だから1円の刻印された金貨も世界市場にでてゆくと750㎎の金地金としか評価されないのです。つまりその国民的な制服を脱ぎ捨てなければならないのです。
  だからここに商品流通といっても、それぞれの国のなかでの流通と国民と国民との間の商品のやりとりという、商品流通の二つの部面における違いが現れているわけです。
  この部分も大谷氏の説明を紹介しておきましょう。 

  〈国家が社会的な通用性を保証する鋳貨には,国家が確定する価格の度量標準と同様に,越えることのできない国境があり,その流通は,国家権力の及ぶ範囲での流通部面での商品流通,つまり国内流通に限られる。しかし鋳貨は,もともとは,自己の金量をその形状で示すように鋳造された金そのものであるから,それを溶解して金地金にしても金の重量は同じままである。そして,国境を越えた世界市場では,鋳貨という〈国民的制服〉を脱ぎ捨てた金地金が流通する。〉 (同271頁)
 

◎第2パラグラフ(流通過程における金鋳貨の名目純分と実質純分の分離)
 

【2】〈(イ)要するに、金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができるのである(81)。(ロ)しかし、鋳造所からの道は同時に坩堝(ルツボ)への道でもある。(ハ)すなわち、流通しているうちに金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく摩滅する。(ニ)金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。(ホ)同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。(ヘ)流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。(ト)18世紀までの中世および近世の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。(チ)鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。〉 

  (イ) つまり、金鋳貨と金地金とは、もともとそれらの形態によって区別されるだけで、金は、いつでも一方の形態から他方の形態に変わることができます。 

  すでに言いましたように、金鋳貨というのはそれぞれの国境で区切られた国内でしか通用しません。だから世界市場に出て行く時にはその国民的制服を脱いで金地金にならなければならないと言いましたが、もともと金鋳貨も金地金も、いずれも金属の金としては同じもので、ただその形状が異なるだけです。だから金鋳貨はいつでも溶解されて金地金にすることができるわけです。
  ここから『資本論』では問題になっていませんが、『経済学批判』には出てくる「鋳造価格」という問題が生じます。次のように出てきます。 

  〈価格の度量標準としての金は、商品価格と同じ計算名であらわれ、したがって、たとえば1オンスの金は1トンの鉄と同じに3ポンド17シリング10ぺンス2分の1で表現されるので、このような金の計算名は、金の鋳造価格とよばれてきた。このことから、あたかも金はそれ自身の材料で評価され、他のすべての商品と違って国家の側からある固定した価格をあたえられるかのような、奇妙な考え方が生じた。一定の金重量の計算名の固定が、この重量の価値の固定と見まちがえられたのである。金は価格規定の要素として、したがってまた計算貨幣として役だつ場合には、なんらの固定した価格もたないだけでなく、そもそも価格というものをもたない。金が価格をもつためには、すなわち独特の一商品で一般的等価物としての自分を表現するためには、金以外のこの一商品が流通過程で金と同一の排他的役割を演じなければならないであろう。〉 (全集第13巻57-58頁) 

  なかなかこれだけでは分かりにくいと思いますので、大谷氏の説明を紹介しておきましょう。 

  〈他方,金地金は,国家の造幣局(鋳造所)にもっていけば,それを鋳貨に鋳造してもらうことができる。つまり,それだけの鋳貨と替えてもらうことができる。そこで,単位となる一定重量の金がどれだけの貨幣名の鋳貨と替えられるか,ということを「金の鋳造価格〔mint price〕と呼ぶことになった。たとえば,金1匁[モンメ](7.5g)を造幣局にもっていけば5円金貨を受け取ることができるとき,金1匁(7.5g)の鋳造価格は5円だ,と言われるのである。実際には,鋳貨に刻印される貨幣名が,それが含む金量を国家が確定した価格の度量標準にもとついて言い表したものであるかぎり,鋳造価格は,価格の度量標準を金の単位重量で言い換えたものにすぎない。たとえば,価格の度量標準が,金2分(750mg)=1円であるとき,金の鋳造価格は,1匁(3.75g)=5円である。だから,鋳造価格とは言っても、商品の価格、つまりそれの価値を貨幣商品で表現したものとはまったく違うものであることに注意しなければならない。〉 (271頁) 

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) しかし、鋳造所から出てくる道は、同時に、坩堝(ルツボ)に向う歩みでもあります。すなわち金鋳貨は、流通するうちに、程度の差こそあれ、次第に磨滅していきます。こうして、金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが分離する過程が始まります。同名の金鋳貨でも、重量が違うために価値が等しくなくなります。そこで、流通手段としての金は、価格の度量標準としての金から離脱し、したがってまた、それが価格を実現する諸商品の本当の等価物ではなくなります。 

  金属の金としては金鋳貨も金地金も同じだと言いましたが、しかし鋳貨形態にはそれに固有の問題があるのです。そもそも現実に流通している金鋳貨は、鋳造所で鋳造された時は確かに地金と同じ金純分を含んだものですが、しかし流通に一旦出てくるとそれは〈坩堝(ルツボ)への道でもある〉というのです。これは金鋳貨が鋳潰されて地金になるということですが、単にそうしたことではなく、鋳貨の含む金純分が流通しているうちに磨滅して減少してしまうので、あまりにも磨滅しすぎたものは鋳貨として通用しなくなり、流通から引き上げられて坩堝に投げ込まれて鋳直される必要がでてくるという意味なのです。
  だから金鋳貨は流通しているうちに、それぞれの鋳貨によって違いはありますが、次第に磨滅して、それが名目的に表しているもの(例えば1円=750㎎金)が、実際には1円金貨の含んでいる金純分が、例えば725㎎などと減ってくることになります。ではそうした1円金貨は通用しなくなるかというとそうではなく、やはりその磨滅した金貨もしばらくは1円金貨として通用するのです。だから同じ1円金貨でも、それが実際に含んでいる金純分はというと、金貨によってさまざまだということになります。しかしそれらはすべて同じように流通手段としての貨幣の機能を果します。だから流通手段としての金は、価格の度量標準としての金(これはもともと金純分にもとづいて決められたものです)と違ってくるのです。だから磨滅した金貨も、1円の商品の価格を実現しますが、しかしその商品の本当の等価物かというとそうではなくなるということになります。ここからいろいろな問題が生じてくることになります。
  この部分も大谷氏の説明を紹介しておきます。 

  〈さて,鋳貨は,流通のなかで人手から人手へと渡り歩いていくうちに,次第に摩滅せずにはいない。このことからいろいろ問題が生まれてくるばかりではなくて,鋳貨そのものの在り方に大きな変化をもたらすことになってくる。鋳貨の摩滅とは,それが実際に含んでいる金の量,つまり実質金量が,それの形状が言い表している金の量,つまり名目金量よりも少なくなっていくことである。
  同一額面の鋳貨でも,その摩滅の程度は異なるから,名目金量は同じでも,それよりもさまざまの程度に少ない金量しか含んでいない鋳貨が流通界にあるようになる。このことは,鋳貨が流通手段の機能を果たすことを妨げないであろうか。こうした摩損の程度が微量に留まるあいだは,なんの不都合もなく,摩損した鋳貨でも流通し続けることができる。しかし,そのように摩損した鋳貨の流通によって,新たな事態が生じていることになる。すなわち,売り手と買い手とのあいだでの〈決まり値〉がたとえば5円の商品でも,買い手が売り手に引き渡す5円鋳貨は5円よりも少ない金しか含んでいないという事態である。そのような鋳貨が流通し続けるのであれば,それが媒介する取引ではつねに,[実現されるべき価格>実現された価格]であり,買い手はつねに5円よりも少ない金で5円の商品を買っていることになる。〉 (271-272頁) 

  (ト) 中世および18世紀までの近世の鋳貨史は、このような混乱の歴史です。 

  『経済学批判』では次のように説明されています。 

  〈流通過程そのものによってひきおこされる金属貨幣のこのような第二の観念化、すなわちその名目的な実質〔純分〕と実在的な実質との分離は、一部は政府、一部は私的な投機家たちによって種々さまざまな貨幣変造に利用しつくされる。中世のはじめから一八世紀にはいってずっとあとまでの鋳貨制度の全歴史は、こういう二面的で敵対的な変造の歴史に帰着するのであって、クストディの編集したイタリアの経済学者たちの浩潮な論集は、大部分がこの点にかんするものである。〉 (同90頁) 

  この部分も大谷氏の説明を紹介しておきます。 

  〈磨滅鋳貨が流通手段の象徴と見なされるのは、それの一つ一つについてではなく、流通界にある、鋳貨の全体についてであるから、鋳貨の磨滅が著しくなると、鋳貨は一般的に、すでに磨滅しているものと見なされることになる。そうなると,一般の商品の売買では,そのような鋳貨が完全量目の鋳貨と同じものとして流通したとしても,金市場では,そのような鋳貨でそれが背負っている貨幣名だけの金を買うことができなくなる。なぜなら,金の売り手は,自分の金を造幣局に持ち込めば,完全量目の鋳貨を受け取ることができるのだからである。そこで,たとえば金地金1匁(3,75g)を買おうとすると,1匁(3.75g)の金を含んでいるはずの5円金貨では買うことができず,たとえば6円でなければ買えない,ということになる。つまり,金の市場価格(1匁=6円)が金の鋳造価格(1匁=5円)以上に上昇するのである。そうなると,金市場では,完全量目の鋳貨でさえも,この鋳貨の形態のままでは,それの地金の形態でよりも少ない重量のものとしてしか通用しないのだから、金市場でそれをもって金地金を買うよりも、それを鋳潰して金地金に戻すほうがいいということになる。 このような、金の鋳造価格を越える金の市場価格の持続的な騰貴が生じるほど、流通している金鋳貨の軽量化が一般的になると、反作用的に、普通の商品の流通部面でも、金鋳貨はどれも実際に,それが名目的に言い表している金量よりも少ない金量しか含んでいないものとして取り扱われることにならざるをえない。つまり、金市場で金の市場価格が上昇したのと同じ比率で一般の商品の価格が上昇することになる。国家による鋳貨の鋳造も,これまでの鋳造価格のままではやっていけなくなる。なぜなら,金地金は,造幣局にもちこめば,鋳造価格だけの金鋳貨しか受け取れないのに,金市場ではそれより高い市場価格だけの金鋳貨が入手できるからである。造幣局は,持ち込まれる金鋳貨については,厳密に計量して,同じ重量の金地金しか引き渡さないとしても,それでも完全量目の鋳貨が,金地金と引き換えるために引続き持ち込まれてくる。なぜなら,金市場では同じ重量でも,金地金のほうが完全鋳貨よりも価値が多いものとして通用するのだからである。このようになると、国家は、これまでの貨幣名が名目的に言い表していた金量を、その貨幣名の鋳貨が市場でで実際に通用しているだけの金量に切り下げるほかはなくなる。それはつまり、法定の価格の度量標準を切り下げるということである。そしてそれは同時に、金の市場価格の水準にまで金の鋳造価格を切り上げるということであり、金はそれからは、この新しい鋳造価格で、つまり新しい価格の度量標準に従って鋳造されることになる。
  約言すれば、この一連の過程は、金が流通手段として〈理想化〉され、流通手段としての機能的定在において自立化したとことによって、反作用的に、価格の度量標準としての金量が変更されていく過程なのである。この過程の終点は、また新たな同じ過程の出発点になる。こうして、金は、価格の度量標準としての機能においても、流通手段としての機能においても、不断の変更をこうむることになる。ポンドでもフランでもそうであるが、それらが言い表す金量がたえず減少してきたのにもともとの貨幣名が残っているのは、こうした事情によるのである。〉 (275-277頁) 

