Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ゴルトベルク変奏曲byキース・ジャレット

2010年05月21日 20時45分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 このブログのブックマークにある「時には本の話でも…」で紹介された高橋悠治のJ.S.バッハゴルトベルク変奏曲/14のカノンと、古澤巌・高橋悠治のブラームス ヴァイオリン・ソナタ全集を仕事の帰りに購入しようとしたが、手に入らなかった。しかしずっと探し続けていたキース・ジャレットのチェンバロによるバッハのゴルトベルク変奏曲があり、即購入した。
 実はキース・ジャレットというジャズピアニストだからピアノだと思い込んでいて、再生してみてチェンバロの音にビックリ。不勉強でグレン・グールドのものしか聴いた事がなかったもので、久しぶりにチェンバロの音の豊かな響きに魅入られた。この曲の他の演奏家のチェンバロも聴いてみたいと思う。
 ある本で「祈りのような演奏」と聴いていたから、一音一音ゆったりと聴かせる演奏かと思っていたが‥。ただしバッハがある伯爵の不眠症を癒すための曲というが、チェンバロではちょっと眠れそうもない。音の豊穣な世界に、眼がさえてしまうこと間違いがない。眠るためならピアノでゆったりと聴かせたほうがよいかもしれない。
 これは購入してよかったCDのベストに入る予感がした。

まとまらない思考

2010年05月20日 17時46分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩、人間や社会への関心の減退について記載した。寝付かれずにいる間に、こんなことも考えた。
 人間や社会への関心の減退は、直接の関わりについてのことでは確かに当てはまる。しかし直接性の希薄な人や社会については結構凝視をしているものが多いのではないか、と思った。 あるいは関心のある事象が絞られてきているのではないか。歳を取るに従い、応用力や柔軟な思考、許容量がなくなると、精神の自己防衛が発動し、興味・関心の対象が狭まるといえるのではないか。私の場合は、仕事に絡む人間関係への執着は確かに大きく退行している。
 今は、対象に対する批判や許容を抜きにした観察、直接の意志疎通がないものの成り行きを、高みの見物のように見つめているのかもしれない。
 こだわりが直接性・個別性から、相対性・統合性にシフトしている。このようにでも言い換えないと、情けない自己への見切りとなってしまいそうだ。

定年まで一年有余

2010年05月19日 22時01分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
誰でもが私のように59歳間近になれば、定年後の生活設計を考える。
40代までは65歳の年金満額支給までは働き続ける気は旺盛、70歳までも働きたいと思っていた。
しかも趣味と仕事は両立しながら。
だが50歳を過ぎてからの気力と体力の衰えは凄まじい。こんなに違うものかと自分で唖然とする。一番の変化は、人間関係が極めて煩わしく、処理が嫌になることではないだろうか。
また時間を他人に左右されることがとても嫌になる。自分で立てた計画やスケジュールをいじられるのが煩わしい。
埴谷雄高は政治の特質として「絶えざる現在への関心」といったが、これは現在の社会への関心=人間関係への飽くなき執着と読み替えることも可能だと思う。私などは現在への関心も、人間関係への執着もどんどん希薄になってゆく。
政治家失格である。
しかしこれは生への執着の減退ともいえてしまう。人間、最後までもがき続けるのが当然と思っているが、どこかで両手を上げて万歳をすれば、そこが終着点だろう。だからもがき続ける気力だけはしつこく持ち続けたい。

きり絵「ふるさと福島」から (2)飯坂温泉医王寺(きり絵さとうてるえ)

2010年05月18日 23時30分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 福島市の中心部からすぐの飯坂温泉駅の二つ福島駅よりに医王寺前という駅がある。徒歩15分で医王寺。826年空海作の薬師如来像を祀り、草堂を建てたことに始まると伝え、平安時代末、信夫荘司佐藤一族が菩提寺とした。佐藤基治は信仰心が厚く、居城とする大鳥城から眼下に望む薬師堂を改築し、伽藍を多数建立し境内を整えたとされてい。
 源義経を助けた佐藤継信・忠信兄弟などの佐藤一族の菩提寺という。失った兄弟の老母のために婦人が二人の武者姿をして慰めた故事が残る。
 松尾芭蕉は佐藤兄弟をしのび「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」と詠んだ。句碑は1800年に大阪の俳人大伴大江丸の筆によるもの。
 薬師堂の背後の板碑群は、佐藤一族の墓碑を擁する墓域であり、中央に基冶夫妻、右側に継信・忠信の墓碑といわれる石塔がある。凝灰岩の奥州型板碑を主に大小60数基が並んでいる。石塔が削り取られているのは、熱病の際に削って飲むと治るという伝えがあり、継信・忠信のような勇猛な武士にあやかりたいという信仰があったとのことだ。 