  (チ) 流通過程にはこのように、鋳貨の金存在を金仮象に転化させる、すなわち鋳貨をその公称金属純分のシンボルに転化させるという、自然発生的な傾向があるわけですが、このことは、一個の金貨を通用不能にし廃貨とする金属目減りの程度、すなわち通用最軽量目を規定する最も近代的な法律によっても認められているところです。 

  流通過程では、金貨は、それに刻印されている名称(例えば1円=750㎎の金)とは違った実質をもつようになります。だから実際に流通している金貨は、ただ公称する金属純分の象徴(シンボル)になるわけです。{ここでついでに指摘しますと、〈鋳貨の金存在を金仮象に転化させる〉という一文は新日本新書版では〈鋳貨の金存在(ザイン)を金仮象(シャイン)に転化させる〉と、わざわざザイン〔sein〕とシャイン〔Schein〕というドイツ語表記を紹介してマルクスの表現上の工夫が分かるように訳しています。}こうしたことから、政府は、一つの金貨の磨滅の程度によってそれを流通から引き上げて廃貨する基準、金貨として通用する最軽量の量目を法律で決めることになるのです。『経済批判』には次のような説明があります。 

  〈たとえばイギリスの法律によれば、0.747グレーン以上の重量を失ったソヴリン金貨は、もはや法定のソヴリン金貨ではない。1844年と1848年とのあいだだけでも4800万個のソヴリソ金貨を測ったイングランド銀行は、コットン氏の金秤という機械をもっているが、この機械は2個のソヴリン金貨のあいだの100分の1グレーンの差を感じとるだけでなく、まるで理性ある生物のように、量目の足りないソヴリン金貨をただちに台のうえにはじきだし、そこでそれは別の機械のなかにはいって、東洋的なむごたらしさで寸断されてしまうのである。〉 (同91頁) 

  これも大谷氏の説明を紹介しておきます。 

  〈金鋳貨が流通しているかぎり,このような過程の進行を完全に避けることはできないが,国家は,実質金量の減少が或る程度にまで達した鋳貨は鋳貨としての資格を失う,という法律をつくることによって,そのような鋳貨の回収をはかり,鋳貨のそれ以上の軽量化とその事実的固定化を阻しようとする。これが〈通用最軽量目〔loast current weight〕〉の規定である。たとえば、1897年に制定ざれ、1980年に停止されたわが国の「貨幣法」では、それぞれの金貨幣の量目が法定の量目よりも0.55%を下回った鋳貨は貨幣として通用しないものとし、それらの鋳貨は手数料なしに完全量目の鋳貨と引き換えると規定していた。ただし、人為的に傷つけられたと認められるものはその対象外とすることで、盗削などによって軽量化された鋳貨の持ち込みを防ごうとしていた。〉 (同277頁)
 

◎注81
 

  【注81】〈(81)(イ)造幣手数料やその他の細目を論ずることは、もちろん、まったく私の目的外のことである。(ロ)だが、「イギリス政府が無料で鋳造する」という「たいした気まえのよさ」〔44〕を賛嘆するロマン主義のへつらいものアダム・ミュラーにたいしては、サー・ダッドリ・ノースの次のような批判がある。(ハ)「金銀には、他の諸商品と同じに、その干満がある。スペインから多量に到着すると……それは造幣所に運ぼれて鋳造される。やがて輸出されるために地金にたいする需要が再び現われるというのに。もし地金がなくて、たまたま全部が鋳貨になっているとすれば、どうなるか? 再びそれを鋳つぶす。そうしても損はない。というのは、鋳造は貨幣所有者に少しも費用をかけないからである。こうして、国民はひどいめにあわされ、ろばに食わせるために藁(ワラ)をなう費用を支払わされた。もし商人が」(ノース自身もチャールズ2世時代の最大の商人の1人だった)「鋳造料を支払わされたとすれば、彼はよく考えずに彼の銀を造幣所に送ることはしなかったであろう。そして鋳造された貨幣はつねに未鋳造の銀よりも高い価値を保つであろう。」(ノース『交易論』、18ページ。〔久保訳『バーボン=ノース交易論』、106ページ。〕)〉

 

  (イ)(ロ) 造幣手数料やそのたぐいの細目を論ずることは、もちろん、まったく私の目的外のことです。けれども、「イギリス政府が無料で鋳造する」という「たいした気まえのよさ」を賛嘆するロマン主義のへつらいものアダム・ミュラーにたいしては、サー・ダッドリ・ノースの次の批判を掲げておきましょう。 

  鋳造手数料などの細かいことを論じることは必要はないと思いますが、アダム・ミュラーが政府にへつらって「イギリス政府は無料で鋳造する」と「大した気前のよさ」を称賛していることについては、サー・ダッドリ・ノースの次の批判を紹介しておきましょう。
  アダム・ミュラー(1779-1829)については『経済学批判』の人名索引に〈ドイツの政論家,経済学者.封建貴族の利益におうじた,いわゆるロマン派経済学の代表者.アダム・スミスの学説の反対者〉という説明があります。また『経済学批判』の本文の注のなかではこてんぱんに批判されています(付属資料参照)。そのなかでマルクスは皮肉を込めて次のように述べています。 

  〈A.ミュラーがとくに経済学のいわゆる高度の理解に達するのを可能にした事情は二つあった。一つは、経済的諸事実についての彼の広範な無知、いま一つは、哲学にたいする彼のたんなるディレッタント的な惑溺である。〉 (56頁) 

  (ハ)(ニ) 「金銀には、他の諸商品と同じに、その干満がある。スペインから多量に到着すると……それは造幣所に運ぼれて鋳造される。やがて輸出されるために地金にたいする需要が再び現われるというのに。もし地金がなくて、たまたま全部が鋳貨になっているとすれば、どうなるか? 再びそれを鋳つぶす。そうしても損はない。というのは、鋳造は貨幣所有者に少しも費用をかけないからである。こうして、国民はひどいめにあわされ、ろばに食わせるために藁(ワラ)をなう費用を支払わされた。もし商人が」(ノース自身もチャールズ2世時代の最大の商人の1人だった)「鋳造料を支払わされたとすれば、彼はよく考えずに彼の銀を造幣所に送ることはしなかったであろう。そして鋳造された貨幣はつねに未鋳造の銀よりも高い価値を保つであろう。」(ノース『交易論』、18ページ。〔久保訳『バーボン=ノース交易論』、106ページ。〕) 

  ノースの『交易論』からの抜粋は原注77でも出てきました。そこでノースについては『資本論辞典』の説明を紹介しておきました。
  先の原注でもノースが洞察力のある理論家であることを指摘しましたが、ここでもそもそも鋳造費用を地金所有者が支払うことになるなら、彼は安易に地金を造幣所に送ることはしない、もしそんなことになるなら、鋳造された貨幣はつねに未鋳造の地金より価値が高くなるがそんなことはありえない等々と批判しています。ここでノースが〈こうして、国民はひどいめにあわされ、ろばに食わせるために藁(ワラ)をなう費用を支払わされた〉と述べているのは、鋳造費用は政府が負担するが、結局、その費用は国民に押しつけられるのだということではないかと思います。
  なお全集版では〈彼はよく考えずに彼の銀を造幣所に送ることはしなかったであろう。〉となっていますが、新日本新書版では〈彼は思慮もなしに彼の銀をロンドン塔に送りはしなかったであろう。〉となっています。初版やフランス語版も新書版と同じようになっていますので、恐らくマルクスの原文では〈ロンドン塔〉になっているのだと思います。全集版をそれを分かりやすくするために〈造幣所〉としたのだと思います。というのは当時(19世紀のはじめまで)造幣所がロンドン塔内にあったからです。

 (ブログの字数制限をオーバーしましたので、全体を3分割して掲載します。続きは(2)へ。)

 

 

 

 

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『資本論』学習資料No.17(通算第67回)(2)

2019-12-12 17:04:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.17(通算第67回)(2)


◎第3パラグラフ(金鋳貨から補助鋳貨がでてくる歴史的・技術的事情)

【3】〈(イ)貨幣流通そのものが鋳貨の実質純分を名目純分から分離し、その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば、貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き替えられるという可能性を、潜在的に含んでいる。(ロ)金または銀の微小な重量部分を鋳造することの技術上の障害、また、最初はより高級な金属のかわりにより低級な金属が、金のかわりに銀が、銀のかわりに銅が価値尺度として役だっており、したがってより高級な金属がそれらを退位させる瞬間にそれらが貨幣として流通しているという事情は、銀製や銅製の章標が金鋳貨の代理として演ずる役割を歴史的に説明する。(ハ)これらの金属が金の代理をするのは、商品流通のなかでも、鋳貨が最も急速に流通し、したがって最も急速に摩滅するような、すなわち売買が最小の規模で絶え間なく繰り返されるような領域である。(ニ)これらの衛星が金そのものの地位に定着するのを阻止するために、金のかわりにこれらの金属だけが支払われる場合にそれを受け取らなければならない割合が、法律によって非常に低く規定される。(ホ)いろいろな鋳貨種類が流通する特殊な諸領域は、もちろん、互いに入りまじっている。(ヘ)補助鋳貨は、最小の金鋳貨の何分の一かの支払のために金と並んで現われる。(ト)金は、絶えず小額流通にはいるが、補助鋳貨との引換えによって同様に絶えずそこから投げ出される。(82)〉

  (イ) 貨幣流通そのものが、鋳貨の実質純分を名目純分から分離させ、それの金属としての存在をそれの機能するものとしての存在から分離させるのだとすれば、貨幣流通は、鋳貨機能を果たしている金属貨幣を、金属以外の材料から成っている章券や、もろもろのシンボルによって置き替えられるという可能性を、潜在的に含んでいることになります。

  流通過程では、金鋳貨はその身をすり減らし、それが名目的に表している金属純分から分離して行きます。ということは、実際に流通している磨滅した金鋳貨は、それが名目的に表している金貨幣の象徴になって流通手段として機能していることを意味します。だからこうした流通手段として機能するだけのものでしたら、鋳貨としての金属貨幣を、金属以外のものによって置き換えられる可能性を潜在的に含んでいることを意味します。
  大谷氏の説明です。

  〈しかし,このような規定(通用最軽量目という規定--引用者)によって,流通手段としての機能的定在への鋳貨の自立化の過程を完全に阻止することはできないばかりではなく、このような規定そのものが、金の摩滅がきわめて急速な流通部面,つまり商品の売買がきわめて小規模にしかもたえず繰り返される流通部面では,金鋳貨の流通を妨げることになる。そこで,完全量目の金貨の象徴(シンボル)として,同じ重量で金よりも少ない価値しかもたない銀や銅で作られた鋳貨,銀鋳貨や銅鋳貨が人為的に投入される。そのような部面で金貨幣が流通しなければならなかったであろう貨幣額までは,金貨幣は,このような象徴的な鋳貨によって置き換えられることができる。象徴的な鋳貨は.それらの一つ一つが金貨幣の一つ一つに置き代わる、というようにして流通するのではなく、そのような部面のなかではそれらの鋳貨の総体がすべて象徴的な鋳貨として機能することができるのである。つまり、それらの〈章標〉が金鋳貨を代理することができるのである。こうして、価値尺度として機能している商品からなる鋳貨、すなわち〈本位鋳貨〉のほかに,それ以外の金属材料からなる鋳貨が流通するようになる。〉 (277-278頁) 