土門拳を見る・読む(2)

2010年05月17日 20時58分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「よく見るということは対象の細部まで見入り、大事なモノを逃がさず克明に捉えるということなのである。大事なモノは見れば見るほど魂に吸い付き、不必要なものは注意力から離れる。‥僕はじっと対象の本質がはっきりするまで胸に腕を組んで指向する。‥対象が何であろうと見えて来るモノ、見えてこないモノは全て相手次第で定まる。そして見えて来たモノだけを対象に苦しみ、戦う。」(写真と想像)

 (興福寺阿修羅像1960年ころ)

 「(興福寺阿修羅像に)カメラを向けていて発見したことは、ほかのどの仏像にもない静けさがたたえられている。(乾漆という)意気の長い造像手法では、動勢のある姿態を生むのには適さなかった。‥その静けさを生んだのものは、天平の理想主義的な時代精神であろう。その済世救国の理想が高ければ高いほど現実との間に生まれる深い遊離、いわば理想と現実との谷間を誠実に凝視している孤独な静けさとでもいうべきものだ」
 その上で「天平の時代精神を写真として視覚化するには、二年、三年が必要だ。その意味でこの一点などは、いわば行きずりのスナップに過ぎない」と作品に満足していない。
 ものを凝視し続けてきた精神の豊穣な世界が見えてくる。見ようとする貪欲な姿勢が垣間見える。特に阿修羅像の静的な姿態から静かさのもたらされた造像手法に至り、そして時代の状況を読み取り、1960年という時代と重ね合わせる思考に最大限の敬意を表したい。
 あらためて阿修羅像の写真を見直すと、確かに平面的な写真に見えなくもない。クローズアップすべきところ、「ここだ」というところが決まっていないのかもしれないと思うところはある。光の当て方もすっきりしていない。
 この間、国立博物館で私が見たとき、たまたま正面の合掌している手の中指の先が鼻と一致する視線で眼を見た。口元が合掌した手で隠され少し微笑がかった表情は消えた。阿修羅の視線は私の方には向かわず、私の頭上の上をまっすぐ私の背後の方に向かっていた。これにこの視線の先から少し左右にずらして淡い光を当てると、なかなかいいとは思った。他の二つの顔の視線は下から見上げるものの心に直接届くような視線でかつ口元は少し怖い。だが、正面の顔の視線は遠くを見つめている。
 この正面の阿修羅の視線が、何に向いているのか、解き明かさなくては土門拳のいう見つめつくしたことにはならないということなのだろう。

(唐招提寺金堂千手観音1963年)
 

 上記の文章を読んでからこの写真を見ると、ちょっと虚仮威しのようにも見える千手観音の写真だ。だが、正面から見ると救済のやさしげな手が幾つもに見えるのが、この視線だと無数の拳につつかれているような怖さを感じる。ものの二面性を映し出した写真というのかもしれない。

 ものを凝視する、観察するということの姿勢は、私の信条でもある。あらためてその意味をかみしめた。

きり絵「ふるさと福島」から (1)信夫文知摺(しのぶもちずり)(きり絵さとうてるえ)

2010年05月16日 22時33分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 私の友人であるきり絵作家さとうてるえさんの「ふるさと福島」を題材としたきり絵のいくつかを順次紹介することとした。
 前回はさとうさんのきり絵と私の短いエッセイ風の解説付で「横浜西洋館と花々の四季」という小さなパンフレット全体を順次紹介した。今回はさとうさんのきり絵の紹介を主として、私の文章はあくまでも従、かなり比重の低いレベルである。
 第1回は、「しのぶもじずり」の故事で有名な鏡石(文知摺石)のある安洞院の多宝塔。
  
 福島県の重要文化財とのこと。昔都人は絹地にしのぶ草様の乱れ模様を石面の模様を摺り出したと誤解をしていたとのこと。
 「虎女伝説」というのは、この地の山口長者の娘、虎女と都からやってきた按察使(巡察官)、源融の悲恋の物語。源融は虎女と恋に落ちるが、都に帰った源融は、2度と信夫の里に戻ってくることはなかった。
 虎女は悲しみのあまり、文知摺石をこすると、源融の面影が浮かび、消えていく。そして虎女は源融から寄せられた歌を抱きしめて息絶えていく…という伝説だ。
 奥の細道では「明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。はるか山かげの小里に、石なかば土に埋もれてあり。里の童の来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるをにくみて、この谷に突き落とせば、石の表下ざまに伏したり」と言ふ。さもあるべきことにや。 早苗とる手もとや昔しのぶ摺」と書かれている。
 私はどうしても石と絹の模様とが結びつかなくて、理解できなかった。ようやく都人の誤解にもとづく伝説て聞いて一応理解した。しかし百人一首の歌から、この伝説を結びつくということが、理解できないでいる。
 正岡子規は「涼しさの昔をかたれ忍ぶずり」の句を残した。あまり詮索は無用とのことのようだ。

土門拳を見る・読む

2010年05月15日 21時17分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 一昨日に書いておいた文章を掲載。

 私の手元には土門拳の小学館文庫の6巻の写真とエッセイをまとめたものがある。手軽な値段で手に入るありがたい企画。
 文章に没頭してつい写真自体をながめることを忘れてしまいそうになる。写真は確かに文庫本では小さすぎる。大きな本でながめる方が、迫力もあり、細かな光と影のグラデーションや形を読み取ることができる。
 しかし資力と我が家の収納を考えれば文庫本はありがたい。
   さて、このいわゆる百済観音の左手の曲線、指と爪の先まで丹念に造形されたフォルム、そして指と花瓶と衣装の質感の違い、これらの魅力あふれる像を花瓶にあたるやわらかい光を利用してズームアップした写真の力に敬服するばかりだ。モノクロームならではの光のやわらかさを感じる。
 私はこの写真が1940年という、日本が第二次世界大戦に突入する直前の作品ということにも着目した。1932年全農全国会議書記であったときの逮捕・拘留・拷問による転向を経て、1939年室生寺を始めて訪れている。戦争の影が色濃い時勢に、この写真は果たして受け入れられたのかどうかわからないが、時勢に背を向けたわけでもなく、その時代だからこそ仏像だったのかもしれない。そこら辺のことへの言及は本人の文章からはわからない。いろいろなこと想像させてくれる。
 そんなことよりもあわただしく声高で野卑な政治的スローガンが横溢していた時代に、このような写真を撮り続けていたのだ。

   この写真は大判の写真で見たい。この美しい宝珠は私には他に例を見ない作品に思える。こんなすばらしい写真が1枚でも自分で撮れたら本望だ。微かに見える月の輪郭がいい。仏像とその光背のようにも見えるとともに、すそ広がりの屋根の黒い量感も眼を惹きつける。

本日は告別式

2010年05月15日 21時16分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 10日亡くなった友人K君の告別式。昨晩の通夜にはうかがえず、本日告別式に参加し、斎場隣の火葬場まで参列した。
 添える言葉なし。