  (ロ) 歴史的には銀製や銅製の章券が金鋳貨の代理としての役割を果たしましたが、このことは、一つは、金または銀の微小な重量部分を鋳造することが技術的に困難であったことから、また一つは、最初はより高級な金属ではなくてより低級な金属が、つまり金ではなくて銀が、銀ではなくて銅が価値尺度として役だっていたので、より高級な金属がより低級な金属を退位させた時点でも、より低級な金属が貨幣として流通していた、という事情から説明されます。

  歴史的にはこうした代替物は、銀製や銅製のものが現われましたが、それは小口取り引きで必要とされる少額の価値を表すわずかの金を鋳貨として鋳造することの技術的な困難があったことが一つの理由です。もう一つの理由は、たいていの国で、最初はより低級の金属である銅が、そしてそのあと銀が価値尺度として通用していたからです。そしてより高級な金属が低級な金属を価値尺度の地位から奪っても、より低級な金属が貨幣として通用していたという事情から説明されるのです。
  この部分は『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈補助鋳貨が銀や銅などの金属表章から成りたっているのは、おもにこういう事情、イングランドでの銀、古代ローマ共和国、スウェーデン、スコットランド等での銅のように、たいていの国でははじめは価値の低い金属が貨幣として流通していたのに、あとになって流通過程がそれを補助貨の地位に引きおろして、その代わりにもっと価値の高い金属を貨幣とした、という事情に由来している。そのうえに、金属流通から直接に生じる貨幣象徴がさしあたりそれ自身また一つの金属であったのも、当然のことである。〉 (94頁)

  (ハ) より低級なこれらの金属が金に置き換わるのは、商品流通のなかでも、鋳貨が最も急速に流通し、したがってまた最も急速に摩滅するような、すなわち売買が最小の規模でたえまなく繰り返されるような領域です。

  こうしたより低級な金属が金に置き換わるのは、すでに述べましたように、小口の取り引きが行なわれる部面です。そこでは売買が最小の規模でたえまなく繰り返され、商品流通が活発であるため、鋳貨ももっとも急速に流通し、それだけ急速に磨滅するからです。

  (ニ) これらの衛星が金そのものの地位に定着するのを阻止するために、金のかわりにこれらの金属だけが支払われる場合にそれを受け取らなければならない比率が、法律によって非常に低く規定されます。

  これらの金鋳貨に代わって流通する補助鋳貨は金鋳貨と一緒に流通し、いわば金鋳貨の周りを回る衛星のようなものですが、しかしそうした衛星が大量に出回って金鋳貨の地位を脅かすほどになるのを防ぐために、金鋳貨の代わりにこれらの補助的な鋳貨だけが支払われる場合にはその比率が法律によって制限されて、非常に低く規定されているのです。これも『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈金鋳貨はそれの貨幣としての資格を奪う金属滅失の法律規定によって、鋳貨としての機能に固定することを妨げられているのであるが、逆に銀表章や銅表章は、それらが法律上実現する価格の程度を規定されているので、自分の流通部面から金鋳貨の流通部面に移って、貨幣として固定するのを妨げられている。たとえばイギリスでは、銅貨はわずか6ペンスの額まで、銀貨はわずか40シリングの額まで、支払にさいして受け取る義務があるだけである。〉 (93頁)

  またこの部分に関連する大谷氏の説明も紹介しておきます。

  〈しかし,銀貨や銅貨が無制限に流通にはいり,しかも小規模流通部面を越えて高額取引の部面にまで侵入するようになれば,金鋳貨ないし金地金は姿を消して,取引はもっぱら銀・銅貨によって行なわれるようになり,それらが金の独占的な地位を奪いとることになる可能性があるので,法律で,それらの鋳貨によって支払われる場合に一回の支払で受け取らなければならない貨幣額をきわめて低く限定することが行なわれる。たとえば、わが国の貨幣法では、銀貨は10円まで、ニッケル貨は5円まで、青銅貨は1円までが〈法貨〉として通用するものとしていた。つまり,受け取り手は,これらの額を越える金額については,これらの鋳貨で受け取ることを拒否して,金貨での支払を請求することができたのである。このように〈本位貨幣〉以外の鋳貨は,補助的な流通手段であるから,〈捕助鋳貨〉と呼ばれるのである。〉 (278頁)

  (ホ)(ヘ)(ト) 違った鋳貨種類が流通するもろもろの特殊な圏域--例えば主として大口取引が行われる圏域と小売りの圏域--は、もちろん、互いに交錯しています。補助鋳貨は、最小の金鋳貨の何分の一かの支払のために、金と並んで現われます。金は、絶えず小口の流通にはいりこみますが、補助鋳貨と引換えられることによって、同様にたえず小口の流通から投げ出されます。

 こうして実際の商品流通においては、金鋳貨と並んでさまざまな種類の補助鋳貨が流通しています。しかし流通には主に大口の取り引きが行なわれるところと主に小口の取り引きが行なわれるところとがあり、互いに混在しています。補助鋳貨はもっぱら小口の小売りの領域で使われ、あるいは金鋳貨での支払の端数を埋めるものとして使われます。金鋳貨もたえず小口の流通に入り込みますが、すぐに小口取り引きでは便利な補助鋳貨に両替えされて、小口の流通から吐き出されるのです。

◎注82

【注82】〈(82)「もし銀貨が、小額支払用に必要な量をけっして越えないならば、それを集めても大額支払用に十分な量にすることはできない。……大口の支払での金の使用は、必然的に、小売取引での金貨の使用をも含んでいる。金貨をもっている人々は、小額の買い物でもそれを差し出して、買った商品といっしょに釣銭を銀貨で受け取るからである。こういうやり方で、そうでなければ小売商人を悩ますであろうこの余分な銀貨が引きあげられて、一般的流通に散布されるのである。しかし、もし金貨に頼らずに小額の支払を処理できるほど多くの銀貨があるとすれば、小売商人は小額の買い物にたいしては銀貨を受け取らなければならない。そうすれば、銀貨はどうしても彼の手にたまらざるをえないのである。」(デーヴィッド・ビュキャナン『イギリスの租税および商業政策の研究』、エディンバラ、1844年、248、249ページ。)〉

  この原注は先のパラグラフの末尾につけられたものですが、主要には〈いろいろな鋳貨種類が流通する特殊な諸領域は、もちろん、互いに入りまじっている。補助鋳貨は、最小の金鋳貨の何分の一かの支払のために金と並んで現われる。金は、絶えず小額流通にはいるが、補助鋳貨との引換えによって同様に絶えずそこから投げ出される〉という文章全体に対する注ではないかと思います。
  すべてがビュキャナンの著書からの抜粋なので、平易な書き下しは不要と思います。
  ビュキャナンは金鋳貨と補助鋳貨の銀貨とが実際に商品流通で〈互いに入りまじっている〉さまを、〈補助鋳貨は、最小の金鋳貨の何分の一かの支払のために金と並んで現われる〉ことを具体的に紹介しているように思えます。しかしその内容には特に解説を必要とするものはないと思います。ここではビュキャナンについて『資本論辞典』の説明を簡略化して紹介しておきましょう。

   〈ビュキャナン、David Buchanan(1779-1848)スコットランドの経済学者・ジャーナリスト。経済学者としては、スミスの『国富論』の新しい版を編集。『国富論』の新しい版におけるピュキャナンは,経済学史の上からいえば, リカードと同じように,大体において, 1776年に公けにされたスミスの『国富論』における経済学説を継承擁護し,かつその不備な点を訂正して.経済学を前進せLめるべき立場に立ち,そして事実そのような功績のあった人であったが,ただしリカードには及ばず, したがってA ミスからリカードへの発展の途上における一中間項となった人ということができる.そのようなビュキャナンの功績の最大のものは,地代の性質の一部を解明Lたことである.ビュキャナンには,累進税制弁護論をもふくめて,なおこのほかにもいくつかの功績が数えられている. 非科学的批判にたいしてスミスの学説を弁護していることも,その一つといえよう.しかしビュキャナンには.一方において欠陥や,特にスミスより退歩したところもあった.スミスにおける労働による価値の規定およびそれを基礎とする利潤等の説明を理解せず.むしろそれを否認したこと.賃銀は労働力の需給関係によって規定され.食糧の価格に依存しないと考えていたこと.賃銀の騰貴は工業生産物の価値を騰貴せしめると考えていたこと,農業生産物は地代を支払うがゆえに独占価格をもつと考えていたこと等が,その主なものである. マルクスも彼の二つの著書にいく度か言及している.そLて地代の性質をあきらかにし,それを基礎として.フィジオクラートやスミスの誤りを訂正した点を称揚し,'フィジオクラートの偉大なる反対者'といっており、また貨幣.賃金,本源的蓄積,生産的労働関係の細目をあきらかにした功績を認めている。(末永茂喜)〉(534-535頁)

◎第4パラグラフ(補助鋳貨から紙券へ)

【4】〈(イ)銀製や銅製の章標の金属純分は、法律によって任意に規定されている。(ロ)それらは、流通しているうちに金鋳貨よりももっと速く摩滅する。(ハ)それゆえ、それらの鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。(ニ)すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。(ホ)金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。(ヘ)つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができる。(ト)金属製の貨幣章標では、純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されている。(チ)紙幣では、それが一見してわかるように現われている。(リ)要するに、困難なのはただ第一歩だけだ〔ce n'est que le premier pas qui coùte〕というわけである。〉

  (イ) 銀製や銅製の券の金属純分は、法律によって任意に規定されています。

  金鋳貨は度量標準にしたがって、その金属純分によってそれに刻印される名称が決まってきます。例えば金750㎎が1円というように。しかし補助鋳貨である銀製や銅製の標章の場合は、それがどれだけの金属純分を含んでいるかは、政府によって任意に決められています。つまり補助鋳貨に刻印されている名称は、その金属純分(銀や銅)の量とはその限りでは無関係なのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) それらは、流通しているうちに金鋳貨よりももっと速く摩滅します。ですから、それらの鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものに、すなわち、およそ価値とはかかわりのないものになります。

  補助鋳貨はすでに述べましたように、主に小売りの小口取り引きで使われるために、目まぐるしく人の手から手へ移されることから、金鋳貨よりより一層磨滅します。ですから、それらの鋳貨としての機能は、ますますその重量とはかかわりのないものに、つまりそれが持っている価値とは何の関係もないものに事実としてもなってきます。

  ここらあたりの大谷氏の説明です。

  〈補助鋳貨は,金属材料でできており,社会的必要労働時間によって規定される一定の価値をもっている。しかし,それらが金鋳貨の象徴であるのは,それらがそれだけの価値をもっているからではなく,むしろ逆に金鋳貨ほどの価値をもっていないからこそ,象徴の地位にとどまって,金の代理をすることができるのである。だから,補助鋳貨については〈通用最軽量目〉の規定はありえない。補助鋳貨は,むしろなんらの価値をもつ必要もないのでである。〉 (278頁)

  (ホ)(ヘ) 金の鋳貨としての存在はそれの価値実体から完全に離れます。だから、相対的に無価値なもろもろの物が、つまりはもろもろの紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができるのです。

  こうして金の鋳貨としての存在は、まずはその磨滅から名目純分と離れ、補助鋳貨としては金そのものから離れて象徴化しますが、ますます相対的に無価値なもろもろの物がそれにとって代わり、ついには何の価値ももたない紙券が、金に代わって鋳貨として機能することになります。
  この部分はフランス語版ではここで改行が入り、次のようになっています。

  〈それにもかかわらず、そしてこれが重要な点であるが、それらは金鋳貨の代理人として機能しつづける。自己の金属価値から全面的に解放された金の鋳貨機能は、金の流通自体の摩擦によって産み出された現象である。金はこの機能では、紙券のような相対的になんの価値もない物によって、代理されうる。〉 (江夏・上杉訳107頁)

  (ト)(チ) 金属製の貨幣章券では、純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されています。紙幣では、そうした性格が一見してわかるように現われています。

  補助鋳貨としての銀貨や銅貨では、まだそれらが金属からなっていることから、それらが金鋳貨のたんなるシンボルであるということはいくらか隠されています。しかし紙券になると、そうした性格が一見してわかるようになっています。
  ここらあたりの大谷氏の説明です。

  〈そこで,紙券のような相対的に無価値なもの、つまり金属鋳貨と比べれば無価だと言ってもいいほど価値がないものが、金に代って鋳貨として機能することができるのである。金属製の象徴的貨幣では,わずかとはいえそれらが価値をもっているがゆえに,それの純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されている。紙幣では,それが一見してわかるように現われている。〉 (278-279頁)

  (リ) 「つらいのは最初の一歩だけ」〔ce n'est que le premier pas qui coùte〕というわけです。

  このフランス語の直訳は「費用がかるのは最初の一歩のみ」となるそうですが、なぜ、この一文が最後についているのでしょうか。
  これは金鋳貨が最初に流通過程に一歩踏み込んだ瞬間から、その象徴化への道を歩みだすのだ、ということを言いたかったのではないかと思います。『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈国内流通の一定の部面で金鋳貨を代理する銀表章と銅表章とは、法定の銀実質〔純分〕と銅実質とをもってはいるが、流通に引きこまれると、それらは金鋳貨と同じように摩滅し、それらの流通の速度と絶えまなさにおうじて、もっと急速に観念化され、たんなる影のからだとなる。ところで、もしふたたび金属喪失の限界線がひかれて、その線に達すると銀表章と銅表章は、それらの鋳貨の性格を失うものとすれば、それらの表章は、自分自身の流通部面そのものの一定の範囲内で、さらに他の象徴的貨幣、たとえば鉄や鉛によって置き換えられなければならないであろうし、象徴的貨幣の他の象徴的貨幣によるこのような表示は、終わりのない過程であろう。だから流通の発達したすべての国では、貨幣流通そのものの必要から、銀表章と銅表章との鋳貨性格は、それらの金属滅失の程度とは無関係とされざるをえないのである。そこでことの性質上当然のことであるが、それらが金鋳貨の象徴であるのは、それらが銀または銅でつくられた象徴であるからではなく、またそれらがある価値をもっているからではなく、かえってなんらの価値をももっていないかぎりでのことだ、というように現われる。
  こうして、紙券のような相対的に無価値なものが、金貨幣の象徴として機能できるのである。〉 (全集第13巻93-94頁)

  最後に大谷氏の説明も紹介しておきます。

  〈さて,いつでも小額流通を媒介するために流通しなければならないはずの金の部分が金属の小額補助鋳貨によって置き換えられることができるのとまったく同様に,いつでも国内流通の部面で流通しなければならないはずの金の部分は,さまざまの種類の紙製の無価値な章標によって置き換えられることができる。ここでも、それらの紙券は、その一つ一つが金鋳貨の一つ一つに置き代わる、というようにして流通するのではなくて、流通しなければならないはずの金貨の量の範囲内で、それらの総体がすべて金貨幣の象徴として通用するものとなっているのである
  このようにして、金属鋳貨の名目純分と実質純分とのあいだの、最初のうちは目に見えない差異が、絶対的分離にまで進むことができる。諸商品の価値が、諸商品の交換過程を通じて、金貨幣に結晶したのと同じように、金貨幣は、流通のなかで、はじめは磨滅した金鋳貨の形態をとり、次には補助金属鋳貨の形態をとり、そして最後には無価値な紙券の形態をとって、それ自身の象徴に昇華していく。こうして、貨幣の鋳貨名は、貨幣の金属実体から離れて、無価値な紙券のうちにあることになる。〉
(279頁)

◎第5パラグラフ(問題にするのは強制通用力のある国家紙幣だけである)

【5】〈(イ)ここで問題にするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。(ロ)それは直接に金属流通から生まれてくる。(ハ)これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られていな諸関係を前提する。(ニ)だが、ついでに言えば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源をもっているのである。83〉

 (イ)(ロ) ここで問題にするのは、強制通用力をもつ国家紙幣だけです。それは金属流通から直接に生まれてきます。

  さて私たちはこれから紙幣について、その流通の独自の法則を問題にするのですが、私たちがここで扱うものは、国家によって強制通用力を与えられた国家紙幣だけです。紙幣はすでに見ましたように、金鋳貨の流通手段の機能から生まれてきます。
 ここで〈強制通用力〉という言葉が出てきますが、『経済学批判』には次のような一文があります。

 〈相対的に無価値なある一定のもの、革片、紙券等々は、はじめは慣習によって貨幣材料の章標となるのであるが、しかしそれがそういう章標として自分を維持できるのは、象徴としてのその定在が商品所有者たちの一般的意志によって保証されるからにほかならず、すなわちそれが法律上慣習的な定在を、したがって強制通用力を受け取るからにほかならない。強制通用力をもつ国家紙幣は、価値章標の完成された形態であり、金属流通または単純な商品流通そのものから直接生じる紙幣の唯一の形態である。〉 (全集第13巻96頁)

  これを見るとまずは紙券が金鋳貨の章標となるのは、最初は慣習によるが、しかしその章標としての定在を維持できるためには、交換当事者である商品所有者たちの一般的意志によって保証されことが必要であり、さらにはそれが法律的慣習的な定在となることによって、強制通用力を持つことがわかります。国家紙幣とは、国家が商品所有者たちの一般的意志を代表して、法律によって強制通用力を保証するものといえます。
  これに関連する大谷氏の説明も見ておきましょう。

  〈ここで〈紙幣〉と呼んでいるのは,ただ,〈強制通用力〉(それで支払われれば受け取らなければならないという強制力)をもった〈国家紙幣〉だけである。無価値な紙券が貨幣章標として流通するためには,それを金の象徴と認める商品所持者たちの共通の意志が必要なので,国家が法によって,強制通用力というかたちで,紙券に客観的に社会的な妥当性を与えるのである。一見すると、紙券はただ強制通用力という国家による強制によってだけ流通するかのように見えるが、実際には、流通手段としての貨幣が自立化されて、金属実体から分離された機能的な存在様式を受け取ることができるところにその流通の根拠があるのであって、強制通用力は、その象徴性を社会的に保証するものにすぎない。価値章標としての紙幣は、商品流通そのものが生み出すものであって、人びとの合意や国家意志によって生み出されるものではないのである。〉 (280-281頁)

 (ハ) これに反して、信用貨幣は、私たちがいま立っている単純な商品流通の立場ではまだまったく知られていない諸関係があって、はじめて生まれるものです。

  それに対して、信用貨幣、これは銀行券だけではなく、手形や小切手などの商業貨幣もそれに含まれますが、そうしたものは私たちがいま扱っている単純な商品流通のなかではまだまったく知られていない諸関係があってはじめて生まれてくるものであり、そこで解明されるべきものです。これも『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  信用貨幣は、社会的生産過程のもっと高い部面に属するものであって、まったく別の諸法則によって規制される。象徴的紙幣は、実際には補助的金属鋳貨と全然違うものではなく、ただもっと広い流通部面で作用するだけである。〉 (同96頁)

  〈象徴的紙幣は、実際には補助的金属鋳貨と全然違うものではな〉い、というのは、これまでの金鋳貨からその補助貨幣としての銀貨や銅貨、そしてさらに紙幣へという展開を考えるなら納得が行きます。いずれも金鋳貨の象徴であり、ただその材料が異なるに過ぎないだけですが、ただここでは紙幣の方が〈もっと広い流通部面で作用する〉とその違いが述べられています。これは例えばこのあとで紹介する『資本論』第1部「b 支払い手段」からの引用文を参照して頂ければ分かると思います。そこには〈この形態にある貨幣は大口商取引の部面を住みかとし、他方、金銀鋳貨は主として小口取引の部面に追い帰されるのである〉とあります。

  これに関連する大谷氏の説明を紹介しておきましょう。

  〈ふつうわれわれが〈紙券〉と呼んでいるものには、このほかに銀行券がある。銀行券とは,もともとは,発行銀行がそれをその券面に書かれている貨幣量と無条件に交換する(兌換する)ことを約束した紙券であった。このような〈兌換銀行券〉は,信用制度あるいは銀行制度という,ここではまだまったく論じることができない高度に複雑な資本主義的機構のもとで生まれてくるものであるから,本格的には,信用制度あるいは銀行制度を論じるところで説明することにしよう。しかし,国家紙幣が流通手段としての貨幣の機能かち生じるのにたいして,銀行券の流通の根拠は、のちに見る支払手段としての貨幣の機能にあるので、支払手段のところでも,銀行券に簡単に触れるであろう。〉 (280頁)

  (ニ) でも、ついでに言っておけば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように、信用貨幣は、このあとすぐに見る、支払手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源があるのです。

  ただいつでに述べておくと、本来の紙幣がすでに言いましたように、流通手段としての貨幣の機能から生まれるのに対して、信用貨幣は、このあと「第3節 貨幣」の「b 支払手段」のところで問題になる支払手段としての貨幣の機能に自然発生的な根源があるのです。といってもそこで信用貨幣が直接問題になるわけではありません。あくまでも自然発生的な根源がそこにあるということです。
  少し先走りしますが、『資本論』第1部「b 支払い手段」の一節を紹介してきましょう。

  〈信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品にたいする債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。他方、信用制度が拡大されれば、支払手段としての貨幣の機能も拡大される。このような支払手段として、貨幣はいろいろな特有な存在形態を受け取るのであって、この形態にある貨幣は大口商取引の部面を住みかとし、他方、金銀鋳貨は主として小口取引の部面に追い帰されるのである。〉 (全集第23巻a182頁)

  大谷氏の説明を最後に紹介しておきます。

  〈要するに,ここで紙券として国家紙幣だけを取り上げたのは,これだけが,金属貨幣が流通を媒介している単純な商品流通そのものから生まれてくる紙券であって,それ以外の,兌換銀行券,不換銀行券,等々は,社会的生産過程のもっと高度な部面、つまり資本主義的な生産過程のもとで形成される信用制度に属するものだからである。〉 (281頁)