 本日きり絵作家のさとうてるえさんから福島の建物等のきり絵とその建物の由緒などがかかれたパンフレットが到着した。これから準備をして、公開していく予定。

弔辞

2010年05月13日 08時07分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 2010年5月、私はとても悲しい知らせを受け取りました。中学校・高等学校と友情を分かち合い、同期で採用されたKさんが亡くなったという知らせでした。
 君とは、6年間で同級だったことは二度だけでしたが、同じ柔道部に3年間所属しました。学校生活でのさまざまな悩みを共有しながら、6年間を共に成長してきたと思います。今でも柔道場で組み合ったことや、登下校時にいろいろな議論をしたことを思い出します。
 しかし進路では君は文系で在京の大学、私は理系で仙台の大学と、分かれることになりました。これにともない大学生時代には行き来は途絶えました。
 お互いに大学にはすんなりと入ったものの、不思議にともに5年かかって卒業し、1975年4月1日の採用時に同じ会場で、すぐ傍に着席することとなり、偶然の再会に驚愕しながらも、旧交をあたためる事ができました。
 その後の付き合いの中で、大学の五年間の経験では、社会との接し方、かかわり方で、違いは多々あるものの、共通点も多くあり、お互いに親近感を持ち、夜遅くまで議論をしたことが昨日のことのように思い出されます。そして職場に違いがありましたが、仕事の悩みでも相談しあったことがたびたびありました。
 また、母校の労使紛争では、お互いに全力を出してかかわったことがつい最近のような気がしています。最終場面での君の的確な提起と行動力は見事なものがありました。
 病気の発症を聞いてから、3度ほどお会いしました。さらに今年の2月の研修で顔をあわせました。杖をついて歩く姿は、それでも背筋をピンと張って、しっかりとしたものを感じていました。
 そのときは、是非もう一度ゆっくりお茶でも飲みながら会おうといって分かれたのですが、その後姿が最後のお別れとなってしまいました。私の方が年度末・年度始めのあわただしい日々に追われて、会う約束を果たせないままに訃報を聞く羽目となってしまいました。そのことは私にとって痛恨の極みであります。
 最後にお会いした研修の場で、「これからはもっともっと家族のために生きるんだ」「胸を張ってこれまで以上の生き方を子供に見せるんだ」という言葉が今も、深く強く私の心に刻まれています。
 働く、労働をする、ということについては、君は極めて倫理的であり、自分にも他人にも誠実そのものでありました。そのことは、療養中の「働いている仲間に申し訳ない」という言葉を繰り返し繰り返し発していたことにも現れていたと思います。この言葉は、K君の誠実な人柄から当然のように湧き出てきた言葉であったと思います。
 58歳、もっと若くして死を迎えざるを得なかった方も世の中には当然大勢おられますが、しかし私からみてあまりに若すぎる死であります。他人や、家族に誠実であり、自分の人生にも極めて誠実であることが、本人にも周囲にもこんなに悲しい事態を招くというのは、とてもつらいものがあります。
 しかしきっと君のことだから、最後まで歯を食いしばって生き抜こうと努力を続けられたと思います。そのような意志と姿は必ず、残されたご家族に感銘と力をもたらすと思います。
 衷心より哀悼の意を込めて拙句を捧げます。

君が逝く五月の空のなお青し
杖重し藤の青さの深き故


友人の葬儀を前に

2010年05月12日 10時25分24秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★君が逝く五月の空のなお青し

★杖重し藤の青さの深き故

 弔辞と上の2句をご遺族に渡すこととした。
 「青」は特別な意味合いで故人を示す。私は所属しなかったが、友人には多い。
 皆、傲ること、不誠実であることとはまったく無縁な友である。

人の死ということ

2010年05月10日 21時17分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 60歳も近くなると同年代の友人の死に幾度も出会う。本日、中学校・高等学校と同窓だった友人K君が亡くなった。6年間で同級だったことは2度だけだったと思うが、同じ柔道部に属したことが三年ほどある。顧問の先生とは、共にうまくいかなかったが、そこがウマが合ったのかもしれない。
 K君は文系、私は理系のクラスであったが、結構話が合ったように記憶している。大学にすんなりはいったものの、K君は国立市内、私は仙台の大学でどういうわけかそれぞれ5年かかって卒業。4月1日の就職日に同じ会場にいてビックリ、旧交をあたためた。
 大学の5年間の経験は実に似たような経験でもあり、それ以来部署はちがってもずいぶんと経験交流をおこなった。
 一昨年癌を発症し、今年の2月の研修で同席し、杖をついて弱々しく歩く姿を見たのが最後であった。年度末・年度始めのあわただしい日々に追われてつい、会う約束を果たせないままに本日訃報を聞く羽目となってしまった。痛恨の極みである。
 障害をもつお子さんを持ち、「これからは家族のために生きるんだ」「胸を張ってこれまでと違う生き方をしなくては、子供につたわらないぞ」という、最後に交わした会話が今も心に残る。
 働く、労働をする、ということについては極めて倫理的であり、自分にも他人にも誠実そのものであった。そのことが発症以来の休職期間中も「働いている仲間に申し訳ない」との言葉のを繰り返しに現れていた。
 58歳、もっと若くして死を迎えざるを得なかった人も当然大勢いるが、しかし私からみて若すぎる死である。他人や、家族に誠実であり、自分の人生にも極めて誠実であることがこんなに本人にも周囲にもつらい事態を招くというのは、悲しいことである。
 これ以上は詳細には今はまだ記載できないが、私のブログも名前が出すようになる時点でまた詳しく追悼の文章を掲載したい。