◎注83

【注83】〈83 (イ)財務官の王茂蔭〔一九世紀の中ごろの清朝の戸部侍郎〕は、シナの国家紙幣を兌換銀行券に変えることをひそかなねらいとした一案を天子に呈しようと思いついた。(ロ)1854年4月の紙幣委員会の報告では、彼は手ひどくきめつけられている。(ハ)例によって、彼が竹の答でめちゃくちゃにたたかれたかどうかということまでは、述べられてはいないが。(ニ)報告は最後に次のように述べている。(ホ)「委員会は、彼の案を入念に検討した結果、この案ではいっさいが商人の利益になってしまい皇帝に有利なものはなにもないということを見いだした。」(『北京駐在ロシア帝国公使館のシナに関する研究』。ドクトル・K・アーベルおよびF・A・メクレンブルクによるロシア語からの翻訳。第1巻、ベルリン、1858年、54ページ。)(ヘ)流通による金鋳貨の不断の摩滅について、イングランド銀行の或る「総裁」は、「上院委員会」(『銀行法』に関する) で証人として次のように述べている。(ト)「毎年一部の新しいソヴリン」(政治上のそれではなく、ソヴリンとはポンド・スターリングの名称である) 「が軽すぎるようになる。ある年に量目十分として通る部類が、翌年は天秤の反対側の皿が下がるほどまで摩滅してしまう。」(上院委員会、1848年、第429号。)〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 財務官の茂蔭〔一九世紀の中ごろの清朝の戸部侍郎〕は、中国の国家紙幣を兌換銀行券に変えることをひそかなねらいとした一案を天子に呈しようと思いつきました。1854年4月の紙幣委員会の報告では、彼は手ひどくきめつけられています。例によって、彼が竹の答でめちゃくちゃにたたかれたかどうかということまでは、述べられてはいませんが、報告は最後に次のように述べています。

  この原注83は第5パラグラフ全体への原注と考えられますが、あまり関連ははっきりしません。国家紙幣だけを問題にするということから、国家紙幣を兌換銀行券に変えようとした中国のある財務官の逸話が取り上げられていますが、その内容についても今一つ関連がそれほど明確とはいえないように思えます。ここで〈清朝の戸部侍郎〉というのは、19世紀中頃の清朝の財務大臣のことだそうです。
  結局、この財務官の狙いは、大臣の審議会にかけられて、退けられたようですが、その理由というのは次のようなもののようです。

  (ホ) 「委員会は、彼の案を入念に検討した結果、この案ではいっさいが商人の利益になってしまい皇帝に有利なものはなにもないということを見いだした。」(『北京駐在ロシア帝国公使館のシナに関する研究』。ドクトル・K・アーベルおよびF・A・メクレンブルクによるロシア語からの翻訳。第1巻、ベルリン、1858年、54ページ。)

  これは紙幣審議会の報告の最後に書かれているもののようですが、国家紙幣を兌換銀行券に変えようとするのは、商人だけを利して皇帝には益なしということのようです。確かに兌換銀行券だと国家の保有する銀あるいは金との交換が保証されることになり、その限りでは皇帝は恣意的に紙幣を発行することはできず、また金や銀との兌換が保証されれば、その「価値」の変動は制限され、紙幣が乱発されれば、紙幣の「減価」が生じて、商人にしわ寄せ生じるので、それが無くなることは商人に取って利益でしょう。ということはこの紙幣審議会は問題を正しく理解していたことになりますが、果たしてどうでしょうか。

  (ヘ)(ト) 流通による金鋳貨の不断の摩滅について、イングランド銀行の或る「総裁」は、「上院委員会」(『銀行法』に関する) で証人として次のように述べている。(ト)「毎年一部の新しいソヴリン」(政治上のそれではなく、ソヴリンとはポンド・スターリングの名称である) 「が軽すぎるようになる。ある年に量目十分として通る部類が、翌年は天秤の反対側の皿が下がるほどまで摩滅してしまう。」(上院委員会、1848年、第429号。)

  ここでは突然、〈流通による金鋳貨の不断の摩滅〉が問題にされています。これも第5パラグラフとの関連が今一つよく分かりません。しかし述べられていることはただ事実だけで、あまり論じる必要もないでしょう。ようするに金鋳貨は不断に磨滅しているという事実が議会証言で確認されているというだけですが、同じことは『経済学批判』でも次のように指摘されています。

  〈ジェーコブは、1809年にヨーロッパに存在していた3億8000万ポンド・スターリングのうち、1829年には、つまり20年のあいだに、1900万ポンド・スターリングが摩滅によって完全に消滅したと推定している。〉 (全集第13巻89頁)

  なお〈(政治上のそれではなく、ソヴリンとはポンド・スターリングの名称である)〉とあるのは単なる語呂合わせで、英語の「ソヴリン」は「君主」の意味ですが、同時に「ソヴリン」は1ポンド・スターリング貨幣の名称でもあるということです。また、ここで〈「上院委員会」(『銀行法』に関する)〉という部分は新日本新書版には『銀行法』ではなく、「商業不況」の誤りだという指摘があります。フランス語版は〈上院(銀行法委員会)に証人として召喚されたイングランド銀行総裁は〉となっています。これは何が正しいのかはよく分かりません。

 

   (付属資料は(3)に掲載します。)

 

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『資本論』学習資料No.17(通算第67回)(3)

2019-12-12 16:37:30 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.17(通算第67回) (3)

  

 【付属資料】 

 

●第1パラグラフ

 

《経済学批判》

  〈金は流通手段としてのその機能では、独自なかたちをとり、それは鋳貨となる。金はその流通を技術上の諸困難によって妨げられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々であらわされた金の重量部分をふくんでいることをその極印と形状とで示す金片が、鋳貨である。鋳造価格の決定ならびに鋳造の技術的事務も、国家の担当となる。計算貨幣としての貨幣がそうであるように、鋳貨としての貨幣も、地方的な政治的な性格をもち、いろいろな国の国語を語り、いろいろな国民的制服をまとう。だから、貨幣が鋳貨として流通する範囲は、ある共同社会の境界によってかこまれた国内的商品流通として、商品世界の一般的流通から区別される。〉(全集第13巻87頁)
  〈価格の度量標準または鋳造価格のたんに技術的な発展と、さらに金地金の金鋳貨への外面的な変形とは、それだけで国家の干渉をひきおこし、それによって国内流通が一般的商品流通からはっきり分離したのであるが、この分離は、鋳貨の価値章標への発展によって完成される。たんなる流通手段としては、貨幣は一般にただ国内流通の部面内においてだけ独立しうるにすぎない。〉(同96頁)

《初版》 

  〈流通手段としての貨幣の機能からは、貨幣の鋳貨姿態が生ずる。商品の価格すなわち貨幣名のうちに表象されている金の重量部分は、流通のなかでは、同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。価格の尺度標準の確定と同様に、鋳造の業務は国家に帰属している。金銀が鋳貨として身につけても世界市場では再び脱ぎ捨てるさまざまな国民服にあっては、商品流通の内的すなわち国民的部面とそれの一般的な世界市場部面とのあいだの分離が、現われている。〉(江夏訳118頁) 

《フランス語版》 

  〈鋳貨は、貨幣が流通手段として果たす機能から生まれる。たとえば、公定の尺度標準にしたがい商品の価格すなわち商品の貨幣名で表現される金の重量は、同じ名称の金片として、あるいは鋳貨として、市場で商品に対面しなけれぽならない。貨幣鋳造は、価格の尺度標準の確定と同じく、国家の果たさなければならない仕事である。金や銀が鉾貨として身につけても世界市場では脱ぎ捨てるさまざまな国家的制服は、商品流通の国内的すなわち国家的部面と商品流通の全般的部面との分離を、まさに示している。〉(江夏・上杉訳105頁)
 