 本日は予定を変更して、追悼の日として私の記憶にキチンととどめておき冥福を祈る日としたい。合掌。

根津美術館(続き)

2010年05月10日 08時07分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 根津美術館での常設展では殷・周時代の饕餮(とうてつ)文の青銅器多数。字が鋳込まれている物はないが、国立博物館などの展示よりは見易い。文様がはっきりしている。
 どのような祭祀だったか、何をどのように何故祀ったか。中国の古代史は伝承や過去の文献にとらわれない客観的な叙述が必要、というのが白川静を読んで学んだような気がする。
 時代も地域もかけ離れているが、アメリカ大陸の古代のマヤやインカなどの石造の人面・動物面などと印象が似ている。機会があったらじっくりと比べてみたい。

根津美術館「尾形光琳 燕子花図屏風」

2010年05月09日 21時19分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
            

 本日は連休最後の日ということで、根津美術館へ尾形光琳の燕子花図屏風展をはじめとする琳派展を見に行った。
 以前に実物をどこかで見た記憶もあり、図版などでは何回も眼にした。しかし今回実物をじっくりと見ることができた。そして二つのことに驚いた。
 私は右双の右端からゆっくりと左へ移動しながら見た。右双の半ばを過ぎた頃、左双がちらっと眼に入った。そこで感じたのは、右双が画面の上下の中ほどにあり、左双は下のほうにあるのが視線をずらしていくと、急に視界が屏風の下の方に吸い寄せられるような錯覚に見舞われた。
 絵の左右を入れ替えても連続するような配置、同じパターンの使用などのことは聞いていたが、この眼を右から左に移すに従い下に吸い寄せられる感覚にまず驚いた。
 そして、その感覚が構図だけでなく、色の濃さの違いにも起因するのではないかと感じた。そう、右と左、燕子花の色が違うのだ。カタログや図版ではこの違いがわからなかった。実物だと明らかに違う。右双の方が紫の色が明るい。左双の方が紫の色が濃い。
 色の濃さが濃い分だけ、視線が余計下に吸い寄せられる感覚になり、左双が下部にアクセントがあるのが強調されているように思った。
 今度は左双から右双に移動しながら鑑賞すると、左から右に行くに従い自然に視線が上部に移っていく。明るい上方にスムーズに移動する。これは実物を見ることで初めて気付いたことでもある。
 これはすでに多くの方が知っていることなのかもしれない。私だけがしらなかったことなのかもしれない。あるいは、年数を経た色の変色なのかもしれない。しかし私にははじめての経験であり、また光琳の計算されつくし、当初から意図した配色のように思えた。
 尾形光琳の2曲1双の夏草図屏風も私には味わい深かったが、カタログにも絵葉書にもなく残念であった。
            

 鈴木其一の夏秋渓流図屏風は始めて目にした。笹の葉の図案化、樹木に比べ大きくし白の配色のバランスをとった百合、桜紅葉の赤の配色など、渓流の水の色とは思えないが全体の色のバランスからは不思議な落ち着きを示す青の色の大胆さなどに驚いた。