●第2パラグラフ
 

《経済学批判》

   〈しかし、地金状態の金と鋳貨としての金との区別は、金の鋳貨名と金の重量名との区別にすぎない。後者の場合に名称の区別であるものが、いまやたんなる形状の区別として現われる。金鋳貨は、坩堝のなかに投げこまれて、ふたたび簡単明瞭な〔sans phrase〕金に転化されることができるし、逆に金地金は、鋳貨形態をとるためには、ただ造幣局に送られさえすればよい。一つの形状から他の形状への転化と再転化とは、純粋に技術上の操作として現われる。22カラットの金1000ポンド、すなわち1200トロイ・オンスと引き換えに、イギリスの造幣局から4672ポンド・スターリング2分の1、すなわちそれだけのソヴリン金貨を受け取り、これらのソヴリン金貨を天秤皿の一方にのせ、100ポンドの金地金を他方にのせるならば、両方は釣合いがとれて重量は等しい。こうしてソヴリン金貨とは、イギリスの鋳造価格においてこの名称で示され、かつ独自の形状と独自の極印とをもっている金の重量部分にほかならないことが証明される。〉(同88頁)  
   〈けれども、貨幣流通は外界の運動であって、ソヴリン金貨はにおいはしない〔non olet〕にしても、仲間といっしょにまじってうろつきまわっている。鋳貨は、あらゆる種類の手や巾着やポケットや財布や胴巻や袋や小箱や大箱とこすりあって身をすりへらし、あちらこちらに金の分子をくっつけ、こうして世渡りするうちにすりへって、ますますその内部の実質を失ってゆく。鋳貨は使われることによって、使いへらされる。〉(同88-89頁)
  〈ジェーコブは、1809年にヨーロッパに存在していた3億8000万ポンド・スターリングのうち、1829年には、つまり20年のあいだに、1900万ポンド・スターリングが摩滅によって完全に消滅したと推定している。だから、商品は流通のなかに踏みいれた第二歩でそこから脱落するのに、鋳貨は流通のなかを二、三歩進めば、それがもっているよりも多くの金属実質を代表するのである。流通速度が同一不変ならば、鋳貨が長く流通すればするほど、また同一の時間内にその流通が活発になればなるほど、鋳貨の鋳貨としての定在は、その金または銀としての定在からはなれる。残るものは、偉大なる名称の影〔magni nominis umbra〕である。鋳貨の身体は、もはや影にすぎない。鋳貨は、最初は過程によって重みをくわえたが、いまや過程によって軽くなる。しかもどの個々の購買や販売でも、もとの金量として通用しつづけるのである。ソヴリン金貨は、仮象のソヴリン金貨として、仮象の金として、適法な金片の機能をひきつづき果たす。ほかのものは外界との摩擦によってその理想主義(イデアリスムス)を失うのに、鋳貨は実践によって観念化(イデアリジーレン)され、その金や銀の身体のたんなる仮象の定在に転化されるのである。流通過程そのものによってひきおこされる金属貨幣のこのような第二の観念化、すなわちその名目的な実質〔純分〕と実在的な実質との分離は、一部は政府、一部は私的な投機家たちによって種々さまざまな貨幣変造に利用しつくされる。中世のはじめから一八世紀にはいってずっとあとまでの鋳貨制度の全歴史は、こういう二面的で敵対的な変造の歴史に帰着するのであって、クストディの編集したイタリアの経済学者たちの浩潮な論集は、大部分がこの点にかんするものである。〉(同89-90頁)
  〈けれども、その機能の内部での金の仮象の定在は、その現実的定在と衝突するようになる。流通において、ある金鋳貨はその金属実質のより多くを失い、他の金鋳貨はそれをすこししか失っていないので、したがってあるソヴリン金貨はいまや事実上、他のソヴリン金貨よりもより多くの価値をもつ。だがそれらは、鋳貨としてのその機能上の定在では同じ量目のものとして通用し、4分の1オンスのソヴリン金貨も、4分の1オソスあるように見えるだけのソヴリン金貨以上には通用しないのだから、完全量目のソヴリン金貨の一部分は、良心のない所持者の手で外科手術をうけ、流通そのものが量目の軽い兄弟たちにたいして自然におこなったことが、それらにたいしては人為的になされるのである。それらはけずりとられ、その余計な金の脂肪は坩堝のなかへはいってゆく。もし4672個半のソヴリン金貨を天秤皿のうえにのせたとき、それが平均して1200オンスではなく800オンスの重量しかなかったとすれば、金市場にもっていけば、それはもはや800オンスの金しか買えないであろう。すなわち、金の市場価格はその鋳造価格以上に騰貴するであろう。どの貨幣片も、たとえ完全量目のものでも、その鋳貨形態では、その地金形態でよりも少ない価値としてしか通用しないであろう。完全量目のソヴリソ金貨は、多量の金が少量の金よりも多くの価値をもつその地金形態にもどされるであろう。こういう金属実質以下への下落が、金の市場価格のその鋳造価格以上への持続的騰貴をひきおこすほど、十分な数のソヴリソ金貨に及ぶようになると、鋳貨の計算名は同じままであろうが、それは今後はより少ない金量を示すことになろう。言いかえるならば、貨幣の度量標準が変更されて、金は今後はこの新しい度量標準にしたがって鋳造されるであろう。金は流通手段としてのその観念化によって、反作用的に、それが価格の度量標準として保っていた法定の比率を変えてしまったことになろう。同じ革命はある期間のあとでくりかえされ、こうして金は、価格の度量標準としてのその機能においても、流通手段としてのその機能においても、不断の変動をこうむるのであって、一方の形態での変動は他方の形態での変動をもたらし、またその逆は逆をもたらすであろう。このことは、さぎに述べた現象、すなわちすぺての近代諸国民の歴史のうえで、金属実質がたえず減少するのに、同じ貨幣名がそのまま残ってきたという現象を説明する。鋳貨としての金と価格の度量標準としての金とのあいだの矛盾は、同じようにまた、鋳貨としての金と一般的等価物としての金とのあいだの矛盾となるが、一般的等価物としての金は、たんに国境の内部でだけでなく、世界市場でも流通するのである。価値の尺度としては、金はただ観念的な金としてだけ役目を果たしたのであるから、いつも完全量目であった。孤立した行為W-Gでの等価物としては、金はその動的な定在からただちにその静的な定在に復帰するが、しかし鋳貨としては、金の自然的な実体はたえずその機能と衝突する。ソヴリン金貨の仮象の金への転化を完全に避けることはできないが、しかし立法は、実体の不足がある程度に達したときに、それを回収することによって、それが鋳貨として固定することを阻止しようとする。たとえばイギリスの法律によれば、0.747グレーン以上の重量を失ったソヴリン金貨は、もはや法定のソヴリン金貨ではない。1844年と1848年とのあいだだけでも4800万個のソヴリソ金貨を測ったイングランド銀行は、コットン氏の金秤という機械をもっているが、この機械は2個のソヴリン金貨のあいだの100分の1グレーンの差を感じとるだけでなく、まるで理性ある生物のように、量目の足りないソヴリン金貨をただちに台のうえにはじきだし、そこでそれは別の機械のなかにはいって、東洋的なむごたらしさで寸断されてしまうのである。〉(同90-91頁) 

《初版》 

  〈このようにして、金鋳貨と金地金とは生来外形によってのみ区別されるのであって、金は、絶えず一方の形態から他方の形態に変わることができる(65)。とはいっても、造幣所からの道は同時に坩堝への道でもある。すなわち、金鋳貨は流通において摩滅するが、あるものは多く他のものは少なく摩滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量がちがうために等しくない価値になる。流通手段としての金は、価格の尺度標準としての金から離れ、したがって、金によって価格が実現される諸商品のほんとうの等価物ではなくなる。こういった混乱の歴史が、中世および18世紀までの近代の鋳貨史を形成している。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち、鋳貨をそれの公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属の摩滅度--この摩滅度が金貨を通用不能にする、すなわち廃貨にするのである--にかんするごく最近の法律によって、承認さえされている。〉(江夏・上杉訳105頁)(江夏訳118-119頁) 

《フランス語版》 

  〈金鋳貨と金地金とは、当初は形状だけで区別されるのであって、金はいつもこれらの形態の一方から他方に移行することができる(31)。しかし、鋳貨は造幣局から出てゆくとき、すでに坩堝への途上にある。金鋳貨または銀鋳貨は、あるものは多く他のものは少なく、流通において摩滅する。たとえば1ギニー貨は、その進路で一歩前進するたびごとに、その名称を保持しながらもその重量のなにがしかを失う。このようにして、金の称号と金の実体とが、金属の実体と貨幣名とが、分離しはじめる。同じ名称の鋳貨が、もはや同じ重量でないために、等しくない価値になる。価格の尺度標準によって表示される金の重量は、流通する金のなかにはもはや存在しないのであって、流通する金はそれがために、自己の価格を実現すべき商品の、本当の等価物ではなくなる。中世および18世紀に至るまでの近代の鋳貨史は、ほとんど、こうした混乱の歴史にほかならない。流通の自然な傾向は、金鋳貨を見せかけの金に、あるいは、鋳貨をその公定金属重量の象徴に転化するものだが、この傾向は、金属の摩滅度--この摩滅度によって鋳貨は流通から排除される、あるいは廃貨になるのである--にかんするごく最近の法律によって、承認されている。〉(江夏・上杉訳105頁)
 

●注81

《経済学批判》 

  〈ロマン主義者のA・ミュラーは言う。「われわれの考えでは、すぺての独立の主権者は、金属貨幣に名をつけて、それに社会的な名目価値、等級、地位、称号をあたえる権利をもっている。」(A・H・ミュラー『政治学綱要』第2巻、ベルリン、1809年、288ページ)称号にかんするかぎりでは、この宮中顧問官殿の仰せのとおりであるが、彼はただ内容だけを忘れている。彼の「考え」がどんなに混乱していたかは、たとえぽ次の章句に現われている。「とくにイギリスのように、政府が非常な寛大さで無料で鋳造し」(ミュラー氏は、イギリス政府の役人が自分のポケットから鋳造費を出す、と信じているらしい)、「なんらの鋳造手数料も取っていない国では、鋳造価格の正しい決定がどれほど重要なことであるかということ、だからもしも政府が、金の鋳造価格をその市場価格よりもいちじるしく高く定めるならば、たとえば政府がいまのように、1オンスの金にたいして3ポンド17シリング10ベンス2分の1を支払うかわりに、1オンスの金の鋳造価格を3ポンド19シリングと定めるならば、すべての貨幣は造幣局に流入し、そこで受け取った銀は市場で安い金と交換され、こうして金はあらためて造幣局にもちこまれることとなり、鋳貨制度は混乱におちいるであろうということは、だれでもよく知っている。」(前掲書、280 、281ページ) ミュラーは、イギリスの鋳貨に秩序を維持させようとして、自分を「混乱」におちいらせた。シリングとかぺンスとかは、たんなる名称であり、銀表章と銅表章によって代理された1オンスの金の一定部分の名称であるにすぎないのに、彼は、1オンスの金が金、銀、銅で評価されると想像し、こうしてイギリス人が三重の本位〔stansderd of a ???〕をもっていることを祝福している。金とならんで銀を貨幣尺度として用いることは、なるほど1816年にジョージ3世の治世第56年法律第68号によってはじめて正式に廃止された。法律のうえでは1734年にジョージ2世の治世第14年(*)法律第42号によって実質上廃止されており、慣行のうえではそれよりずっとまえに廃止されていたのである。A.ミュラーがとくに経済学のいわゆる高度の理解に達するのを可能にした事情は二つあった。一つは、経済的諸事実についての彼の広範な無知、いま一つは、哲学にたいする彼のたんなるディレッタント的な惑溺である。
   (*)  ジョージ2世の治世第14年は1734年ではなく、1740年にあたる。しかし、ジョージ2世の治世には銀についての措置はおこなわれていないので、ジョージ3世の治世第14年にあたる1774年の銀貨25ポンド以上を法貨と認めるのを禁止した改革の誤記ではないかと思われる。この改革はジョージ3世の治世第14年法律第42号によっておこなわれているから、法律の番号も一致する。そうとすれば、59(原)ベージのジョージ2世も3世の誤記とみなければならない。〉(55-56頁) 

《初版》 

  〈(65) 造幣手数料等々の細目を論ずることは、もちろん、全く私の目的外のことである。だが、ロマンティックなおべっか使いのアダム・ミューラーは、「イギリス政府が無報酬で鋳造する」というその「たいした鷹揚さ」に驚嘆しているが、この彼にたいしては、サー・ダッドリー・ノースの次のような批判がある。「金銀には他の諸商品と同じに干満がある。スペインから多量に到着すると、……それはロンドン塔に運ばれて鋳造される。それからしばらくすると、再輸出用の地金にたいする需要が現われるというのに。もし地金がなくてたまたま全部が鋳貨であれば、どうなるか? 再び鋳貨を鋳つぶす。そうしても損はない。なぜなら、鋳造しても所有者にはびた一文の費用もかからないから。こうして、国民はひどい目にあわされ、騾馬に食わせる藁をなう費用を支払わされた。もし商人(ノース自身、チャールズ2世時代の最大の商人の一人であった)が鋳造料を支払わなければならないとすれば、彼はよく考えもせずに自分の銀をロンドン塔に送りはしなかったであろうに。そして、鋳造貨幣はつねに、未鋳造の銀よりも高い価値を維持するであろう。」(ノース、前掲書、18ページ。)〉(江夏訳119頁) 

《フランス語版》 

  〈(31) 私はここでは、貨幣鋳造税やその他この種の細目について論ずる必要はない。とはいっても、「イギリス政府が無償で鋳造するという雄大な鷹揚さ」を嘆賞するおべっかつかいのアダム・ミューラーにたいしては、サー・ダッドリ・ノースの次の批判を記載しておこう。「金銀には、他の商品と同じように、潮の干満がある。多量の金銀がスペインから到着すると、……ロンドン塔に運ばれてたちどころに鋳造される。その後しばらく経つと、輸出向けの地金にたいする需要が生じる。もし地金がなくてすべてが鋳貨であったら、どうすればよいか? よろしいとも! 再び熔解し直せばよい。このことは所有者にはなんの費用もかからないから、それによる損失は全然ない。このようにして、国民は愚弄され、驢馬にやるべき藁を編むことに支払いをさせられている。もし商人(ノース自身、チャールズ2世時代の第一級の卸売業者であった)が貨幣鋳造の対価を支払わなければならないなら、彼は考えもせずに、自分の銀をロンドン塔にこのようには送らないであろうし、鋳貨はいつも、鋳造されない金属よりも高い価値を保つであろう」(ノース、前掲書、ロンドン、1691年、18ぺージ)。〉(江夏・上杉訳105-106頁)
 

●第3パラグラフ
 

《経済学批判》 

  〈けれども、金鋳貨はこういう諸条件のもとでは、その流通がそれがあまり急速に摩滅しないような一定の流通の範囲に限定されるのでなければ、一般に流通しえないであろう。ある金鋳貨がもはや5分の1オンスの重量しかないのに、流通では4分の1オンスとして通用するかぎりでは、その金鋳貨は事実上20分の1オンスの金にたいしては、たんなる章標または象微となっている。こうしてすべての金鋳貨は、流通過程そのものによって多かれ少なかれ、その実体のたんなる章標または象徴に転化される。だがどんなものも、自分自身の象徴ではありえない。絵に描かれたブドウは実際のブドウの象徴ではなくて、仮象のブドウである。だがそれにもまして、痩せた馬が肥えた馬の象徴ではありえないのと同じように、軽いソヴリン金貨は完全量目のソヴリン金貨の象微ではありえない。こうして、金は自分自身の象徴となるが、しかも自分自身の象徴としての役を果たしえないのであるから、金が最も急速に摩滅する流通の範囲、すなわち購買と販売が最も小さな規模でたえずくりかえされる範囲では、金は、金の定在から分離された象徴的な、銀または銅の定在を得る。たとえ同じ金片ではないとしても、金貨幣全体のある一定の割合が、いつも鋳貨としてこの範囲を歩きまわっているはずである。この割合だけ、金は銀または銅の表章によって置き換えられる。こうして一国の内部では、価値の尺度としては、したがってまた貨幣としては、ただ独特の一商品だけが機能しうるにすぎないが、鋳貨としては、金とならんでいろいろな商品が役だちうる。これらの補助的な流通手段、たとえば銀または銅の表章は、流通の内部で金鋳貨の一定の部分を代理する。だから、それら自身の銀実質または銅実質は、銀や銅の金にたいする価値比率によって規定されているのではなく、法律によってかってに決められるのである。これらの表章は、それらによって代理されている金鋳貨の微小な断片が、より高額の金鋳貨との交換のためにせよ、それともそれに相応する小額の商品価格の実現のためにせよ、たえず流通するはずの量だけ発行されればよいのである。商品の小売流通の内部では、銀表章と銅表章とは、さらにそれぞれ特殊な範囲に属するであろう。これらの流通速度は、ことの性質上、それらがそれぞれ個々の購買や販売で実現する価格に、または金鋳貨のうちそれらが代表する部分の大きさに反比例する。イギリスのような一国で、莫大な量の日常の小ロ取引がおこなわれていることを考慮すれば、流通する補助鋳貨の総量の割合が相対的に小さいということは、その流通が早くて絶えまないことを示すものである。最近発表された議会の一報告書(『1844年から1858年にいたる連合王国統計要覧』--引用者)によると、たとえば1857年にイギリスの造幣局は、485万9000ポンド・スターリングにのぼる金貨を鋳造し、名目価値は73万3000ポンド・スターリングで金属価値は36万3000ポンド・スターリソグの銀を鋳造している。1857年12月31日に終わる10年間に鋳造された金貨の総額は5523万9000ポンド・スターリングであり、銀貨の総額はわずかに243万4000ポンド・スターリングであった。銅貨は1857年にはわずかに名目価値6720ポンド・スターリング、銅価値3492ポンド・スターリングに達したにすぎず、そのうち3136ポンド・スターリングは1ペニー貨、2464ポンド・スターリングは半ペニー貨、1120ポンド・スターリングはファージング貨であった。過去10年間に鋳造された銅貨の総価値は、名目価値14万1477ポンド・スターリング、金属価値7万3503ポンド・スターリングであった。金鋳貨はそれの貨幣としての資格を奪う金属滅失の法律規定によって、鋳貨としての機能に固定することを妨げられているのであるが、逆に銀表章や銅表章は、それらが法律上実現する価格の程度を規定されているので、自分の流通部面から金鋳貨の流通部面に移って、貨幣として固定するのを妨げられている。たとえばイギリスでは、銅貨はわずか6ペンスの額まで、銀貨はわずか40シリングの額まで、支払にさいして受け取る義務があるだけである。銀表章や銅表章が、それらの流通部面の要求が必要とするよりも多量に発行されても、商品価格はこれによって騰貴することなく、むしろこれらの表章は小売商人たちのもとに蓄積され、彼らはついにはそれらを金属として売らざるをえなくされよう。こうして1798年には、私人によって発行されたイギリスの銅貨が、20ポンド、30ポンド、50ポンドという額まで小売商人の手もとに蓄積され、彼らはそれをふたたび流通させようとしたが、むだぼねだったので、けっきょく商品として銅市場に投げだすよりしかたなかった。〉(91-93頁) 

《初版》 

  〈貨幣流通そのものが、鋳貨の実質純分を名目純分から分離させ、それの金属存在をそれの機能的存在から分離させれば、貨幣流通は、金属貨幣を、それの鋳貨機能では、他の素材から成っている表章または象徴によって置き換える、という可能性を、潜在的に含んでいる。金または銀のごく微小な重量部分を鋳造することの技術上の障害、および、最初はもっと高級な金属に代わってもっと低級な金属が、金に代わって銀が、銀に代わって銅が、価値尺度として役立っており、したがって、それらが、もっと高級な金属によって廃貨にされる瞬間まで貨幣として流通している、という事情は、金鋳貨の代用物としての銀表章や銅表章の役割を歴史的に説明している。それらが金にとって代わるのは、鋳貨が最も急速に流通し、したがって最も急速に摩滅するような、すなわち、売買が最小の規模で絶えず繰り返されるような、商品流通の領域においてである。これらの衛星が金そのものの地位に定着するのを限止するために、これらだけを金の代わりに支払われてもこれらを受け取らなければならぬという割合が、法律によって非常に低く規定されている。いろいろな鋳貨種類が流通する特殊な諸領域は、もちろん、互いに入りまじっている。補助鋳貨は、最小の金鋳貨の分数部分の支払いのために、金と並んで現われている。金は、絶えず小売流通のなかにはいり込むが、補助鋳貨と引き換えられて、同じように絶えずそこから投げ出される(66)〉(江夏訳119-120頁) 

《フランス語版》 

  〈貨幣の流通は、鋳貨の現実の含有量と名目上の含有量とを分離し、鋳貨の金属としての存在と機能的な存在とを分離することによって、鋳貨を機能上は合金貨等の表章で置き換える可能性を、すでに潜在的に含んでいる。金または銀の全く小さな重量部分を鋳造することの技術上の困難も、より低級な金属が貴金属によって退けられる瞬間まで価値尺度として役立ち貨幣として流通するという事情も、より低級な金属が象徴的貨幣として演じる役割を、歴史的に証明している。より低級な金属は、鋳貨の回転が最も速い流通部面では、すなわち、売買が最小の規模で不断に更新される流通部面では、金鋳貨に代位する。これらの衛星が金のかわりに足場を確立しないように、支払いのさいこれらが受け取られるべき割合が、法律によって定められる。さまざまな種類の鋳貨が遍歴する個々の範囲は、もちろん交錯しあっている。たとえぽ、補助貨が金鋳貨のはしたの支払いのために現われる。金は絶えず小売の流通に入りこむが、金と交換される補助貨によって絶えずこの流通から追い出される(32)。〉(江夏・上杉訳106頁)
 

●注82
 

《経済学批判》 

  〈銀表章や銅表章が、それらの流通部面の要求が必要とするよりも多量に発行されても、商品価格はこれによって騰貴することなく、むしろこれらの表章は小売商人たちのもとに蓄積され、彼らはついにはそれらを金属として売らざるをえなくされよう。こうして1798年には、私人によって発行されたイギリスの銅貨が、20ポンド、30ポンド、50ポンドという額まで小売商人の手もとに蓄積され、彼らはそれをふたたび流通させようとしたが、むだぼねだったので、けっきょく商品として銅市場に投げだすよりしかたなかった(*)。
  (*) デーヴィッド・ビュキャナン『諸国民の富うんぬんにかんするスミス博士の研究に論じられた諸論題についての考察』、エディンバラ、1814年、31ページ。〉(93頁) 

《初版》 

  〈(66) 「銀貨が小口の支払いに必要な量をけっして越えないとすれば、それを集めてみても大口の支払い用に充分な量にはなりえない。……大口支払での金貨の使用は、必ず、小売取引での金貨の使用ともからみあっている。金貨をもっている人々は、それを小口の購買に供して、買った商品と一緒に釣銭として銀貨を受け取るからである。こういうやり方で、そうでなければ小売商を煩わすであろう余分な銀貨が、引き上げられて、一般的流通のなかに散布される。ところが、金貨に頼らずに小口の諸支払を処理できるであろうほど多くの銀貨があれば、小売商はこのばあい、小口の購買と引き換えに銀貨を受け取らなければならない。そうすれば、銀貨は必ず彼の手にたまらざるをえない。」(デイピッド・プカナン『大プリテンの課税と商業政策の研究、エジンパラ、1844年』、248、249ページ。)〉(江夏訳120頁) 

《フランス語版》 

  〈(32) 「もし銀貨が小口支払いにとって必要な量をけっして越えることがなければ、大口支払いに充分なほど大量にこの銀貨を集めることはできない。……大口支払いでの金貨の使用は、小売取引での金貨の使用と絡みあっている。金貨をもっている人々は、それを小口の購買に供して、買った商品とともに釣銭として銀貨を受け取る。このことによって、さもなければ小売取引の邪魔になる過剰な銀貨が、一般的流通に散布される。だが、もし金貨に頼らずに小口支払いを処理するに充分な銀貨があれば、小売商はこのばあい小口の購買と引き換えに銀貨を受け取り、この銀貨が必ず彼の手に蓄積されるであろう」(デーヴィッド・ピュキャナン『大ブリテンの課税と商業政策の研究』、エディンバラ、1844年、248、249ページ)。〉(江夏・上杉訳106頁)
 