 根津美術館の庭園の池ではカキツバタが良い時期であった。コデマリと赤色の紅葉葉の三色を写してみた。


久しぶりの俊成

2010年05月09日 10時28分38秒 | 読書
 「図書5月号」(岩波書店)が手元にある。
 坪内稔典「柿への旅」と高橋睦郎「詩の授業」は必ず読む。
 特に今月の「ARS POETIKA 「源氏物語」」は興味のある部分であった。俊成の判で有名な『左大将家(後京極摂政良経)百番歌合(六百番歌合)』、その13番枯野の歌と判詞を解説している。俊成の有名な「源氏見ざる歌詠みは遺恨事也」が現れる箇所だ。
 むかし幾度読んでもわかりにくかったが、今回の解説でかなりわかったような気にしてくれる。当時の政治的な背景、俊成・定家の御子左家と六条家の関係等々は概略理解できていても、実際の判詞の意味するところはなかなかつかみきれなかった。
 「歌はもはや(俊成より)200年前、紫式部の転載がフィクションの中でしたように、歌人ひとりひとりがフィクションの中で真実を述べざるを得ないところに来てしまった。それが御子左家流新風の共通認識」、ということで、「見し秋を何に残さん草の原ひとつに変わる野辺のけしきに」の秋が現実の宮廷の雅びへの挽歌として見ることを教えてくれた。
 要は源氏物語の歌の意と、良経の歌と判詞が結びつけられなかったのだ。家隆の歌も合わせイメージとしてはつながった。あとは自分の言葉でつながるように反芻する作業だ。
 「授業」と題された連載、授業とは教わろうとする者が断片的に持っている知識を、つなぎ合わせ、体系立て、理解させてくれるもの。あるいは繋がらない糸をつないだり、ほぐれた糸をほぐしてくれるもの、と定義するならば、この授業と題する連載は、私にとっては「良い」授業である。

 5月の岩波書店の出版案内を見たら「私の日本語雑記」(中井久夫)とあった。2100円はつらいがこれは25日発売、購入しなければ‥。

連休明け、仕事はいつものごとく…。プログの訪問に心より感謝

2010年05月06日 19時23分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりの出勤、といっても暦通り5日の休みだけ。ようやくお腹の具合はもとに戻ったようだ。
 2年ぶりに「ニュートン6月号」を購入。学生時代より理解力はあるようで、いかに学生時代に不勉強だったかわかるというもの。ただし年齢とともに進化したと自負、自己肯定しておこう。もっとも雑誌の表現が進化した為かもしれない。
 本日、明日と飲み会が続く。土曜は第2の仕事が待ちかまえている。
 ユックリと日常にもどりたいものだ。

 さて最近また訪問者数が漸増してきた。3月ごろ200を超えた訪問者数、500を超えた閲覧数が、4月に入り80~100の訪問数で推移した。連休に入り120前後になってきた。ランキング入りぎりぎりの水準のようだ。
 友人に聞いたところ、タレントや企業は別として、サークル・同人などの組織的背景がない、まったくの個人のブログで100を超える訪問者、200を越える閲覧数というのは、稀ではないかとのこと。
 ということで、訪問していただいている方には、毎回のことながら心より感謝いたします。
 訪問者の解析では、長谷川等伯を検索されて来られる方が未だにかなりの数となっている。京都の国立博物館での等伯展の影響かもしれない。またさとうてるえさんの横浜西洋館と花のきり絵で検索されて来られる方も継続している。最近の記事ではポンペイ展でかなりの数。ただしこれは私はきちんとした文章を書いていないので心苦しい気がしている。でも横浜美術館協力会の会員としては、少しでも横浜美術館の訪問者の増に寄与しているかもしれないと考えれば、私のブログでの言及もまんざらではないようだ。
 また俳句の記事を閲覧される方も多い。下手な俳句であるとは思うが、目を通してもらえてこれもとても張り合いにはなる。しかし俳句はやはり座の文芸ということでもあり、一人よがりにならないよう、いづれかの集まり、サークル、結社に復帰したいと思っている。
 土門拳についても、多くなってきた。
 しかし訪問者を増やすことが目的のブログではないので、引き続き今のスタイルで続けたい。ただし俳句はもっと掲載できるよう努力したい。また私の文章力も高めたい。
 これからも多くの方の訪問を励みに継続したい。引き続きご愛読を!