●第4パラグラフ
 

《経済学批判》 

  〈国内流通の一定の部面で金鋳貨を代理する銀表章と銅表章とは、法定の銀実質〔純分〕と銅実質とをもってはいるが、流通に引きこまれると、それらは金鋳貨と同じように摩滅し、それらの流通の速度と絶えまなさにおうじて、もっと急速に観念化され、たんなる影のからだとなる。ところで、もしふたたび金属喪失の限界線がひかれて、その線に達すると銀表章と銅表章は、それらの鋳貨の性格を失うものとすれば、それらの表章は、自分自身の流通部面そのものの一定の範囲内で、さらに他の象徴的貨幣、たとえば鉄や鉛によって置き換えられなければならないであろうし、象徴的貨幣の他の象徴的貨幣によるこのような表示は、終わりのない過程であろう。だから流通の発達したすべての国では、貨幣流通そのものの必要から、銀表章と銅表章との鋳貨性格は、それらの金属滅失の程度とは無関係とされざるをえないのである。そこでことの性質上当然のことであるが、それらが金鋳貨の象徴であるのは、それらが銀または銅でつくられた象徴であるからではなく、またそれらがある価値をもっているからではなく、かえってなんらの価値をももっていないかぎりでのことだ、というように現われる。
   こうして、紙券のような相対的に無価値なものが、金貨幣の象徴として機能できるのである。補助鋳貨が銀や銅などの金属表章から成りたっているのは、おもにこういう事情、イングランドでの銀、古代ローマ共和国、スウェーデン、スコットランド等での銅のように、たいていの国でははじめは価値の低い金属が貨幣として流通していたのに、あとになって流通過程がそれを補助貨の地位に引きおろして、その代わりにもっと価値の高い金属を貨幣とした、という事情に由来している。そのうえに、金属流通から直接に生じる貨幣象徴がさしあたりそれ自身また一つの金属であったのも、当然のことである。いつでも補助貨として流通しなげればならないはずの金部分が金属表章によって置き換えられるのと同じように、いつでも国内流通の部面によって鋳貨として吸収され、したがってたえず流通しなければならない金部分は、無価値な表章によって置き換えることができる。流通する鋳貨の量がそれ以下にはけっして低下しないという水準は、どの国でも経験上あたえられている。だから、金属鋳貨の名目的実質と金属実質とのあいだの、最初のうちは目に見えない差異が、絶対的分離にまで進みうるのである。貨幣の鋳貨名はその実体からはなれ、それの外に、無価値な紙券のうちにあることになる。諸商品の交換価値がそれらの交換過程をつうじて金貨幣に結晶するのと同じように、金貨幣は流通のなかでそれ自身の象徴に昇華する。はじめは摩滅した金鋳貨の形態をとり、次には補助金属鋳貨の形態をとり、そして最後には無価値な表章の、紙券の、たんなる価値章標の形態をとって昇華するのである。
   けれども金鋳貨がはじめは金属の、次には紙の代理物をつくりだしたのは、それがその金属滅失にもかかわらず、ひきつづいて鋳貨として機能したからにほかならない。それは摩滅したから流通したのではなく、流通しつづけたから摩滅して象徴になったのである。過程の内部で金貨幣そのものがそれ自身の価値のたんなる章標となるかぎりでだけ、たんなる価値章標が金貨幣にとって代わることができるのである。〉(全集第13巻93-94頁) 

《初版》 

  〈銀表章または銅表章の金属純分は、法律で任意に規定されている。これらの表章は流通中に、金鋳貨よりもいっそう急速に摩滅する。だから、これらの表章の鋳貨機能は、事実上、自分たちがもっている重量にも、すなわちどんな価値にも、全くかかわりのないものになる。金の鋳貨存在が、それの価値実体から完全に分離する。だから、相対的に無価値な物である紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができる。金属の貨幣表章では、純粋に象徴的な性格がまだ幾らかは隠されている。紙幣では、この性格が一見してわかるように姿を表わす。要するに、困難なのは第一歩だけだ。〉(江夏訳120頁) 

《フランス語版》 

  〈銀表章または銅表章の金属実体は、法律によって随意にきめられる。それらは流通のなかでは金鋳貨よりも急速に摩滅する。したがって、それらの機能は事実上、それらの重量、すなわちどんな価値からも、完全に独立したものになる。
   それにもがかわらず、そしてこれが重要な点であるが、それらは金鋳貨の代理人として機能しつづける。自己の金属価値から全面的に解放された金の鋳貨機能は、金の流通自体の摩擦によって産み出された現象である。金はこの機能では、紙券のような相対的になんの価値もない物によって、代理されうる。金属表章のうちには純粋に象徴的な性格がある程度隠されているが、この性格は紙幣のうちにまぎれもなく現われる。われわれにはわかっているとおり、困難なのは第一歩だけである。〉(江夏・上杉訳106-107頁)
 

●第5パラグラフ
 

《経済学批判》 

  〈相対的に無価値なある一定のもの、革片、紙券等々は、はじめは慣習によって貨幣材料の章標となるのであるが、しかしそれがそういう章標として自分を維持できるのは、象徴としてのその定在が商品所有者たちの一般的意志によって保証されるからにほかならず、すなわちそれが法律上慣習的な定在を、したがって強制通用力を受け取るからにほかならない。強制通用力をもつ国家紙幣は、価値章標の完成された形態であり、金属流通または単純な商品流通そのものから直接生じる紙幣の唯一の形態である。信用貨幣は、社会的生産過程のもっと高い部面に属するものであって、まったく別の諸法則によって規制される。象徴的紙幣は、実際には補助的金属鋳貨と全然違うものではなく、ただもっと広い流通部面で作用するだけである。〉(全集第13巻96頁)
  〈以上に述べたことから明らかなように、金実体そのものから分離された価値章標としての金の鋳貨定在は、流通過程そのものから生じるのであって、合意や国家干渉から生じるのではない。ロシアは価値章標の原生的成立の適切な実例を見せてくれる。獣皮と毛皮製品がロシアで貨幣として役だっていた時代に、このいたみやすく取扱いに不便な材料と流通手段としてのその機能との矛盾は、極印をおした革の小片をその代わりに使う習慣を生みだし、こうしてこの革の小片が、獣皮や毛皮製品で支払われる指図証券となった。その後、この革の小片は、コペイカという名称で銀ルーブリの一部分にたいするただの章標となり、ところによっては、ピョートル大帝がそれを国家の発行した小銅貨と引き換えに回収するように命じた1700年まで、そのままつづいて使用されていた。金属流通の諸現象だけしか観察できなかった古代の著作家たちは、金鋳貨をすでに象徴または価値章標として把握していた。プラトンやアリストテレスがそうであった。中国のように信用の全然発達していない国々に、強制通用力をもつ紙幣がすでに早くからある。比較的初期の紙幣弁護論者にあっては、金属鋳貨の価値章標への転化が流通過程そのもののなかで発生する、という点もはっきりと指摘されている。たとえばベンジャミン・フランクリンとバークリ主教とがそうである。〉(同96-97頁) 

《初版》 

  〈ここで問題なのは、強制通用力のある国家紙幣だけである。それは、金属流通から直接に生まれてくる。これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の観点からはわれわれにはまだ全く知られていない諸関係を、前提にしている。ついでに言っておくが、本来の紙幣が、流通手段としての貨幣の機能から生じているように、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能のうちに自然発生的な根源をもっているのである(67)。〉(江夏訳120-121頁) 

《フランス語版》 

  〈ここで問題としているのは、強制通用力をもつ国家紙幣だけである。それは金属流通から自然発生的に生まれる。これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の観点からはまだわれわれに知られていない諸事情の全体を、前提にしているものである。ついでながら述べておくが、厳密な意味での紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生まれるとすれば、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能のうちにその自然的根源をもっているのである。〉(江夏・上杉訳107頁)
 

●注83
 

《経済学批判》 

  〈中国のように信用の全然発達していない国々に、強制通用力をもつ紙幣がすでに早くからある。(*) 
   (*) マンデヴィル(サー・ジョン)『航海旅行記』、ロンドン、1705年版、105ページ。「この(カタイつまり中国の)皇帝は、計算もせずにすきなだけ支出することができる。なぜならば、彼は、捺印した革か紙でつくったものでなければ、貨幣を支出せず、また製造もしないからである。そしてこの貨幣が長く流通して摩損しはじめると、人々はそれを皇帝の国庫にもっていって、古い貨幣の代わりに新しいのを受け取る。そしてこの貨幣は、全国土とあらゆる属州に流通する。……貨幣は金からも銀からもつくられない。」そしてマンデヴィルは「だから皇帝は、いつでも新たに、しかもふんだんに支出することができる」と考えた。〉(全集第13巻97-98頁)
  〈強制通用力をもつ紙幣--われわれはただこの種の紙幣だけを論じるのだが--を発行する国家の干渉は、経済法則を揚棄するように見える。国家は鋳造価格では一定の金重量に洗礼名をあたえただけであり、貨幣鋳造では金に自分の極印をおしただけであったが、この国家はいまやその極印の魔術によって紙を金に転化するように見える。紙幣は強制通用力をもっているから、国家が思うままに多数の紙幣を強制流通させ、1ポンド、5ポンド、20ポンドといった任意の鋳貨名をそれらに極印するのを、だれも妨げることはできない。ひとたび流通にはいった紙券は、これを流通から投げだすことは不可能である。なぜなら、その国の境界標がその進路をとどめるだけでなく、紙券は流通の外では、すべての価値を、使用価値をも交換価値をも失うからである。その機能上の定在から切り離されると、紙券はなんの価値もない紙くずに転化する。けれども、国家のこのような権力は、たんなる見せかけにすぎない。国家は任意の鋳貨名をもつ任意の量の紙券を流通に投げこむことができるであろうが、しかし、この機械的行為とともに国家の統制は終わる。流通にまきこまれると、価値章標または紙幣は、それに内在する諸法則に支配されるのである。〉(同99-100頁) 

《初版》 

  〈(67) 財務官の王茂蔭は、シナの国家紙幣を兌換銀行券に変えることをひそかな狙いとした一案を、天子の閲覧に供しようと思いついた。1854年4月の紙幣委員会の報告書では、彼は手ひどく叱責されている。彼が慣例の竹の鞭での殴打を受けたかどうかは、報告されていないが。報告書の最後にはこう書いてある。「本委員会は、彼の案を入念に検討して、この案ではなにもかも商人の利益になってしまい、皇帝には利益がなにもない、ということを見いだした。」(『北京駐在ロシア帝国公使館のシナにかんする研究。ドクトル・K・アーべルおよびF・A・メクレンプルクによるロシア語からの翻訳。第1巻、ベルリン、1858年』、47ページ以下。) 流通による金鋳貨の不断の摩滅について、イングランド銀行のある「総裁」は、「上院委員会」(「銀行法」にかんする)で、証人として次のように述べている。「毎年、新種のソブリン貨(政治上の君主(ソブリン)ではなく、ソブリンとは1ポンド・スターリングの名称である)があまりに軽くなっている。ある年には量目充分だと認められている部類が、翌年には天秤皿が反対に傾くほど、たっぷり摩滅している。」(上院委員会、1848年、第429号)〉(江夏訳121頁) 

《フランス語版》 

  〈(3) 財務官の王茂蔭がある日のこと、シナ帝国の不換紙幣を兌換銀行券に変えることを内密にめざす計画を、天子に供しようと思いついた。1854年4月の不換紙幣委員会は、彼をこっぴどく叱りつけることにした。委員会が彼に伝統的な竹の鞭打ちを加えたかどうかは、述べられていない。報告の結論はこうである。「委員会はこの計画を注意深く検討した結果、この計画ではなにもかもひたすら商人の利益を目あてにしているが、皇帝にとっては有利なものがなにもない、と考える」(『北京駐在ロシア帝国公使館のシナにかんする研究』、ドクトル・K・アーベルとF・A・メクレンプルクによるロシア語からの翻訳、第1巻、ペルリン、1858年、47ページ以下)。金貨がその流通においてこうむる金属摩滅について、上院(銀行法委員会)に証人として召喚されたイングランド銀行総裁は、こう述べている。「毎年、新種のソブリン貨(政治上の君主ではなく、ソブリンとは1ポンド・スターリングの名称である)が軽すぎる。ある年に法定の重量をもつ新種のソブリン貨が、摩擦によって、翌年には天秤の秤皿をこのソブリン貨とは反対に傾かせるほど、たっぷり摩滅する」。〉(江夏・上杉訳107頁)

 

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